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日露戦争、そして欧州へ

主人公は軍人の道を進むことになります。





記憶を取り戻して驚いたのは、今世の生年月日は1883年4月25日であり前世で生まれた日と全く同じであった。


つまりこれは、生まれた場所は全く異なるが、同じ時代で別の人生をやり直しているという事になるのか?



兎も角、俺が日本で生まれた地は静岡で、家は下級武士の家柄だったが、今は一族で農業を営んでいる。そして前世と比べると明らかに生活水準は低く、貧しくは無いが決して豊かな家では無い様だ。


今世の家族は、父と亡くなった先妻の子である歳の離れた兄、そして後妻である母とその子である自分と妹の五人。それに祖父母と父の弟である叔父さん夫婦の計九人が、大きな家の一つ屋根の下に暮らしている。


元武士階級の家系だったせいか、今は農家だが祖父も父も教養があり、農家の子供に学問など不要という農村特有の風潮の中にあって、家族が学問に理解があった事が俺には幸いだった。



元々俺は前世でも学ぶことが好きで、今世でも幼い頃から勉学に励み、前世の記憶もあって成績は何時も最優等、学校でも郷里の英才と言われて表彰される程で、前世でも成績は良かったがここ迄の賞賛を受けたことは無く、悪い気分ではなかったな。


その後、尋常高等小学校へと進んだのだが、そこでこの国で兵器開発に携わるには軍人になる必要があると知り、意を決して祖父と父に、家業には就かず軍人の道を志したい、と打ち明けたのだが、祖父も父も反対するどころか家の誉れだと喜び、俺は更に猛勉強を重ねて遂に軍学校への進学を決めたのだが、上京する日には家族総出で盛大に送り出してくれた。


職業軍人となるべく東京陸軍地方幼年学校へ進み、陸軍中央幼年学校を経て1904年に陸軍士官学校を卒業。砲兵少尉に任官し、配属は野砲兵第一連隊付けとなった。



1904年5月、日露戦争へ出征。


前世では従軍経験は無かった為、これが人生で初の従軍経験となる。


我が連隊が装備する主力野砲は三十一年式速射砲、通称有坂砲と呼ばれている砲で、口径は75mmで射程は7800m程。速射砲と言われているが毎分三発程度の発射速度しかなく、しかも簡易的な復座装置しか持たないため、射撃を行うごとに砲架全体が後退するので、人力で砲架を元に戻して再び照準をやり直さなければならない。


前世の祖国ロシアがこの時代運用していた野砲も似たような性能だったと記憶するが、実際の射撃戦となれば今世の祖国日本の砲兵の方が射撃技術が卓越しており、しかも弾薬の威力も大きいようだ。


我が第一師団は旅順攻略戦に参加し、戦いには勝利したものの師団主力は全滅に近い大損害を被った。


機関銃と火砲を大量に備え、しかもべトンで堅固に造られた要塞を攻略するという攻城戦は、それ迄世界でも例がなかった。

また我が軍は本格的な近代要塞の攻城経験が少なかったこともあり、旅順戦の緒戦で、後の歴史を知る俺から見れば無謀とも思える正面突撃を敢行して大損害を被ったのだった。


無論、我が軍も対策を考えない訳ではなく、後に勃発する欧州大戦の塹壕戦の先駆けとも言えるような大規模な塹壕戦が展開され、併せて要塞まで坑道を掘って地下より爆薬攻撃する坑道戦も行われた。


更には従来の重砲の範疇を超えるような大口径の火砲が多数投入された結果、さしもの堅固な防御力を誇るべトンの要塞も粉砕されるに至った。


しかし、ここで十分な機動力を持つ戦車があったなら、ここまでの大損害を被ることは無かったかもしれない。


士官学校を出たての一介の少尉の立場では新兵器の意見具申など現実的ではない為、頭の中ではそういう事を考えていても何もすることが出来なかったわけであるが…。


兎も角、突撃に参加した我が同輩たちの多くが戦場に斃れ、生きて故国の地を踏むことが叶わなかったが、俺は俺に任された任務を全うして、生きて東京の駐屯地へと帰還することができた。



