米国視察
戦車の父視点の米国視察の話です。
昭和八年七月 陸軍少佐 原乙未生
米国には短期間の立ち寄りのつもりであったが、すっかり長引いている。
それというのも、今後、我が国は戦車は勿論の事、各種車両の大量生産を可能にする必要がある。
しかし、例えば欧米諸国ではすでに広く取り入られられている〝規格の標準化〟が、我が国では残念なことにまだ緒についたばかりで、進んでいるとは言えない。
そこで、高い工業力を持つ米国の規格の標準化の資料などを入手し、米国における標準規格とはどの様なものなのか、ということを調べた。
その上で、実際に工場を視察をしてその運用がどの様に行われているのかなどを見学した結果、我が国でこれから米国のような工業化を進めるにあたってどうすれば良いのか、という事が随分学べたと思う。
また、その過程で様々な工場の視察をしたことで、大量生産に関するノウハウというものも随分吸収できたように思う。
今回の米国視察で得た知識を活かせば、軍を退官してもどこかの民間企業の工場長が十分務まるだろう、と自負する程にだ。
特に、フォードやゼネラルモータース等の自動車メーカーの工場を視察できたのは大きい。その大量生産の手法は勿論のこと、どの様な生産機械を使っているのか、どのように使っているのかを学ぶことができた。
両社の工場で使われている多くの工作機械は日本の工場でも導入されているが、米国は工場の大きさもさることながら、使われている工作機械の数が桁違いなのだ。
いずれ我が国にも、フォードやゼネラル・モータースの様な巨大自動車メーカーに匹敵する自動車メーカーができれば良いが、いかんせん我が国は未だ貧しく、資本の蓄積が圧倒的に足りないと感じた。
欧州の視察でも驚かされた事が多かった。しかし、アメリカでの視察は更に驚かされた。
ニューヨーク港に入港した際には、眼前に広がる光景のあまりの壮大さ、巨大さにただ圧倒された。
そして、我が帝都より遥かに発展した巨大都市に足を踏み入れたとき、噂に聞いていた摩天楼の巨大さを見上げて、我が国が到底敵う国では無いと思ったのだ。
そして思ったのだ。日本では不評だったロンドン軍縮条約だが、その気になれば無数の軍艦を作ることが出来るだろう米国に歯止めがかけられたあの条約は、我が国からすればむしろありがたいことだったのではないか、と。
大陸横断鉄道に乗り、車窓から果てしなく続く地平線を見て米国の広大さに改めて驚かされ、ロサンゼルスに到着して米国の西海岸に存在するニューヨークの如き巨大都市を見て、更にまた驚かされた。
今回の米国滞在は、ロサンゼルスにある在米日本人会を駐米大使館で紹介してもらった為、実にスムーズに事を運ぶことができた。
特にフォードやゼネラル・モータースは日本に支社や工場があることもあって、非常に好意的だった。実際、我が軍が採用しているトラックや乗用車もこの二社の車が多く使われており、お得意様ということも大きいのかもしれない。
両社は我々の視察に対して様々な便宜を図ってくれた一方、軍用に向いた新しいトラックの説明と売り込みなどが積極的にあったりと、双方にとってなかなか有意義な視察だったと思う。
これには米国が先の大戦のあとの大恐慌の影響と軍縮の風潮もあり、あまり米軍向けのセールスが伸びていないことも影響しているのかもしれない。
今回視察した企業の多くは日本にもっと進出し、更にはその先の満州や中国への輸出を望んでいるようだった。
大陸は巨大市場であるが、我が国の工業力ではその需要を到底賄うことができない。ならば満州の情勢が落ち着いたら、米国などの企業の進出を受け入れても、結果的に我が国を利するのではなかろうか。
米国で戦車や戦車戦術に詳しい軍人に会ってみたかったのだが、日本人会に紹介された米国の元軍人に、先の欧州大戦で戦車部隊を率いた将校を紹介してもらえた。なんでも、機甲部隊の創設の提案を先の欧州大戦のあと直ぐに提案するほど、戦車戦力や機械化部隊に対する理解が深く、かねてから機械化部隊の必要性を我が軍の上層部に訴えてきた私にとっては、先の欧州大戦とは言え、実戦で戦車部隊を率いて戦った将校の話が聞けると言うのは非常に嬉しいことだった。
彼の住むペンシルベニアまで訪ねていくと、出てきたのは酒の匂いのする不機嫌そうな男だった。
英雄だと聞いていたので、威厳ある米陸軍の将校が出てくると思っていたが、その出で立ちを見て少々がっかりしたのだが、彼に紹介者の名前を告げると話す気になったのか、近所のバーで話を聞かせてくれることになった。
私の自己紹介をして、紹介してもらった経緯を話すと、それまでの呑んだくれの雰囲気が一変してシャキっとした軍人に変貌し、彼の経験や理論など様々な話を聞かせてくれた。
私が温めている様々な構想も聞いてくれて、それに対する彼なりの見解が聞けたりと、非常に打ち解けていい出会いだったと思う。
また再会しよう、と別れたときにはもうすっかり夜中だった。
彼の名はジョージ・パットン。私よりもかなり年上に見えたが、米陸軍の少佐で私と同じ階級だった。多分何らかの理由で昇進が遅れているのだろう。
とにかく彼は活躍の場を求めていたが、孤立主義が蔓延る今の米国では活躍する機会は当面訪れないだろう、と嘆いていた。
ちなみに、彼は共産主義者が大嫌いらしく、米国で彼らが大手を振って活動しているのをみて、必ず災いのもとになる、と言っていた。
ルーズベルトはソ連を認めたが、いずれ米国はソ連と必ず敵対することになる。その時は、自分が機甲師団を率いて散々にソ連を叩いてやるのだ、と目を輝かせていた。
彼のその目を見て、パットン少佐は根っからの戦争好きなのだと内心苦笑いした。
だが、味方であれば心強い人物だろうなとも感じた。
米国の視察は、一応来年の半ばまでは続ける予定だ。
というのも、私が本国に送った報告書が上層部の関心を呼んだのか、色々と見てきてほしいという話が増えたのだ。
その要望には技本からの物もあったので無下には出来ないが、早く技本に戻って戦車の開発を再開したいものだ。
戦車の父と戦車将軍との出会いでした。
この頃はまだ日米関係は悪くなく、日系移民も収容されたりしていません。




