第二話:沈黙の旋律
翌日、佐藤悠翔はいつも通り早めに登校し、人気のない校舎を歩いていた。昨日の出来事が頭から離れない。瀬戸凜香の冷たい眼差し、そして彼女が残していった言葉——「弾いてみれば?」。
彼女の挑発めいた一言が、悠翔の胸に小さな火を灯していた。
「泣くような音……って、一体どういう意味なんだろう?」
独り言のように呟きながら、悠翔はふと音楽室の扉の前で足を止めた。ここに彼女はもういないはずだ。だが、昨日の雨の匂いがまだこの場所に残っているような気がして、扉を開ける手が少しだけ躊躇う。
「まあ、誰もいないよな。」
意を決して扉を開けると、空っぽの部屋に朝日が差し込んでいた。悠翔はホッとしつつも、ほんの少しだけ残念に思う自分に気付いた。
ピアノの前に腰を下ろし、鍵盤にそっと手を置く。昨日は何も思わずに弾いた曲も、今は彼女の言葉が頭をよぎり、指が思うように動かない。どの音を出せば「泣くような音」になるのか。そんな漠然とした疑問が、彼の中で膨らんでいく。
「くそ……何を気にしてるんだ、俺。」
苦笑しながらも、悠翔は指を動かし始めた。最初はいつも通りの練習曲。だが次第に、彼自身の心の中にあるものが音になって現れ始める。昨日彼女に感じたプレッシャー、不安、そして……どこか期待するような気持ち。それらが混ざり合った旋律が、音楽室に響き渡る。
演奏に夢中になりすぎて、背後の足音に気付かなかった。ふいに聞こえた声が彼を現実に引き戻す。
「……悪くないわね。」
振り返ると、そこには昨日と同じ冷たい目をした凜香が立っていた。制服姿のまま、壁に寄りかかりながら悠翔を見下ろしている。彼女の手にはいつものバイオリンケースがあった。
「な、なんでここに……?」
悠翔は慌てて立ち上がるが、凜香はその様子を楽しむように微かに笑みを浮かべる。
「音楽室は私の逃げ場みたいなものだから。あなたこそ、昨日の言葉を気にしてここに来たんじゃないの?」
「べ、別にそんなことは……!」
言い訳をしようとする悠翔だが、彼女の鋭い視線に圧され、言葉が詰まる。
凜香は少し歩み寄り、ピアノの横に立つ。そして、彼が弾いていた楽譜をちらりと見ると、興味深そうに首を傾げた。
「自分で作ったの?」
「え……いや、ただの即興で……。」
悠翔が恥ずかしそうに答えると、凜香は目を細めた。
「即興でそのレベルなら、少しは認めてあげてもいいわ。でも——」
彼女はバイオリンケースを開け、中から小提琴を取り出した。
「私の伴奏に耐えられるか試してみる?」
「えっ、伴奏……?」
悠翔は目を見開いた。彼女が自分に何を求めているのか理解できなかった。
「昨日、私に音を届けられるか見せてって言ったでしょう?今度はあなたの番。私の音に応えられるか、試してみなさい。」
彼女の言葉には威圧感があったが、同時にどこか寂しげな響きもあった。
悠翔は深く息を吸い込み、再び鍵盤に向き合った。凜香が構えた小提琴の弓が、静かに弦の上を滑る。最初に響いたのは低く静かな音。それはまるで雨音のように静かで穏やかだった。
悠翔はその音に導かれるように、そっとピアノの鍵盤を押した。
こうして二人の初めての共演が始まった。音楽室には雨音のような旋律が流れ、二人の距離が音を通じて少しずつ近づいていく。
だが、彼ら自身はまだ気付いていなかった。これが、彼らの人生を大きく変える最初の一歩になることを。