第一話:ルーネの喧騒と修道院の門
門を通り過ぎると様々な人の波がクララに押し寄せた。
人間(ユマン種)、ドワーフ、獣人、耳の長いエルフもいる。ユマン種が一番多いが、武器を携えた獣人の種類が多種多様だ。
犬の顔をした獣人はコボルトだろうか。猫の耳だけの人もいる。あそこには二本足の猫? トカゲは確かリザードマンだ。すごい、本でしか見たことのない種族ばかりだ。
「あんた、なにキョロキョロしてんだい? 見たところ教会の人間みたいだけど」
店を構えるおじさんに声をかけられた。
クララは「恥ずかしい、田舎者そのものじゃないか」と顔を赤らめる。
「ああ、すみません。辺境の村からこちらに留学に来た者です。ルーネ修道院はどちらになりますか?」
「おお、そうか! ルーネへようこそ、お嬢さん。それならあっちの角を右に――」
店主に軽く会釈し、教えてもらった道に歩き出す。途中、ぶつかりそうになるところを避け、縫うように進んでいく。人の波に酔いそうだが、修道院は案外近かった。
クララが修道院に近づくと、その外観に息を呑んだ。
石造りの建物は古びてはいるが、壁にはエルフの詩を刻んだような流麗な模様が走り、ドワーフの手によると思しき頑丈な鉄枠が窓を縁取っていた。
屋根には獣人の爪痕のような傷が残り、まるで過去の戦いを物語るようだ。
中央の尖塔には女神マリテの紋章が掲げられ、陽光に照らされて穏やかに輝いている。
門の脇には小さな庭があり、色とりどりの花が咲き乱れていた。クララはその中にかすかな薬草の香りを嗅ぎ取り、ユルゲンのゾーイ婆さんを思い出した。
風が吹くと、花弁が舞い上がり、修道院の重厚な姿に一瞬の軽やかさを与える。
遠くで修道士の祈り声が聞こえ、異種族のざわめきと混じり合う。クララは「ここはユルゲンとは違う」と感じながら門をくぐった。
「お待ちしておりました、クララさん。わたしはラッセル。ここの修道院で修行をしている修道士です」
黒の修道服を着た男性がクララに挨拶をした。質の良い生地の修道服は、彼女の粗末な灰色の修道服とは対照的だ。手には羊皮紙が握られており、クララの外見的特徴と似顔絵が描かれていいる。
「はじめまして、ラッセル様。私は大司教様よりここに来るよう賜ったユルゲン村の見習い修道女のクララと申します」
ペコリとお辞儀をし、ラッセルに笑顔を向ける。
「〝様〟づけはよして下さい。シスタークララ。あなたはここに来た時点で立派な修道女なのですから。聖女見習いとしてここで一緒に……と言ってもわたしは男なので別の場所でですが、修行する身。共に研鑽しましょうね!」
丁寧かつ気さくなラッセルにほっと肩をなで下ろすと、クララはまた頭を下げた。
「ではラッセルさん。改めてよろしくお願いします! 私も神に仕える身、精一杯頑張りたいと思います」
クララはラッセルの案内で修道院内へ進んだ。
石造りの廊下を歩きながら、彼女は一日の流れを説明される――朝の祈り、清掃、礼拝、修行、そして夜の休息。
ラッセルが「聖女見習いは祈りが命だよ」と笑うと、クララは「魔法がなくても頑張ります」と頷いた。その返答に曖昧な笑顔で応えた意味をクララは知らない。
その夜、クララは寝室で星を見上げ、初めての一日を振り返った。エルフの歌が耳に残り、修道院の庭の花が心に浮かぶ。「ここで何を学べるのだろう」と呟きながら、彼女は眠りに落ちた。
翌日。
修道院の鐘が静かに響き、クララは寝室から起き出す。
赤銅色の緩く縮れた髪を櫛で整え、ラッセルから受け取った新しい修道服に目をやる。上等なリネンの黒の修道服は、ユルゲンの灰色のものより高級だがここでは粗末なもの扱い。白と黒のウィンプルは修道女らしい清楚なアイテムだ。
修道服に袖を通し、白い付け襟をつける。最後にウィンプルを被ると、いっぱしのシスターみたいだ。ユルゲンでは見習いにも関わらず、シスターと慕われていたが、今日からは修道女兼、聖女見習いとしての一日が始まる。