1909年11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。


その後、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部機械工学科で学び、1910年3月に砲兵中尉に昇進。

前世で専門だったディーゼル機関をテーマにした卒業論文で1913年3月に大学を卒業した。


1913年4月に砲兵大尉に昇進。大学の卒業論文が評価された俺は、技術習得の為に技術先進国のドイツへと派遣されることになり、前世に続き再びドイツの土を踏むこととなった。


ドイツに到着すると、前世とは数年遅れではあるが、前世で見たそのままの光景を再び見る事になった。これはデジャヴというのだろうか…、いや前世で一度訪れているのだから見た事があるのは当たり前ではあるのだが、既視感とは違うなんとも不思議な感じで、まるで夢の世界を歩いているような気分だった。


大使館で着任の報告を済ませると、さっそくとクルップやラインメタルなど現地企業を視察したり大学に聴講に行ったりと精力的に動き回った。


その合間に、俺が前世で通っていたザクセンにあるミットワイダ応用科学大学を訪ねてみた。前世の自分が本当に在校していたのか調べたかったのだ。


前世で通っていたのはほんの数年前なのだが、調査の結果自分らしい学生が在校した記録は残って居なかった。つまり、今世ではこの学校には〝アファナシー・オシポヴィッチ・フィルソフ〟と言うロシア人は留学して居なかった、という事だ。


果たして俺は、前世とは違った人生を歩んでいるのか、そもそも今世には前世の俺は存在しないのか…。直接俺が実家のあるサポリージャまで行って話を聞けば判るかもしれないが、今それをする余裕は無いので、いずれ何らかの形で知る事が出来ればいいだろう。



1914年7月、きな臭くなっていた欧州で大戦が勃発した場合、我が国は同盟国イギリスが属する協商国の側で参戦する可能性が高い為、ドイツからフランスへの移動を命ぜられた。


フランスの日本大使館へ着任の報告を済ませると、程なく戦争が勃発。ドイツがベルギーへと侵攻し、仏英白軍を撃破してそのままフランスへと雪崩れ込んだ。


俺はフランスでの戦いの観戦武官を務める佐官殿の補佐をする様に命じられた。


新しい技術に明るく、また前世では留学等で複数の言語を習得していたので、語学に堪能な事も声が掛かった理由の様だ。


戦場に立つのは日露戦争以来であるが、今度は観戦武官の補佐として日露戦争を超える地獄の様な戦場を目にすることになった。


勿論、最前線に居るわけではなく仏軍司令部のやや後方に設えられた観戦武官用の天幕から他国の武官達と共に望遠鏡で視察するのであるが、戦況は仏軍の連絡将校から聞けるし、戦闘が終わった直後の塹壕など最前線の戦場を視察する事もある。また、前線から戻ってくる将兵達に話を聞けば最前線で何が起きているか十分知ることができた。


仏軍に帯同して観戦武官のお供を続けていたが、年内に終わると言われていた戦争は俺の知る歴史通り終わることは無く年が明けも戦争は続き、さらにその次の年も戦争は続き、そしてその翌年の1917年、遂にカンブレーの戦いで塹壕戦を打破する決戦兵器たる戦車を英軍、そして仏軍が大量に戦場に投入した。


ロシアに居たころに見たことがある英軍の菱形戦車や、その後の戦車の原型ともいえる画期的なフランス製のルノーFT戦車が戦場を突き進む姿を、現実にこの目で見ることができた。


俺とは違い、初めて動いている戦車を目にした佐官殿の興奮ぶりは、まるで子供の様だった。


この英仏軍の戦車は、後の戦車に比べればいかにも鈍足で故障が多く、出撃のたびに多数が行動不能に陥るお粗末な代物ではある。だが、今迄なら突破するには夥しい数の犠牲者が出る敵の塹壕に平気で突入し、敵の銃撃をものともせず突破してしまう〝戦車〟という戦場の怪物のもたらすインパクトは絶大だった。これが日露戦争の時にあれば…と改めて思った。


