第4章『悲しい涙と決意の気持ち』
「---三人とも、今日は部屋に戻った方が良さそうだね…さすがに、いろんなことがありすぎたわけだし。ひとまずは明日、いろいろ情報を整理してみようか。俺たちも、できる限り協力するから。それから、さっきは平気って言ってたけど、どこか痛いところとかが出たら、すぐに端末から医療ブロックに連絡するんだよ。いいね?」
鶴城先輩から、そんなありがたい言葉をいただいた俺たちは、先輩の言う通り、そのまま部屋へと戻ってきていた。…元々、飯を食べるために外に出ていたはずで、時間的には確実に腹が減っていたはずなのだが…正直、そんなものは今はどうでもいいと思えるほどに、俺もアンも憔悴しきっていた。
「…だぁぁぁぁぁぁ、もう!!ほんっとわけわかんない!!色々台無しじゃない、せっかくさっきまで楽しい時間過ごしたばっかりだったのに!!」
…元気なのはリーザだけ。鶴城先輩から、
「ひとまず、今日は三人とも、できる限り一緒にいた方がいいかもしれないね。もしかすると、別々に危ない目に遭うかもしれないし。…その分、男の子は浦澤君一人だから、面倒はかけちゃうかもしれないんだけど…ごめんね。」
…と言われたこともあり、リーザも一時的に俺とアンの部屋に居座ることになったのだ。
「…リーザ、まずは落ち着け。言いたいことはわかるが、俺やアンしかいないところで八つ当たりしても仕方ない。三人とも無事だったんだ、今はそれでいいじゃないか。」
俺がそう言うと、リーザは目尻に少し涙を見せながら、震える声で言った。
「…仕方ないじゃない…だって、悔しいんだもの。浦澤君が理不尽な目に遭って、アンがあんなに痛めつけられて…それなのに、あたしは何もできなかった…大切な友達があんなことになってたっていうのに…それなのに…!!」
…普段、リーザはこんな仕草や表情を、俺やアンに対しても滅多に見せない。逆に言えば、その表情だけで、あの自信に充ち溢れたリーザが、先ほどの一件でどれだけ自分の無力さを思い知ってしまったのか、それが否応なしに理解できてしまう。
「…しかし、生徒会の再編を本部に打診した、か…学舎を追い出された時に聞こえてきたあの声が、まさか現実のものになりそうになっているとはな…。」
俺はふと、祠島から三人でこちらに来たときに聞こえてきた言葉を思い出して言った。
「うん…私たちのクラスから聞こえてきてたから…こうなること、多分だけど、きっとみんな知ってたんだよね…それなら、あんな風に言わないで…ちゃんとお話…して…ほしかったよ…。」
…アンが涙を浮かべ、肩を震わせたかと思うと、その瞬間、もう堪えきれないと言わんばかりに涙が後から後からこぼれ落ち、可愛らしく整った顔が悲しみや悔しさに歪んでいく。…当然だ。俺たちのクラスは、学舎の中でも非常に仲の良い学生が集まっていたクラスであり、アンはその中において一番のムードメーカーであり、俺やリーザ以外にも仲の良い学生は多かった。…その繋がりが、まさかこんな形で無理矢理に断ち切られることになろうとは、誰が予想などついただろう。それを見て、今にも泣きそうな顔でリーザが言った。
「…ごめんね、アン。もしかしたら、あの時、あたしがアンと浦澤君を連れて学舎から追ん出たりしなかったら、もしかすると、何かが変わってたのかも。それなのに…今思うと、あたし、カッとなった勢いでとんでもないことしちゃったかもしれない…友達を失うこと…それがアンにとって、一番辛いことのはずなのに…。」
…リーザは、俺たちに対して適当な面が確かにあるものの、それはあくまでも友人同士のじゃれ合い程度であり、本質的には他人が本気で嫌がることは絶対にしない真っ当な人間だ。そんなリーザが、こんなにも暗い顔をアンに向けて、自分が自分勝手だったばかりに、と謝罪の言葉をかけているのだ。アンに対する自責の念は、きっと相当なものに違いない。
だが…俺は知っている。
「アン…大丈夫だ。」
俺は子供をあやすように、隣にいるアンの頭をぽんぽんと軽く叩くようにしながら、アンに言う。
「あいつらも、アンや俺たちに喋れなかったこと、きっと後悔してるだろうさ。お前がうちのクラスのやつらに何があったか詰め寄った時、言葉は交わさなかったかもしれないが、あいつらは暗い顔をしてた。泣いてたやつだっている。それがその証拠じゃないか?お前はあいつらと友達なんだろ?なら、お前があいつらを信じてやらなくてどうする?俺たちが学舎にいないことを理由に、お前が友達になったやつらと縁を切るなんてことしないこと、俺はちゃんと知ってるんだからな。だから、そんなこと思わなくていい。泣かなくていい。」
「蒼天…。」
アンが、まだ涙を湛える目でこちらを見る。それに頷き、俺はリーザの方にも顔を向けて言った。
「リーザもそんなに悩むな。そんな顔をするのはお前らしくない。そもそも、悪いのはあの場で俺たちを連れ出したお前じゃない。俺たちを追い出しにかかったうちの学舎の連中と、そいつらの横暴を止められなかった学舎だろう?…むしろ、お前があの時に俺とアンを連れ出してくれてなかったら、俺とアンは今日を待たずに、もっと早く危険な目に遭ってたかもしれない。…それを未然に防いでくれたのはお前だ、リーザ。感謝してる。だからお前はそんなこと気にしないで、いつも通り、俺やアンに妙なちょっかいでも出して笑っていればいい。」
「浦澤君…。」
少し驚いたような顔で、リーザもまたアンと同じようにこちらを見てくる。
…これらは、すべて俺の本音だ。
アンは俺の恋人であり、リーザは俺の友人。そんな、俺にとって大事な存在である二人の想いの向かう方向や判断が間違っていたなどとは、俺は絶対に思いたくない。
…確かに、オーディンであること以外には、戦う力も、絶大な権力も持っていない。この中において一番弱いのは、紛れもない俺自身だ。
…だが、しかし。
俺は、鶴城先輩と話した時のことを、また思い出す。
この数日、いろいろな力の優越を感じて悩んでいた俺に、鶴城先輩は言った。
(『君にしかできないことはあるよ。』)
だから、俺は今、二人に言う。
俺にしか言えないこと…俺自身が、二人に向けてかけてやりたいと思った言葉を。
アンには恋人として、リーザには友人として。
かつてアンが教えてくれた、誰かと繋がり合うことの尊さ。その中で知り合ったリーザがアンに向けたいと願ってくれた、更なる深く強い繋がり。
それを繋げるのは…繋ぎ止められるのは。
---それは、二人のことをよく知ることができている俺にしか、絶対にできないことなのだろうから。
そう思っていると、アンがぽてぽてとリーザに近づき…自分から、リーザへとぎゅっと抱きついた。
「…リーザ、ありがと。」
「…アン…?」
リーザも、まさかアンにこんなことをされるとは思っていなかったのだろう。戸惑う顔をするリーザに、アンが言う。
「…リーザは、私や蒼天が痛い目を見て、それに対して怒ってくれてるんだよね…?理不尽だ、って、意味がわからない、って…そういうことなんだよね?
