満蒙国境紛争とドイツ戦車に対する考察
満蒙国境では外蒙赤軍が侵入を繰り返し史実通り小競り合いがたえません。
1936年3月12日、モンゴル人民共和国とソ連の間でソ蒙相互援助議定書が締結された。
1921年に中国から独立したモンゴルは、1924年に共産主義者に乗っ取られてモンゴル人民共和国となった。実質的にソ連の傀儡国家であるモンゴルを、我が国は国家承認していない。
共産党支配下のモンゴルでは、あまりに酷すぎる共産主義者達の政治に対し、1929年から1932年辺りに住民の大半が参加する程の大暴動が発生したが、モンゴル政府はソ連の力も借りて武力で鎮圧し、その後例によって知識階層や政治家、富裕層などの大粛清が行われたと聞く。
その後、1934年にソ連と相互軍事援助協定が結ばれると更に傀儡化が進み、スターリンから踏み絵を迫られるが如く、モンゴル国内の宗教寺院の破壊をモンゴル人民共和国に要求されるが、これを拒否した当時のモンゴル政府のトップは『ソ連によって更迭』の上『ソ連に連行されて処刑』された。
これがソ連の言う所の〝ソ連指導下の独立国〟の実態な訳だが、以来モンゴル政府は完全な傀儡政権となってしまい、今ではソ連の指導で秘密警察まで設置されたと噂されて居るが、多分事実だろう。
そして、更にモンゴルのソ連化を進めるべく締結された今回のソ蒙相互援助議定書により、モンゴルはまだソ連に吸収されていないだけで、実質的にソ連領と同じ扱いとなってしまった。ソ連軍はモンゴル人民共和国政府に許可を得ることなく、モンゴル領内に自由に軍隊を進駐させる事が出来るし、また自由に行動することが出来る。
そして、モンゴル人民共和国の軍隊はソ連軍の指揮下に収まった。
つまり、彼らの軍事行動は全てソ連の、クレムリンの、スターリンの意向という事だ。
恐らくモンゴルは、今後更にソ連化が進むだろうが、その過程でまた多くの血が流れるのだろうな。
ちなみに満州国は、満州国皇帝の下で今や独立国として多くの国から承認を受けている。満州国政府は、我が国を含む欧米列強の役人や知識人、軍人などを政府顧問にしているのだが、それぞれの国の代弁者でもある彼らが相互に牽制監視している形になった結果、絶妙なバランスの下で一応の主権国家として運営されて居る訳だ。
いずれ満州国の若い世代が育って来れば、外国人顧問の人数は減っていくだろうが、今でも漢民族を中心に多少はある排外色が強まれば、満州に莫大な資本を投下している我が国は勿論の事、欧米諸国はそれを許さないだろうな。
排外主義や民族主義を抑える為、〝五族協和〟という清朝後期から使われて居た民族政策のスローガンを、当初関東軍は利用しようとしていた。その民族とは、清朝後期の物が「満蒙回蔵漢」、そして関東軍が提唱していたのが「日満漢朝蒙」だった。
だが満州を独立させて、欧米諸国の参入を認めて国家承認させる事に方向性を定めた時点で、関東軍が提唱した五族協和は露骨すぎてまずかろう、という話が出て、これを提唱する事は早々に取りやめたのだった。
その為、初期には奨励されて居た日本、或いは朝鮮から満州への移民は、産業振興による内地や朝鮮での景気の良化や人手不足により、国家政策として行われなくなった。そして初期に移住した人も、内地で仕事を探した方が良い収入で働けるとあって、出戻った人が多く出た。
現時点での満州国の人口は、その殆どが所謂中国人で、満州国は中国人の国、という認識になって居る。
但しこの場合の中国人とは漢民族、満州族、蒙古族、朝鮮族である。
