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白銀の英雄が見た深淵

序章:白銀の誓い


私の名は、ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン。帝国にその名を轟かせる武門の家に生まれ、皇帝陛下に直接仕える近衛兵の任を拝命している。今年で二十四歳。白銀に輝く皇帝賜与の鎧を身にまとい、腰には帝国最高と謳われる我が剣技の相棒、銘を『獅子心レーヴェンヘルツ』という長剣を帯びている。それが、世間から見た私の姿だ。


帝国暦853年の春。首都ヴァルハラは、東の隣国パンドーラ魔法王国との間に漂う不穏な空気に、どこか浮足立っていた。宮殿のバルコニーから見下ろす街は、愛国的な熱気に満ち、人々は口々に「邪悪な魔法使い共に帝国の正義を」と息巻いていた。彼らの目には、このヴァルキア神聖帝国が、世界最大の国土と人口を誇る不敗の大国として映っている。その誇りと熱狂が、私自身の心をも燃え上がらせていた。


「ジークよ。浮かれるな。熱狂は理性を焼き、灰しか残さぬ」


宮殿の庭園で木剣を振るっていた私の背に、しわがれた声がかけられた。振り返ると、そこには私の年の離れた同僚であり、師でもあるアルベリッヒ・ヴァイスマン翁が、いつものように静かなたたずまいで立っていた。九十を超える齢でありながら、その背筋は伸び、澄んだ瞳は万象の真理を見通しているかのようだ。帝国最高の魔法使いと称される彼は、私の唯一、頭の上がらない存在だった。


「翁。しかし、民の士気は最高潮です。この勢いがあれば、パンドーラの野望など一月で打ち砕けましょう」

「ほう。戦争を一月で終わらせる、か。お主の剣は、人の命だけでなく、時間さえも斬れると見える」


翁はそう言って、枯れ木のような指で庭の若葉に触れた。すると、若葉はみるみるうちに瑞々しさを増し、生命力に満ち溢れた。


「命を育む魔法は、これほどに時間がかかる。だが、奪う魔法は一瞬だ。戦争とは、後者のみを性急に求める愚行に他ならぬ。覚えておけ、ジーク。剣を振るうほど、お主は守りたいものから遠ざかることになるやもしれぬ」


その時の私には、翁の言葉の真意を測りかねていた。私は、リヒトホーフェン家に生まれた者として、帝国に仇なす者を打ち払い、民を守ることこそが自らの天命だと信じて疑わなかった。私のこの剣は、そのための力だと。


そして、運命の日。皇帝陛下自らが、パンドーラ魔法王国への宣戦を布告された。広場を埋め尽くす万歳の声が、宮殿の窓を震わせる。私は陛下の傍らに立ち、その歴史的瞬間を見届けながら、固く誓いを立てた。この白銀の鎧と『獅子心』に懸けて、帝国の栄光と民の平和を、私が守り抜いてみせる、と。


数日後、東部戦線への出立命令が下った。アルベリッヒ翁は、宮殿に残って帝都の防衛魔法を司るという。

「ジーク。死ぬなよ。お主のような若者が死ぬには、この帝国はまだ惜しいものをたくさん持っておる」

翁はそれだけを言うと、私の肩を軽く叩いた。その手の温かさが、妙に心に残った。


私は、民衆の熱狂的な歓声に見送られ、首都を後にした。これから始まる戦いが、私の信じる正義を、そして私自身を、根底から揺るがすことになるなど、知る由もなかった。私の心は、ただ、純粋な愛国心と騎士としての使命感に満ち溢れていた。


第一章:英雄の誕生


東部国境の平原は、鉄と血の匂いに満ちていた。それが、私の初陣の記憶だ。


パンドーラ軍の先遣部隊は、噂通り魔道士を中心とした編成だった。彼らが詠唱を始めると、空から火球が降り注ぎ、大地から岩の槍が突き出す。通常の兵士であれば、その威力に恐れおののき、陣形を乱していただろう。だが、私の目には、彼らの魔法が完成するまでのわずかな隙が、あまりにも明確に見えていた。


「怯むな!私が道を切り開く!」


私は馬を駆り、単騎で敵陣へと突撃した。降り注ぐ火球を紙一重で避け、突き出す岩の槍を『獅子心』で両断する。私の剣は、並の魔法障壁ならば容易に切り裂くことができた。魔道士たちの驚愕の表情が、間近に迫る。彼らは詠唱を中断し、慌てて短剣を抜くが、もはや手遅れだった。


