満州防共協定締結
国境紛争が頻発する満州国興安北省でフランス人技師夫妻が拉致されるという事件が発生。
1936年5月上旬頃、満州に滞在中のフランス人技術者夫妻が馬賊に拉致される事件が発生した。
内地でも新聞報道がされたこの事件は、実にややこしい事件であった。
事件が起きたのは興安北省、つまりフルンボイル平原という広大な草原が広がる、現在満蒙国境紛争が起きている地方だ。
ここは歴史的にモンゴル人が放牧地としていた地方で、有名なチンギスハンの故地でもあるところだ。
このフルンボイル平原がある興安北省は、伝統的に畜産業の盛んな土地であるが、漢人の間では砂金が取れる事でも知られた地域であった。
砂金ばかりではなく、詳しく地質調査を行えば色々な鉱物が豊富に採掘できるだろうと見込まれており、実際1904年に中国政府が満州で石炭の鉱脈を発見している。
日本とは異なり大規模な露天掘りが出来る土地柄なので、その採掘量は大いに期待できるだろう、と同地を調査した京都帝大の小川琢治教授のコメントが新聞に載っていた。
今回拉致されたフランス人技術者夫妻というのは、満州に進出した欧州の企業から現地の地質学的調査を依頼されたフランス人の地質学者調査団の調査キャンプに参加していたらしい。
恐らく馬賊であろうと推測される一団にキャンプが襲撃され、無線による通報で満州国の警察が急行したが、馬賊は既に退散した後だった。
警護役としてフランス人の元軍人と満州人の傭兵が数名同行していただけの寡兵であったが、奮戦してなんとか撃退に成功したという訳だ。
但し、撃退には成功したものの少なからぬ死傷者が出ており、そればかりかフランス人技術者夫妻の姿が見えなくなっていたのだ。
負傷して逃げられずに捕虜となった馬賊の男から根城の場所を聞き出すと、夫妻を救出すべく出発した警官隊に警護役のフランス人の元軍人も同行し、根城を急襲してそこで馬賊と交戦となった。
警察隊が根城を制圧した後内部を調査したが、残念ながら夫妻は殺されていた。
戦闘中に殺されたのか、それとも何らかの意図をもって拉致してその後殺害したのかは、馬賊が全員死亡した為、事情聴取は不可能となった。
ところで当初襲撃犯は馬賊であると判断されて居たのだが、事件が複雑になったのは、手掛かりを獲る為に遺体を詳しく調査してからであった。
馬賊だと思われて居た遺体の中に、どうにも馬賊とは思えない遺体が混じっていたのだ。
彼らは見た目に反して装備が良く、揃ってソ連製の銃器を使用し、外蒙赤軍の身分証を持つ者ばかりか、ロシア人兵士とおぼしき遺体もあったのだ。
先に捕虜にした馬賊の男にこの事実を突きつけて更に事情聴取したところ、先頃羽振りの良さそうな男達がやって来て、男の所属する馬賊の一団をある仕事の為に雇ったのだそうだ。
仕事の内容は外国人のキャンプの襲撃で、生きたまま何人か拉致出来れば他は何をしても構わない、という話であった。
以前から馬賊の請け負う仕事の中にはこういう類の物もあった為、特に疑う事も無く仕事を引き受けてキャンプを襲撃したのだが、相手からの反撃が予想以上に激しくて略奪するどころではなく、たまたま自分達の傍に居合わせた白人の男女を有無を言わさず連れ出して行ったのを見た、と捕虜の男は言った。
捕虜になった男は、戦闘で負傷して動けなくなってもそのまま置いて行かれる程度の下っ端だった為、仲間に助けて貰えずに捕虜となった訳だが、下っ端からはこれ以上の情報を獲る事は出来なかった。
満州国は直ちにソ連とモンゴル人民共和国に厳重に抗議を申し入れたのだが、逆にソ連とモンゴル人民共和国は、自国の兵士が満州国側に拉致されて殺害されたと厳重抗議をしてきて、更には遺体を返還しろと要求してきた。
その対応にフランス政府は激怒。直ちにソ連とモンゴル人民共和国に激しい抗議を行い、厳正な調査をする事を要求した。
自国民が殺されたのだから、当然の反応と言えよう。
フランスと云えば、これまで欧州諸国の中ではソ連に対して比較的友好的だったのだが、この事件でフランスの世論は一気に冷え込んだ。それと同時に、そんなリスクのある満州への、これ以上の進出は止めるべきではないか、という慎重論が出始めた。
満州国政府は自国内で起きた事件に対して、フランス政府に謝意を示し、引き続き地質調査をお願いすると同時に一層の警備強化を約束した。
