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ガレス来日

ウクライナ飢餓を取材したガレスが史実通り日本を訪れます。





1935年1月、今年もまた年に一度だけになってしまいそうだが、実家に帰省。


今の職場は静岡県で、実家も職場の近くにある為行けない事も無いのだが、仕事にかまけていると、気が付いたら一年が経ってしまっているのだ。


俺以外の家族は年に何度か実家に遊びに行っている様だ。それに何より妻が、幸いにも日本の暮らしに馴染んでくれているようでホッとしている。その内、またフランスにも連れて帰ってあげたいが、中々に今は難しい。


何しろフランスに渡航するとなると、片道二ヶ月弱の船旅となる。それだけの期間、俺が職場を空けるわけにもいかないからな。となると、もしフランスに帰省するとなれば、妻と子供たちだけ、という事になるのだろうか。


実は長男がそろそろ成人で、今東京帝大に通っているのだが、幾ら日本で育って日本語を流暢に話せても、やはり両親の血がフランス人である事には変わりなく、どうしても外国人という目で見られる事を気にしている様で、将来フランスに戻るのか、それともこのまま日本に居るのかを悩んでいるそうだ。


俺としては、妻が寂しがるだろうから日本に居てほしいが、こればっかりは本人が決めるしかあるまい。


もう一人の子供である娘は、ハーフだが髪の色は日本人とあまり変わらぬ髪色で、顔立ちも目がぱっちりとしてやや西欧人風の風貌だが、生粋の日本人にもこんな顔立ちは居そうだからか、外国人として見られることはあまりなく、色白で美人だと評判らしい。


そんな娘も早い物で今年で15歳になる。




1935年1月下旬、例のウクライナ飢餓の記事を書いたイギリスのガレス・ジョーンズ記者が我が国を訪れた。


我が国の新聞に彼の書いた手記が大々的に掲載されて話題になったからやって来た、という訳では無く、元々、東アジア地域の取材旅行をするつもりで、その経由地として偶々我が国に立ち寄ったというだけで、去年はアメリカに寄っていたそうだ。


去年はアメリカに到着した時に、丁度民主党のルーズベルトが大統領選で大勝した所に出くわし、それを取材してロンドンへ記事を送り、その後ソ連での経験についてアメリカ各地で講演したり、アメリカで影響力のある人々に会ってソ連での件についてインタビューしたり、ラジオに出演したりもしたそうだ。


そして精力的に取材を続けながら、アメリカでも凍り付いたミズーリ川や、カンザス州の悲惨なトウモロコシ畑を自らの目で見て、世界規模の凶作を実感してこれを記事にしたりしたそうだ。


彼がアメリカの様々な地域で得た知見は貴重な物で、またその道中で講演を頼まれる事もあれば、取材した情報を元にルーズベルトの外交政策に関してガーディアン紙の為に記事を書いたりもした。


アメリカ滞在は彼にとって、とても素晴らしい経験だったらしい。


これらの話は、我が国の新聞社が後で彼にインタビューして、アメリカ滞在中のガレス氏の経験談として新聞紙上に掲載されたものだ。



ガレス記者は、それはもう我が国では勇気ある新聞記者として大変な知名度だったのだ。


そんな彼が乗った船が到着した横浜埠頭の、船のタラップの前にはガレスを出迎える役人と彼の話を一言でも聞きたいと記者たちが集まっていて、そこから彼を一目見たいと集まって来た大勢の人々が、歓迎の為に日英の手旗を持って沿道にズラリと並び、更にはそれらの人々を警備する為に大量の警察官が動員されていて、このお祭り騒ぎは翌日の各新聞の一面を飾った。


そればかりか、彼に関心を持っていた天皇陛下が会ってみたいと希望されていて、横浜に上陸後すぐに黒塗りの車に案内されたガレスは、そのまま帝国ホテルへと送り届けられた。


彼はまさか日本でこんな大歓迎を受けるとは想像もしていなかったようで、上陸直後に群衆に手を振る彼の写真が新聞に掲載されていたが、その笑顔は引き攣っているように見えた。



そしてその夜、ガレスは天皇陛下主催の晩餐会に招待され、元々イギリスとイギリス人に好意を持っていた天皇陛下と色々な話をしたそうだ。話の内容までは流石に伝わってはこないが、恐らくソ連の話もしたのだろう。


