上海攻防戦
国民党軍の精鋭軍が延安と移動し、兵力が手薄になった上海で再び中国共産党が暗躍します。
1938年3月13日、ドイツがオーストリアを併合するという大きな出来事が新聞の一面を賑わした。
先の欧州大戦迄はオーストリア=ハンガリー帝国という中欧の大国だったが、敗戦でばらばらになりオーストリアも小国になってしまったと聞くが、ドイツに吸収されてしまう程だったとは。
とはいえ、ヒトラーがオーストリア人だという話だし、元々ドイツもオーストリアも神聖ローマ帝国の構成国であり、親戚の様な物なのか。
ドイツというと不買運動やニュルンベルク法などユダヤ人排斥が進んでいると聞くが、我が国及び満州国はユダヤ人の移民を受け入れると表明している。
中欧から満州は遠いがシベリア鉄道に乗れば終着駅、満州国の北満鉄路の満洲里駅までたどり着くことが出来る。
ソ連は満州国を承認していないが、元々清国時代からのシベリア鉄道の支線である東清鉄道が連結しており、わざわざ廃線にする事はせず、そのまま運行が続いているのだ。
とはいえ、紛争の範疇に収まっている国境紛争が、さらに悪化するといつまで運行しているかはわからない。
そういえば、井上からオーストリアにハーツスタークという先進的な計算機を作る会社があり我が国への進出を打診したと報告書に書いてあったが、国が無くなったとなると、どうなるんだろうな。
我が国にもタイガー計算機という良い計算機メーカーがあり、我が軍もそこの計算機を採用しているのだが、ハーツスタークの計算機は我が国には無い電機駆動の計算機らしい。
小型の計算機の開発を進めているとかで、携帯可能な物なら軍は勿論の事、使いたい人は多いだろうな。
1938年3月17日、ドイツのオーストリア併合と関係があるのかはわからないが、ポーランドがこれまで国交のなかったリトアニアと国交を樹立、併せてエストニア、ラトビアと共に、ドイツが主催する防共協定へ加盟し、事実上の軍事同盟に加わった。
バルト海に面するこの三国は歴史的にもロシア、ソ連の脅威に晒されている事を考えると防共協定への加盟は必然ともいえるか。
1938年3月下旬頃、ドイツやオーストリア、ポーランドなどからユダヤ人が満州、及び日本へと到着が始まった。
日本に来た基本的にユダヤ人は樺太で受け入れるが、日本に事業を移す企業家や、国内で受け入れ先がある様な例えば科学者や技術者などは別扱いにする様だ。
満洲は元々多民族の国という事もあり、普通に移民として受け入れる様だな。
1938年4月1日、日露戦争の様な大規模戦争が発生するなど、有事の際に運用される予定の国家総動員法が発表された。
具体的には、軍需産業に対して必要な資源を優先配分する仕組みとか、或いは生産力を最大化する為に国内企業を普段ならライバル企業であったとしても、得手不得手を国が把握してうまい具合に組み合わせて軍需物資を生産させるとか、或いは国内で必要な民生用物資を滞りなく行き渡らせる為に、生産品目を絞って必要があれば配給制にするなど、国家を高度に防衛する事が必要になる様な非常時に運用される法律だ。
勿論、資源をどこからどのように調達するかという事まで検討されており、その為の準備は平時であっても継続的に行う事になって居る。
例えば、北米や東南アジアから我が国は資源を多く輸入しているが、それらの国々と友好関係を継続するなど資源を安定調達できるよう常に情報収集を怠らないのも必要な事であるし、我が国迄安全に運ぶ手段を講じるのも重要な事だ。
この法律は永田が以前より温めていた物で、各方面の意見を聞いたりして取りまとめたものであり、俺も意見を出したこともある。
だが、実際に使わずに済むのが一番なのは間違いない。
1938年5月上旬、延安付近へドイツ式の精鋭軍を移動させていた中華民国は先頃到着したドイツ軍顧問団の指導の元、再び攻勢を開始。
ドイツから到着したBf109戦闘機の護衛の元、同じくドイツから到着したHe111が共産軍の航空基地を空爆。
中国共産軍のソ連製I-16戦闘機との空中戦が発生、ドイツ製のBf109が共産軍の迎撃部隊を圧倒する活躍を見せた。
He111による爆撃で、滑走路や地上施設の他、地上に駐機してあった共産軍の戦闘機や爆撃機に損害を与えた様だ。
その後、野砲による砲撃の後、陣地へと攻撃を開始した。
中華民国軍は新たに調達したドイツ製の戦車も活用しながら、中国軍の陣地の制圧突破に成功し更に延安へと進んだが、延安の街の要塞化が進んでおり都市を包囲して一先ず、攻勢に成功したとその成果を報じた。
