それぞれの道
二・二六事件の前日単です。
1936年2月11日 都内某所 陸軍大尉 野中四郎
「今や永田一派の専横は極まり、奴に阿る役人どもはこの国を外国に売り渡す勢いで外国企業を招き入れているではないか。
国民は騙されているっ!
何が暮らし向きが上向いただっ。身売りしなくて良くなっただっ。
お前たちは国を売って居ると何故わからん!」
「「そうだ!!」」
磯部元一等主計が、同志たちを前に激を飛ばす。
昭和維新を志す青年将校達が、こうして会する様になってもう二年か。
相沢中佐殿が無念の死を遂げて以降、さらに我らに対する締め付けは厳しくなり、幾人もの同志が軍を追われた。
元々我々は、困窮する地方農村部の悲哀を何とかしたくて昭和維新に共鳴し、天皇御親政の下、肥え太る財閥や腐敗した役人どもを粛清し、明日をも知れぬ貧困に喘ぐ庶民を何とかしたいという、ただその一心で行動に加わったのだが。
ウクライナ飢餓が我が国で報じられて、理想の様に語られていたソ連の計画経済の実態が知れ渡ると、左派革新系に対する国民の期待は一気に萎んだ。そればかりか共産主義者による国家転覆、国体破壊の企ても発覚し、大勢が逮捕される事態にまで発展した。
極めつけは、我が国に共産主義の総本山たるソ連が既に深く広く浸透しており、現実に巨大なスパイ網が作られつつあったことが明らかになった事だろう。
あの事件では、死刑に処せられた者が幾人も出る程だった。
左派による共産革命運動は完全に崩壊し、右派も厳しい締め付けで壊滅状態の今、最終的に残っているのは昭和維新を成し遂げんと集った我々だけとなった。
しかも、今も尚我々に対する弾圧は続いており、とうとう私が所属する第一師団も満州へ行くことになった。
満州に行ってはもう昭和維新に関わる事は無理だろう。
「相沢中佐殿の無念は晴らさねばならない!
昭和維新蹶起の大望は、断固成し遂げなければならないっ!」
「然りっ!
この機を逃しては悔いを千載に残す!
諸君、共に立とう!」
磯部元一等主計の激に、栗原中尉が応えた。
「待ってください!」
その時、新井中尉が栗原中尉を制止し、異論を唱えた。
「維新の大望はわかります。
しかし、今はまだ時期尚早です!
第一に、今や庶民の暮らし向きは確実に上向いていて、国内は好景気を迎えつつあります。
かつて我らが昭和維新を掲げた時とは状況が随分と変わって来ています。
そんな状況では、もはや世論は我々を支持するかどうか、わからない。
支持されるかどうかも分らぬまま蹶起しても、上手くいくはずがない!
第二に、兵士達を動かす事は断じて反対です。
もしやるにしても将校だけでやるべきです!
第三に、今の計画では殺害する対象が余りにも多すぎる。
こんなに人を殺しては、陸軍は国民の信用を失ってしまう!」
磯部元一等主計が新井中尉を睨みつけると、一喝してテーブルをバンと叩いた。
「屁理屈を言うな!
要はヤルかヤラヌかだ!」
「そのとおりっ!
ヤラぬやつは黙って出ていくほかないだろう!」
栗原中尉も新井中尉を一喝した。
「わかりました…」
新井中尉が席を立つと、これ迄静かにやり取りを聞いていた彼の上官である安藤大尉も立ち上がった。
「新井、帰ろうか」
「はいっ」
彼の部下達も、一斉に席を立った。
「逃げるか、安藤!」
水を差されて激高した磯部元一等主計が、安藤大尉に罵声を浴びせた。
「ははは、そんなにいじめてくれるな」
そんな磯部元一等主計に、安藤大尉は微笑みながら静かに答えると、この場から去って行った。
「大丈夫か?彼らを帰して」
磯部元一等主計の隣に座っていた村中元大尉が、心配そうに彼らが去って行った扉をみる。
「心配はない。
安藤が仲間を売る様な事を許すわけがない」
磯部元一等主計が、皆に安心する様にと声を掛けた。
村中元大尉が心配するのも仕方が無いだろう。磯部元一等主計と彼はクーデターを画策して軍を追われた身だ。
新井中尉を一喝した事を後悔したのか、栗原中尉が力なく話す。
「しまったなあ…。
安藤さんが起つ起たないで、計画は大幅に違ってくる」
「よし、安藤はこの磯部が口説いてくる!