一閃。また一閃。白銀の鎧が敵陣を駆け抜けるたびに、パンドーラの兵士たちが血飛沫を上げて倒れていく。抵抗らしい抵抗はなかった。彼らは魔法という絶対的な力に依存するあまり、白兵戦の心得がまるでなっていなかったのだ。


気がつけば、周囲の敵は掃討され、帝国軍の鬨の声が上がっていた。私は馬上で荒い息をつきながら、自らが作り出した光景を見下ろした。大地は赤黒く染まり、人の形をした骸がいくつも転がっている。彼らの開かれた目には、信じられないものを見たという驚きと、絶望の色が浮かんでいた。


その時、初めて私の心に、奇妙な違和感が生まれた。私は人を斬ったのだ。帝国の敵を。それは正義のはずだ。なのに、この胸を締め付けるような重苦しさは何だ?


首都へ送られた戦果報告は、私の武功を最大限に誇張して伝えたらしい。数週間後、前線に届けられた新聞には「白銀の英雄、ジークフリート卿!単騎で敵魔道士大隊を殲滅!」という、勇ましい見出しが躍っていた。仲間たちは私を英雄と称え、羨望と畏敬の眼差しを向けた。私は、その期待に応えなければならないと、自らに言い聞かせた。胸の違和感に蓋をして、完璧な英雄を演じることを決めた。


私は戦場で剣を振り続けた。私の武功が伝えられるたびに、首都の民は熱狂し、兵士たちの士気は上がった。私の力が、この戦争を正しい方向へ導き、早期に終わらせることができる。そう信じようと努めた。


ある夜、野営地で眠れずにいると、若い補充兵が話しかけてきた。彼は首都の出身で、私の活躍を新聞で読んで志願したのだという。

「リヒトホーフェン卿!あなたのような英雄になるのが、僕の夢です!」

彼の目は、かつての私のように、純粋な憧れで輝いていた。私は、その目に、何も答えることができなかった。


英雄。その言葉の響きは、甘美であると同時に、私を縛る呪いとなり始めていた。私が剣を振るうたびに、英雄という虚像はますます大きく膨れ上がっていく。しかし、その影で、私の心は少しずつ、だが確実に磨り減っていくのだった。私が斬っているのは、邪悪な魔法使いではない。私と同じように、家族を持ち、故郷を思う、ただの人間なのだ。その当たり前の事実に気づいてしまった時、私の剣は、初めてその輝きを鈍らせたように感じられた。


第二章:泥濘の中の剣


戦争は二年目に入り、終わりの見えない泥沼の様相を呈していた。緒戦の勢いは完全に失われ、戦線は膠着。そして、パンドーラが切り札である「国家戦略級魔道士」を前線に投入し始めると、戦況は帝国にとって絶望的なものへと傾いていった。


私も、その一人と対峙する機会があった。「嵐を呼ぶ者」の異名を持つ魔道士だった。彼がひとたび杖を振るうと、局地的な暴風雨が巻き起こり、巨大な竜巻が帝国軍の陣地を蹂躙する。私の剣は、竜巻を斬ることはできなかった。個人の武勇など、天災のような大魔法の前では無力に等しい。我々は、多くの犠牲を出しながら、ただ後退するしかなかった。


目の前で、昨日まで共に笑い合っていた仲間たちが、吹き飛ばされ、叩きつけられ、命を落としていく。私の剣は、彼らを守ることさえできなかった。初めて味わう完全な敗北。そして、自らの無力さへの絶望。新聞は私の敗北を報じることなく、相変わらず「英雄の奮戦」を書き立てていたが、それが余計に私を惨めな気持ちにさせた。


そんな折、私は一時的に首都への帰還を命じられた。皇帝陛下への戦況報告のためだ。久しぶりに足を踏み入れたヴァルハラは、私が知る活気ある都ではなかった。人々の顔は暗く、疲弊の色が濃い。配給制の列に並ぶその姿は、英雄の帰還を喜ぶ余裕などないことを物語っていた。


宮殿で、私はアルベリッヒ翁と再会した。翁は、やつれた私の顔を一瞥するなり、静かに言った。

「泥にまみれてきたようじゃな、ジーク。それでよい。戦場は、綺麗なままでは渡れぬ場所だ」

「翁…。私には、力が足りません。私の剣は、何も守れなかった…」

弱音を吐く私を、翁は咎めなかった。彼は私を連れて、宮殿の最上階にある大観測室へと向かった。そこには、帝国全土の地脈エネルギー(マナの流れ)を示す巨大な魔法地図が広がっていた。