我が国にも戦車が必要だと。


日本も独自の戦車を保有していた事を前世の記憶で知っている。

開発の参考にと渡された他国の戦車の資料の中に日本の戦車があったからだ。

実戦でのデータまでは無かったが、八十九式中戦車という戦車だったと記憶する。

ならば俺にも開発を手掛ける機会が必ずある筈だ。


俺は塹壕戦で使われた毒ガスや、航空機を含む各種兵器に関する報告書と併せて、この時代の新兵器である戦車についても詳細な報告書を本国へと送った。



1918年11月11日、数年に渡った大戦争が漸く終結した。前世の俺は、この時期はニジニ・ノヴゴロドで地域の技術教育に関わっていたころだろうか。


終戦に伴い観戦武官の補佐の任が解かれ、俺は本来の役目である先進技術習得の任に戻る事になった。

しかしながら、ドイツに戻る事は敗戦と革命の影響でドイツ国内が混乱状態になっている為、断念せざるを得なかった。


その為、同じく技術先進国であるフランスの技術習得を考えていたのだが、そんな俺に新たな命令が届いた。


新たな命令の内容は、これまで我が陸軍はドイツ製の火砲を使っていたが、ドイツとは戦争し敵対関係になった為、今後の関係が不透明である事、それにそもそもドイツが混乱状態なので必要な兵器の導入が困難である可能性が高い為、今後はフランス製の火砲の導入を検討しているらしい。


元々、フランスとは徳川幕府時代から付き合いがあり、オチキス社製の機関銃を導入したりとわが国でも実績があったからそういう運びになった様だ。


その為の事前調査が、新たに与えられた任務だ。


併せて、俺が送った報告書にあった戦車も導入したいため、フランス製のルノーFTと、イギリス製の菱形戦車を調査の為買い付けたいとのこと。


イギリス製戦車の方は同じく欧州に滞在していた水谷大尉が担当することになった為、必要な資料を手渡した。

暫くして水谷大尉はイギリスでMk.IV雌型戦車を一輌購入し、神戸港まで運ぶため教官役のイギリス人将校と共に帰国した。



俺はと言うと、先ずはフランスでの火砲の調査という任務に早速取り掛かることにした。


ドイツから導入した火砲というのは、三八式野砲、三八式十珊加農、三八式十二珊榴弾砲、三八式十五珊榴弾砲の事であろう。


観戦武官の補佐として戦場を視察し、実際に使われて居る兵器の運用を見て、また現場で聞いた評価を考慮に入れた上で、我が軍がドイツ製火砲に代わり導入すべきフランス製火砲の候補一覧を作成した。


三八式野砲の代替えはやはりCanon de 75 modele 1897であろう。世界で初めて液気圧式駐退復座機を搭載し、バネ復座式を採用するクルップ社製の砲、つまりは三八式野砲は本砲に比べると容量と重量がかさばり、明らかにこちらの方が優れている。

この野砲に、シュナイダーが特許を持っている開脚式砲架を搭載し、砲口制退器を搭載すればこの砲の短所も補うことが出来、優れたる新型砲となる事だろう。


三八式十珊加農の代替えはCanon de 105 modele 1913 Schneiderが妥当であろう。元々はロシア帝国から発注を受けたM1910 107mmカノン砲の口径を、フランス陸軍正式採用の105mm砲弾を使用する様にしたものらしい。実際前世で見た事があるM1910と形状がよく似ており、成程既視感がある訳だ。

この砲も新75mm野砲と同様の改良が必要だと思われるから、もし導入するならシュナイダーに改造を要求する必要がある。


三八式十二珊榴弾砲の代替えとしては、Obusier de 120 mm mle 15TRがそれに該当するだろう。最近開発されて採用されたばかりの新型砲であり、この砲もロシア帝国向けにM1910 122mm榴弾砲として122mm口径に修正した物を輸出している。この砲は優れた砲で、ロシア帝国とその後継である赤軍、そして白軍が大量に使っていたので、これもよく見かけた砲だ。


