山口一太郎
二・二六事件の重要人物の一人である技術者山口一太郎の話です。
1936年1月8日 技術本部 陸軍大尉 山口一太郎
自分は本来ならば、今日代々木練兵場で行われる観兵式に参加する筈だったが、急な転属命令で技本に転属となった。
元々、本年中に技本に転属になるという話はあったのだが、通例であれば来年度、つまり三月に少佐に昇進し、四月から技本に転属という運びになる筈だ。
なのに慣例から外れた形で、しかも急な転属命令というのはどういう事だろうか。
自分の転属先である技術本部第四部は、確か戦車や装甲車など軍で使用する車両を一手に開発する部署だと聞いた事がある。
そんな事をつらつら考えながら第四部の建物に入り、入り口の門衛に出頭した旨と辞令を見せると、第四部部長の副官だという大尉が迎えに来てくれた。
そして、部長の執務室に案内されると、出頭の申告を行った。
「陸軍大尉山口一太郎、出頭いたしました」
「よく来たな」
書類に目を通していた部長が、顔を上げてこちらを見た。
去年新聞に写真が載っていた、相沢中佐殿を射殺した村上少将その人だった。
相沢中佐殿が無念の死を遂げた元凶が、今自分の目の前にいるという現実に、思わず提げた鞄を握る手に力が入った。
村上少将はただの技術者じゃない。かつて日露戦争に出征し、そして先の欧州大戦にも観戦武官として実際の戦場を見てきた人だ。
柔和に見えて、襲撃者を自ら撃退する程の胆力がある。
悪の首魁たる永田と親しく付き合っている、我らが天誅を下すべき人物の一人だが、同時に我が国に配備が進む数々の素晴らしい戦車の開発を主導した人物とも聞く。もし誅殺すれば、我が国の軍備近代化に悪影響を及ぼすのは必至か…。
村上少将は執務机から立ち上がると、こちらへ歩きながら応接セットに座る様に促した。
その前に鞄から辞令を取り出すと、自分の前にやって来た少将に手渡した。
少将は辞令を一瞥すると頷き、そして返して来た。
「急に呼び立てて悪かったな。まあ座れ」
辞令を鞄に戻すと、勧められるがままにソファに腰を下ろした。
改めて少将と向かい合うと、一つ質問を宜しいでしょうか、と問い掛けた。
「自分を急な辞令で呼び寄せたのは何故でありますか」
「貴様の上司に頼まれたのだ。
大尉が我が国にとって無くてはならぬ人材であるから、面倒を見てほしい、と」
「連隊長殿が、でありますか?」
「いや、柳川中将閣下だ。
中将閣下は貴様の事を大変買っておられた。
元々貴様は、今年中に昇進した上で技本に来る筈だった、というのも聞いている」
「中将閣下が…。そこまで自分は、中将閣下に買って頂いていたのでありますか。
ですが、中将閣下が台湾に行かれたのは去年末の筈、何故自分は急に呼ばれたのでありますか」
少将は自分を見据えると、溜息をつき、腕を組まれた。そして振り返って、
「すまん、お茶を頼めるか」
「はっ」
執務室に詰めていた副官が、お茶を入れに外へと出て行った。
「貴様、身に覚えが無いのか?」
少将の言葉に、背筋にぞわりとした不快感が走った。
「身に覚え、と言いますと…」
「貴様の事は調べてある。
革新将校と頻繁に会っておるだろう」
その言葉と共に少将から殺気が発せられ、ゾクリと肝が冷え身体が委縮してしまう。
「まあ良い。それについてはこれ以上問わぬ。
昭和維新の如き、馬鹿な妄想は忘れてしまえ」
ああ、やはりこの人は永田の仲間なのか…。
「貴様らは、そもそも永田の事を勘違いしているぞ。
勘違いで殺されては永田も堪らぬ」
「勘違い、とはなんでありますか…」
「永田が願うはただ護国のみ。そこに私心は無い。
貴様は違うのか」
「自分も…、自分も同じであります」
「我が国はソ連と共産主義の脅威に晒されておる。
満州国建国も、ただ我が国を護らんがため。
貴様も、我が国がどれ程ソ連に侵食されておったか知って居るだろう」
確かに、多くの役人や軍人、そしてブンヤがアカだと逮捕され排除された。
実際にソ連のスパイが、各方面に深く入り込んでスパイ網を築いており、かなり危うい所だったと聞いた。
「小官が戦車の開発を主導し、機甲戦術を啓蒙し、軍の近代化を推し進めておるのも、来たるソ連との戦いの為。
ソ連に敗れれば、我が国はアカ共の跋扈する国になり、国体は破壊され蒙昧の輩が国を牛耳ってウクライナが如き地獄となるであろう。貴様もガレス記者の記事は読んだ筈だ。我が国民をあんな目に遭わせたいのか?
