ドイツ軍事顧問団の到着
新型戦車の開発は続きます、そして蒋介石が待ち望んでいたドイツ軍事顧問団が到着します。
無事に1938年の新年を迎えられた。前世ではこの年を迎える事が出来なかったが、二度目の人生では当たり前の様に新たな年を迎えることが出来た。
思い起こせば前世で54年、そして二度目の人生で54年、併せて100年を超える時間を生きている訳だが、何故か随分長く生きた、という実感はないな…。
恐らく、前世の記憶は残っているものの、二度目の人生を別人として、再び幼少の頃から始めたからかもしれない。
二度目の人生は、果たして何歳まで生きられるかわからないが、孫の顔位は見たいものだ。
俺の子供のうち、妻の連れ子の長男は帝大を卒業した後、フランスの大学へ留学した。再び自分の生まれ育った国へと戻ったのだが、その後の人生をどう生きるのか、考える時間が欲しいそうだ。
つまり、フランスでフランス人として生きるのか、それとも日本で日本人として生きるのか、だな。
どちらを選ぶにせよ、本人の選択を尊重するつもりだ。
東京女子高等師範学校に通う娘は、美人に育ったと思う。娘は、フランス語が出来る事を活かして将来フランス語を教える教師になりたい、と言っている様だ。
そして妻はと言えば、すっかり和服が似合う程度には日本に馴染んでいる。長男が留学の為に渡仏した際には妻が同行した。もう日本には戻らないかもしれないな、と思ったのだが、半年ほどで日本へと戻って来た。
日本に骨を埋める覚悟なのかも知れないな。
新年の正月は、毎年の恒例だが、フランス在住の長男以外は俺の実家で過ごしている。残念ながら祖父母は既に他界しているが、父や母、実家の家族は皆一様に歳を取ったが、今年も元気そうだった。
俺も、そろそろ予備役編入になってもおかしくはない歳になって居る。実際同期でも、既に軍を離れて民間で第二の人生を歩みだした者が出だしているからな。
実は俺にも三菱重工から、予備役編入後は技術顧問として来て欲しい、と言う要請を既に受けている。他にも古巣の東京帝大から、教授の椅子を用意する、とも言われて居るし、軍を去った後も暇になるという事は無さそうだ。
この前永田と会った時にそんな話をしたら、そう簡単に軍を抜けられるとは思うなよ、なんて冗談めかして言われて笑いあったものだ。そんな永田は、この先参謀総長か、はたまた陸軍大臣か、兎に角陸軍の頂点まで行きそうな気がする。そう云えば永田は、政治家にならないかと誘われている、とも言ってたな。
1937年2月、新型戦車の開発は色々と問題が発生しており、順調とは言い難い。
これ迄の戦車は、俺から見て革新的な技術は採用せずに手堅く開発したから、比較的開発は順調だった。しかし今作っている新型戦車は、俺からしても新しい技術を幾つも採用しており、前世の貯金を使い果たした俺が全く新しく作る初めての戦車といえる。
既に実物大の木製模型は出来上がっていて、どの様な外見の戦車になるかを見る事は出来たが、肝心の中身に関して色々と問題が発生している。
例えば、特に大きな問題は、駆動系の心臓部とも言える新型トランスミッション、つまりハイドラマチックと呼ばれる全自動変速機をうまく動作させられていない。
一応、提供された技術サンプルが正常に動いているのを見たからこそ、この全自動変速機の採用を検討したのであるが、このままでは早期の採用は難しいだろう。
実の所この新型トランスミッションは、開発元であるゼネラルモータース社でも未だ開発途上の物らしく、開発担当者も、市場で販売される自動車への搭載はまだ先だ、と話していた。
他にも、鋳造で一先ず作ってみた亀甲型砲塔に、思わぬ難点がある事が発覚した。
粘土で作ってみた実物大の砲塔は、見るからに先進的で避弾経始に優れているように見えた。