割合は八割近くが漢民族で、かつての支配階層である満州族がその次、そして蒙古族と朝鮮族が同じくらいの割合だがそれぞれ全体から見れば二パーセント程の割合でしかなく、満州国建国以前から元々この地方に住んでいた人たちだ。
現在治安面や諸々の理由から、漢民族が長城を越えて満州国へ流入する事は、満州国と中華民国双方の合意により、難民を含め、制限されて居ている様だ。
そのモンゴル人共和国赤軍(外蒙赤軍)と満州国軍の間には、最近主に外蒙赤軍の侵入による小競り合いが度々起きていて、去年の二月にも満蒙国境付近にあるボイル湖の傍に位置する哈爾哈廟を外蒙赤軍が占拠するという事件が起きている。
そして去年の暮れごろである12月19日、ボイル湖西方の満蒙国境付近を警備中の満州国軍が、外蒙赤軍からの攻撃を受けた。その時は敵兵を捕虜に取るなどの戦果を挙げて撃退に成功したのであるが、その五日後に外蒙赤軍は、更にトラック60台からなる増援部隊を派遣して攻勢を掛けて来た。
この攻勢も、満州国軍の勇戦の末、三名が戦死する損害を受けながらも敵軍を撃退し、国境を護ることが出来た。
しかし今年の1月7日に、外蒙赤軍は軽爆撃機(ソ連製Su-2)を飛ばして偵察するとともに、騎兵などの小部隊を幾つも越境させて地雷敷設などを行い、満州国軍のへの挑発行為を繰り返した。つまり陣地戦では無く、外蒙赤軍の得意とする野戦に持ち込もうと考えた様だが、満州国軍は挑発に乗らなかった。
1936年1月22日、満州国軍の国境警備部隊がトラックで行動中、外蒙赤軍と交戦。外蒙赤軍は兵力百名以上に装甲車迄繰り出すと云う、これまでにない兵力での攻勢だった。
事態を重く見た満州国軍は、関東軍に援軍を要請。関東軍は直ちに要請に応じ、杉本泰男中佐を司令官とする杉本支隊を出動させた。
杉本支隊は、機械化された騎兵第十四連隊を基幹とした全軍が乗車編成で、重装甲車や新型軽装甲車を伴った部隊であった。杉本支隊がオラホドガに到着すると、外蒙赤軍と約二時間の激戦の末、騎兵140名、自動車三両、騎兵砲まで有する外蒙赤軍を撃退した。
しかし杉本支隊も、軽装甲車が一両炎上、戦死者を8名、負傷者多数を出す損害を被った。
任務を終え帰還しようとする杉本支隊に対し、外蒙赤軍は装甲車部隊を送り込んで杉本支隊を追撃したばかりか、航空機による爆撃も行ったそうだ。
その後も戦闘は2月15日まで続き、満州国軍と関東軍は増援もあって何とか外蒙赤軍の撃退に成功したが、これが初の本格的な装甲車同士による戦闘となり、関東軍は敵を撃退するという大戦果を挙げたばかりか、外蒙赤軍のソ連製装甲車を鹵獲するという戦果も挙げた。
しかし今回の戦闘では、我が国の軽装甲車、そしてそれよりは装甲の厚い筈の重装甲車であっても、その装甲は敵装甲車の主砲はおろか機銃弾すら防ぐ事が出来ず、少なからぬ損害を出した。
この事は問題視され、鹵獲した装甲車は直ちに内地へと持ち帰られ、調査の為に技本に持ち込まれた。
そして、それが今俺の目の前にある訳だが、この車両は実は前世で見た事がある。
確か型式はBA-3、1934年辺りに量産が始まった装輪装甲車で、BT戦車にも搭載されて居た強力な46口径45mm戦車砲が搭載されて居る。
この車両は見た事があるが、性能は概要程度しか知らない為、部員を動員して早速調査を始めた。
この鹵獲車両は幸いにも状態がよく、ほぼ無傷で鹵獲されている所を見ると、恐らく戦闘以外の何らかの理由で放棄された物ではないだろうか。お蔭で隅々まで詳しく調べることが出来た。
その結果分かった事は、大体が併せて届いた戦闘詳報を反映したものと言える。
というのも調べた結果、この装甲車はGAZ-AAという4ストローク直列4気筒液冷ガソリンエンジンを搭載しており、整備して走らせたところ、路上なら時速60Km以上の速度を発揮した。
