ハ号戦車の改修は進む
引き揚げた上海からハ号戦車の一部が主人公の下へと運ばれてきます。
1932年5月5日、上海停戦協定締結。これにより、上海に派遣されて居た我が国の軍隊は撤退し、また中国軍も域外へと去り一先ず平静を取り戻したという事だ。
満州も2月までに我が軍がほぼ全土を平定し、清朝の末裔である溥儀を担ぎだして3月に満洲国の建国が宣言された。そこからリットン調査団とやらが連日新聞を賑わせていたが、俺はというと今年もまた色々と忙しく仕事をしていた。
1932年6月辺りから、ぼちぼち前線に行っていたハ号戦車が戻って来た。
勿論、大陸へ持っていったハ号戦車の全数を回収している訳では無く、特に損傷が激しい物や故障が発生し現地では直せなかったものなどだ。
これらを設備のある大阪陸軍工廠で詳しく調査し、改善点を早急に見つけて現在生産中の車両に随時反映すると共に、別に修理などで戻って来た車両に関しても対応していく。
一応事前の報告では、今回派遣されたハ号戦車で、戦闘時に破壊された車両と云うのは存在しない。しかし、損傷を受けなかったという事は勿論なく、今俺の目の前にあるハ号戦車はかなりひどい状態だった。
小銃弾による弾痕が無数についている他、明らかに20mmクラスの機関砲弾だろう弾痕が幾つも付いているが、幸いにも貫通している物は無かった。しかしもっと近い距離で、更に正面以外を撃たれて居れば、非常に危うかったと思われる。
中国軍は部隊によって装備の差が大きいが、装備の良い部隊は軽機関銃などを多数装備し、機関砲まで持っていたのだ。
ハ号戦車に付いている20mm弾クラスの弾痕は、恐らく戦闘詳報にも記載されて居た、据え付けられていた機関砲の水平射による弾痕だと思われる。
更には、大口径弾の弾痕の幾つかは貫通はしなかったものの、正面装甲でも深く迄侵徹しており、もう少し距離が近いか或いは装甲が薄かった場合、貫通した可能性がある。
今でも貧欲に欧州などから兵器を導入している中国が、今後更に強力な対戦車砲などの配備を始めると、ハ号戦車の今の装甲厚では遠からず抜かれてしまう可能性が高い。
そうなる事を見越して、やはりハ号戦車には増加装甲を用意しておくべきだろう。
他には、ある程度想定はしていたが、ハ号戦車は視界が悪いらしい。
ハ号戦車には、戦車長用として四方に貼視孔が付いた周囲観測用の展望塔、砲塔左右には砲手と装填手が使える貼視孔とピストルポート、車体前面にある大型の運転手搭乗ハッチにも大き目の貼視孔を用意してあるから、十分とはいえないが、それなりに視野は確保したつもりだ。
但し、戦車とはある意味視界がそう良い乗り物では無いのだが、それでも正直なところ、今の時点の戦車は前世のBT-7程の視界を確保できていないと思う。
何故かというと、当初は戦車に潜望鏡を搭載しようと思って色々探したのだが、戦車に搭載出来る様な良い潜望鏡が見つからなかったのだ。
潜望鏡という物自体は、それこそ先の欧州大戦の頃からあるのだが、欧州大戦で使用された戦車には潜望鏡はついていなかったと記憶する。
しかし戦後開発された戦車には、いつの段階からか潜望鏡が搭載される様になっていて、初期モデルのBT-2には潜望鏡は搭載されて居なかったが、BT-5には潜望鏡が搭載されていたと思う。
だから何かこう、もっと使い易くて戦車にピッタリな潜望鏡があったと思うのだが、何だったかな…。そう思って必死に記憶の底を探ってみた。
そうだ、BT-7では確かポーランド人が開発した潜望鏡を使って居たと思う。
俺の記憶によれば、あれは確かガンドラッハ潜望鏡と呼ばれて居た筈だ。1936年頃に特許情報が流れて来て、ソ連でもすぐさま導入したという、中々の優れモノだった。
前世では、丁度BT-7の開発に携わって居た頃に潜望鏡の現物が届いて、すぐに取り付けた記憶がある。潜望鏡自体は、ソ連には既に戦車に搭載しうる物があったのだが、それ以上にあのガンドラッハ潜望鏡は、戦車開発者が作った潜望鏡だと聞いたが、非常に優れたものだった。
あの後どうなったのか、俺はボルシェビキに殺されたからわからないが、恐らく広く使われただろう。
幸いにもポーランドは我が国の友好国で、遠い国ではあるが双方に大使館が有り、結構交流もある。1935年頃に打診しておけば、案外素直に製造ライセンスを獲られるかもしれない。
大きな問題点はそんな所だが、他にも諸々の報告や要望から、色々と細かい不具合やら不具合とも呼べないような物までをリストアップして、部下達と共に一つずつ対応していく事にした。
1932年8月、FN30軽機関銃が届いたので、ハ号戦車の搭載機関銃をこれに換装する事にした。
届いた機関銃をみて思ったが、この機関銃は軽機関銃としても使えるがベルト給弾であり、実質的に重機関銃の部類ではないだろうか、と。
調べてみると、アメリカでは軽機関銃としても使うが、三脚に据えて重機関銃としても使用しているらしい。
流石ベルギー陸軍やアメリカ陸軍で採用されて使用実績がある機関銃だけに、陸軍でのテストも特に問題は無く、中国軍のチェッコ機関銃に悩まさていた歩兵部隊での使用も検討したらしい。しかしながら、軽機関銃としては少々重すぎる上に補給部隊の混乱を招くので断念したそうだ。だが、戦車部隊で運用するには問題無いとの事で、早速使用することになったのだ。
この機関銃をハ号戦車に取り付けてみると、やはりベルト給弾式の機銃の方が、車内が狭い戦車で使用するのに明らかに向いていると思える。
だから一度これに慣れてしまうと、後で元に戻すという話が仮に出たら、我々は非難轟々だろうな。
今回導入したFN30軽機関銃は給弾用のベルトがメタルリンク方式で、射撃した際に薬莢と一緒に車内で飛び散らない様に、両方共に専用の袋に落とすようにしてある。
換装した機銃を装備したハ号戦車は、再び大陸へ運ばれて実戦で使われる。
また戦地からの戦闘詳報で、実戦での使用具合はどうなのか知ることが出来るだろう。
1932年9月、日満議定書が調印された、と新聞の一面で報じられていた。
これで満州での事変も一段落となるのだろうか?
ハ号戦車の改修には年内いっぱいは掛かりそうだが、有能な部下達のお陰で俺が掛かりきりにならなくて良いのは助かる。
1932年11月、米大統領選挙で現職のフーヴァー大統領を破ったルーズベルトが大統領に当選した、と新聞に載っていた。ルーズベルトというと日露戦争の時に仲介してくれたあの大統領の親戚か何かだろうか。
そして慌ただしく働いていると、一年が過ぎてしまう。
勉強会は相変わらず続いていて、俺が毎回参加できる訳では無いが、机上演習なども始めたりと中々いい人材が育っている様な気がする。
とはいえ、勉強会では相変わらずきな臭い話も話題に出るという事を考えると、技本勤務であまり軍内の政治に関わる事の無い俺の知らないところで、色んなことが起きているのかもしれないな。
こうして1932年も慌ただしく過ぎていった。何も起きぬと思うが、俺の前世の命日迄あと五年か…。
ハ号戦車が十年使える戦車になるにはまだまだ足りないピースがある様です。