無線機の威力
フィリップスから無線機が届きました。
1934年になり、今年も年始は家族で帰省したが、近年はすっかり両親の老いを感じる。
まだシャキッとしていて農作業も続けているが、年の離れた兄も既に老齢の域に入った様に見えるので、そろそろ心配になってくる。
まだ、長生きしてほしい物だ。
春先になって、フィリップス社から車載無線機のサンプルが届いた。
流石はフィリップス社というか、こちらの要求仕様は完全に満たしており、この無線機を戦車に搭載すれば車内通話まで可能になるという優れものだ。さらに言うと、音声通話時の音質が抜群に良い。
陸軍通信学校の方でもテストしたが、非常に評判が良く、早速導入が決定し正式採用されることになった。
まずは三百セットを購入し、更に配備するため日本国内でのライセンス生産を打診したところ、フィリップス社が日本に工場を開設する事になった。
軍用無線機だけの工場という訳では無く、その他の民生品も併せて生産して日本市場に参入する、という事らしい。
どこかとの合弁会社にするのかと思ったのだが、結局は自社の日本支社を設置して当面は軍向けの装備の供給をしつつ、日本国内向けの販路を開拓して行くことにしたそうだ。
フィリップス社というと、高性能な真空管などの電子部品なども販売しているメーカーなので、今後は国産の家電製品の性能が上がるかもしれないな。
ちなみに、今の段階では電子部品に関しては米国製が強い様だ。
流石は大工場を持つフィリップス社だけに、注文した最初の納品分の三百セットは二ヶ月後には日本に届いたため、早速戦車に無線機を搭載して試してみる事にした。
先ずは国内で使用感を確かめる為、教導隊も兼ねている習志野の戦車第二連隊に配備されている戦車に無線機を搭載して、使用レポートを貰うことになった。
一週間ほど後、一先ずのレポートが上がって来たが、やはり車内通話機能がある無線機の評判は良く、走行中の戦車の車内は大音量のエンジン音の為になかなか声が届かなくて意思疎通に難儀していたらしいが、車内通話機能のお蔭でそれがすっかり解消した、との報告だ。
また無線機に関しても、寧ろなんでこれ迄の戦車に付いていなかったんだと思えるほど、部隊指揮が円滑になったそうだ。そして、無線機自体の信頼性も高く、故障もせず音質も良いと高評価だった。
後日、実際に無線機を使って訓練をしている所を視察する為に習志野に出向いたのだが、実に素晴らしかった。
実は、前世も含め無線機を搭載した戦車部隊が動いている所は見た事が無かったのだ。
俺が開発したハ号戦車丙型が、信号旗を使う事無く統一指揮されて、一糸乱れず動く訓練風景は実に素晴らしく、妙に何かを成し遂げた気分になった。
だが俺は、まだ何かを成し遂げた訳では無い。
ボルシェビキを打ち負かすまでは、俺は未だ何も成し遂げてはいない。
ここ迄はその為の準備に過ぎないのだ。
1934年5月13日、永田から飯に誘われた。
永田とはあれから会う機会が増えたが、飯に誘われた時は何か具体的な話がある時だ。
いつもの料亭に待ち合わせの時間に訪れると、例によって永田は先に待っていた。
まずは軽く世間話をしながら一緒に晩飯を食べるのが、いつもの流れだ。
今回は日比谷に映画館が出来たとかそんな話で盛り上がった。日比谷映画劇場は大きな円形の建物でとにかく目立つ。1700人を超える観客を収容することが出来る国内でも最大級の映画館ではないだろうか。
映画館というと娯楽の為に映画を観に行くのだが、映画の合間にニュース映画が放映される。噂に聞くテレビジョンが本格的に世の中に普及すれば、映画館でニュース映画を観るという事も無くなるのだろうが、今の世では新聞などで報道されている事が活動写真で見ることが出来るというのは貴重な事だから、これを見る事も映画鑑賞の目的の一つになっている。
まあ、俺はあまり観に行く暇も無いのだが、家族はたまに行っている様だ。
そんな事を考えながら料理を楽しみ、料理が終わって手酌でチビチビとやって居ると、何時もの様に永田が本題を話し始めた。永田の今回の話というのは、統制経済に関してだった。現在陸軍の若手将校と商工省の若手官僚を中心に戦争準備の為に日本を統制経済に移行させる事を考えているらしいのだが、それについて俺の意見を聞かせてくれ、という話だった。
つまり、日本を社会主義国にするという事だ。
なぜ永田が、ただの技術者で一介の軍人に過ぎない俺に意見を求めて来たのかと言えば、実は以前の永田は彼らに近い考え方をしていて、その意見に賛成していたらしいのだが、俺からソ連の内情話を聞かされて以来、統制経済について疑問を覚えだしたらしい。
それで、俺がやってみろと話した通り在ポーランド大使館に調べてもらったり、欧州の新聞社などにウクライナについての記事が無いか問い合わせたりと、永田なりに調べたらしい。
すると在ポーランド大使館から回答があり、ポーランドにはウクライナから逃げて来た農民などが事実居て、彼らからウクライナの惨状について聞くことが出来たそうだ。
更にはイギリスのガレスという新聞記者がソ連、そしてウクライナを巡って現地取材をして書いた記事がマンチェスター・ガーディアン紙など多くの新聞に掲載されて居て、その内のマンチェスター・ガーディアン紙の当該記事の切り抜きを永田は持って来ていて、俺に見せた。
俺は、これが統制経済と計画経済の正体であり答えだ、と答えた。
俺は永田に問うた。そもそも我が国の敵は何処なのだ。
我が国の最も脅威となる国は何処なのだ、と。
永田は、それはソ連だ、と即答した。
ならば、敵はソ連だけにすべきであり、あたら敵を作るべきではない。
先に中国を屈服させて日本に資する様にする等という考えを持つ若手将校も居るらしいが、実に危うい考え方だ。
中国は余りにも広大で、我が軍が幾ら精強であろうと、中国全土に軍を展開できるほどの兵力がある訳では無いし、その能力もない。
もしも我が軍が中国本土に攻め込めば、恐らく中国軍は戦わずにどこまでも引くだろう。それこそ武昌漢口の更に向こう、重慶辺りにまで中国軍が引っ込んだとして、我が軍はそこまで追いかけていくのか。
我が軍の補給線は、そんな遠方迄を維持する事など到底出来ないだろう。
それにだ、中国には欧米諸国の権益が数多くある。我が国が中国に攻め込めば、彼らはこぞって我が国に敵対し、必ず中国に味方するだろう。
今は兵器や軍需物資、天然資源などを欧米から幾らでも購入することが出来るが、彼らと敵対すれば紙一枚どころか何も売ってくれなくなるぞ。
それこそ、それでどうやって中国と戦争を続けるというのだ。国家経済を統制したところで、そもそも何も入ってこなければ、統制にも限度があるだろう。ならばソ連みたいに我が国の国民が日々の暮らしにも困窮して餓死する程徴発するのか?