この装甲車の速度に苦しめられた、と詳報にあったのも納得で、路外性能もなかなかのものだ。
但し、装甲厚は一番ぶ厚い砲塔前部の防盾でも9mmしかない。
この装甲の薄さは致命的を通り越しており、我が軍の重装甲車の13mm機銃は勿論の事、FN30機銃の7.65mmモーゼル弾やチェッコ機銃の弾丸でも貫通する有様で、詳報でも容易に撃破できたとあったが、この装甲の薄さのせいであろう。
半面、攻撃力に於いては我が軍の装甲車を遥かに凌駕しており、特にこの46口径45mm戦車砲は、ハ号戦車どころかイ号戦車の前面装甲をも貫通する威力を発揮した。
前世の記憶でも、この戦車砲はソ連でかなり広く使われており、ソ連の戦車部隊と戦闘になるとまず間違いなくこれが主砲に付いていると思った方が良い。
この事は、俺の前世の記憶にあったが、技本でも情報で既にわかっていた事であり、実際の威力を実物で試す事こそやっていなかったが、大体の威力は把握していた。
ただし、やはり実物が無ければ、皆が実感として理解する事は難しい。俺が、この砲がどれ程の威力があると言ったところで、それは実感を伴った物ではない。
何しろ以前俺がイ号戦車、ロ号戦車を開発した時に我が国に存在した対戦車砲は、サンプルとして購入した37mm対戦車砲だけであり、欧米諸国で導入が進んでいるこの対戦車砲に対抗できるかどうかが、全ての基本だったからだ。
当然ながら、たかが装甲車に我が軍の虎の子の戦車が容易に撃破される事が判明すると、これ迄は実感が伴っていなかった軍上層部も、危機感を抱きだす。
何しろ軽戦車であるハ号戦車は兎も角、イ号戦車とロ号戦車は、既に戦力化してから年数が経っているとはいえ、我が軍の決戦兵器と位置付けられて性能の更新を重ねている兵器である。簡単に撃破されてしまっては計算が狂うのだ。
またハ号戦車にしても、今や多数が配備されて我が国の軍馬の如き存在になって居る事を考えれば、これもまた簡単に撃破されてしまう事は避けなければならない。
そこで俺が当初から予定していた通り、既に配備しているイ号戦車とハ号戦車に関しては、10mm~25mmの増加装甲を取り付ける事で対応する。機動力は多少下がるが、元々の機動力が十分に高い為、それでもT-26などに比べれば、まだ全く優位の筈だ。
ロ号戦車に関しては30mmの増加装甲を用意した。
この改装によってイ号戦車とハ号戦車に関しては、45mm砲では100mの距離でも前面装甲は抜けなかった。
改装ロ号戦車では、零距離射撃であっても45mm砲では貫通しない事が試験で証明されたのだった。
丁度我々がソ連製の装甲車を調査していた頃、駐独駐在武官から、先頃〝ドイツが誇る新型戦車〟としてNbFzという多砲塔戦車がドイツに駐在する各国の武官などに公開展示された件についての報告書が届いた。
勿論これは、ドイツで政権掌握したナチスが去年ベルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言した事で、諸外国にドイツの復活とその軍事力を誇示する意味があるのだろう。
展示の際に配布された資料によると、車体の大きさは全長6.6m、全幅2.9m、全高2.9m、車重24頓という大型の多砲塔戦車で、大型の主砲塔に7.5cm短砲身砲、3.7cm戦車砲、8mm機銃一丁を搭載し、更に8mm機銃一丁搭載の砲塔を車体の前後に二つ持つらしい。
搭乗員は六名、装甲に関しては資料に掲載されて居なかったが、大きさと装備されて居る武装から考えると、それ程厚い装甲ではない可能性がある。
