ノモンハン イギリス軍出撃
ノモンハン事件の前哨戦、そしてイギリス軍の出撃です。
1939年5月20日 イギリス陸軍准将 パーシー・ホバート
五月十五日明朝、ノロ高地へと派遣された満州軍国境警備隊の先遣隊として一個小隊が現地へと先んじて派遣された。
先遣隊の任務はハルハ河の向こうの外蒙赤軍及びソ連軍の監視と、現地の下見、つまりは偵察任務になる。
他にも、ここに陣地を構築する為、電話線などの引き込みも併せて行われたようだ。
先遣隊はトラックに分乗して現地へと無事正午には到着し、早速簡易陣地を築いて敵情を監視しつつ、偵察班を派遣した。
大隊本部への報告では、敵はハルハ河左岸、つまりは国境線と定める川の向こうへ退却した為、殆ど戦闘は発生せず、との事であった。
しかしながら、先遣隊が展開するノロ高地の上空へと支援のために展開した満州国軍の軽爆撃機によって川向こうの丘陵部の向こう側に、蒙軍特有の包と呼ばれる円形のテントが多数展開されいる事が確認された。
外蒙赤軍は川向うに引き上げただけで、ノロ高地からは丘陵部によって隠れる形になる為視認する事は出来ないが、依然として極めて近い距離に居る事には変わりなく、再びいつ渡河越境してきてもおかしくはないという緊迫した状況が続いていたのだ。
先遣隊は日没までに簡易陣地を構築し敵情を監視しながら後続部隊の到着を待つというのが大隊本部からの命令だった様だが、その日深夜の定時連絡を最後に先遣隊は音信不通となった。
翌朝、直ちに現地に偵察機を飛ばしたところ、既にソ連軍の支援を受けた外蒙赤軍はハルハ河右岸に進出し、ハルハ・ホルステン河の合流点付近に既に架橋を済ませ、部隊の渡河を進めていた。
偵察機は敵に補足されると攻撃を受けた為、直ちに撮影を済ませてハイラルへと帰還した。
持ち帰った画像を解析したところ、ハルハ・ホルステン河の合流点の北東側にあるバル西高地、そして南東側の先遣隊が簡易陣地を構築していたノロ高地にそれぞれ既に200人を超える兵士が見え、陣地の構築を進めているのが写っていた。
更には、既にそれぞれの陣地には火砲が二門以上、それに二、三両の装甲車とおぼしき車両も見られた。
そして、ノロ高地には砲撃の痕が見られ、昨日の定時連絡以降、夜間の内に奇襲的に攻撃を受け連絡を取る間もなく全滅した物と思われた。
大隊司令部は軍管区司令部に状況を報告し、軍管区司令部より敵兵力が増強される前に排除せよと命令が下る。
五月十七日正午、攻撃に先んじて航空部隊の軽爆撃機による敵陣地、及びハルハ河の向こうに多数展開している外蒙赤軍の包に対しても空爆が敢行されあとに続く攻勢を支援した。
同地の奪還を命じられた大隊には上位の連隊より砲兵中隊及び速射砲中隊が増援され、十七日の十五時頃よりノロ高原に対して攻撃を開始したのであるが、結果から言えば攻勢は大損害を被り失敗に終わった。
ノロ高原に対する攻撃が始まると友軍の爆撃によって粉砕された筈の陣地の敵部隊は健在で、猛烈に反撃をしてきたのだ。更にはハルハ河の向こうから飛んでくる敵の野戦砲による支援砲撃もあり、事前の偵察では敵は中隊規模と兵力では勝るものの、味方は迫撃砲と四門の軽野砲しかなくかなりの苦戦を強いられた。
外蒙赤軍は基本的には騎兵編成であり、遭遇戦が多く今回の様に歩兵部隊が本格的な陣地を築いたりする事がなく軽装備で急行したのが裏目に出たわけだ。
そこへ、これまでこの地域には偵察機程度であまり飛来して来ることが無かったソ連の航空部隊が味方の航空部隊と入れ替わる様に大挙飛来。
初めて確認された単発の軽爆撃機と、スペイン戦争でも使われた複葉機であるI-15からなる攻撃部隊で、砲兵陣地は勿論のこと、陣地を攻撃していた歩兵部隊は隠れる場所も少なく短時間で制圧され、大隊は壊滅状態に追い込まれた。
幸い日が暮れてきたこともあり、這々の体で撤退した。
満州国軍はこの事態を重く見て、派遣された大隊の所属する興安軍管区の国境警備連隊の派遣、更には中央軍の機械化歩兵師団の出動準備命令が下った。
そして、我が軍に対し支援要請が出された。
防共協定軍でも直ちに会合が持たれ、念のために我軍の他にもアメリカ軍と日本軍が出動準備を行い、必要に応じて派遣される事になった。
我が軍が得た情報によれば、ハルハ河に集結している敵軍は外蒙赤軍以外にもソ連軍も来ており、師団規模の可能性もあるという事だった。
十九日になって、満州国軍から先遣部隊の戦闘詳報が届いた。
全滅したと思われた先遣部隊に辛うじて生還した兵士がおり、当日の事もある程度判明した。
生還した兵士は外傷的な負傷以外にも精神的にかなりのダメージを受けているとの事で充分な聞き取りが出来なかったのであろう。
彼らは深夜に砲撃の後に、いつの間にか渡河していた装甲車と戦車からなる部隊に強襲されたようだ。
生還した兵士は我が軍が供与したボーイズ対戦車ライフルの射撃手との事で、実際に敵装甲車や戦車と交戦していた。
最初に先陣をきってやって来た装甲車は難なく撃破する事が出来たが、その後から信じられない速度で坂路を登って来た戦車には通用しなかったそうだ。
ボーイズ対戦車ライフルは約18mmの貫徹力を持ち、外蒙赤軍が運用する装甲車であれば難なく撃破できる筈であるが、恐らくソ連軍が快速戦車と呼んでいるBT戦車の装甲厚はそれ以上という事なのであろう。
我が軍の装備する2pdr砲戦車砲であれば苦も無く撃破可能であろうが、歩兵が装備する対戦車兵器として期待するボーイズ対戦車ライフルが威力不足なの明らかであろう。
早速本国にこの事を報告し、対策を講じて貰う事にした。
二十日、我が機甲師団は出撃準備が整い、駐屯地からハイラルに向けて進発した。
今回はこれ迄の様な小規模な戦闘ではなく、大規模な戦闘になる可能性が高く、演習以外で総出撃は初めてとなる。
新型のA13巡航戦車を使用した初の実戦となり、今から活躍が楽しみだ。
今回は出撃迄となります。
ボーイズ対戦車ライフルは見た目の素敵さとは裏腹に、軽戦車すら撃破不可能な性能でした。
結局第二次世界大戦のフランス戦で威力不足が判明し改良されますが、それでも威力不足でしたが、トラックや装甲車は撃破可能なので、PIATが配備される1943年頃までトミーや英連邦兵士の友として使用されて居ました。