それに彼は、先の欧州大戦時にイギリスの首相を務めたロイド・ジョージの外交顧問を務めた事もある、イギリスの政治外交事情に精通した人物であり、更には最近日本でもたまに話題に上るドイツの総統ヒトラーを直接取材した事がある人物でもある。


ヒトラーと直接会って取材した記者など、日本には居ないのではないだろうか。

我が国は今や中国本土からは撤退したが、そのヒトラー率いるドイツは中国に深く入り込んでいるし、満州への進出も著しい。


そして我が軍部内にも、以前ほどでは無いにせよ、未だドイツに親近感を抱く者がおり、無関係ではない。


ガレスは天皇陛下のはからいもあり、我が国の首相や元首相、或いは大臣や大臣経験者、更には軍人など多くの人物にインタビューすることが出来た。

その際に皆はガレスから、ソ連と満州についてどう考えているかを聞かれたそうだ。


その返答としては、我が国は隣国であるソ連に対して大変な脅威と危機感を抱いていて、満州が政情安定し、しっかり守られていなければ、我が国は国防上窮地に陥る。


そうならない為にも、もし満州がソ連に攻められれば我が国は全力でこれを護る、という事を我が国の共通認識として彼に話した政治家や軍人は多かった様だ。


彼は、その我が国の認識について理解して好意的な見解を示し、その事を幾つかの記事にしてロンドンに送った。これらの記事がイギリスの新聞に何度か掲載されると、イギリスや欧州の人々に、我が国にとっての満州に対する考え方、国防上の意味合いなどが広く周知されることになり、また同時に欧米諸国から多数の企業が満州に進出している事もあって、我が国の立場という物が以前に比べて格段に理解を得られるようになっていったのだった。


ガレスは当初の滞在スケジュールを延長して幾つもの県や大学などで公演をこなし、北は樺太北海道から南は九州沖縄台湾まで、日本中で歓迎を受けながら広く取材旅行をしていた。


彼はすっかり我が国の事を気に入った様で、芸者や日本料理といった文化風俗などを本国向けの写真付き記事にして何度も紹介した結果、イギリスでちょっとした日本ブームが起きるというおまけがついた。


これは、我が国に進出した欧米企業が増えていたので、以前に比べて旅行しやすくなったという事もあるのかもしれないな。


ガレスの日本滞在は、当初二ヶ月程の予定だったのが結局半年近くに延び、すっかり我が国を堪能して次の滞在地へと向かった。


彼は我が国にとっても重要な人物となった事もあり、また彼がソ連に狙われているという噂もあったので、日本政府はアジア滞在中のガレスの安全と便宜を図る意味も含め、彼の取材旅行に我が国の記者や警護役を同行させたのだった。



1935年2月18日、貴族院議員の菊池武夫が天皇機関説で有名な美濃部達吉を反国体的であると糾弾したが、極右の暴走を恐れたのか各新聞社が、菊池武夫こそ恐れ多くも天皇の名を騙り勝手に大御心を忖度して自らの意に添わぬ言論を弾圧して君臣一体の我が国の国体の破壊を企む現代の趙高である、と新聞社説に書き立てた結果、菊池が逆に糾弾される事になった。


菊池は激怒し、新聞社に対して社説の撤回を要求し、また執筆した記者を不敬罪により逮捕せよと司法省に迫った。しかし世論は彼に味方せず、彼こそまさに天皇の名を騙り権力をほしいままにせんと企てる逆賊なので彼こそ不敬罪で逮捕せよ、とあちこちの新聞社が更に書き立てて彼を糾弾した。


その為議会では、菊池武夫こそ勝手に陛下の大御心を忖度して騙る不敬な輩だと糾弾され、そもそも法律家でも無く法律の知識も無いのに天皇機関説の主旨を全く理解せずに思い込みばかりで恫喝を繰り返す菊池武夫は、言論の府である議会の意味を理解しない蒙昧の輩で貴族院議員に相応しくない、と辞任勧告まで出された。


しかし議会内にも菊池を擁護し天皇機関説を批判する右派議員がいて議会は二分され、そして連日この件に対する報道が新聞紙面や雑誌面を飾って国論も紛糾。


このままでは収拾が付かぬと判断された天皇陛下が、先代陛下も支持された天皇機関説は我が国の国体のあり方を良く表す物である、との異例の勅語を宮内省を通じて発表するに至った。