「見よ、ジーク。これが、この大陸の本当の姿じゃ」

地図の上では、無数の光の線が複雑に絡み合っていた。東のパンドーラとの国境付近では、ひときわ激しい光がぶつかり合い、黒い染みのようなものが広がっている。

「パンドーラの国家戦略級魔道士は、この地脈の流れを直接操り、大魔法を紡ぎ出す。個の力ではない。大地の力そのものを武器としておるのじゃ。お主一人の剣で敵う相手ではない」

「では、どうすれば…」

「奴らと同じ土俵で戦う必要はない。流れを読み、淀みを作り、逆流させる。魔法の戦いとは、力と力のぶつけ合いだけではない。知恵と理の戦いでもある」


翁はそう言うと、地図上の一点にそっと指を置いた。すると、パンドーラ側から流れてきていた強大なエネルギーの流れが、僅かに逸れ、威力を減衰させた。

「わしはここから、首都を守るための大結界を維持しつつ、敵の魔法の威力を削いでおる。だが、それも時間稼ぎにしかならん。ジーク、お主は自分の無力さを知った。それは、真の強さへの第一歩じゃ。英雄という偶像に惑わされるな。お主がお主自身の目で見て、守るべきだと感じたもののために剣を振るえ。それが、お主だけの正義となる」


翁の言葉は、私の心の霧を少しだけ晴らしてくれた。そうだ、私は英雄ではない。ジークフリート・フォン・リヒトホーフェンという、一人の騎士だ。新聞が作る虚像のためでも、民衆の喝采のためでもない。私の信じるもののために、剣を振るえばいいのだ。


首都の民の、あの疲弊しきった顔が脳裏に蘇る。私の守るべきものは、帝国の威信や領土ではない。あの人々の、ささやかな日常だ。そう思い至った時、私の剣は再び、しかし以前とは違う、静かで覚悟に満ちた輝きを取り戻した気がした。


第三章:双頭の鷲の試練


帝国暦855年、春。帝国は建国以来最大の危機を迎えた。西方のリーム王国が、パンドーラと密約を交わし、帝国領へ侵攻を開始したのだ。東のパンドーラ、西のリーム。帝国は二つの強大な敵を同時に相手にする、絶望的な二正面作戦を強いられることになった。


その報が宮殿にもたらされた日、皇帝陛下の御前で緊急の軍議が開かれた。誰もが青ざめ、有効な打開策を見出せずにいた。沈黙が支配する中、皇帝陛下は、私に視線を向けられた。


「ジークフリート・フォン・リヒトホーフェン卿」

「はっ」

「そなたに、西部戦線の全権を委ねる。いかなる手段を用いても、リームの侵攻を食い止めよ。帝国の西側は、そなた一人に託す」


それは、命令であると同時に、祈りにも似た響きを持っていた。帝国最強の騎士という私の評判に、国家の命運そのものを賭けるというのだ。断るという選択肢はなかった。


「御意。この命に代えましても」


私は、アルベリッヒ翁に別れを告げに行った。翁は首都防衛の要として、ヴァルハラを動くことができない。

「西は、お主一人か。荷が勝ちすぎるな」

「やるしかありません」

「ジーク。覚えておけ。人間が、その限界を超えて力を出し続けた時、魂にひびが入る。戻れなくなるやもしれんぞ」

「それでも、です。西を止めなければ、帝国は終わります」

翁は、それ以上何も言わず、ただ私の手を強く握った。その手は、やはり温かかった。


西部戦線、トリファス平原。そこは、地獄だった。リーム王国軍は、数において帝国軍を圧倒していた。彼らはパンドーラのような派手な魔法は使わないが、統率の取れた重装歩兵と騎士団による波状攻撃は、凄まじいの一言に尽きた。


私は、文字通り不眠不休で戦い続けた。兵の士気を保つため、常に最前線に立ち、敵の指揮官を狙って斬り続けた。食事は馬上で乾肉をかじるだけ。睡眠は、数分間の仮眠を日に数度取るのみ。肉体的な疲労はとうに限界を超え、精神だけが、帝国を守るという強迫観念にも似た使命感で、かろうじてこの身を支えていた。