俺の言葉を聞いて永田は顔を青くして首を振った。
そんな事、本意である訳がなかろう、と。
ならばだ、永田。我々の本当の敵である共産主義者の集団である中国共産党と戦っている蒋介石は、寧ろ味方にすべきでは無いのか。
永田は素直には頷けなかった様だが、それでもゆっくり頷いた。
確かに、その通りだ、と。
ならばだ、永田。俺達のする事は唯一つ。米国との戦争を吹聴している輩や、中国を攻めたくて仕方が無い輩、南進して資源を奪うべきだと言っている輩などの全てを、対ソ連、対共産主義闘争に纏め上げる事だ。
実際、国内は既に反共産主義で国民からの一定の理解を得ているし、国としても奴らを厳重に取り締まっている。
天然資源なら米国なり蘭印、仏印など買える所が幾らでもあるんだから金を出して買えばいい。軍を出して戦争して苦労して奪ったのに欧米から恨まれて更に戦争が拡大していくよりも、ずっと金も掛からないし人も死なない。
ならば彼らが機嫌よく軍需物資や天然資源を売ってくれるように、我が国は立ち回るべきだろう。
そうそう、国際連盟にも復帰しなければな。
俺がそこ迄話すと、永田も心の内で考えが纏まったのか、今度は力強く頷いた。
俺がここ迄考えを纏めることが出来たのは、俺の勉強会に集まる弟子達のお陰だ。
ある意味、世間知らずだった俺に色んな多方面の話を聞かせてくれたのは、彼ら若手将校達だ。彼らは色んな所から来ているから、色んな話を俺に聞かせることが出来るのだ。
俺は永田に、俺が勉強会で話し合った結果の一つをぶつけてみる事にした。
軍の至る所で、宇垣軍縮に対する恨み節を良く聞く。
しかし、こうやって戦車や機関銃、火砲まで新型装備を揃えることが出来たのは、宇垣軍縮によって捻出した予算によってだ。
宇垣大将は、我が軍の装備の近代化と精鋭化が必要だと考えられている。その為に必要な事に付いても実によく考えておられる。
軍の事、国家の事をよく考えておられる人物だと俺は見ている。
俺は宇垣大将程の人物ならば、いずれ大命が下されても不思議はないと思うのだ。
その為に、宇垣大将が首相として存分に手腕を振るえるように、俺は俺なりに応援するつもりだ。
永田も、宇垣大将の事、一度考えてみてくれないか。
そう永田に問い掛けると、永田は真剣な顔をして、持ち帰って考えてみる、と約束してくれた。
この日はこれで永田との話は終わった。そしていつも通り、また会おう、と約束して別れた。
別れの際に永田は、結局まだ顔を出せて無かった俺の勉強会に、近々必ず行くと付け加えた。
俺は、永田が食事に俺を呼んだのは、社会主義では駄目だと内心思いだしたからじゃないかと想像した。
彼の周りにはそういう考えの者が多いと聞くが、ソ連の惨状を自分で確かめた永田は、社会主義や共産主義ではダメだとわかったのだろう。結局、統制経済などというのは、それこそ神が立てたような完璧な計画が立てられなければ、どこかで必ず破たんするのだ。
なにしろ社会主義国でその〝計画〟を立てている人間と云うのは、思い込みばかりの妄想家や、それに関する知識は何もない素人達ばかりだからだ。
では、軍人ならば完全な計画を立てて国家統制を行えるのか? 勿論そんなわけはない。軍人は軍人であって、戦争に関してはプロだが、それ以外のプロではない。
ボルシェビキの様な恐怖政治を行えば、無理やり計画を進める事も出来るだろうが、そもそも我が国ではそんな事が出来る訳が無いからな。
結局妄想家は、国家を亡国の道へと誤らせるだけだ。
宇垣大将と言う人物に付いては、俺がその頃日本に居なかった事もあって、実の所良く知らなかったのだが、勉強会の若手将校には人気があり、宇垣大将を推す声が多かったのだ。
俺が話を聞いた限りだと、宇垣大将が一番良く先が見えている、と感じたのだ。
だが実際のところ、永田は宇垣大将の事を良く思っていないという話も聞いている。
だから永田がどう考えどう動くかは、正直わからない。
宇垣に関しては主人公は伝聞で良い面だけしか聞いていない面があります。