これにより天皇機関説問題は急速に萎んでいき、これまでとは逆に勝手に陛下の名を騙って天皇機関説は不敬であると騒ぐ者こそ不敬である、という風潮になった。


実のところ、右派と目されていた言論人や軍人、政治家にも日本を社会主義国へと変えて維新を起こそうと考えたあげくソ連に傾倒する輩がおり、そんな連中の中から、前年の赤狩りでもクーデターを準備していたことが発覚して逮捕された者が出るなど、国民の彼らに対する支持がかなり失われていた結果でもある。


何しろ、昭和維新を標榜してここ最近のクーデター騒ぎを起こしていた連中こそ彼らなのだから。軍としても政府としても彼らこそ取り締まるべき対象なのだ。



1935年4月6日、今度は教育総監真崎甚三郎大将が天皇機関説は国体に反すると発言。天皇陛下の大御心とも政府の見解とも異なる発言と問題視されて更迭される事件がおきる。後任には渡辺錠太郎陸軍大将が就任した。



1935年4月7日、勝手に天皇の名を騙ったとして、菊池武夫が不敬罪で告発されたと報道された。


菊池武夫は取り調べに対しても自らの考えを蕩々と述べたと伝わるが、結局彼の論説は変わらず不敬罪で起訴され、後に懲役三年の実刑判決と共に爵位を剥奪されて貴族院から追放された。


これで、一連の天皇機関説に関する騒動は一先ず収まった様に見えるが、まだこの事に不満を覚える軍人や右翼結社は多い様に見える。




1935年3月1日、中華民国が我が国との防共協定を結ぶ際に出した条件を、我が国が全て履行していることを受け、中華民国は国際連盟への提訴を取り下げた。


1935年3月26日、日本政府は国際連盟脱退の正式発効の前日に脱退の撤回を発表し、国際連盟に復帰した。我が国の決断に対し、廣田弘毅外相が万雷の拍手で国際連盟の議場に迎えられたのだった。




1935年5月、陸軍で試験していた新型の自走カノン砲は九五式十五糎自走加農砲として正式に採用された。陸軍は戦力化を急いでおり、搭載砲に関してはフランスから在庫を輸入することになった。一先ず生産量は二年間で五十輛と決まった様だ。


そして改良九二式十五糎自走砲は、九二式十五糎突撃砲として再採用される事になり、現時点で完成配備している九二式十五糎自走砲に関しては全て密閉式戦闘室に改修してから、新たに九二式十五糎突撃砲として部隊配備される事になった。


また九二式十五糎突撃砲と同時に作った、イ号戦車の車体を使った試作モデルは、九五式十五糎重突撃砲として採用となった。




1935年8月12日、永田が勉強会にまた顔を出した。


会が始まる前に、永田は先月あった不可解な出来事を俺に話してくれた。


何でも、7月19日に陸軍省の軍務局長室にある陸軍中佐が訪ねてきて、永田と面談を希望していると言うので会ってみたら辞職勧告をされたというのだ。


永田曰く、彼が何を言っているのか今一つ理解できなかったが、どうやら4月の問題発言で更迭された真崎甚三郎大将への処分に関して自分に対して疑義を感じている、といった事を言っている様だったが、そもそも自分はこの件に対して一切関わって居らず、何故彼が自分の所に来たのか意味がわからず実に不可解な出来事だった、との事だ。


俺もまた、おかしな事を言うヤツが居たものだと思い、それに革命家にはウンザリだと感じていたので、肩をすくめて見せたら、永田は苦笑いした。


その後、いつも通りに機甲戦術に関する勉強会が始まり、永田も俺の近くに座って若手将校の発表を聞いていたのだが、会場に使っている山王ホテルの貸し会議室の外の通路から、ホテル関係者らしい男性が何かを制止する様な声が聞こえてきた。


こんな事は初めてだが、クーデター騒ぎやテロルが続いている昨今だから何かあったかと、発表中だった若手将校が発言を止めて原稿をテーブルに置くと、会場に居た他の若手将校達も席を立って警戒しはじめた。


永田はと言えば、緊張した表情になってソワソワし始めた。永田は軍人と言うより、話し方もそうだが背広を着て何処かの教授だと紹介されればそれで通りそうなタイプだからな。



俺は日露戦役に出征して地獄といえる旅順攻略戦に参加しているし、先の欧州大戦時だって出征こそしなかったが、観戦武官補佐として西部戦線で幾つもの地獄の様な戦場を間近に見ている。もっと言えば、前世のソ連でも色々な地獄を経験している。