三八式十五珊榴弾砲の代替えはCanon de 155 C modele 1917 Schneiderだろう。この砲も開発されたばかりの最新の砲だが既に実戦でも使用されて居る。

この砲は射程が優れており、しかも新しい設計の砲らしく馬匹による牽引の他、トラクターなど車両の牽引にも対応している。


これらのメーカー資料とその和訳版、それにそれぞれの砲に関する報告書を添付して本国に送付した。

ついでに、他にも見るべき砲として、Canon de 155 mm Grande Puissance Filloux mle 1917。最新鋭の155mmカノン砲の資料も送っておくか。


この新型のカノン砲も射程に優れているし、何より開脚式砲架を最初から採用しており、その砲架も牽引移動を考慮して開発されたものなので、この砲を牽引出来る力を持つトラクターがあれば、運用が非常に楽であろう。


日露戦争では当然ながら馬で砲を牽いたのであるが、今回欧州大戦を観戦してみて、ここでも多くの場合馬が活用されていたが、砲など重量物を運ぶ場合、トラクターを活用している場面も多かった。


この辺りは流石欧州先進国だと思う。我が国もトラクター、或いは砲など重量物を牽引する為の車両を何か装備すべきであろう。


俺はその事も併せて、具体例のスケッチと仕様を付けて報告書に入れておいた。



フランス製火砲の調査の任務を終えるころには年が変わり、1919年4月に砲兵少佐へと昇進、同時に、本国へ送った報告書が評価され、所属が陸軍技術本部技術審査部付けとなった。


技術審査部付けの少佐となった事で、ある程度の裁量が認められ、調査に必要であれば渡英する事も可能となった。


1919年4月に、陸軍技術本部隷下の機関として陸軍科学研究所が設置された、と聞いた。ここで先の欧州大戦に伴う兵器発達に対処するための研究を行うらしく、俺が本国に送った報告書もこの研究所で資料として大いに活用されているそうだ。


俺が送った詳細な報告書や、観戦武官だった佐官殿の報告書によって我が軍も戦車の装備が急務であると結論された。それによって、ここ陸軍科学研究所で新兵器である戦車の研究もされる事になった。

その研究に関わることが出来ないことは残念ではあるが、まだ欧州へ来た元々の目的が果たされていない。


そして俺は今、その陸軍科学研究所の要望で購入の準備を進めていたルノーFTと、欧州での戦争で活躍したマークAホイペット中戦車を新たに購入し、本国へと送る手配をしていた。


これで、一先ず新たに与えられていた任務に区切りついたため、本来の任務へと戻る事にする。

本当なら二年程度で帰国するはずが、欧州滞在がすっかり長引いてしまっている。



その後、俺はフランスとイギリス、そして前世で馴染みのあるスイスで、日本でディーゼルエンジンを本格的に開発、生産するために必要な様々な技術や特許などを調査し報告書にまとめ上げていった。また必要があれば人材などを本国に推薦する様な事もやった。


当時、ディーゼルエンジンで他国をリードしていたのは間違いなくドイツであり、ディーゼル機関に関する多くの技術がドイツで開発されていた。そして前世と同じくスイスでもスルザー社などがディーゼル機関に関して様々な技術を持っており、俺が前世で欧州大戦の為にスイスを離れた後も、欧州では欧州大戦という巨大な戦争を経ることで様々な新技術が開発されていたのだ。


言ってしまえば俺は今、前世でドイツやスイスで学び培った技術を、再びなぞる様な事をやっている。


しかしながら、我が前世の祖国ロシアと今世の祖国である日本。ある面において日本は明らかに技術水準が遅れている事もある為、前世では必要とされなかったことも今は必要だった、ということがある。しかし、新たに開発されていたこれら新技術の習得というのは、俺も必要としたし、今後のわが国でも必要とされる筈であり、もちろん無意味なことなど一つもないだろう。