しかし試作鋳造した砲塔を台に載せ、実際に砲塔の中に入ってみて分かったのだが、かなり狭い。
何しろロ号改戦車の砲塔より車格は大きいにもかかわらず、確実に狭いのだ。
奥行はある為、戦車砲の搭載に関しては、更に大口径砲に更新しても問題は無さそうだ。
しかし、砲塔に高さが無い。甲羅とは、言ってしまえば楕円の皿を伏せた様な形状をしている為、中央部の高さがそれなりにあったとしても、周囲に向かって急激に低くなる為、容積が無いのだ。
これ程の傾斜であれば、確かに実際の装甲の厚みが100mmであったとしても、正面からまっすぐ水平に見ると、その装甲厚は相当な厚みとなるのは確実だ。
だが、砲塔内に配置する筈のもの、例えば無線機や即応弾など、これ迄のロ号改戦車では砲塔内に配置していた装備の殆どを、車体の方に置くしかない。
結局、初期の砲塔案は一先ず廃案とすることになり、新たにこの亀甲型の砲塔の良い部分を残しつつ、砲塔内の容積を増やして即応弾や無線機用の空間をしっかりと確保し、しかも居住性にも優れたる砲塔案を、新たに部内から出させることになった。
その結果出て来た案は、一つは砲塔自体を大型化するもの。そしてもう一つは逆転の発想で、亀の首の部分、つまり本来高くなっている部分を砲塔の後ろ側とし、そして本来後方にある緩やかな傾斜部分を砲塔の前部にして、そこに砲を据える為の切り込みを作り、砲を配置した。
この二つの案を更に煮詰めると共に、生産性を高める事を考え、形状を洗練させた結果、完全に曲面のみで構成された鋳造砲塔でなくとも、平面で構成されたブロックパーツを幾つか組み合わせる事で、それと同様の効果を発揮させる砲塔形状を作り出す事に成功したのだった。
その結果、優れた避弾経始を持ちながら十分に砲塔内容積を確保し、尚且つ鋳造砲塔よりも耐性に優れ、しかも生産性が高い砲塔が完成した。
しかしながら、砲塔の大きさはこれ迄に類を見ない程の大きさとなり、通常は砲塔リングの大きさが砲塔の大きさであったが、今回はさながら人の首の様に、砲塔リングより更に大型の、車体幅に迫る程の大きさの砲塔を載せるに至ったのだ。
この大きさの砲塔は、防御力と容積に優れるが当然ながら重量があり、かなり冒険をしている様に見えた。だが、いざ実際に粘土で実物大モデルを作ってみると、案外これで良いのではないかと思えて来たのだ。
実際に試作車両を製作して十分に試してみる必要があるが、砲塔内部の容積は、無線機は勿論の事、主砲の75mm砲用の即応弾を十分に配置できる。そして砲塔が後部に張り出した構造になって居る事から、その部分が戦車砲のカウンターウェイトとしても働くので、将来的に90mmクラスの長砲身砲を搭載したとしても、十分に支えて見せるだろう。
この砲塔を装備した戦車を戦場で見たソ連兵は、きっと度肝を抜かれるだろうな。
1938年3月上旬、スウェーデンを訪れていた井上少佐から、アルフ・ライザムという技術者が優れた技術を開発している、との報告を受けた。
彼はリュングストロム社という、蒸気タービンなどの設計をしている会社の技術者らしいのだが、優れたコンプレッサーを開発していて、特に1935年に特許を取得したスクリューコンプレッサーは、ガスタービンエンジンやジェットエンジンなど、様々な用途で使えそうだと書かれてあった。
そればかりか、トルクコンバーターというトランスミッションに使えそうな技術も開発しており、先のスクリューコンプレッサーを利用したエンジン過給機と共に、これらの技術はこの先我が国にとって絶対に必要になるだろう、と書かれてあった。
俺はリュングストロム社に対し、我が国が一連の特許の使用許諾を受けると共に、アルフ・ライザムの招聘が可能かどうかを問い合わせてみた。
井上少佐の話だと、開発している物の価値から考えると、アルフ・ライザムはスウェーデン人という事が影響しているのかどうかはわからないが、どうも知名度が低く、あまり知られて居ないらしい。