この程度の騒ぎで動じるほどヤワでは無い。


俺は護身用に携行している軍用拳銃をホルスターから抜くと、遊底を引いて薬室に弾丸を装填した。


最近携行している拳銃は、この前FN社の日本駐在員からサンプルで貰ったブローニングGPという軍用拳銃で、ベルギー陸軍に今年から納入が始まった、装弾数が13発もある新型拳銃だ。


会議室の扉が勢い良く開かれると同時に陸軍中佐の階級章を付けた軍服姿の男が入ってきて、永田を見るなり軍刀を抜いて迫って来た。


入り口近くに座っていた若手将校が、何をするか!と大声で一喝するが、その中佐は全く動じること無くひらりと会議用テーブルに飛び乗ると、そのままこちらに向かって斬りかかる勢いで間合いを詰めてきた。


俺が拳銃を向けるも、その中佐は気にせず真っ直ぐ飛ぶ様に突き進んできたので、俺はこれは致し方無しと判断して闖入者を撃った。


日頃から射撃訓練をしているので、この距離で外す訳も無く中佐に弾丸が命中したが、少し怯んだだけで諦めることなく更に大きく振りかぶったので、俺は中佐が動きを止めるまでそのまま撃ち続けた。


弾丸が中佐に当たる度にその身体が跳ねるが、かなりの武術の達人なのか、それでも命を賭しての魂魄の一撃を永田に加えるべく更に突き進んでくる。俺が全ての弾を撃ち込んでも中佐が止まることは無く、遂に永田の真ん前迄辿り着いたが、彼が大きく振りかぶっていたその刀は振り下ろされることは無く、いつの段階で息絶えたのかは分からないが、そのまま力なく永田に覆い被さる様に倒れ込んだ。


修羅場をいくつも見てきた俺であっても、正直肝が冷えた。俺自身も拳銃を握りしめていた手が、力を入れ過ぎていて白くなっていたし、ようやく拳銃から手を放したら脂汗が滲んでいた。


若手将校達の手も借りて、なんとか中佐を引き剥がして永田を助け出したが、永田は中佐からの返り血を浴びて軍服が血まみれになっており、悲惨な有様だった。


永田は茫然自失の有様だったが、暫くしてようやく気を取り戻し、緊張の為か肩で呼吸をしながら俺を見て一言、すまん助かった、と声を絞り出した。


その後、ホテル関係者が会議室に集まって中佐の死体にシーツを掛けたりしていると、警察官と憲兵がやってきた。


9mm弾を13発も全身に受けた中佐は既に事切れており、彼が流した血が会議室の床に血溜まりを作っていた。


彼の胸ポケットに入っていた軍隊手帳を見ると、中佐の名前は相沢三郎で広島県から来ていた。


彼が持っていた手提げ鞄からは「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する出所不明の怪しげな文書や「粛軍に関する意見書」等といった書類が見つかった。


永田はそれらを一読すると顔をしかめて、何だ、これは、と嘆息した。


そして、知らんぞこんな事、誰がこんな事を、と俺に怪文書を寄越した。


それによると、裏で永田が暗躍して真崎大将を追い込んだ、とか、永田は大義も理解せず彼ら革新将校を弾圧している不逞の輩だ、とかそんなことが書かれてあった。


永田は、今は国家社会主義を目指していた連中とも、度々クーデターやらテロルを起こす連中とも一線を引いていて、過激思想の持ち主を転向させたり排除したりしているのだが、それを恨みに思っている連中がいるらしい。


しかし、この怪文書に書かれている様な策動に手を貸したことは無く、永田には身に覚えの無い内容ばかりだった様だ。


憲兵隊に事のあらましを説明するが、中佐と我々の間には特に何かある訳でも無く、今日はこれで散会となった。

永田は丁度時間だったのか副官が迎えに来たので、血まみれの軍服からホテルが用意してくれた服に着替えると、俺に改めて礼を言い、近いうちにまた会おうと言い残して帰って行った。


まさか自分の目の前でこんな事が起きるとは思っていなかったが、どうやらまだまだ軍内部には燻っているものが、色々とあるのだろう。


本当に革命家にはウンザリだ。




ガレスは史実でも歓迎されたようですが、それを上回る国賓待遇での歓迎を受けました。


そして、天皇機関説は史実と逆方向へ。


永田鉄山は暗殺を免れます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ガレス記者の来日。この当時の日本人の受けは、凄いことになりそう。 [気になる点] 最近のウクライナ情勢は、スネーク島からロシア軍が撤退しましたが、それでも余談は許しません。相変わらずの無差…
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