それらの調査の合間に、本国から様々な調査や調達の依頼が来る。


私が調査したフランス製の大砲は、性能が高く評価されてどれも我が軍で採用が決まり、我が軍向け仕様に修正されたものを一部購入し、残りはライセンス生産する事になった。その経緯から、私の目利きというか調査能力というのが審査部やその上の技本で評価されたらしく、仕事が増えたという事の様だ。


それらにも対応しながら、一先ず必要とされるものを一通り習得し、また手に入れた様々な資料を報告書を付けて本国に送ったところで区切りがついた。


1919年8月、組織改編で審査部が陸軍技術本部に統合されたので、やる事も立場も変わらないが、俺の身分が陸軍技術本部附となった。


既に欧州大戦終戦から数年が経った1923年、長かった欧州滞在もこれで終わることになり、帰国の準備を進めていると、審査部から一通の手紙が届いた。内容は、前年の1922年に、これまで〝タンク〟や〝装甲車〟と呼んでいた戦闘車両を、戦う車、すなわち〝戦車〟と呼称することになった、と云うものだった。


これからは戦車と呼称するようにする事とする。


(作者注釈、便宜上最初から戦車と呼称しています。ロシア語で戦車はタンク、当時のフランスでもイギリスでもタンクと呼称されていますので、主人公の報告書にもこれまでタンクと書かれてありました)


帰国の準備もそろそろ終わろうかとしていた俺に、陸軍技術本部から嬉しい知らせと新たな命令が下った。


嬉しい知らせは、俺の欧州での仕事が評価され、中佐へと昇進した、と云うもの。

そして新たな命令は、陸軍技術本部附欧州駐在武官としてフランス駐在を命ず、と云うものだった。


やっと帰国できるかと思っていた矢先のこの命令、俺の帰国はまた遠のいた。




その後の俺は、駐フランス日本大使館内に専用のオフィスが与えられて大使館に駐在し、本国から派遣されて来る軍人や技術者など様々な人物の為の諸々の手配や案内など雑多な業務をこなしながら、一方で本国から届く調査命令に対応して新兵器や新技術などを資料付きで報告する、などという業務にも携わっていた。


俺としては一刻も早く本国に戻ってディーゼルエンジンや戦車の開発に携わりたいのであるが、本国では宇垣軍縮というものがあって、人員が減らされたり予算が削られたりして研究開発がし辛いそうだ。しかしディーゼルエンジンに関しては、俺が送った資料を基に技本の別の者が研究開発を進めているらしい。


恐らく戦車に関しても研究は進められているのだろう。


既に本国には戦車の実物が届いているので、詳細に調査がされている筈だからな。


そして大正の御代も終わり、昭和二年となった1927年。やっと駐在武官の任が解かれ、帰国することになった。


駐在武官に任命されてから四年、俺が本国に送った資料や報告書は膨大な量になるだろう。


俺は帰国したら、駐在武官を勤めている間に執筆した原稿を纏めて本を出版するつもりだ。

本の名は、一つは『世界の戦車』となる予定で、すでに本国の出版社と話を進めており、写真付きの本になる予定だ。


もう一つの本の名は『装甲部隊戦術論』。英国出張中に買った英国の将校が書いた本を参考にしながら、前世と、そして今世で俺が軍人としてこれまで培った知見を基に執筆した、今後戦車など装甲部隊を運用するに当たっての戦術についての考察を書いた本だ。



帰国準備が済み、約五十日の船旅に旅立とうかと船便の手配をしていた時、驚くべき一報が俺の許へ届いた。


俺が戦車に関する報告書などを頻繁に上げていた事もあり、陸軍技術本部が気を利かせて電報で知らせてくれたのだ。


『シセイイチゴウセンシャノカイハツ二セイコウセリ』。電報にはそう書かれてあった。




エリートコースの主人公ですが、欧州大戦の勃発により本人の意図しない方向へと進みます。

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