折角欧米資本の投資によって急速に発展しつつある満州の社会基盤と経済に水を差されるのは、迷惑此の上無い、という事だろう。
また、満州国内にソ連の工作員が入り込み、実際に工作活動が行われて居る事を憂慮し、一層危機感を強めたようだ。
後日、この件に対して調査を進めていた満州国政府から発表があった。
ソ連の工作員の遺留品から、今回の工作活動の意図が判明したというのだ。
工作の意図とは、地質学者の調査団を襲撃する事で、この辺りで鉱物資源に関する調査が行われて居る事を興安北省に多く居住する蒙古系住人に知らしめ、それに対して暴動などを起こさせて満州国から離反させる事を意図したものだ、という事だ。
俺も知らなかったが、蒙古人というのは古来より自分たちの暮らす平原を掘るという事は決してしないそうだ。
それは、この地方の平原の表土が他の地方と比べてかなり薄い為に保水力が弱く、砂漠化しやすいという事を彼等が知って居たからなのか、とにかく地面を掘り返す事はタブーだったようだ。
この地方で以前から金を採っている漢民族も、北部山岳地帯を流れる川を浚って砂金を採集しているだけで、穴を掘って金鉱石を採掘している訳では無い。
なんでもこの地方ではじめて地面を掘ったのは、日清戦争でこの地域に入り込んだ日本軍が掘った井戸が初めてだった、という現地の住民の話が新聞に載っていたが、流石にこれは眉唾だろう。
この一件を受けて満州国政府は、この地方での鉱物の採掘は行わない事を決定した。
実は、既にこれ迄の地質調査で露天掘りできるほどの石炭鉱脈が判明しているのだが、実際にこれを露天掘りで採掘などすれば、明らかに蒙古人が恐れる平原の砂漠化が発生しそうだからだ。
流石に国土の砂漠化は満州国としても避けたかったのだろう。
しかし、もしこのソ連の工作が成功していたら、ただでさえ国境紛争が頻発している満蒙国境地帯の維持が、かなり困難になった事が予想される。
何しろ、満蒙国境地帯で国境警備と治安維持の一翼を担っているのは伝統的な蒙古人の騎兵部隊だからだ。
工作により、満州国政府が興安北省の平原を掘り返そうとしているという話が蒙古系住人に広まっていれば、大暴動が起きた可能性が高かったのだ。
それに乗じて外蒙赤軍がなだれ込んできたら、一体どうなった事か。
ソ連もモンゴル人民共和国も、満州国政府の調査発表については完全に黙殺。その一方で、遺体の返還と関係者の処罰、そして再発防止を強く申し入れて来たそうだ。
フランス政府は満州国政府の発表を受けて、満州への進出は引き続き行うものの、既にフランス人街と呼べるほどに発展している居留地も存在する事から、在留仏人保護の為、フランス軍駐留の許可を求めて来た。
建国時の経緯もある為、現在も満州国には関東軍という日本軍が駐留しており、満州鉄道と日本人街があり日本人が多く居住する大連の街がある関東州の他、南満州鉄道附属地という日本国が行政権を行使できる借用領地の様な特殊な土地があるが、これらを警備している。南満州鉄道附属地は、来年の1937年に治外法権と共に満州国に返還される予定である。
欧米諸国もそれぞれが自国の居留民が多く住む街を築いていて、そこの警備の為に小規模な部隊が駐屯しているが、あくまでも小規模で、関東軍とは規模においても能力においても比較にならない。
関東軍も最盛期に比べれば帰国した部隊も多く、それ程大きな規模では無いのだが、それでも歩兵数個師団と独立混成旅団を駐屯させており、その兵数は関係部署迄入れれば相当なものだ。
フランス政府としては、満州は地球の反対側でもある為、財政的負担にもなるし、植民地という訳でも無い為、関東軍程の駐留規模は求めておらず、いざという時にある程度の事態に対応できる規模として一個旅団程度の部隊の駐留許可を求めて来た。
これに合わせてイギリス、オランダ、そしてアメリカも、それぞれが旅団規模の部隊の駐留許可を求めて来た。
そこで満州国政府は、日本と欧米諸国との間で新たに安全保障条約を結び、満州国内での軍用地の提供と引き換えに防諜支援、そして有事の際の防衛体制の構築を行う事になった。
但し、ソ連を刺激しないように露骨な条文とはしなかったが、これは実質的に満州防共協定と呼べるものであった。
満州防共協定の締結です。
この条約は一先ず日英蘭仏米が構成国となって居ますが、増える可能性も無きにしも非ず。