ずっとではないにせよ、もし我が国で十年でも良いから彼を囲い込むことが出来れば、我が国の技術開発の進歩に大いに資するのではないか。
1938年の2月下旬から3月に掛けて、ソ連のモスクワでスターリンに批判的な政治家などが様々な罪状で次々と逮捕され、外国人記者も招かれた公開裁判に掛けられたらしい。
死刑を言い渡された者は例によって直ちに公開処刑、つまりは人々の面前で銃殺されたとの事だ。
伝え聞く話によれば、1937年頃、つまりは俺が前世で粛清された頃の話だが、ソ連赤軍の至宝と言われたトゥハチェフスキー元帥ら元帥将官を含む赤軍の上級将校達が多数粛清されたらしい。
しかも未だに赤軍に対する粛清は続いているらしいが、優れた将軍や将校達を育てるのにはカネと時間がかかる。代わりが幾らでも沸いてくるわけでは無いのだ。
スターリンが保身の為に、優れた将校を自ら片っ端から殺してくれるのは、我が軍にとっては大いに助かる事だから、この際赤軍の将校を皆殺しにでもしてくれると良いのだが、普通に考えれば狂気の沙汰だ。
1938年3月頃、イギリス軍から防共協定に基づく情報提供として、上海近郊に駐留していた、ドイツ式の最新訓練を受けた国民党軍の部隊が、中国共産党軍との戦闘の為に延安の東側にある山西省に移動した、という情報が入って来た。
ドイツのヒトラーが約束した新たな軍事顧問団が近々中国に到着するという話であるし、中国共産党もいよいよ年貢の納め時という事だろうか。
イギリスからの情報提供から数日後、そのドイツからの軍事顧問団が到着したと、中華民国からの情報が入って来た。
元ドイツ陸軍総司令官であるヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将が団長で、レープ上級大将、ルントシュテット大将、マンシュタイン少将の計四人の将官を含む百人規模の顧問団らしい。
その情報を知らされた時、現役の将官四人が率いる軍事顧問団という気合の入れ様から、ヒトラーの本気度が伺い知れるなと、そう思っていたのだが…。
陸軍上層部が、駐ドイツ大使館に顧問団に付いて詳しく調べさせたところ、どうもこの四人の将官はヒトラーの不興を買ったりナチに批判的な人物達らしく、確かに優秀な将官達との事だが、これは中国に飛ばされたという事だろうか。
なにしろ団長のフリッチュ上級大将は陸軍総司令官を罷免されたばかりらしいし、レープ上級大将に至っては今回の顧問団としての派遣が無ければ予備役編入だったという。
ルントシュテット大将や、マンシュタイン少将も彼らと近しい人物らしく、まさに飛ばされたという事なのかもしれんな。
だがヒトラーは、中国から優先的に輸入出来る天然資源をかなり重要視しているとも聞く。ソ連が中国共産党を通じて中国全土の共産化と属国化を目指しているのは明白であるから、ヒトラーとしては何としても中国共産党を追い出して、ドイツの権益を堅守したいのであろう。
そんな思惑からか、蔣介石が以前よりドイツに要望していた、ドイツ製戦車の現地生産が遂に始まったらしい。奇しくも中国、そして満州で、列強の戦車が揃い踏みするという状況になりつつあるな…。
ホスバッハの覚書として知られる1937年11月の総統官邸での会議が、中国との防共協定締結による資源輸入の優先権確保で、史実とは異なる展開になりました。
ヒトラーの戦争計画に反対したフリッチュらは翌年に飛ばされますが、史実と異なりフリッチュはそこまでいうなら自ら資源を確保しに行けと中国への軍事顧問団の団長に据えられ、彼に近しい将官たちと共に飛ばされてしまいました。
レープやルントシュテット、マインシュタインらは一足早く中国共産軍相手に間接的にソ連の実力を知ることになります。