しかしながら、中華民国軍の精鋭が延安へと移動し、手薄になった上海国際共同租界に中国共産党へ装備ごと寝返った中華民国軍部隊を主力とした中国共産党軍がかつての義和団の乱の様に外国勢力の排斥を訴えて侵攻を開始した。
ソ連と繋がりコミンテルンの手先ともいえる中国共産党が外国勢力排斥を訴えるのは滑稽でしか無いが、駐留軍が全ての国の軍を合わせても兵力が1万にも満たない上海国際共同租界に実数はわからないが10万を誇称する軍が猛然と進行を開始した。
寝返った中華民国部隊は後方警備を担当していた二線級部隊であったのが救いだった様だがその兵力は馬鹿にできず、元々警備部隊程度の装備しか無かった駐留軍も野砲など重火器は豊富とはいえなかった。
先日のスラム街掃討作戦で活躍した戦車が無ければかなり悲惨な事になって居ただろう。
敵側は、装甲車両は精々装甲車とルノーFT位しか無く、前回のスラム街で使用していたドイツ製の37mm対戦車砲も豊富にあった訳では無い様で、対戦車火器の無い部隊が戦車とどう戦うのかというサンプルケースとなった様だ。
上海国際共同租界は先の砲撃騒ぎ以降欧米人の退避が進んでいて、民間人のかなりの割合が既に退避済みで、往時の賑わいは既になかったが、未だ政府関係者などが残っていた。
租界に彼らが突入した場合、どういう惨事が待ち受けているのか、最近続いている宣教師など在中欧米人に対するテロ行為を見れば明らかであったから、駐留軍は徹底抗戦の構えで租界に陣地を築き、増援を待つ事となった。
兵力にものを言わせて多方面から同時に攻勢を掛ける浸透攻撃を前に、敵に夥しい損害を与えた物の、租界内へと侵入を許し守備隊はじりじりと残留していた民間人が立て篭もる中央区画へと追い詰められていった。
民間人が避難する為の船舶への乗船が続く中、敵の空襲が無い事は幸いした。
しかし、掃討作戦であれだけ活躍したマチルダ戦車は敵の肉弾攻撃に対して、意外な脆さを露呈した。
敵側が使ってきた戦法は、中国軍が使って居る柄付手榴弾を針金で束ねた収束手榴弾を投げつけて、履帯を破損させて擱座させた後、火炎瓶を投げつけて炎上させるという戦法だった。
マチルダ戦車はガソリンエンジン車であり、火炎瓶を幾つも投げつけられると引火して炎上してしまうのだ。
この戦法は、実は先の欧州大戦で戦車を撃退するのに編み出した戦法であり、先の欧州大戦に参戦していた以前の顧問団にいたドイツ軍将校によって伝授された戦法らしい。
想定外の損失に、駐留軍は積極的に戦車を出す事はせず、トーチカ代わりに陣地に組み込み、歩兵と共に防御陣地に籠るという作戦に切り替えた。
実の所、上海に兵力が無いのかというと、勿論の事そんな事は無く、港には砲艦が居て艦砲射撃を行うことが出来るし、洋上には米国の太平洋艦隊が居たのだ。
だが、市街戦での航空支援はかなり困難だったようで、味方を誤爆した事もあった様だ。
無線の装備率が低かった事と、多国籍という事もあり地上と無線で円滑にやり取りが出来なかった事が原因の様だが。
結局、一番近くに兵力を持っていた米軍が上海北部沿岸に海兵隊を上陸させた。
これ迄は陸上部隊の派遣は限定的で、空爆を主体にしていたが、ここに至って本格的に陸上戦力を投入という事態まで進展した。
この上陸に最適な砂浜には以前いたドイツ顧問団のセークト将軍の指導のもと築き上げた強固な陣地が存在しており、もしここに然るべき兵力があれば、上陸した米海兵隊は夥しい損害を出した事は確実で、とてもじゃないが記念写真なんて取ってる余裕は無かったろうな。
上陸した海兵隊部隊は、直ちに共産党軍の背後から攻撃を開始した。
これら一連の出来事は現地に居る欧米のジャーナリストから、各国の新聞社が支局を設置している我が国の東京へと記事や写真が空路持ち込まれ、本国は勿論、我が国でも連日新聞報道された。
我が国がもしあのまま上海に居たら、駐留軍が戦っている戦闘を我が軍がかつての上海事変の時の様に戦っていた可能性が高いな…。
もしそうなって居たら、当時すでにかなり激化していた排斥運動はさらに悪化し、恐らく蒋介石率いる国民党軍と全面戦争に至った可能性が極めて高い。
そうなれば、対ソ戦どころでは無い。
中国共産党側の部隊は、戦争指導を行う中国共産党員の下に、国民党軍の反乱部隊、それに地元の共産党員に扇動されて大量に集まった食い詰めの不満分子からなる部隊で、人海戦術にものを言わせる戦い方をしています。




