第1章:最底層の少年
空を、知らない。
――それは、この世界で“生まれが最も下”だと証明された者たちの、共通の感覚だ。
正確には、「見えない」が正しい。
階層都市。この超巨大構造体は、まるで万層の蜂の巣のように積層し、天井の向こうに“上”を隠している。
俺が生まれたのは、その最底辺――第十三階層。
この都市で唯一、太陽光すら届かない“人間の最終処分場”。
《査定値0.01以下、人間種、Dランク、戦闘力27、所属なし》
それが、俺の現在の個人情報データだ。
ノア・レクス、十六歳。
あらゆる意味で“無価値”の烙印を押された存在。
今朝、個人端末に届いた通知にはこうあった。
《査定更新:あなたの価値は減少傾向にあります。対応しない場合、次回更新で【消去対象候補】に移行されます》
《このメッセージは都市条例第59条に基づき自動送信されています》
《返信不要》
冷たい、いつも通りのテンプレ文。
受信者に思考させないよう設計された、管理局の“圧力の言葉”。
……クソくらえだ。
「なぁノア、おまえ……また下がったのか?」
擦れた声で呼び止められ、俺は反射的に振り返った。
見覚えのある顔。目の下に濃いクマ、やせ細った頬、人工皮膚が剥がれかけた左手――第十三層における“標準的な住人”の一人だ。
名前は思い出せないが、数日前にも物資配給場で一緒だった男だ。
「……気にするな。どうせ、俺もおまえも“カウントダウン中”だろ」
皮肉気にそう返してくる彼に、俺は無言でうなずく。
言葉を交わす必要も、慰め合う理由もない。
この層では、“明日消えるかもしれない”という実感が常に生きている。
都市エリオスの階層は、上から順に第1〜第13層まで存在する。
階層はそのまま権力と種の優劣に直結している。
第1層:統治者層《純血種》
第2層:高等機械知性体
第3〜4層:獣人族
第5〜6層:幻影種
第7〜12層:混血種および査定保留者
第13層:非価値対象《人間種(通常型)》および記録外居住者
俺たち第13層に生きる人間たちは、基本的に上の層へ“上がる”ことはできない。
査定制度により、生涯をこの層で終えることが運命づけられている。
――唯一の例外を除いては。
それが、《覚醒》だ。
都市管理局によって定められた唯一の“下剋上システム”。
通常個体に覚醒能力が発現した場合、その者は「種としての再評価」を受ける。
つまり、“最強人種”への進化が認定されれば、立場すら覆る。
だが、その確率は――0.0001%未満。
覚醒とは夢ではない。
それは、絶望の中に用意された“死ぬまで走らせるためのニンジン”にすぎない。
事実、この13層で覚醒に成功した者は、数十年に一人と言われている。
(でも――俺には、兆候がある)
他人には見えない“ノイズ”。
誰にも知覚されていない“ずれ”の感覚。
それは、誰かに触れる時。
それは、誰かの“死”を感じた時。
俺は、存在の“層”を一瞬だけ見ることがある。
まるで世界が剥がれ落ちるような。
現実と虚構が交差し、意味が崩れ落ちるような――異常。
けれどその異常こそが、俺にとっての唯一の“光”だ。
記憶の底に、ユイナがいる。
声は覚えていない。
顔も、はっきりとは思い出せない。
でも確かに“あの子”は、いつも笑っていた。
――ノアは、特別なんだよ。
――ユイナが知ってる。誰も知らなくても、ユイナが知ってるから。
あの言葉だけは、何度忘れようとしても頭から離れなかった。
ユイナは、俺の“妹”だった。
正確には、血のつながりはない。けれど彼女は、孤児だった俺の唯一の家族であり、心の拠り所だった。
俺たちは、第13層の外れにある廃墟ビルで暮らしていた。
雨漏りのする天井。水道も止まったままの蛇口。
けれどそこに、ユイナの小さな手が作る“あたたかさ”が確かにあった。
彼女は、決して泣かない子だった。
不衛生な配給食も、崩れかけたベッドも、“大丈夫”と笑って受け入れた。
俺はというと、あの頃から何かが狂っていた。
――死が見える。
誰かが死ぬ瞬間、その“像”が二重に見えるのだ。
頭の中に焼き付いた“灰色の光景”。
ある日、俺たちの近くで、治安維持局の兵士に撃たれて倒れた男がいた。
理由は、査定値が基準を下回っただけ。
それだけで、抹消された。
その瞬間、俺は“別の視界”でそれを見た。
男の身体が黒い靄となって剥がれ、時間が巻き戻るように崩れ落ちる。
同時に、その背後に“もう一つの都市”のようなものが一瞬だけ見えた。
ユイナは、俺のその能力に気づいていた。
「ノア、あの時も見えてたんだよね?」
「……あの人が死んだとき?」
「うん。わたしには見えなかった。でも、ノアは泣いてた」
「……怖かった。世界が変になって……」
「ノアは、世界の“影”が見えるんだと思う」
ユイナは、その力を怖がるどころか、受け入れてくれた。
「それは特別な力だよ」と、むしろ誇りにしてくれた。
だが、それが災いした。
ユイナは“消えた”。
何の前触れもなく。記録にも、住民情報にも彼女の名前は残っていない。
まるで最初からいなかったかのように。
いや――それどころか、“周囲の人間すべてが彼女の存在を知らなかった”とすら言い出した。
あの日から、俺の中で世界は決定的に壊れた。
(存在が“なかったことにされた”?)