心中立てでもな」
「武士に二言はありませんね!」
「おう、任せとけ!」
磯部らは、何故新井中尉のいう事がわからないのか。
国民からの徴兵によって成り立っている我が陸軍にとって、国民からの信用が如何に大事か、何故理解できない。
実は我々の同志で、急に技本に転属になった山口大尉から電話があった。
驚くべきことに、山口大尉の転属先の上官は、相沢中佐殿を射殺したあの村上少将だというのだ。
山口は電話口で、もう昭和維新は忘れる、と言っていた。
それで、私も落ち着いてじっくりと考えてみたのだ。果たして昭和維新は必要なのだろうか、と。
天皇機関説に付いては天皇陛下がこれを是とする勅語を下されたし、斎藤内閣は国民からの支持が高い。
今、事を急いても、世論は味方しないだろう。
今日で磯部らの視野の狭さには、ほとほと愛想が尽きた。
「悪いが、私も失礼する」
私が席を立つと、一緒に来ていた部下達も一斉に席を立つ。
「野中っ、貴様もかっ!」
「悪い事は言わない。今はやめておいた方が良い」
「貴様、相沢中佐殿の無念を晴らしたいとは思わないのか!」
相沢中佐殿の志は立派だと思う。
だが、本当に永田少将は悪の首魁なのか。
怪文書が色々と世に出回っているが、これの出元が磯部らであることを、私は知って居る。
いずれにせよ、部下達や兵士達をこんな事に巻き込むわけにはいかん。
「心配するな。貴様等がヤロウがヤルまいが、同志を売るような真似はせん」
そう言い残すと、部下達と密会の場を後にした。
1936年2月11日 都内某所 陸軍中尉 田中勝
実は俺は、同僚に誘われて村上少将閣下の主催する勉強会に参加していた。
村上少将閣下は、我々砲兵の間では良く知られた人だ。
日露戦争に出征し、長く欧州勤務になってその間に欧州の先進的な技術や新兵器、新戦術を数多く学び、帰国して技本に配属となってからは、世界に誇れる我が国の戦車の開発を主導した、正に日本戦車の父の様な方だ。
ところで勉強会は、最初は政治色も無く、純粋に先進戦術を学ぶ場だった。
それが、時流に染まったというべきか、段々と政治色を帯びるようになった。
村上少将閣下は、共産主義とソ連を憎悪する人だった。
最初はなぜそこ迄憎悪するのかはわからなかったが、例のウクライナ飢餓報道を読んで、その理由の一端を知る事が出来た。俺も、ソ連と共産主義にこの国が侵される事だけは断固避けねばならぬ、と気持ちを新たにしたものだ。
だが同時にあの方は、磯部元一等主計が〝悪の首魁〟と言う永田少将と士官学校同期の友でもあった。
村上少将閣下が永田少将の思想に染められていったのかどうかはわからないが、段々と政治的な発言をする様になっていった。
最初は共産主義と共産主義者に対してだけであったが、我々尊王を志す革新将校に対しても嫌悪を隠さないようになった。とにかくあの方は、軍と軍人が反乱を起こす事については断固許さぬ、という考え方なのだ。
俺は、磯部元一等主計の考え方に共鳴して彼らの同志になったのだが、尊敬する村上少将閣下の考え方も段々と理解できるようになっていた。
ただ、かといって磯部元一等主計ら昭和維新の同志を裏切る事も出来ない。
その村上少将閣下が相沢中佐殿を、よりにもよって勉強会の場で射殺するとは思わなかった。
その日俺は、予定が合わなくて勉強会には参加しておらず、その場には居合わせなかったが、参加していた同僚に後からその場で何があったのかを聞いた。
村上少将閣下が相沢中佐殿を射殺せねば、永田少将もそして村上少将閣下も斬られていたかもしれぬ。
致し方ない事なのだ。
相沢中佐殿の至誠の心には心打たれるが、本当に今それをする必要はあったのだろうか。
そして今日、昭和維新の同志から呼び出しがあり、密会によく使って居るこの喫茶店にやって来た。
いつもの様に磯部元一等主計が同志に激を飛ばし、栗原中尉が合の手を入れる。
その話を聞いていると、野中大尉殿の所属する第一師団が満州に移動する事が決まったので、今事を起こさなければ次はいつ起こせるのか先が見えない為、昭和維新を今起こすしかない、という内容だった。
俺は去年の暮に結婚したばかりなのに、まさか今事を起こさねばならぬとは…。
国の為に殉じる覚悟は出来て居る。だが、本当に今蹶起すべきなのだろうか?
そう思ったのは俺だけでは無かったようだ。
第一師団でも人望を集める安藤大尉殿が、そして野中大尉殿が、今は蹶起すべきでない、と言い残して部下を連れて去ってしまった。
俺は余りに急な出来事に、呆然として彼らを見送ってしまった。
何故俺も彼らと共に退出しなかったのか…。
彼らが去った後の栗原中尉は、野中大尉殿迄さってしまって不安げだったが、今回是が非でも蹶起する事を決意している磯部元一等主計が作戦の話を始めた。
栗原中尉も加わって滔々と作戦に付いて説明するが、俺の耳には作戦内容がサッパリ入ってこなかった。
俺の名前を呼ばれて我に返ると、俺の役回りは第七連隊の部下を率いて自動車で彼ら蹶起部隊を運ぶ役目だった。
下士官たちとは気心も知れている。俺が命令すれば、恐らく従ってくれるだろう。
が…。
その後、蹶起の日は二月二十六日に決まった、と連絡があった。
だが俺は、悩み過ぎたのかとうとう体調を崩してしまい、蹶起当日には起き上がる事すら出来なかった。
史実よりは状況が変わったせいで随分と蹶起に参加する人数が減りました。




