月に取り残された男
死にたくなければ、空気を読むことだ。周りのみんなと違う意見を口にするときは、言い方を考えよう。たとえ間違っているのは相手のほうで自分こそ正しいと思っていても、説き伏せるような語調を使ったり、怒っちゃうのはよくない。なぜなら普通一般の人達は、好きか嫌いか、楽しいか怖いか、快か不快か、みたいな感情最優先の世界に生きているから。このひと怒ってる!怖い!嫌い!と思われたら、もう話の内容なんか聞いてはもらえない。
みんなが納得ずくで進めようとしている調査スケジュールの方針について、残りの日程を考え、効率性の観点から計画を変えたほうがいいんじゃないかと意見を述べたのが、直接のきっかけだったと思う。そもそも訓練中から、いつも船長を中心にクルーのみんながまとまっていくようなところがあり(だからこそ船長は船長なのだが)、僕はクルーの輪の中にいながらも、透明な壁でみんなと隔てられている気がしていた。みんなの側にしたって、最初は何となく性格の反りが合わない奴がいる程度の違和感だったろうけど、そのモヤモヤはどうしても無くならず、チームの結束のために、邪魔者を消す機会を窺っていたのに違いない。
ともかく、宇宙船は僕ひとりを置き去りにして地球へ戻ってしまった。
船長達は殺人の罪で裁かれるかな?それとも死人に口なしというやつで、クルー同士で口裏を合わせ、いい弁護士を雇って責任逃れをくわだてるかな?どちらにせよ、次の宇宙船は僕の死体を持ち帰ることになるだろう。地球から月まで直線距離でも約三十八万キロメートル。曲線軌道をとる宇宙船なら、月を周回するまでおよそ一週間。いっぽう宇宙服の酸素は、あと数時間で尽きようとしている。
僕だって人間だし、科学者の端くれだ。まだまだやりたかったこと、やり残したことはたくさんある。でも、こうして月面に立って碧い地球を眺めおろし、にどとあそこへ戻らないと考えると、せいせいする気持ちもある。思い返せば、地球は動物園のサル山だ。学校でも研究所でも企業でもお役所でも、友達付き合いでも近所付き合いでも、その集団内でいちばん幅を利かせているボスザルに媚びへつらい、それでようやく自分の居場所を確保できる。仲間はずれが怖くて、言いたいことを言うにも、やりたいことをやるにも、いちいちみんなの顔色を窺わなきゃならない。
自分こそ正しいと信じて地球へ帰った船長とクルー達、そして地球上に生きるすべての人間達は、ただでさえ窮屈な世界を柵で囲ってさらに細かく区切り、考え方の違う者を排斥し合い、ふつうの基準なんて人それぞれなのにふつうでいないと叩かれる、猜疑に満ちたくだらないお友達ごっこを、幸せな人生だと思い込み続けるがいい。
そんな地球と比べたら、残り数時間とはいえ月面の静けさを独り占めできている僕こそ、本当の幸せ者だといえる。将来、宇宙船の往還が頻繁になって、ホテルや別荘が建ち、週末ごとに月面が観光客でごったがえすありさまにでもなったら、この静けさは永久に失われてしまう。砂塵と岩塊以外に何もない灰色の世界を不毛だって言う人もいるけど、僕はこの風景が好きだ。この風景に憧れて、僕は宇宙飛行士になったんだ。
息苦しくなる前に意識が遠のいてくれると助かるんだが、どうなるか分からないので、酸欠警報を切って、そろそろ眠ることにする。
僕の意見なんか誰もまともに聞いちゃくれなかった。味方の多い方が勝ちで、僕は孤立無援で、心の底からの言葉はただ論破されただけだった。しかし今となっては、もはやどうでもいい。もう他人に期待も落胆もせずにすむ。おやすみ、さようなら。