…私、嬉しいよ。リーザがそんな風に思ってくれて。私と蒼天を守ろうとしてくれて。だから…ありがとね…ありがと。」
…アンは、理解している。
リーザの怒りは、決して自分だけのものではない。俺やアンのことも理解してくれているリーザだからこそ、俺たち全員に対する理不尽に、ここまで率直に怒りをぶつけることができる。
…アンだけでなく、俺も幸せだと思わなければなるまい。
ここまで考えてくれるリーザが友達になってくれたこと。それを繋げてくれたのはアンであること。
顔を上げたアンが、リーザの目尻の涙を指で拭う。…すると。
「…もう、なんで二人とも、そんな優しいのよ。
友達にそんなこと言われたら…嫌でも笑わなきゃならなくなってくるじゃないのよ。」
リーザが、涙を浮かべたまま、アンをぎゅっと抱きしめ返す。…アンは、先ほど抱きしめられたように苦しそうにすることもなく、ただただその抱擁を受け入れた。
「…リーザの体、温かいね。背も高いから、お姉さんみたい。でも…さっきローレライ先輩にぎゅってされたときとはまた違うの。…これがリーザなんだ、ってわかるような…そんな気がする。」
「…アンだって。温かいし、抱き心地のいいサイズだし…あたしの一番のお気に入りのぬいぐるみだってここまでじゃないわよ。…でも、やっぱりそうなのね。あたしを落ち着かせてくれる一番の友達はアンなんだ。…なんだか、浦澤君が羨ましくなってきたわね。」
「…ふふ、よかった。リーザが落ち着くなら、いつでも私を抱っこしていいよ。」
「ありがと。…そんなわけで浦澤君、アンのところ、たまにはあたしにも貸してよね。」
「…言っておくが、アンがいいんだったら俺だって文句は言わないぞ。」
「あら?じゃあ、アンのこといろんなとこに連れ回してもオーケー?まあ、どことは言わないけど。」
そう言って、リーザは俺の方に向き直る。…表情はすっかりいつものものだ。
「…お前のことを信用はしているつもりだが、万が一にでもアンを妙なところに連れていくんじゃないぞ。」
「妙なところに、って…そもそも社島にそんなこと言われる施設なんてないでしょうが。少なくともあたしは知らないわよ。…まあ、それはいいとして。せっかく先輩に今日は君たちと一緒の部屋にいてって言われてるんだし、今日はあたしとアンでベッド占領しちゃって大丈夫?」
「…好きにしてくれ。」
…とりあえず、アンとリーザが多少なりとも元の二人に戻ってくれたようでよかった。…まあ、また俺はソファで眠れない夜を過ごすことになりそうだが…そう思っていると、アンとリーザはひとまず満足したように体を離す。…アンの抱き心地の良さと温もりを堪能できるのは俺だけだと思っていただけに、正直なところ、少しだけ嫉妬してしまう。まあ、友達同士のスキンシップなので、俺からすれば嫉妬心を持つべきものではないのだが…恐るべし、同性の友人。
そんなことを思っていると、リーザがまた口を開いた。
「あ、そうそう。寝る前の雑談と言っちゃおかしいかもしれないんだけど…今のうちに、少し今までのことを整理しておかない?気になることもあるし、先輩たちと共有することだってあるでしょ?」
「…確かにな。先輩たちが来る前のこともあるし、今までのものとの繋がりも見えてくるかもしれない。アンも大丈夫か?」
「…うん、大丈夫。私も、少し考えてたことがあるから。できれば、今二人にも共有したいかも。」
…よし、決まりだな。
昨日、アンと一緒に買い物に行ったときに買ってきたインスタントのコーヒーやら紅茶やら牛乳やら、各々好きなものをマグカップに入れてお湯を注いだり電子レンジで温めたりした後、俺たちはテーブルに座って話をし始める。
「さて…とりあえず、今回わかったことの整理からいくか。」
「うん…確か、あの二人…クレアちゃんと、エカテリーナちゃん、って言ったっけ?あの子たち、何かすごくマルセイエーズ先生と仲良しみたいだったよね?」
ホットミルクの入ったマグカップを両手で可愛らしく持ちながら言うアンの言葉に、リーザが反応する。
「そうね。エールの学生にもほとんど笑い顔なんて見せないあのサラが、あの二人には笑顔を見せるやら猫なで声で喋るやらしてたわ。それこそ気味が悪いくらいに。…まあ、それもこれも、連中の言ってた『第二世代ヴァルキリー』ってやつだからなんでしょうね。」
…そう、『第二世代ヴァルキリー』。
どうやら、ここにいる全員が、この単語に対して、少なからず疑問を抱いていることは間違いなかったらしい。俺はブラックコーヒーを口に運びつつ、二人に問いを投げかけた。
「…アン、リーザ、実際に戦ったお前たちだから聞きたい。特にリーザ…あのエカテリーナっていうヴァルキリー…確か、お前と互角に近い推力を出していたように見えた。肝心な時にお前が手を抜くとは到底思えないが…実際、あのときは手加減はしていたのか?」
『ヴァルキリーエール』の学舎…もっと言えば、少なくとも今の高等部においてだけ言えば最強と言えるリーザを前に、ほぼ互角の力を以て押し合いを繰り広げていたエカテリーナの姿を思い出す。俺のその質問に、リーザは渋い顔をしながら、首を横に振って言った。
「…認めたくないけど、あの時のあたしは全力だったわ。向こうは第二位ヴァルキリーと第三位ヴァルキリーだったから、それなら最上位ヴァルキリーであるこっちの方が、二対一ってことを考えたとしても明らかに有利っていうことはわかってはいたけど、慢心なんて全然してなかった。むしろ、あたしの友達に手を出した報いとして、あの時は二人まとめて何も言えなくなるくらいまで叩き潰そうと思ってたくらいだもの。手加減してあげようなんて考える気もなかったわよ。」
「そうか…しかし、じゃああの力は一体何なんだ?見たところ、オーディンとビフレストを繋いでいた様子もなかった。ビフレストなしで、能力の底上げなんてできるものなのか…?」
俺の疑問に、リーザが続ける。
「さあ…ただ、それを実際に見ちゃったんだから、何かからくりがあるってことは間違いないでしょうね。実際、あのクレアって女はアンと同じ第三位ヴァルキリーだってのに、アンがあれだけ派手に抵抗してもびくともしてなかったわけだし。」