伝説として後に語られる「三日三晩の戦い」は、その頂点だった。リーム軍が総攻撃を仕掛けてきたのだ。味方の戦線は崩壊寸前。私は、最後の予備兵力を率いて、敵の中核に突撃した。


その時の記憶は、断片的で、まるで悪夢のようだ。

降り注ぐ矢の雨。ぶつかり合う剣戟の音。血の匂いと、断末魔の叫び。私は、もはや思考することをやめていた。ただ、目の前に現れる敵を、機械のように斬り伏せていくだけ。味方が何人死のうが、自分がどれだけ傷を負おうが、感情は動かなかった。翁の言っていた「魂のひび」が、この時のことだったのかもしれない。


三日目の夕暮れ。私は、ついに敵の総大将と相まみえた。壮絶な一騎打ちの末、私は彼の首を刎ねた。総大将を失ったリーム軍は、混乱し、撤退を開始した。


勝利の鬨の声が上がる中、私は血まみれの『獅子心』を杖代わりにして、かろうじて立っていた。全身に受けた傷の痛みよりも、魂が空っぽになったような、途方もない虚無感が私を支配していた。私は、勝ったのか。一体、何に?数えきれないほどの命を奪い、自らも人間であることをやめ、獣となって戦った果てに、何が残ったというのだ。


首都に「トリファス平原の大勝利」が報じられた時、私は後方の野戦病院の寝台の上で、ただ天井を見つめていた。人々は、再び私を「救国の英雄」と讃えた。だが、鏡に映った私の顔には、笑み一つ浮かばなかった。そこにいたのは、英雄などではなく、ただ戦いに疲れ果て、壊れてしまった一人の男の姿だけだった。


第四章:守るべきもののために


数ヶ月の療養の後、私は首都ヴァルハラへの帰還を許された。西部戦線は、私が稼いだ時間のおかげで、なんとか膠着状態に持ち込めたという。だが、その代償はあまりにも大きかった。


帰還した私を出迎えたのは、歓声ではなかった。度重なる空襲と物資不足によって、ヴァルハラの街は私が旅立つ前よりもさらに荒廃し、まるで巨大な廃墟のようだった。道行く人々の目は虚ろで、その顔には飢えと絶望が深く刻まれている。彼らは、私の姿を見ても、もはや何の感情も示さなかった。英雄の存在など、日々の飢えの前では何の意味も持たないのだ。


私は、愕然とした。私は、この光景を見るために、地獄を戦い抜いてきたのか。私が守りたかった民の日常は、ここにはない。あるのは、ただ、戦争という暴力がもたらした、無慈悲な現実だけだ。


宮殿に戻り、アルベリッヒ翁の部屋を訪ねた。翁は、私の顔を見るなり、何も言わず、一杯の温かい薬湯を差し出してくれた。

「…翁。私は、間違っていたのかもしれない。私の戦いは、何も生み出さなかった。ただ、破壊と憎しみを広げただけだ」

「そう思うか」

「見てください、この首都の有様を。これが、私の武功の結果です」

「では、お主が戦わなければ、どうなっていたと思う?」

翁は静かに問うた。

「リーム軍は、今頃このヴァルハラを蹂躙し、民は奴隷となり、女子供は辱められていただろう。パンドーラの魔法が、街を完全に消し去っていたやもしれん。お主が戦ったからこそ、この街は、民は、まだ『在る』のじゃ。たとえ、それがどれほど惨めな姿であろうともな」


翁の言葉は、私の頑なだった心を少しずつ溶かしていった。


「ジーク。お主は、守るべきものを、あまりに大きく捉えすぎておる。国家だの、民だの、そんなものは実体のない概念じゃ。お主が本当に守るべきは、もっと小さなものだ。例えば…」


翁は窓の外を指差した。瓦礫の山になった一角で、小さな女の子が、母親らしき女性に、どこで見つけてきたのか一輪の野の花を手渡している。母親は、痩せこけた顔に、久しぶりの笑みを浮かべていた。


「あれだ。あれこそが、お主が命を懸けて守ったものじゃ。瓦礫の中で咲く一輪の花。絶望の中で生まれる、ささやかな絆。それがある限り、人は何度でも立ち上がれる。国とは、そういう小さな営みの集合体に過ぎん」


私は、その光景から目を離すことができなかった。涙が、自然と頬を伝った。そうだ。私が守りたかったのは、あの笑顔だ。巨大な国家の威信でも、英雄という名誉でもない。ただ、あのか弱くも美しい、人間の営みだったのだ。