「おはよう、まだ眠いわ……ウチならまだ寝ている時間よ」
聖女見習いのアイリーンが、眠い目をこすり廊下に出てきた。
「お家ではお手伝いはされなかったのですか?」
クララの疑問にアイリーンは鼻高々に答える。
「あたし、貴族なの。女神様の奇跡を起こせるからここに来たのよ。でもこんなに早起きするなんて聞いてなーい!」
クスッと吹き出すクララにアイリーンは続ける。
「クララは? 灰色の修道服なんて見たことないけど」
「私は十三歳の時に両親が死んで、四年間小さな村で修道女見習いをしていました」
アイリーンは驚き、一瞬間が開く。
「……まぁ! あなた、苦労したのね。色んな人がいるものねー。ウチで政略結婚の駒になっていたら知らなかった世界だわ。教えてくれてありがと!」
二人は連れ立って祭壇の間へ向かった。
クララは目を閉じ、祈りの言葉を紡いだ。祭壇のマリテ像は穏やかな微笑みを浮かべ、薄闇の中でかすかに輝いている。修道院の外からはまだ眠るルーネの街の静寂が聞こえ、彼女の心にユルゲンの朝霧が重なった。
「セルゲイ様なら、この風にどんな色を見るのだろう」
クララは一瞬だけ思った。
ハンドベルを鳴らしながら司祭が告げる。
「みなさん、清掃の時間です。持ち場に入り、励みなさい」
「クララはどこになったの? あたしは花壇なんだけど」
アイリーンがウィンプルを揺らしながら言う。
クララは両手を合わせ、彼女に笑顔で答えた。
「まぁ! 私もなんですよ! よかった、アイリーンさんと一緒に作業できるんですね!」
彼女たちは手を合わせながら笑う。柱の隅でラッセルが「尊い」と呟いたのはきっと気のせいだ。
クララは花壇の土に指を差し入れ、薬草の根を優しく整えた。
ユルゲンでゾーイ婆さんが教えてくれた薬草の香りが鼻をくすぐり、彼女の頬に小さな笑みを浮かべさせた。
近くで見習いの少女が「そんなに土をいじるなんて田舎者ね」と囁いたが、クララは気にせず、「これも女神の恵みだから」と呟いた。
「キャー! 虫よ!」
花壇を担当している別の見習いの少女が叫んだ。その声にクララは駆けつけ、虫を潰した。
「どうして平気なのよ……。あんな気持ちの悪いもの」
少女は青ざめている。クララはキョトンとした様子で
「村で農作業をお手伝いしている時によく出るんです。それで慣れたのかもしれません」
と答えた。少女は呆気にとられている。
「農作業……? シスターは神の素晴らしさを説いていればいいのに……」
ヒソヒソとクララの言葉に訝しがる少女たち。
そこにアイリーンが大声で呟く。
「確かに田舎者かもね。でも人々の役に立つよう率先して行動するのも、信仰なんじゃない? この子は見習いの時にそうして人の役に立ったからこそ、〝シスター〟として慕われていたのよ」
その言葉に少女たちは気まずそうに散っていった。
「ありがとう。でも気にしてないのよ」
アイリーンの手を包み、クララはふわりと笑った。
「あたしが気になったの! ちょっとは反論しなさいよ」
彼女の言葉にユルゲン村に思いを馳せるクララ。その目には憂いと慈愛の念が込められていた。
「村ではひどい差別に堪える墓守さんがいました。彼のひたむきさと、ある事件で村の人たちは彼を差別しなくなりました。神は見ておられます」
アイリーンは腕を組み、ジト目でこちらを見てくる。
「……ふーん、〝彼〟ねぇ。もしかして、その人のこと好きなの?」
その言葉にクララの胸が跳ねた。頭の中にセルゲイの顔が浮かぶ。
「えっ、考えてもみませんでした。えーっと、その……」
しどろもどろのクララにアイリーンは追い打ちをかける。
「あ、図星だ! ルーネにその人が来たら教えてよね!」
ハンドベルの音で返答出来なかったクララは心の中で「助かった」と安堵した。