ありえない。けれど、この都市では、それが現実に起こる。
管理局は、不要な存在を“削除”する。
物理的ではなく、“概念的に”。
記憶、記録、痕跡すべてを“無”にする能力が存在している。
それを使うのが、管理局直属の異能部隊。
彼らは都市の影で“歴史の上書き”を行う、完全なる秘密機関。
ユイナは、おそらく――その力によって“消された”。
(俺も、近い将来……)
冷たい鉄床の上、壁にもたれて俺は自分の手を見つめる。
手のひらに微かに浮かぶ“模様”。
それはユイナが消える直前、俺の手に浮かんだ。
異能の兆候、《刻印》。
都市において異能覚醒者にだけ現れる特殊な情報構造であり、他者には視認できない。
査定装置にも映らず、管理局の探知網からも漏れることがある。
だが、それが確実に発現しているなら――
(俺は……“人間”じゃないのかもしれない)
何かが、目覚めようとしている。
この都市の外に広がる“真実”へと、俺を引っ張る声が聞こえる。
そして同時に、その声の中に、彼女の声が混じっているような気がした。
――ノアは、特別なんだよ。
――この世界を終わらせる、鍵になる。
その日、空が震えた――ような気がした。
空を知らないこの第十三層において、空気の震動すら異常だ。
いや、それは“外的要因”ではない。
俺の中の何かが――確かに“軋んだ”のだ。
「――応答せよ、応答せよ。第十三層で査定値反応異常を検知。位置情報コード:G-4-B-13。至急、現地部隊を派遣」
天井に設置されたスピーカーから、電子音混じりの管理局の警告が鳴った。
それと同時に、足元の地面が淡く赤く光り始める。
“査定異常”。
本来、査定は個人端末を通じて逐次管理されているが、ごくまれに機器に反応しない“異常値”が発生することがある。
それはつまり――未登録の覚醒反応。
(俺……か?)
心当たりはあった。
先ほどから、掌に浮かぶ刻印が熱を帯びている。
空気が重い。視界の端に、揺らめく“影”のようなものが現れ始めている。
それはまるで、現実と虚構の“縫い目”が破れかけているような感覚。
重なって見える“第十四層”のようなものが、視覚の奥でざわつく。
だが、それ以上に厄介なのは――この異常が、すでに“監視されている”ことだ。
「……ターゲット、発見。未登録の異能反応確認。削除対象に認定」
鉄の靴音が、暗闇の先から響く。
その姿は、全身を黒い強化外骨格に包み、顔をヘルメットで完全に覆った無機質な存在。
管理局異能抹消部隊。
“人間の限界”を超えた力を持ち、異能の兆候を見つけ次第、即時抹殺する都市の処刑人たち。
「ノア・レクス。査定値0.01以下、反応値未登録異常あり。これより削除処理を実行する」
冷たい、まるで録音音声のような声。
だがその腕がわずかに動いた瞬間、俺の直感が“死”を告げた。
(やばい――逃げろ)
反射的に身体を跳ね起こし、廃墟の柱の陰へと飛び込む。
次の瞬間、鋼鉄の拳が空気を裂き、俺のいた場所を粉砕した。
遅れて、コンクリートが粉塵と化して崩れる音。
壁ごとえぐられた地面には、爪のような形の衝撃痕が残っている。
「マジかよ……っ、やっぱ“人間”じゃねぇだろ、お前ら!」
だが、彼らに感情はない。
イレイザーとは、“選別された人種の意志”を体現するだけの処理装置。
いわば“生きたアルゴリズム”。
その1体が、次の瞬間――空間を“歪ませた”。
(……!? 動きが、見えない――!)
