1.私と美藤ちゃんの出会い
私、田辺美鶴にとって、世界は怖いものだった。
小さなころから、私には他のひとには見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえた。
『あの家の主人は、三日後に倒れる』
『そのまま死んでしまえば、あの家を乗っ取れるのに』
最初は何を言っているか分からなかった。
保育園のお散歩の途中、前を通るいつもの家。
家には猫を飼っていて、その猫が窓から挨拶してくれるので、みんな「ねこちゃんのおうち」と呼んで親しんでいた。
「みっかごに……」
まだ三歳児クラスに入ったばかりの私にはよく意味が分からなかった。
けれど、何かとてつもなく怖いことが起こりそうで、どきどきしていた。
三日後、保育園のお散歩で「ねこちゃんのおうち」の前を通ると、猫ちゃんが見えなかった。家はカーテンが閉められて、とても暗い雰囲気だった。
「ねこちゃん、いないねー」
「ねこちゃん、みえないねー」
三歳児クラスの子どもたちが口々に言うと、家のおばさんが出てきて教えてくれた。
「おじちゃんが倒れて、病院に行ったのよ。それで、猫の世話ができなくて、猫は親戚の家に預けることになったの」
小さな私には何が起きているのか分からないけれど、怖いことが起きているのは確かだった。
三歳の私ができるのは、「おじちゃん、げんきになるといいね」と声を掛けることくらいだった。
保育園に帰ってからも暗い気持ちで私は一人で遊んでいた。
両親は共働きなので、とても忙しい。
保育園では一番時間が遅くならないと、父は迎えに来られなかった。
延長保育の間、一人ずつ迎えに来た子どもたちが帰っていく。
私は一番最後だと分かっていたので、一人で遊べる大型積み木で一生懸命船を作っていた。
自分が乗れるような大きな大きな船を作りたい。
積み木を使っていると、同じクラスの女の子が積み木を取っていく。
「とらないでー!」
「かしてー!」
「いま、つかってるー!」
喧嘩になってしまって、私は結局船も作れないまま、その子が帰るのを待っていた。
その子が帰った後で一人で船を作るのはつまらなくて、私はちょっと後悔していた。
一緒に遊ぼうと言えばよかったんじゃないか。
そうすれば、大きな船を二人で作れたかもしれない。
どんよりとしながら父に迎えに来てもらった私は、夜も遅くて眠くなっていて、抱っこで車まで連れて行ってもらった。
「パパ、ねこちゃん、いないの」
「猫ちゃん?」
「そう、ねこちゃん」
お散歩に行く「ねこちゃんのおうち」の猫ちゃんがいなかった悲しみ。
「おふねもいっしょにあそぼっていえばよかった」
「お船? 今日は船を作ったのかな?」
「つくれなかった」
延長保育で船を一緒に作ろうと言えばよかったという苦い思い。
二つに苛まれて私は眠りながら父に訴えかけていたが、父は私の言葉がよく分からないようだった。
翌日、父は連絡帳に「猫ちゃんって何ですか?」と書いたようだった。
お散歩ではその日も「ねこちゃんのおうち」の前を通ったが、猫ちゃんはいなくて、みんながっかりしていた。
猫ちゃんは今おうちにはいないのだということ。家のおじさんが病気だということを、先生たちは分かりやすく教えてくれた。
三歳児クラスの子どもたちは、「ねこちゃんのおじさん、はやくげんきになってね」とおうちに向かって声を掛けていた。
怖いものの声はまた聞こえてくる。
『このまま呪い続ければ、この家の主人は死ぬ』
『そうすれば、この家は我らのもの』
その声が何を言っているか分からなかったけれど、とても怖くて、その声を聞いていられなかった。
泣き出した私の近くに、先生が来てくれる。
「美鶴ちゃん、どうしたの?」
「こわいこえがきこえたの」
「怖い声? どんな声?」
「わかんないけど、こわいの」
三歳の語彙ではとても説明しきれなくて、私はただただ泣いた。
保育園に帰ってから、お昼寝をして、午後の外遊びをして、延長保育の部屋に行く。
