ノモンハン 5.11-5.15
第一次ノモンハンに当たる部分の始まりです。
1939年4月 関東軍参謀長 陸軍中将 石原莞爾
吾輩は新たに関東軍の司令官に就任された梅津大将に関東軍の参謀長へと指名され参謀本部から再び満洲へと戻って来た。
それに伴い吾輩は中将へと昇進を果たした訳であるが、同じく関東軍司令官への昇進に伴い大将へと昇進した梅津大将、そして参謀総長に就任された永田大将も参謀総長就任に伴って大将へと昇進を果たしており、前例が無い訳ではないが明らかに対ソ戦を意識した人事異動であろう。
永田大将はいずれ大臣か参謀総長への就任が予想されていたが、関東軍の司令官と参謀長が揃ってこの時期に入れ替えというのは、去年に発生した張鼓峰事件が大きく影響しているのだろう。
あの事件は、結局満州国軍とフランス軍が上手く対応して処理してしまい、我が軍は民間人に死傷者が出たにも関わらずまともに動かず、見殺しにされたと新聞報道までされたのは陸軍の面子を傷つけた。
実際の所は、そんなに簡単な話では無かったのだ。
我が国の方針として、国境紛争に火を注ぐ可能性が高い越境攻撃は行わないというのが基本方針だったという事もあるが、ソ連は射程距離の長い重砲や航空機による空爆撃をソ朝国境に程近い村落に行った、しかし地上部隊が越境してくる事は最後まで無かったのだ。
張鼓峰での紛争に関しては明らかにソ連軍部隊が越境攻撃を仕掛けて来ており、ソ連が先に越境してきたという大義名分が立った。しかし、ソ朝国境に関しては爆撃機は国境を越えて飛んできていたが、地上部隊は最後まで越境するどころか、部隊を差し向けてくる事も無かった。
我が軍はこの地域にソ連の重砲の射程に対抗できる重砲を配備しておらず、撃ち返す事が出来なかった。そして、爆撃機を国境の向こうに飛ばす事については慎重意見が多く、結局何ら反撃をする事が出来なかったのだ。
満州国と要請を受けたフランス軍が越境攻撃に踏み切り、鮮やかな勝利と相成った訳であるが、我が軍は方針を堅持した為、我が国の村落が砲爆撃を受け民間人に死傷者が出ているにも関わらず、精々避難民の救護と誘導といった事しか出来なかった。
結果としてソ連は大規模な反撃には出て来ず事なきを得た訳であるが、動かなかった我が軍は実に不甲斐なき有様に見えたろう。
満州国での我が国の立場は満州国と締結した防共協定の加盟国という立場であり、あくまで主体は満州国であり、加盟国はオブザーバーの立場だ。
つまり、我々は助言はするが最終的な判断は満州国政府が行う。あくまで独立主権国家であり我々の傀儡国家ではない。
吾輩がかつて満州の領有を目指した時とは、随分と違った形になったが、結果として見てみれば今の形になって良かったと思っている。
今の満州国の発展と工業化は我が国の力だけでは到底実現する事は叶わなかっただろうし、満州国発展の余波を受けて我が国そのものが欧米の投資対象になり、大いに国力を伸張する事が出来た。
更に言えば、今や我が国はアメリカをはじめとして、フランス、イギリス、オランダ、イタリアなどの欧米主要国と満州国の防共協定を介して実質的な同盟国であり、ソ連のみを主敵とする事が出来ているのだ。
最初、吾輩は満州国の国家承認を条件に欧米諸国の進出を認めるという方針を聞いた時、我が国が血を流して勝ち得た満州国を明け渡すのかと怒りすら覚えたものだ。
しかしながら、その後の推移を見て欧米諸国を敢えて当事国に加える事で、彼らの資本力と技術力を使って満州国を開発させ、さらには安全保障を担わせる事で、我が国の負担を大いに低減し実利を得るという策なのだと気づいた時、誰が考えた策かはわからぬがその壮大なスケールの策に感嘆を禁じ得なかったのだ。
大方永田辺りが考えたのかもしれぬが、全てが我が国の都合の良い様に動いており、恐ろしいばかりなのである。
満州国は吾輩の当初の想定より遥かに早く発展し、吾輩が思い描いた対ソ連の壁が実現しているのだ。
勿論、未だ国内にはまだ馬賊の如き連中が残っておるし、満蒙国境は国境紛争が続き不安定であり、やはりこの国を安定させる為にはソ連を何とかせねばならんだろう。
