イタリア軍 機甲師団到着
イタリア軍の増援部隊である機甲師団が到着です。
イタリア陸軍少将 ジェルバシオ・ビトッシ
私はジェルバシオ・ビトッシ、イタリア王立陸軍で少将を務めている。
私の軍でのキャリアのスタートは1915年、我が国が先の大戦に参戦し機関銃小隊を率いて出征した時から始まる。
その後、大戦が終わる迄の間に大尉へと昇進を果たし騎兵連隊の大隊長へと就任した。
そして戦後、パドヴァの参謀将校コースへと入学し、1923年に少佐、三年後に中佐へと順調に昇進を進め、連隊付けの参謀を経て1933年に大佐へと更に昇進し、パルマのガイド騎兵連隊の連隊長へと就任したのだ。
私は早くから軍部隊の機械化の必要性を感じ軍でも提唱して居た事もあり、就任したガイド騎兵連隊を戦車を装備した教導部隊へと改編する機会を与えられた。
採用されたばかりのCV-33高速戦車で幾つもの高速戦車戦隊を構成し、将来の本格的な戦車部隊編成に向けて様々な取り組みを試す事が出来た。
1935年より1936年に掛けて、私はリビアのキレナイカに駐屯する第1自動車化師団麾下の第102混成連隊の連隊長を任された。
リビア滞在中、私に与えられた任務は我が軍の実践的な戦車部隊の編制と訓練、そして教本の作成というやりがいのある仕事であり、併せて私がこれ迄獲た知見を基に我が軍が採用すべき装甲車両を検討し論文を書き上層部へと提出する事も出来た。
そして翌年、1936年より本国へと帰還しローマに作られた高速部隊中央学校の校長を務め将来高速部隊を指揮する指揮官の養成に携わった。
高速部隊とは我が軍特有の呼称であり自動車化部隊の事で、自動車化された歩兵。砲兵部隊、それに軽戦車部隊から構成される部隊だ。
1937年2月頃より新たな辞令が下り、フェラーラの第31騎兵師団の副師団長を務め、1938年4月に准将へと昇進を果たした。
そして、スペイン内戦に志願兵として参加しているリットリオ突撃団への派遣される予定であったが、リットリオ突撃団は新たな任務の為スペインより引き上げられ再編成される事になった。
リットリオ突撃団は本来の第131歩兵師団へと戻され、そこから一部を再編成する事によって、本格的な機甲部隊である第133機甲師団へと再編成された。
リットリオは正規軍の志願兵によって構成され、スペインでの実戦経験を持つ我が軍でも最精鋭部隊の一つであると言って差し支えあるまい。
年が明けて1939年1月、私は少将へと昇進すると共にこのリットリオ機甲師団の師団長を命ぜられたのだ。
新たな任務とは、我が軍が既にメッセ少将麾下の第3高速師団を派遣しているアジアの東の果てにある満州国への派遣だった。
本国より遠く離れた満州国での事はこれ迄の任務であまり直接関わる事も無く、新聞で読む程度の知識しか無かったのだが、新聞にも掲載されたソ連との国境紛争におけるフランス軍戦車部隊との本格的な戦車戦発生の記事を見て、大慌てで資料を取り寄せた物だ。
先行して派遣された第3高速師団からは色々と報告書が上がってきており、スペイン内戦でも既に露見していたが、我が軍の主力戦車となって居るCV33高速戦車はソ連が大量に配備しているT-26軽戦車やBT-4高速戦車にはまるで歯が立たない。
それどころか、小銃弾すら貫通する事がある有様で、北アフリカでのエチオピア軍相手の戦争では活躍できたが、スペイン内戦で問題になって居た。
実際問題、先に満州国に派遣された第3高速師団でも既にCV-33は軽戦車としての運用はして居らず、装甲車、或いは牽引車等としての補助車両としての運用をしているとの事だ。
去年頃より前倒しされて配備のはじまったM11/38軽戦車は数がまだ全く足りていない状況だそうだ。
幸い他国に遅れて派遣された事も影響しているのか、我が軍のもっぱら相手にしているのは満州国に何十万人も蔓延っているといわれる馬賊らしく、エチオピア戦争での経験が非常に役に立っているとの事だ。
野盗相手であればCV-33でも十二分に対応できるだろう。
それは兎も角、去年のフランス軍戦車部隊が戦った張鼓峰事件の後、ソ連及び外蒙赤軍の兵力増強が続いており、去年の様な大規模な衝突は起きていない物の、まるで探りをいれるかのような小競り合いは目に見えて増えており、部隊増派という事になった様だ。