延長保育の部屋では、昨日と同じ、女の子が大きな積み木で何かを作っていた。
晩御飯の順番があったので、私は積み木の争奪戦に出遅れてしまったのだ。
「いっちょにあそぼー!」
「わたしのおうちよ!」
「おふねがつくりたいの。おっちいおふね!」
「おふね?」
「おふねで、うみにいくの」
両手を広げて説明すると、女の子は分かってくれたようだ。
「いっちょに、おふね!」
「おふね!」
二人で作ったお船はとても大きくて、二人とも乗って楽しく遊べた。
やっぱり、一緒に遊ぼうと言えばよかったのだ。
その日はそれで満足したのだけれど、「ねこちゃんのおうち」のことは気になっていた。
家に帰ってお風呂に入るときに、父が話してくれた。
「連絡帳に書いてあったよ。猫ちゃんって、お散歩のコースで毎日見てた猫だったんだね。最近、そのおうちの御主人が病気になって、猫ちゃんが見られなくなって美鶴も悲しんでるって」
「ねこちゃん……」
呟くと、聞こえてきた怖い声を思い出してしまう。
大きな声で泣きだした私に、父は私を叱ったりせず、優しく髪を撫でて、「猫ちゃん、会いたかったね。残念だね。早く会えるようになるといいね」と言ってくれた。
そうじゃなくて、怖い声が聞こえたのだということが、私にはどうしてもできなかった。
誰か助けて。
あの声は私にしか聞こえていないの?
みんな、どうして怖くないの?
眠るときに怖くてまた泣きそうになっている私に、両親は先に眠ってしまって、部屋は真っ暗でしんとしていた。
電気を消しても自分の手の平くらいは見える。
涙を手の甲で拭いて、私は必死に寝ようと頑張っていた。
次の日は保育園はお休みで、私は祖父母の家に預けられた。
祖父母の家は私の家のようにマンションではなくて、一軒家だ。
リフォームしているが少し古い家なので、ミシミシと音が聞こえたり、びしっと天井が鳴ったりする。
それは怖いのだが、私は祖父母が大好きだった。
「じぃじ、ばぁば、おひる、そうめんがいい!」
「鶏そぼろと卵そぼろ入りの素麺かな?」
「美鶴ちゃんはあれが大好きだね」
「なすもいっちょがいい!」
「揚げ茄子も作ろうね」
祖父母の家で食べる、鶏そぼろと卵そぼろをつゆに入れて絡めた素麺は絶品なのだ。それに、揚げ茄子もつゆに浸して食べるととろとろで最高に美味しい。
『あの子が来たよ』
『ころころぽちゃぽちゃして可愛いこと』
『本当に大きくなって』
祖父母の家でも声は聞こえるのだが、その声は怖くなかった。
いつも見守られているような気がするからだ。
帽子を被って祖父と一緒に庭の草むしりをする。小さな子ども用の軍手でも、私には大きいが、「美鶴ちゃんが手を怪我しないように」と祖父はしっかりと私の手を軍手で守ってくれていた。
家庭菜園の実った茄子を収穫して、祖母の元に届けると、にっこりと微笑んでくれる。
「これはいい茄子だね。美鶴ちゃんが来るのに合わせて育ったんだね」
「なす、だいすち! そうめんにいれて!」
「はいはい。揚げ茄子にしましょうね」
とんとんと祖母が茄子を切って油で揚げてくれる。
汗びっしょりの私を祖父が簡単にシャワーを浴びさせて、扇風機の前に座らせてくれた。
『あの茄子、喜んでもらえてるようね』
『この日に合わせて育つようにしてよかった』
『美味しく食べてもらえるでしょう』
優しい声が聞こえてくる。
扇風機の風に幼児特有の淡い色の髪が吹かれて揺れるのに、誰かが私の髪を触った気がした。
祖父母はキッチンに立っているし、私の後ろに誰かいるはずがない。
幼児特有の柔らかな髪が絡まないように、手櫛で整えてくれている気がするのだ。
「だぁれ?」
振り返ったら、着物の女の子が私の後ろに座っていた。
『あなた、わたしが見えるの?』
「あなた、だぁれ?」
『わたしは、美藤。この家の座敷童なの』
「ざちきわらり、なぁに?」
『家に幸運をもたらす、いい妖よ』
それが、私と美藤ちゃんの出会いだった。
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