その夜、翁は私に、東部戦線の真実を語ってくれた。翁が、いかにしてパンドーラの国家戦略級魔道士と人知れず渡り合い、その命を削って首都への直撃を防いできたか。表沙汰になっていない、凄惨極まる魔法戦の数々。翁もまた、私と同じように、見えない場所で魂をすり減らしながら戦っていたのだ。


「ジーク。もうすぐ、最後の戦いが始まるだろう。パンドーラは、残る全ての戦力を、このヴァルハラにぶつけてくる。それが、我らにとっての最後の試練じゃ」


私は、静かに頷いた。もう、迷いはなかった。私は、英雄としてではなく、一人の騎士として、あの瓦礫の中で咲く花を守るために、最後の剣を振るおう。私の戦う意味は、今、ようやく定まったのだ。


第五章:ヴァルハラの双璧


帝国暦857年、夏。予期された通り、パンドーラ魔法王国は残存する全ての戦力を結集し、帝都ヴァルハラへの総攻撃を開始した。大地を揺るがし、空を覆い尽くすほどの大軍勢。その先頭には、残りの国家戦略級魔道士たちの姿があった。首都は完全に包囲され、風前の灯火だった。


市民たちは、老人や少年までもが武器を手に取り、バリケードに籠って徹底抗戦の構えを見せていた。その瞳には、絶望と、しかしそれを超えた、悲壮な覚悟が宿っていた。


決戦の朝。私は、アルベリッヒ翁と共に、ヴァルハラの中央城門の上に立っていた。眼下には、死を覚悟した市民たちの顔、顔、顔。そして、地平線の彼方から迫りくる、絶望的な数の敵。


「ジーク。怖気づいておるか」

隣に立つ翁が、穏やかな声で言った。

「いいえ。今はただ、静かな気持ちです」

「そうか。ならば、もうお主は大丈夫じゃな」

翁はにっこりと笑うと、天に向かってその古びた杖を掲げた。

「さて、始めるとするか。帝国最高の魔法使いと、帝国最強の騎士。歴史に語り継がれる『ヴァルハラの双璧』の、最初で最後の共演じゃ」


翁の詠唱が始まると、ヴァルハラの上空に、巨大な黄金色の魔法陣が浮かび上がった。それは、都市全体を覆うほどの、壮大な防護障壁だった。パンドーラの魔道士たちが放つ無数の攻撃魔法が、その障壁に当たっては、美しい光の粒子となって消えていく。


「ジーク、行け!わしがこの結界を維持している間に、敵の中枢を叩け!お主の剣ならば、できるはずじゃ!」

「御意!」


私は城壁から一気に飛び降り、大地を蹴った。目指すは、敵軍の奥深くにいる、国家戦略級魔道士たち。

「道を開けろ!」

『獅子心』が青白い光を放ち、薙ぎ払うたびに敵兵が吹き飛ぶ。だが、敵の数は無限とも思えた。魔法の豪雨が私に降り注ぐが、そのほとんどは上空の結界が防いでくれる。翁が、命を削って私のための道を作ってくれているのだ。


私は、ただひたすらに前へ進んだ。もはや、憎しみも怒りもなかった。ただ、背後にある街と、そこで生きる人々を守るという、澄み切った意志だけが私を動かしていた。


そしてついに、私は敵の指揮官である、最後の国家戦略級魔道士の前にたどり着いた。彼は、私とよく似た年の、傲慢な笑みを浮かべた男だった。

「来たか、帝国の英雄。貴様の首を土産に、この戦争を終わらせてやろう」

「お前たちの野望は、ここで終わる」


言葉は不要だった。剣と魔法が、互いの全てを語る。彼の魔法は苛烈を極め、私の鎧を砕き、肉を裂いた。だが、私の剣は、彼の魔法障壁の僅かな揺らぎを見逃さなかった。これまでの戦いで失った全ての仲間たちの顔が、守ると誓った民の顔が、脳裏をよぎる。


最後の一撃。私は、残る全ての力を込めて、『獅子心』を突き出した。それは、私の五年間の戦いの、全てを凝縮した一撃だった。剣は、彼の心臓を正確に貫いていた。


彼が倒れると同時に、嘘のようにパンドーラ軍の統率が乱れ始めた。そして、その瞬間を待っていたかのように、別方向から帝国軍の角笛が鳴り響いた。首都が敵を引きつけている間に、別動隊が敵本国を奇襲し、陥落させたというのだ。