リーザのその言葉に、アンが思い出したかのように言う。
「あ、そうだ…確かクレアちゃん、『タイガーシャーク』のヴァルキリーって…。私、あんまり知らないんだけど、蒼天、リーザ、何か知ってる?」
…そうだ、そういえばそんなことを言っていたな。しかし、アンと同じく、俺は聞いたことがない。俺が困っているのを見て、リーザが言った。
「F-20『タイガーシャーク』…前に自分でネットを使って調べたものだから、どこまで正確な情報なのかはわからないんだけど…確か、東西冷戦期のアメリカが海外輸出向けの戦闘機を作ろうって話になった時、それをめぐってF-16と争ったっていうやつじゃなかったかしら。性能はF-16に劣らない…部分的には勝るところすらあったみたいだけど、当時のアメリカの政治体制の変化なんかもあって、アメリカ軍によってすでに使われていて信頼性の高かったF-16が外国に売られることになった結果、結局どこにも買われることなく、最終的には墜落事故によって試作機三機のうち二機を喪失、そのまま歴史の闇に消えた…うろ覚えだけど、確かそんな感じだったはずよ。」
…こいつは他国のマイナーな戦闘機のことまで知ってるのか。アンが教えたっていう日本の挨拶がすぐに定着したらしいことといい、相変わらず、とんでもない好奇心だ。
「そうなんだ…あのね、…クレアちゃん、何だか独り言みたいに言ってたでしょ?『恨みを晴らしてあげる』みたいな。…それって、今リーザが言ったことに関係することなのかな。」
リーザの言葉を受けて、アンが萎んだ声で小さく言う。
「まあ、多分そうでしょうね。あのクレアって女、声色が冷めてると思って黙って見てれば、やたらとプライド高そうだったし。まあ、あいつはアンのことをサラから聞いたらしいけど…要するにあの女、第二世代ヴァルキリーとやらである自分を差し置いてアンが制式採用機の力を持ってることに嫉妬してるんだわ。それも、自分の力の機体を採用されるされないの争いで負かした機体の力を持ってるってことだけで。…まったく、はた迷惑な話ね。」
アンの顔を見てそんなことを言ったリーザが、はっと顔を上げて続ける。
「…というか、今思い出したんだけど…サラがクレアのこと、グレイマン、って呼んでたと思うんだけど、グレイマンって確か、アメリカの超エリート軍人一家の名前じゃなかった?確か、本家、親戚合わせて将軍レベル、佐官レベルみたいな偉いさんも結構輩出してて、グリーンベレーやデルタフォース、陸軍レンジャー部隊なんかの有名な特殊部隊やら海兵隊やらに所属したり、空軍のトップガンみたいな人間も多い、みたいな話を聞いたことがあるわ。…なるほどね、それならあの性格も理解できるってものよ。どうせ友達と遊んだりするよりも、軍隊的な考え方の勉強やら銃の撃ち方やら拷問に耐える訓練やら、そんな面白味のないことでもしてた方が楽しいタチなんでしょ。そもそも、友達がいるかどうかすら怪しいわ。」
「…そう、なのかな…。」
リーザの言葉を受けて、アンが少し考えながら言う。
「…アン?どういうことだ?」
アンの言葉が気になった俺は、アンに聞いてみる。リーザも俺と同じような疑問を抱いたようで、これから出てくるであろうアンの言葉に耳を傾ける準備は万端のようだ。
「…あのね、今、リーザはクレアちゃんに、友達がいるかどうか怪しい、って言ったでしょ?…それって、本当にそうなのかな、って。
思い出してみてほしいの。私たちの前で、クレアちゃんがエカテリーナちゃんに、『怖がっちゃだめ』とか、『自分たちは周りとは違うんだよ』とか、そんな風に言ってたこと…あの二人は、もしかすると、もうお友達…ってことなんじゃないのかな?だって、クレアちゃんがエカテリーナちゃんのことをお友達って思ってなければ、そんな言葉って出てこないよ。多分、クレアちゃんの性格なら、そのまま何も言わないで喧嘩を始めるとか、エカテリーナちゃんに、『やる気がないならどこかに行って』とか、そんなことを言うと思うの。だから…。」
…なるほど。
アンの言葉を受けて、俺は考えを巡らせてみる。
確かに、あの二人は何だかんだ仲の良さそうな会話をしていた。互いに呼び合う時も、呼び捨てや友達に対する敬称を使っていたことも考えると、おそらく昨日の今日会っただけの関係と断ずるのも難しいだろう。
ついでに言えば、俺が見るに、あの二人はかなり密な連携を…しかも言葉を交わさない形で行っていたように見えた。二人以上の連携は、互いに声かけを怠らずとも完璧に遂行することは難しい。しかし、あの二人はリーザを相手に、声かけをすることもなく、しかし不自由など一切感じさせないような連携を行っていた。
…アンを捉えたクレアを見てリーザがそちらに向かおうとした時に、すぐにエカテリーナに組みつかれたことを思い出してみる。
エカテリーナのあのカバーの速さを実現するためには、まずはリーザがクレアの動きに気づいて最速で動き出すまでの間に、確実に追いつき、かつリーザの動きを牽制できるようなところにあらかじめ位置取りをしておくという高度な読みの力が必要になる。当然、エカテリーナはクレアからもリーザからも遠すぎるところに位置取るわけにはいかない。それだけでなく、クレアの側も、何だかんだ馬鹿にしている相手とはいえ、その相手がリーザである以上、エカテリーナが必ずカバーを入れてくれるという絶大な信頼を持っていなければ、あの時のように、アンを片手で捕まえながらその場でホバリングをしているだけというわけにはいかなかっただろう。それだけの信頼関係と先読みの力が、互いに一朝一夕で身につくことはおそらくあり得ない。そのことも、アンが言う『二人は既に、友人としてそれだけの信頼関係を構築しているのではないか』という疑問に対する信憑性が高いことを暗示しているような気がした。
「そうね…第二世代ヴァルキリーってものが、あそこまで理想的な連携が元々できる存在、ってわけでもなさそうだし…どこでどう知り合ってできるようになったのか…サラが仲介したのか、それともそれ以前からなのか…いずれにせよ、素直に喋ってくれそうな連中でもなさそうだし、とりあえず、明日先輩に話してみましょう。何かわかるかもしれないし。」
「そうだな…あ、そうだ。」