1939年5月13日 イギリス陸軍准将 パーシー・ホバート
二日前の5月11日、外蒙赤軍の偵察部隊が越境してきた為、所在の満州軍国境警備隊が直ちにこれを撃退したと報告があった。
そして翌5月12日朝、外蒙赤軍が兵力を増強し約七百名が越境、更に翌日の5月13日朝、現地の満州軍国境警備隊と交戦中、更なる増援の可能性アリとの事だった。
我が軍にも支援要請が電報で飛び込んで来た。
早速、幕僚を集めて地図を広げ、場所の確認をする事にした。
戦机の中央に地図を広げると、満州軍の連絡将校が場所を指し示してくれた。
「准将、この辺りになります」
将軍廟と呼ばれる古い時代の墳墓からアムグロを経てハルハ河に至る場所にある、ノモンハンと呼ばれる広大な地域であった。
連絡将校によると、この場所はゴビ砂漠の東の外れ、標高七百メートル前後の波打った地形で、砂漠が五割、草原が四割で、残りは湿地帯、湖沼が点在し、ところどころに小樹林があるそうだ。
広大な戦域で状況を把握するには空からの偵察が欠かせない。
早速、偵察機を現地に飛ばす事にした。
我が軍のライサンダー偵察機が現地へと飛び立ち、約三時間後第一報が届いた。
周辺を数度に渡り旋回し偵察し、撮影してきたとの事だが、敵影は確認できず、空撮してきた写真にもホルステン河とハルハ河の合流地点付近に馬が二十頭ほど写り込んでいただけで、戦闘の影は無かった。
何か発見できないかと、低空に迄降りて旋回したが何も見つからなかったとの事だ。
ところが、偵察機が飛行場に戻り点検したところ、弾痕が発見されたため、敵が居た事は明らかだった。
現地で交戦していた満州軍国境警備隊のパトロール部隊は帰還せず、また連絡も取れなくなっており、現地で全滅している可能性もあった。
国境警備隊は夜半より捜索部隊を派遣する様だが、パトロール部隊の報告は七百名規模の敵部隊であり、これ迄これ程の兵力をもって越境したケースはこの興安では発生した事が無く、これまで通りではない可能性があった。
我が軍も偵察部隊を派遣する事になり、五月十五日朝、偵察部隊は現地へと向かった。
偵察部隊は大隊規模で完全に機械化された部隊であり、機械化歩兵中隊と三個のダイムラー装甲車とユニバーサルキャリアという装甲兵員輸送車で構成された偵察中隊の四個中隊で構成されている。
ハイラルまで進出するとそこに司令部を設置し、偵察中隊を送り込んだ。
同日十五日正午、満州軍国境警備隊捜索部隊はホルステン河南岸、ハルハ・ホルステン合流点に近い場所に位置する高地であるノロ高地にて外蒙赤軍部隊を発見し、攻撃を開始する。
外蒙赤軍は満州軍部隊が包囲するより早く、ハルハ河左岸へと退却し、戦闘らしい戦闘にはならなかった。
同じ頃、我が軍の偵察部隊もハルハ河付近に到着し、渡河退却中の外蒙赤軍部隊を発見した。上空には満州軍の軽爆撃機が飛来していたが、退却中の部隊に対して攻撃する事は無かった。
満州国は断固たる対応をすると決めているが、ソ連及び外蒙赤軍との全面戦争に至る事は望んでおらず、紛争が拡大する様な越境攻撃は極力避けるという方針だ。
我が軍の偵察部隊は、外蒙赤軍部隊が国境線の向こうへと引き上げた事で、ハイラルまで引き上げた。
満州軍国境警備隊の捜索部隊の捜索により、パトロール部隊の死体が一部発見され、全滅したのであろうと連絡があった。
当然ながら外交ルートで抗議した様だが、越境してきた満州軍を撃退しただけであり、挑発行為に対して厳重に抗議するというお決まりの返事だ。
こうして、パトロール部隊が全滅した事は痛ましい事であるが、今のところ大事件には非ずと本国へは報告した。
しかしながら、満州国軍は今回の事件を重く見て、一個大隊規模の国境警備隊を現地に派遣し陣地を築く事にした様だ。
というのも、国境の向こうがどうにも騒がしい様なのだ。
日本軍の歩兵第二十三師団は本作世界では編成されて居らず、代わりに史実より充実している満州軍国境警備隊が現地の守備につきます。
イギリス軍は装甲車で編制された偵察部隊を派遣しましたが、現地の偵察のみで戦闘には加わって居ません。
当然ながら、現地の満州軍、イギリス軍の動きはソ連に監視されて居ます。