戦争が終わった。


勝利の歓声が、ヴァルハラの街に木霊した。人々は泣きながら抱き合い、私の名を叫んでいる。だが、その声は、ひどく遠くに聞こえた。私は、血と泥にまみれた大地に膝をつき、ただ、空を見上げていた。空は、皮肉なほどに青く澄み渡っていた。多くの命が失われたこの大地の上で、私は一人、途方もない孤独感に包まれていた。


後日談:英雄のその後


終戦から、一年が過ぎた。


帝国は、苦い勝利の果実を噛みしめながら、少しずつ復興の道を歩み始めていた。私は、戦勝パレードの主役として民衆の熱狂的な歓声を受け、数々の勲章を授与され、歴史に名を刻む「救国の英雄」となった。


しかし、私の心は、あの日以来、ずっと空虚なままだった。夜ごと、私が斬った者たちの顔が夢に現れては、私を苛んだ。英雄という名の、豪華な檻の中で、私は静かに心を病んでいった。


あの最後の戦いの後、アルベリッヒ翁は、忽然と姿を消した。全ての栄誉を辞退し、皇帝陛下にだけ一通の置き手紙を残して、宮殿を去ったのだという。私は、陛下に懇願し、その手紙を読ませていただいた。


そこには、翁らしい、簡潔な言葉が記されていた。


『陛下、そして我が友ジークへ。

真の力とは、振るうことではなく、振るわないために持つもの。これからの帝国に必要なのは、最強の剣ではなく、賢明なる平和です。私は、歴史の裏側から、それを見守らせていただきます。

ジークよ、お主はもう十分に戦った。これからは、剣を置き、人として生きなさい。お主が命を懸けて守った世界が、どれほど美しく、愛おしいものかを、その目で確かめるのです』


私は、その手紙を握りしめ、声を殺して泣いた。翁は、全てお見通しだったのだ。私が、英雄の仮面に押し潰されそうになっていることも。


ある晴れた日、私は近衛兵の制服を脱ぎ、質素な旅人の服に着替えて、お忍びで首都の街を歩いてみた。瓦礫は大部分が片付けられ、あちこちで家を再建する槌音が響いている。人々の顔には、まだ生活の厳しさが滲んでいるものの、そこには確かに未来への希望が宿っていた。


ふと、どこからか、香ばしい匂いが漂ってきた。匂いに誘われるように路地を曲がると、そこには、真新しくも小さなパン屋があった。店の前では、初老の店主が、額に汗してパン生地をこねている。その真剣な横顔と、力強い腕の動き。その隣では、妻らしき女性と若い娘が、にこやかに客に応対していた。


店先に並ぶパンは、決して豪華なものではなかった。だが、その一つ一つが、店主の愛情を込めて作られているのが分かった。子供たちが、なけなしの銅貨を握りしめてパンを買い求め、嬉しそうに頬張っている。それを見て、店主が満足そうに目を細める。


私は、その光景に、釘付けになった。


これだ。


これだったのだ。私が、命を懸けて守りたかったものは。国でも、名誉でも、イデオロギーでもない。この、何の変哲もない、温かく、そしてかけがえのない、人々の営み。このパンの焼ける匂い。子供たちの笑い声。それこそが、私が取り戻したかった世界の、本当の姿だったのだ。


私は店に近づき、パンを一つ買った。店主は、私の顔をじっと見ると、「兵隊さんでしたか。ご苦労様でした」と、少しだけパンを大きくしてくれた。その温かさが、私の凍てついた心に、じんわりと沁み渡った。


私は、宮殿に戻り、一つの決意を固めた。


私は、生涯、「英雄」として生きよう。民が望む限り、私は帝国の平和の象徴であり続けよう。しかし、私の腰にある『獅子心』は、もう二度と、戦争のために抜くことはない。この剣は、ただそこに在ることで戦争を未然に防ぐ、「抑止力」としての役割を担うのだ。アルベリッヒ翁が言った、「振るわないために持つ力」として。


時折、私は再び平服に着替え、あのパン屋を訪れる。正体を明かすことはない。ただ、寡黙な一人の客として、温かいパンを買い、復興していく街の景色を眺めるのだ。


パンを頬張りながら、私は空を見上げる。あの青い空の向こうで、翁は笑っているだろうか。私が守ったこの世界で、今日もパンの焼ける匂いがする。それだけで、私の戦いは、無意味ではなかったのだと、心からそう思えるのだった。

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