気になっていたことがもうひとつあった俺は、今度はリーザに向き直る。
「リーザ、あのエカテリーナってヴァルキリーの力についてのことなんだが…お前なら何なのかわかるんじゃないか?」
「あぁ、なるほどね。」
リーザはそう言って、先ほど淹れた紅茶の入ったマグカップを口に持っていきながら言う。
「あたしが見たところ、あのエカテリーナって子のヴァルキリーとしての力は、あたしと同じロシア軍の制式採用機…ただ、少なくとも第五世代戦闘機ではないことは間違いないわね。あたしのレーダーにはちゃんと二人分の反応があったわけだから、ステルス性はそれほど考えなくても良いって思って問題ないと思うわ。
それを踏まえた結論だけど、多分、Su-35あたりじゃないかしら。浦澤君やアンは気づかなかったかもしれないけど…実はあの子、何度かこっちに向きを変える時に、その場で高さや位置を変えることなく宙返りをする、みたいな動きをすることがあったのよ。それでちょっとピンときた部分はあるの。それに、何かのからくりによってヴァルキリーとしての力をあたしとほぼ互角まで引き上げられるとはいえ、あたしと押し合うことのできるレベルなら、元の兵器の性能もあたしのSu-30SMとほぼ同じくらいのものでなければおかしいし、そうなると自ずと答えが見えてくるってものよ。」
「Su-35…ロシア軍が制式採用してる、戦後第四・五世代制空戦闘機…だったか。」
「その場で宙返り…ええと…ポストストールマニューバ…だったっけ?確か、それができるのっていうのは、一部の戦闘機に限られる、って…。」
リーザの言葉を受けて、俺とアンが授業で聞いたことを復唱するように言うと、リーザは「二人ともその通り。」と言ってから続ける。
「…世界初の『第二世代ヴァルキリー』に、これまた世界初の第四・五世代戦闘機の力、ね。そりゃサラもウハウハになるわけだわ。ついでに、あたしたちと戦えることがわかっただけで十分、とか何とかぬかしてたことを考えると、遅かれ早かれあたしたちは連中と戦うことになっていた…それこそ、サラからすれば、上手く行けば連中があたしたちを捻り潰せる可能性があるってことがある程度予想できてたんでしょうね。今まで祠島の外に問題が露呈しなかったのも、あたしたちが嫌がらせを受けて祠島から追い出しをくらったのも、もしかしたらサラだけじゃなく、学舎や学園そのものが一枚噛んでるっていう可能性も、正直、かなり信憑性が高くなってきたわね。」
…確かに、考えてみればそうだ。
今のリーザの言葉を聞いて、俺たちが追い出された直後のリーザの予想と、その後の鶴城先輩との会話を思い出す。
祠島においては、よほどのことがない限り、学生の要望や問題が起こったという情報は、当然、最高責任者であるマルセイエーズ先生に真っ先に向かうだろう。つまり、祠島の現状把握を誰よりも早く行うことができ、順序付けや取捨選択が可能で、かつそれを最終決定できる人間は、マルセイエーズ先生以外には存在しない。そうなれば、何らかの問題が起こった時、それがどういった対応になるのかというのは、他でもない、その問題を起こした側、起こされた側共に、マルセイエーズ先生に気に入られているかどうかによって対応が決まると言っても過言ではないはず。
…極端な話だが、通常クラスの学生がエリートクラスの連中にいじめを受け、それをマルセイエーズ先生が本人たちから問題として聞いたとしたら。一応、責任者である都合上、注意喚起程度はしておいてやるとその場では言うかもしれない。だが、本当にそれをやるかという判断をするのはマルセイエーズ先生だ。その場で口をつぐんでしまうこともできるだろうし、続けてそれが起こってしまったという情報を得て、なおかつ同じ被害者が被害を告白したとしても、その場で適当に「あれだけ言っても聞かないとは、まったく、困ったものだ」とでも言っておけば、その学生は学舎はきちんと対応してくれていると判断し、問題を起こしている学生本人たちの責任とすることで、ある程度は仕方ないと思うことにするという発想へと行きつくことになるだろう。そうなれば、何もしていない事実をうやむやのままにして事を終わらせることができる可能性は高い。
…昨今のマルセイエーズ先生の、通常クラスや気に入らない学生たちへの冷遇ぶりから見るに、少なくとも今現在において、今考えたような発想がまかり通るかといえば怪しいが…ただ、実際、祠島の問題が長い間明るみに出なかったことは確かであるわけだから、その理由のひとつは、おそらく以前のリーザの解釈に非常に近しいもの…すなわち、マルセイエーズ先生が社島に戻ってきたという時期から数えた時間の中で、学生たち…もっと言えば、エリート選抜された連中を守りながら問題を外に出さないという方針を、祠島独自の文化として強く根付かせていった結果ということもまた確かなはずだ。その中で影響力が強まり、ある程度自由な発言が許されるようになったからこそ、マルセイエーズ先生は今のように、選民思想にでも取り憑かれたように学生を取捨選択できるようになった上、意見を通すよう平気で本部にまでかけ合うような無茶までできるようになった…そんな可能性は充分に考えられる。
「そういえば…マルセイエーズ先生、最後に言ってたよね。『戦うのに相応しい場所を用意する』とか何とか。…私たち、またクレアちゃんやエカテリーナちゃんと戦うことになっちゃうのかな…。」
アンが言った一言に、俺ははっとする。リーザも俺と同じことを思ったらしく、俺よりも早く口を開いた。
「…戦うのに相応しい場…もしかして、新入生歓迎会の時にやる、生徒会役員と学舎選抜の模擬戦闘のことを言ってるんじゃないの…?」
…やはり、リーザもそう思ったか。