音もなく姿を消したかと思えば、視界の左端に鉄の刃が現れる。
反射で身体をひねる。だが、避けきれない――そう思った。
その時。
視界が、反転した。
世界が“縫い目”から破けるように、パラリと剥がれた。
景色が灰色に染まり、ノイズ混じりの記号のようなものが辺りに浮かぶ。
――これは……“あの感覚”だ。
時間が止まったかのような静寂の中で、俺はその動きを“見ていた”。
イレイザーの一歩先、斬撃が振り下ろされるその“予兆”すらも視認する。
そして、自分の身体が――それを“計算して避ける”ように動いていた。
(……見える。軌道が、力の向きが、すべて……)
そのまま俺は、背後に跳ねて距離を取った。
「対象回避確認。反応速度、規定値を超過……クラスA以上の覚醒個体の可能性あり」
イレイザーが再び動こうとしたその時、突然、空間が揺らぐ。
否――空間そのものが“割れた”。
「……やっと見つけた。ノア・レクス」
黒い霧の中から、影が現れる。
その姿は、長い白髪と黒の法衣、そして背に“虚空の翼”を持つ異形の少女。
「誰……だ?」
だが、俺の問いに答えることなく、少女は右手を掲げる。
「――“記録再編:コードY”――」
瞬間、イレイザーの身体が、灰色の粒子に変わって霧散した。
音もなく、痕跡もなく。まるで、最初から“いなかった”かのように。
「幻影種……?」
そうだ。
この都市の“裏側”に存在すると言われる、実在性の証明されない種族。
記録改変、存在抹消、時空の干渉。すべてを“なかったこと”にできる異能の使い手。
「わたしの名はユイナ。あなたを“こちら側”へ導く者」
世界が、音を立てて崩れていく。
ユイナ――消されたはずの“妹”が、再び目の前に現れた。
ユイナの登場により、イレイザーは完全に霧散した。まるで最初からこの場に存在しなかったかのように。
残されたのは、ひと気のない崩れかけた通路と、驚愕に固まった俺、ノア・レクス。
……そして、記憶の奥底に封じていたはずの“存在しないはずの妹”。
「ユイナ……? おまえ、死んだはずじゃ……!」
記録上、ユイナは五年前に病死している。誰もがそう言った。
火葬証明書もある。死亡登録もされていた。遺灰すらも俺の手で撒いたはずだった。
なのに。
目の前の彼女は、確かに息をしている。話している。そして、笑っている。
「“記録”がそうなっていただけ。私は、消されたわけじゃない。ずっと、“こちら側”にいたの」
“こちら側”。
その言葉の意味を理解するには、俺の理解力が足りなすぎた。
「ノア、今のあなたは“存在しない座標”に立っている。自覚はある?」
「は……?」
ユイナは指を鳴らすと、世界がまたしても反転するように揺れた。
灰色に染まった空間が、薄く剥がれる。
そこに現れたのは、今までいた“第十三層”とはまったく異なる世界――歪み、溶けかけた都市の影。
高層ビルの外壁が空中に浮き、道路がねじれ、空間が繰り返し反響している。
まるで都市の夢。いや、“記録の裏側”にある亡霊世界。
「ここは“記録の外側”。存在してはならない者たちが棲まう、幻影世界」
“幻影世界”――その響きが、俺の中で何かを引き裂く。
ユイナが死んだ理由。記録が上書きされた事実。そして俺に与えられた“能力”。
――すべてが、繋がり始めた。
「ノア。あなたは選ばれたの。存在を“記録”として改変する側に」
その時、俺の背後で何かが動いた。
反射で振り返ると、空間の裂け目から、黒い影がにじみ出てくる。
「ッ……また来やがったか、イレイザーの増援か!?」
だが、それは違った。イレイザーよりもさらに“深い闇”をまとう存在。
巨大な獣のような形状――にもかかわらず、気配が一切ない。
「“再演種”……この層の守護者よ。記録改変を感知して、反応してきたの」
「記録改変って……おまえがイレイザーを消したから?」
「ええ。でも、それは最初から“仕組まれていた”の。ノア、あなたがこの力を覚醒するように」
その瞬間、俺の中にある“光”が騒ぎ出した。
刻印が燃えるように熱くなる。
視界が歪む。世界が二重になる。
再演種が吠える。空間がねじれ、全身を覆う皮膚が鉛のような重力に引きずられる。
「戦って。ノア。あなたはもう、“最底辺”の人間じゃない――“最強の幻影種”になれるのよ」
その言葉に、背中を押された。
俺は手を伸ばす。
意識する。自分の存在。自分の記録。世界に刻まれた“自分”という情報そのものを――
――塗り替えろ。
「――俺の存在は……俺が決めるッ!!」
次の瞬間、俺の手から放たれた“影”が、再演種の咆哮を飲み込んだ。
空間が炸裂する。灰と黒の波が激突し、幻影世界の一角が崩れる。
だが、それはほんの序章にすぎなかった。
「よくやったわ、ノア。でも――ここからが本番よ」
ユイナの瞳が、不穏な光を宿していた。
まるで、すべてを見通していたかのように。