それだけは断固阻止せねばならん。
我が国が中国本土から引き上げ、中華民国との間に防共協定を結んだのも、満州に欧米資本を呼び寄せて満州を国家承認させたるも、全てはソ連との戦いの為。
貴様らは不満の様だが、欧米と協調する事で、満州のみならず我が国にも彼らの巨額の資本を呼び込むことが出来た。南方資源など必要物資の輸入に関しても問題が無くなった。
結果、我が国の景気は確実に上向いておるだろう。
娘を身売りする程困窮していた東北地方は、欧米企業が多数進出する事でインフラが整備され、彼らの工場が多くの働き口を生みだした結果、東北の人々の暮らし向きは大いに上向いた。今や他の地方から東北へと移り住むほどだ。
貴様らがやろうとしている昭和維新とやらは、これら折角上向いて来た我が国の庶民の暮らし向きを、再び奈落の底へと突き落とすが如き所業だ。
そもそも、天皇陛下の大御心に何故貴様らは沿わぬ。今上陛下は、先の陛下も認めた天皇機関説は我が国の国体に即す、と勅語を下された筈だ。
勝手に陛下の大御心を忖度し、陛下の意に沿わぬ事を為して、宸襟を乱して何が尊王かっ」
少将の話を聞くにつれて、俺はなんと無駄な事を考えて無駄な事に力を割いていたのか、との虚無感に満たされていった。
確かに、革新将校らと共に夢を語るのは心地よかった、だが、言われてみればそれは確かに我らの狭い視野の思い込みであって、それが本当に陛下の意に沿う事なのかと問われれば…。
我らが昭和維新を目指し始めた頃に比べれば、確かに現在は格段に暮らし向きが良くなったと聞く。
まずは東北地方からではあるが、我が国に欧州企業が多く進出して工場を建てた結果、それらの工場と取引を行っている国内企業も大いに潤っている。もはや娘の身売り話は過去のものだ。
それに、以前は財閥系企業ばかりが強かったが、国内に欧米の大資本の企業が進出したお陰で、財閥系企業に拘らずとも良い賃金の職に就けるようになった。
だが、ここで我々が昭和維新を断行すれば、折角我が国が掴みかけた繁栄を、全て失ってしまうかも知れぬ。
そう考えると、身体はすっかり脱力してしまい、無意識に項垂れてしまった。
「わかったら、自分がなせる事をやれ。
貴様は技術者であろう。
そして貴様のこれまでの実績を見せて貰ったが、確かに中将閣下が見込むだけの事はある。
だから余計なことを考えなくていい様に、これから死ぬほど扱き使ってやるから覚悟しろ」
自分を可愛がってくれた中将閣下のお顔が目に浮かぶ。
国に無くてはならぬ人材だ、などとそこ迄自分が期待されているのに、それに答えぬは不義理という物。
ならば自分は少将閣下の仰る通り、やれる事をやるとしよう。
「少将閣下。自分は至らぬ人間でありますが、懸命に働きますので宜しくご指導ください」
少将閣下はニコリとほほ笑むと、大きく頷いた。
「良く言った。
貴様のやる仕事は山の様にある。
今日は疲れたろうから、明日から頼んだぞ」
「はっ」
昭和維新の同志達には悪いが、もう忘れてしまおう。
確かにこの一年で同志は随分減っていた。
自分も抜ける事で彼らの行動を思いとどまらせることが出来るなら、それも又良し。
期待してくれた人たちに応えるためにも、明日から頑張らねば。
山口一太郎は主人公に引っ張られて諭され昭和維新から離脱です。