ヴァルホルの行事のひとつ…四月の最終週に設定されている、高等部、大学部合同の新入生歓迎会では、クラス選抜による学年別の模擬戦闘や、学年やクラスの垣根を越えたチーム戦が行われる他に、生徒会役員と学舎から選抜された学生による模擬戦闘も行われる。新入生と在校生、そして新入生同士の交流を深めることが第一ではあるのだが、それ以上に、力を使ったことがほとんどない新入生に、できるだけ早い段階で、ヴァルキリーやオーディンの持つ力の危険性を実際に力を使うことによって理解してもらい、これまで力を使う勉強をしてきた在校生にもその意識を継続してもらうためという、他の学校施設とはまったく異なる個性を持った学園であるからこそ設定されているものだ。これらに使われるのは当然のことながら模擬弾であり、ヴァルキリーのランクの高さやオーディンとの相性の強さによる有利不利がつきにくいようにするために、会場となる演習場に置かれたたくさんのカメラとセンサーによって有効と考えられる被弾部位への被弾が確認されることにより勝敗が決まるようになっていることから、実際に力の危険性をよりダイレクトに知ることは確かに難しいかもしれないが、何も知らなかったり実際にやったことがないことと、多少なりとも理解し擬似的にでもやったことがあることとでは、危機意識には雲泥の差が生まれる。そういったこともあり、遅れてくる学生も多いヴァルホルではあれど、一番新入生の多い四月にそういった行事を行うということは、非常に大きな意味のあることなのだ。
生徒会役員と学舎選抜の模擬戦というのは、その名の通り、学舎から元々選抜を受けている高等部の生徒会役員と、その生徒会役員と同じ学舎で新たに選抜された学生が、一対一、あるいはチームを組んで戦う模擬戦だ。もちろん、学舎で選抜される人間は新入生でも可能であり、実際にリーザは一年生の時に学舎代表に選ばれたことがあった。…まあ、リーザは面倒だという理由で辞退したらしく、その時は別の学生が新たに選抜されることになったのだが…まあそれはいいとしよう。とにかく、その選抜メンバーに新入生も入れられることはわかっている上、エールの学舎にいて、その選抜に対する最終決定権を持っているのは、まず間違いなくマルセイエーズ先生だ。アンやリーザと戦えるだけで充分だ、ということを言ってきたこともあるし、あれだけクレアとエカテリーナを猫可愛がりしているわけだから、二人を学舎選抜にしたいという気持ちを持っていることは、おそらく間違いないだろう。
「…まさかとは思うが…マルセイエーズ先生は、それを使って本島に対しての影響力をさらに強める気なのか…?」
俺は、マルセイエーズ先生が言っていたことを思いだし、そんなことを呟いていた。
「うん…可能性は大きいよね。」
俺の言葉に、アンが答える。リーザもその言葉に同意するように、首を縦に振って言った。
「ええ、あたしたちと戦えれば大丈夫でしょ、って言ったのは、ほぼ百パーセント、それが目的だからでしょうね。新入生歓迎会は他の学生とか学園のお偉いさん方、それから国連のお偉いさん方も見に来るわけだし、多分、あの二人がその場であたしたちを負かしたとなれば、サラの発言力がさらに強くなることも間違いないわ。だって、どんなに理想が高くても、それを可能にする力がなければ何もできないってことを、人死にの出ないことが確実な模擬戦っていう平和な場で、その平和ボケしてるようなお偉いさんたちに目の前で証明できるいい機会だもの。そうなれば、あたしたちや白鷺先生みたいな目の上のたんこぶを排除できる可能性があるだけじゃなく、社島の在り方そのものに今以上にああだこうだ言えるようにもなるでしょうね。
…まあ、あたしの考え過ぎならいいけど、それがエスカレートして行き着く先は…多分、社島の今の体制の崩壊だろうと思うけどね。下手をすれば社島とヴァルホルは、国連によるヴァルキリーやオーディンの保護と教育を目的とした組織じゃなく、軍向けのヴァルキリーやオーディンの育成を目的とした組織…もっとひどく言えば、ただの人殺し製造工場に成り下がることにもなりかねないと思うわ。まあ、さすがに今すぐに、ってわけにはいかないとは思うけど。」
「…何とかして止められないのかな、マルセイエーズ先生のこの暴走みたいな行動。…クレアちゃんとエカテリーナちゃんとも、どうしても仲良くできないのかな?」
アンが、俺とリーザを見て、不安そうに言う。
「…少なくとも、今の時点では難しいでしょうね。多分、サラも前々からそうできる日を待ち望んで準備を進めてたはずよ。それなのに、あの女がみすみす自分からチャンスを放り出すとは到底思えないもん。あの二人に関しても同じことね。どういう理由であれ、サラのお人形が、自分たちをあれだけ可愛がってくれるサラの意志に反することは、よほどの事がない限りないって考えた方がいいと思うわね。」
「俺もリーザに同意だな。それができる力をうちの学生…それもマルセイエーズ先生が可愛がってる連中が持ってしまったから行動に移していると考えられる以上、少なくとも先生に自制を求めることはできないだろう。
それにそもそも、あれだけのことが起こったのに、学園側が今になっても何も動いていない。社島の大元であるはずの国連もだ。あれから多少時間が経って、おそらくマルセイエーズ先生がすでに新入生歓迎会の話を向こうに持ちかけている可能性があるにも関わらず、な。
…こんなことを自分の通う学園の偉いさんたちに対して言いたくはないが、要するに、祠島の連中を敵に回すのが危険…もっと言えば、それを止められなかったことが自分たち自身の責任になることだってわかってることが、学園の運営側も大きな声を出すことができないでいる理由なんじゃないか?それなら、国連が動かないのも納得できる。当然だ。この予想が大正解だったら、社島からは今回のこと…いや、それだけじゃない。下手をすれば今までの問題についても、国連の方に何の報告も上げていない…つまり、国連がエールの学舎や社島そのものの現状について、何の把握のしようもないという状態にある可能性すら捨てきれないってことになるんだろうからな。