我がリットリオ機甲師団が受領している装備は十分な数の自動車と火砲は元のリットリオ歩兵師団の装備を引き継いだものであり、肝心の装甲戦力はCV33の改良型であるCV35、それにランチア装甲車、それに少量だが配備が始まったばかりのAB39装甲車しかない。
そして、スペイン内戦でも、第3高速師団の報告書でも、我が軍の新型軽戦車であるM11/38軽戦車では不十分であることが既に判明している。
M11/38軽戦車は流石にライフル弾が貫通するという事は無い様だが、ソ連軍が多用している45mm砲に対しては全く十分ではなく、第3高速師団でのテストでは1000mの距離ですら、最も厚い部分を容易に貫通されてしまう様だ。
我が軍も勿論結果を待つまでも無く、1937年より本格的な中戦車の開発は始まっており、去年試作車両が完成し前倒しでM13/39中戦車として採用されこれが我が師団に配備されるという事になっている。
この中戦車は本国ではなく、満州国にあるアンサルド社の工場から直接受領する事になって居る。
その為、我が師団の戦車連隊は戦車を装備する事無く満州国へと出動した。
地中海よりスエズ運河を経てインド洋へ。そして幾度かの寄港を重ねて満州国の大連港へと到着したのは2月も下旬になろうかという頃であった。
我が部隊は直ちに駐屯予定地へと移動して駐屯地を設営し、後続到着部隊も全て揃う頃には3月も半ばとなって居た。
メッセ少将の第3高速師団はM11/38軽戦車の配備が少しずつ進んではいたが、まだ十分な数ではなく、戦車が出てきた場合は対戦車砲中隊を頼りにしていると話していた。
満州国に到着して駐屯地の設営や後続部隊の受け入れをさせている間、私は満州国軍は勿論の事、満州国へと部隊を駐屯させている各国の駐屯地を表敬訪問をする他、アンサルド社に出向いて装備の生産状況の確認など精力的に行った。
満州国のアンサルド社の工場は本国の工場と比較しても十分に誇れるほどの規模を持ち、本国にも無い様な最新鋭の生産設備を持つ大規模かつ先進的な大工場だった。
何より、工場内の移動に自動車が欲しくなる程の広大な敷地は地平線を見る事が出来るこの国ならではと言えるのだろうか。
従業員は技術者や管理部門の人間はほぼ本国から派遣されたイタリア人だが、現場で働く工員は満州国の地元のアジア人が殆どの様だ。
この工場は要塞砲から山砲まで多様な大小火砲に戦車の他、民間向けに鉄道車両なども製造しているらしい。
アンサルド社の敷地の中には規模こそ小さいがベレッタの事業所もあり、またアンサルド社の工場の隣にはフィアットの工場がある。フィアットの工場の敷地の中にブレダとランチアの事業所もあるらしく、我が軍の装備は大体ここで揃うとの事だ。
この辺りは我が国の企業が多数進出しているとの事で、我が軍の駐屯地にも程近く、何かあればすぐに出動して駆けつける事が可能となって居る。
そもそもの部隊駐屯の目的はそれぞれの国の企業や邦人の保護だから当然といえる。
月が替わって3月にはいり、やっと戦車連隊へ配備するM13/39戦車のファーストロットが届いた。
ファーストロットとはいえ、流石にあの規模の工場で本格的に量産を始めただけあり、一気に50両を受領する事が出来た。
更に生産数を増やしていくらしく、第3高速師団で必要な分を生産する他、北アフリカに配備されている部隊にも送るらしい。
M13/39中戦車はフランス軍のS35中戦車が搭載する47mm戦車砲と同程度の火力を持ち、また装甲も40mmと45mm砲にも耐え得る厚みとなっている。
しかしながら残念な事に最高速度は32km/hと我が軍の他の車両に比べ低速であり、運用面では検討する必要があるだろう。
イタリア軍は旅団ではなく師団を派遣していますが、旅団というのは国によって編成と規模がかなり異なっており、イタリア軍の機甲師団は戦車連隊、機械化歩兵連隊、機械化砲兵連隊+@と日本軍の機械化混成旅団と同等か少なめになっています。
イタリア軍はM11/39とか名前がついていますが、11t級、39年採用という意味です。
つまり、一年前倒しになるとM13/40がM13/39とかになります。