ただ、添付された写真を見れば、如何にも厳めしくて強そうに見えるのは間違いない。
俺は実の所、多砲塔戦車という物には懐疑的で、ごてごてした戦車は生産性が低く、更には防御力が高いとはとても思えない。
しかも余計な装備を多数装備しているせいで、その分だけでも重量がかさみ、とても機動力に優れた戦車だとは思えない。
つまり、この多砲塔戦車はプロパガンダ用の張子の虎であるから写真の撮影まで許可する寛容さで他国の武官に公開展示した可能性が高い、という事だ。
そう考えれば、ドイツにはもっとちゃんとした本命の戦車がある筈だ。なにしろ先の欧州大戦でシュリーフェンプランの様な、大規模な大包囲作戦を考えて実行に移すような国だ。
あの作戦は、歩兵部隊の進軍速度が必要とされる速度に達していなかったから上手くいかなかったが、もしドイツ軍が機械化されて居れば、まるで違った展開となっていた可能性が高い。
もし彼らが再びシュリーフェンプランの様な事を考えるとしたら、必ず然るべき機動力を持つ戦車を採用する筈であり、こんな如何にも鈍足で、歩兵支援か防御戦闘にしか使えなさそうな多砲塔戦車を本気で採用するとは、とても思えないのだ。
そこで、このNbFz戦車から想定されるドイツの本命戦車の性能を考えてみる。先ず、車体の大きさは全長は5.8m~6m、全幅は2.8~2.9m、全高は2.5~2.7m、車重は25頓程度。乗員は4~5名で大型砲塔を持ち、主砲は7.5cmの長砲身で、車載機銃として恐らく8mm機銃が2~3丁搭載される。エンジン出力は400馬力以上で、最高速度は45km/h以上。装甲厚は前面装甲が50~60mm、側面が30mm、背面が25mm。勿論、無線を標準搭載している。
ドイツであれば最初から戦車による対戦車戦闘を想定していてしかるべきであり、この位の性能の戦車を開発していてもおかしくはない。
但し、現在中華民国軍がドイツから購入している戦車は、明らかに装甲車に毛の生えたレベルでしかなく、訓練車両か軽戦車程度の代物であり、アレが本命の戦車とはとても思えないのだ。
今の所地球の反対側の国ドイツは、我が国の仮想敵国では無いし、ドイツと直接戦闘する可能性も殆どないと思われるが、ドイツが強力な戦車を開発すれば、当然ドイツを仮想敵国としているソ連はより強力な戦車を開発するはずだ。
俺はBT戦車をハリコフで開発していたが、回って来た資料には、レニングラードで30頓近い重戦車を開発している、と記載してあったし、BTの次に開発するだろう戦車は、既にBT戦車にも76.2mm砲搭載モデルがあった事もあり、76.2mm砲クラスの戦車砲の搭載が予想されて居た。
それもあって、ロ号戦車には最初から75mm砲を搭載したのだ。
だが、私一人が居ないところで、ソ連には優秀な戦車開発者が大勢いる。
やはり、ロ号戦車と同等以上の戦車が早期に出てくるという事態は想定しておくべきだ。
そう考えた俺は、早速意見書を書き上げると上層部に提出した。
満州軍は史実とは違って満州国の正規軍で日仏英米の軍事顧問が指導しています。
装備する兵器もさながら中華民国軍の様にいろんな国の兵器が装備されて居ます。
史実と違うのは関東軍の過度な干渉が無い為、それなりに士気が高く国を守るという意思があります。
そして、主人公の見立てのドイツの本命戦車は明らかに過大評価しています。
実の所主人公の前世の貯金もあと僅か、自分のロ号がこの位の性能なのだから、この位の性能はある筈だと考えているわけです。
主人公の戦車に関する陸軍上層部への影響力はかなり大きいですから、主人公の報告書を読んだ上層部はあわてる事請け合いです。