マルセイエーズ先生がいろいろ言ってきた上に、祠島にはそれなりの戦力が整ってる。言ってしまえば、祠島の連中、特にエリート選抜されてる連中は、マルセイエーズ先生が育てた精鋭部隊みたいなものだ。まあ、本島の戦力も間違いなく歴代最強レベルで馬鹿にならないものが揃ってるから、何かあったとしても一方的に負けることはまず考えにくいが…ただ、島の在り方を考えれば、万が一武力衝突なんかに発展して、これが元でエールの学舎の現状や社島の運営本部の対応が明るみに出れば、ヴァルキリーやオーディンの教育と力の平和利用を目的とする社島とヴァルホルだけじゃなく、それを運営してスタッフを管轄している本部、もっと言えば国連の沽券に関わるだろう。そうなれば、国連の要請で排他的経済水域の中に社島を置かせてやっている形になっている日本政府だけでなく、世界の国をすべて、国連と社島は敵に回すことになる。いくら理不尽なことを要求されたと訴えたとしても、世間的にはそんな人間を学園で教師として受け入れて好き勝手させた上に、一度わがままを聞き入れたことでさらにわがままがエスカレートした結果なんだろうと捉えられるのが自然だろうからな。それが社島とヴァルホル…世界平和の守護者であるはずの国連安保理の管轄する組織ならなおさらだ。
ならば、島の中だけで解決できるようにする…言い方を変えれば、その事実を公式的に揉み消すことができる道を探せばいい。それには、マルセイエーズ先生が言うであろうことをとりあえず受け入れておくことが一番手っ取り早いだろう。本当にマルセイエーズ先生が俺たちとあいつらを新入生歓迎会で戦わせようとしているとしても、人死にが出ないことがわかりきっているただの行事なんだから、とりあえず国連の方から文句を言われることはない。それに、向こうが勝っても、生徒会や学園組織の再編が行われるだけなんだから、少なくとも今は運営側に目立ったデメリットはないはずだ。逆に俺たちが勝てば、目立たない小さなデメリットすら帳消しにした上に、祠島に関して好き勝手を言わせないようにできる可能性もあるという、かなり高いつり銭だって発生してくることになるだろう。…なら、俺たちを使ってでも社島にとって利益が高い方を取ろうとすることは、まったく不自然なことじゃない。むしろ、運営本部がそこまで保守的に考えてるなら、俺たちを体のいい駒に使った上で、その結果を以て交渉に持ち込めるのなら持ち込もう、という方法は、今の段階ではおそらく限りなく最善に近いものになるはずだ。」
…自分でそう言ってはいるものの、正直、この考え方がどうか杞憂の産物であることを祈らずにはいられない。しかし、目の当たりにしている現実は、それを許してくれそうにない状況にあることもまた確かだろう…俺はそう考えるしかない。
…しかし、どうすればいい?俺たちが今回のエールからの高等部生徒会役員である上に、そういった伝統があって、なおかつ学園が現状維持路線である可能性が捨てきれない以上、新入生歓迎会が予定通り開催されるとなれば、出場を拒否することも難しい。さっきはかなり派手にやったわけだから、周囲ブロックAの地上区画はかなりボロボロになってはいるはずだが、それだって、これだけ広い社島のごく一部に過ぎないし、学園の施設や地下区画、それに他の区画が派手に壊れたわけでもなさそうだ。新入生歓迎会は時期的にはまだ時間がある。遅くとも、周囲ブロックAの地上区画が修復された後には、新入生歓迎会は何事もなかったように開催されるだろう。そうなれば…俺たちはどう転んでも、遅かれ早かれ確実に貧乏くじを引かされることになる。
「そう、だよね…。」
暗い表情をして、黙りこんでしまうアン。…おそらく、俺も似たような顔をしているんだろう。
「どうしたものかしら、と言いたいところだけど…いずれにせよ、これはもうあたしたちがどうにかできる問題じゃないわ。国連にあたしたちから直接的にコンタクトを取って、社島の問題を投げかけてみることもできなくはないだろうけど、勝手にそういうことをして、無駄にサラを刺激することもしたくないし…。」
…俺たち三人の中で一番頭の回転が早いであろうリーザすら手詰まりと判断するのなら、本当に俺たちにできることはないのだろう。
俺たちはしばらくの間、テーブルから離れることはできなかった------
※※※
(another view “Angelina”)
「…ねぇアン、一緒にお風呂行かない?」
リーザがそんなことを私に言ってきたのは、暗い雰囲気の中で、何となく飲み物の追加を用意しようと思ってテーブルを離れようとした瞬間だった。
「…お風呂?」
私が聞き返すと、リーザは先ほどの暗い表情から一転、いつもの明るい表情を浮かべて言う。
「そう、お風呂。祠島でも、お風呂って部屋にあるやつしか入ったことなかったでしょ?実は、前に聞いたことがあるのよね。パンツァーの寮の大浴場って、今くらいの時間って誰もいない、って。だから、たまにはいいかなーって思ったのよ。せっかく今日は一緒の部屋にいられるわけだし。どうせあたしたちじゃどうにもできない問題なんだから、神妙な顔してたって仕方ないでしょ?」
「ええと…うん、いいよ、リーザとお風呂。蒼天、行ってきても大丈夫…かな?」
私がそう言うと、蒼天はいきなりのことに少しびっくりしたようだが、すぐに顔を元に戻して言った。
「…ああ、まあ、アンがよければ特に問題はないが…。…しかしリーザ、本当に切り替えが早いな、お前は。」
「決まりね。…ってわけで、浦澤君、アンのところちょっと借りるから。…あ、アンがいないことが寂しいからって、覗きに来たりしないでよ?」
「誰が覗きなんぞするか…。いいから行くならさっさと行ってこい。」
にやりとしたリーザの言葉に、蒼天が頭を抱えて呆れ返りながらそう返すのを見届けた後、私とリーザは着替えとお風呂用品を持ってお部屋を出る。
「わ、すごく広いね。それに、本当に誰もいない…。」
大浴場に到着し、日本式の暖簾を潜った後、広い脱衣場を見た私は、思わずそう呟いてしまう。祠島にも大浴場はあったが、学食と同じく、万が一にでも他の学生とかち合いたくないという理由から長らく使ってこなかったために、私の目には、この光景は本当に新鮮に映っていた。
「………。」
お洋服を脱いでバスタオルを体に巻きながら、私は隣にいるリーザをちらりと見て、それから下へと目を落とす。
「………………。」
「…ん?アン、どうしたの?」
私の仕草に気がついたリーザが、私にそう問いかけてくる。
「…あ…ううん、何でもない…。」
「えー、何でもなくないでしょ?嘘つかなくていいわよ。アンがあたしの胸と自分の胸を見比べた後、ほっぺを膨らましながら口をへの字にしてたの、ちゃーんと見てたんだからね、あたし。」
…どうやら、リーザは完全に私の視線の先に何があったのか把握済みだったらしい。
「…ねぇ、リーザ。何を食べたらそんなにおっきくなるの?それとも、何か特別なことやってたりするの?」
脱衣場からこれまた広い浴場へと入り、鏡の前に座ってシャワーで髪にお湯をかけ、いつも使っていることから大浴場にも持ち込んでいたシャンプーを泡立てながら、何となく、私はリーザにそう聞いてみる。
…リーザはそもそも、毎日のご飯だって私の半分すら食べない。それなのに、出るところはしっかり出ているという、同性からしてもかなり羨ましいと言えるモデルさんのような理想的な体型を維持できているのだから、リーザにも何か涙ぐましい努力があるのだろう。
「んー…特に何もしてないわね。あんまりたくさん食べないようにしてるくらい?」
…そんな考えは、隣で同じく座って体にお湯をかけているリーザのその一言で一瞬で打ち砕かれた。
「あぅ、そ、そうなんだ…。」
…何だろう、聞かない方がよかったかもしれない。そう思いながら、私はシャワーを出して、シャンプーでもこもことした長い髪を洗い流しにかかる。
「んー、でも、あたしからすれば、あれだけ食べても余計なお肉とか全然つかないアンの方がすごいと思うけど。それだけ代謝がいいのかしら、とか思ったりするし。」
少し考えながら、そんなことを言うリーザ。…代謝が良いのであろうということは認めるけれど、代謝が良くてもリーザのようにお胸が大きくなることはないし、むしろ減らなくていいところの脂肪まで勝手に減っていってしまうのだから、やはり羨ましいことには違いない。そんなことを思っていると。
「…あ、そうだ。アン、背中流したげる。前にアンから、日本じゃそういうこともするって聞いて、ちょっとやってみたかったのよね。」
そう言って、リーザがボディスポンジを持ってこちらを見た。
「あ…うん。いいよ。ありがと、リーザ。じゃあ、これ。いつも使ってるボディソープ。」
私がそう返すと、リーザは「やった。じゃ、失礼しまーす♪」と言って嬉々として私の後ろに回り、スポンジを泡立てた後、私の背中を優しくごしごしし始める。
「…うーん、ずっと見てるけど、やっぱりアンって、お肌すごく綺麗なのよねぇ。さっきの胸の話じゃないけど、なんだか羨ましくなっちゃう。スキンケアとかどうしてるの?」
「ええと、う~ん…一応、ハンドクリームをお風呂上がりに塗るくらいかな。」
「うっそ、それだけ!?化粧水とか乳液とか使ってないの!?」
私の言葉に、驚愕を隠せないらしい顔をしてリーザが言う。
「うん。私、そんなにお肌がかさかさすることとかはないから。でも、お料理とか洗い物とかするから、手だけはちゃんとしないと荒れちゃうかも、って思ってるの。」
私がそう言うと、リーザは何やら納得したように言った。
「わぉ…これが個性ってものなのねぇ…アン、大丈夫よ。胸が大きくなくたって、アンにはそのきめ細かくてほとんど何もしなくとも乾燥に無縁なすべすべお肌があるんだから。あたしとかはもう、何もしてないとすーぐお肌乾燥しちゃうもの。努力してるんだからね、あたしも。」
「ええと…何だろ、そう言われるとちょっと嬉しいような悲しいような…。」
私がそんなことを言うと、リーザはにやりという何やら不敵な笑顔を浮かべて、
「なーーーーにが悲しいのよ~、こんな羨ましいお肌、こんなに可愛らしい顔、綺麗な髪にしっかりフィットする抱き心地!あー、もう!これを毎日毎日堪能できる浦澤君が羨ましくて仕方がないわよこんちくしょ~♪」
…と言いながら、がばっ、と後ろから抱きついてくる。
「ひゃぁ!?り、リーザ、危ないよ!それにこんなに騒いだら、誰か入ってきたら怒られちゃうかも…。って、んにゃぁっ!?どどどどこさわってるの!?」
「えー、いいじゃない。さっきいつでも抱っこしていいって言ったのはアンだもーん。それに、言ったでしょ?この時間は誰もいないって聞いたって。だから、ちょっとくらい騒いだって誰も来やしないわよ。あーもう、ほんとに全身すべすべでやわこくて可愛いんだからもう、癖になっちゃうわ~…♪」
…そんなことを言いながら、背中をスポンジでごしごしすることも忘れて私の体のあちこちをいじくり回すリーザ。
「あぅあぅ…た、助けて、蒼天~…。」
困り果てた私が、そんな情けない声を出した時。
「…あら?フローレスさんとグラーヴィチさん…?」
「え…?」
入口近くからからかけられた声に、私とリーザは一緒にそちらの方を向く。
「ローレライ先輩…?」
私たちと同じく、バスタオルを体に巻いているローレライ先輩。彼女は、私とリーザを見て、少し驚いたような顔をして言った。
「お二人も大きなお風呂に入りに来たんですね。この時間だといつもわたししかいないので、ちょっと新鮮です。…あ、フローレスさん、お隣、失礼しますね。」
そう言って、ローレライ先輩は私の隣のシャワー椅子へと腰を下ろす。
「…あの、先輩は、大浴場ってよく来られるんですか?いつも先輩しかいないって…。」
リーザが、私も聞きたかったことを先輩に問う。
「ええと…そうですね、この時間限定ではあるんですけど。普段は誰もいないので、考え事をしたいな、とか、どうしても疲れていて、お部屋のお風呂ではちょっと狭いかな、って思う時は割と来るんです。…あ、もちろん、お部屋のお風呂が嫌なわけではないんですよ?お部屋のお風呂なら、前にしてしまったみたいに、疲れていたことで半分寝つつ考え事をしながら来て、間違えて男性用に入ってしまうこともないですし…それにお部屋だと、誠さんと何の気遣いもなしに一緒に入ったりできますし。」
…今、小さく呟いた先輩の口からとんでもない言葉を聞いた気がする。
以前、白鷺先生がノリで「一緒にお風呂に入っているのか」と聞いたことがあって、その時に先輩は「自分のしたいことを鶴城先輩と一緒にしたい、鶴城先輩にしたいことをさせてあげたい」とは確かに言っていたが…まさか、本当に一緒にお風呂に入るときがあるなんて。ついでに言えば、その時に白鷺先生が言っていた『お風呂間違えました事件』とやらも、実際にローレライ先輩の経験としてあったことなのかということが、今の話だけですべて理解できてしまっていた。
「…すごいね、先輩。」
「そうね…ほんとすごいわ。」
目を丸くしながら言う、私とリーザ。…今の先輩の爆弾発言も然ることながら、もうひとつ…いや、私とリーザの見ているところは違うのだろう…とにかく、私たちは、シャワーを浴びるローレライ先輩へとその丸い目を向けていた。
「優しくて、美人さんで…おっきくて…。」
「お肌はすべすべ、髪も綺麗…。というか、美人なだけじゃなくて可愛らしいとこもあるのよね…そんでもって背丈も割と高いからアンバランスにも感じないし、極めつけとしてヴァルキリーとしては最強…天から一体何物与えられてんのよ、この人…。」
一度先輩に背中を向けてひそひそと言い合ったかと思うと、どちらからともなく膝から崩れ落ちる私とリーザ。
「…?ええと…お二人とも、大丈夫ですか…?わ、わたし、何かしちゃったんでしょうか…?」
「い、いえ、大丈夫です…。」
「ええと、まあ何ていいますか…格の違いってのはこういうものなのかな、って思っただけですね…あ、アン、ほら、湯船行かない?」
「う、うん!おっきな湯船、楽しみ~…。」
困った顔をするローレライ先輩にそう言いながらボディソープを洗い流した後、私たちは湯船に走っていって同時に飛び込む。大きな音がして、湯気と共に大きな水柱が立った。
「わ、わ…お二人とも、お風呂でそんなことしたら危ないですよ…!」
私とリーザが湯船に飛び込む姿が鏡に映ったらしい。ローレライ先輩が、慌てた様子でこちらを向いて声を上げてくる。
「あ、あはははは…。」
「いえいえいえいえ、大丈夫です先輩、あたしもアンも怪我したりはしてないので、お構いなく~…。」
…から笑いを浮かべながらではあったが、どうやら私たちが怪我をしていないことは理解してくださったらしい。ローレライ先輩が、仕方ないですね、という顔をしたとき、リーザが何となく申し訳なさそうに言った。
「あの、先輩…いきなりこんなところで聞くべきじゃないのかもしれないんですけど…今回のこと、結局どうなりそうなんですか?国連や学園が動いてるとか、そういうことは…?」
リーザの言葉を聞いて、ローレライ先輩は首を横に振って言う。
「…ごめんなさい、グラーヴィチさん。今の状況では、わたしも誠さんも何とも言えないです。さっき、わたしと誠さん、それから白鷺先生で運営本部に直訴したんですけど、あまり良い反応をもらえていなくて…国連の方に報告するべき、っていうお話もしたんですけど、マルセイエーズ先生を、ひとまずはあまり刺激するような行動をしないようにしてほしい、って言われるだけだったんです。…本来なら、明日そのことを誠さんと一緒にみなさんにお伝えするつもりだったんですけど。」
…その言葉を聞いて、私は先ほどの蒼天の勘が大当たりであったのだということを、否応なしに察してしまった。
「…でも、仕方ないですね。運営本部が今のように、後手に回るような形になってしまうきっかけを作ってしまったのは、多分、わたし…『史上最大の狼化現象』のせいなんだと思いますから。」
…ローレライ先輩が、表情を悲しいものにして、そうぽつりと呟く。
「…え、先輩、どういうことですか…?」
私は、驚いて先輩にそう聞いてしまう。どうやらリーザも同じことを思ったようで、神妙な顔つきで私と同じように先輩に顔を向けている。
「…せっかくなので、お二人にお話ししてみようかな、と思いますね。…きっと、わたしがここに来て、お二人とここでこうして一緒にお風呂に入っているのは、わたしがお二人にお話を聞いてほしいと思っていたからなのかな、と思うので。ええと、どこからお話をしようかな…。」
そう言って、ローレライ先輩は少し考えた後、口を開いて話し出す。
「…今なら、授業でも教わりますし、何日か前に、医療ブロックでお話をしたときに、カーティス先生からもお話が出てきたので、ご存じかな、とは思うんですけど…『狼化現象』は、ヴァルキリーやオーディンがはじめて確認されて、社島ができてから三回起こっているんです。…そして、その三回目である五年前のわたしの狼化…『史上最大の狼化現象』は、その名の通り、社島をわたしごと海の底に沈めなければならないと思われるほどのこと…誰も死ななかったことが、そもそも奇跡であるような出来事だったんです。
…結局、誠さんが、自分自身と兵器の記憶の混線を起こして暴れているわたしを止めてくださったことで、島を沈めることは回避されました。それでも、島の機能は、五年前と比べても完全には元通りになっていません。わたしが狼化した場所である学園と、狼化の影響によってお腹が空いたと言うことしか考えられなかったわたしが、お腹を満たすためにオーディンを探して動き回った範囲に関しては、生徒会にいるお二人ならわかってくださると思うんですけど、その時に壊れたところ…特に、わたしが一番暴れたところである周囲ブロックEの地上区画とその周りは、ひとまずは、社島を運営するスタッフの方々やそのご家族の居住区画としての元の機能を最低限取り戻してはいるけれど、大きく抉れている山肌はそのままですし、所々には、まだ片付けられていない瓦礫や、燃えて倒れた木の幹もたくさんあります。そして、わたしがいきなり進路を変えたことで、避難する方々を守るためにやむを得ずわたしと戦うしかなくなってしまったお友達たちも、あの時、命に別状はなかったとはいえ、何人も怪我をしてしまいました。理性を失っていたわたしを何とかその場で押し止めようとして、かなりの重症を負ってしまった子もいます。…そうしてしまったのは、他でもない、わたし自身なんです。
でも…当時の学園長先生は、わたしを責めることはありませんでした。『あなたは何も悪くない、あなたが狼化してしまった原因は、すべて私にある』って仰って、彼女は学園長先生をお辞めになったんです。」
「前学園長…クラリス・L・カリエール女史…ですよね?確か、社島の運営から離れても、国連内部において大きな影響力をまだ持っている、って…。」
リーザがそう言うと、ローレライ先輩は、少し微笑みを浮かべながら言う。
「はい、そうです。社島の運営をお辞めになっても、まだそれだけの影響力を持っていらっしゃるというのは、カリエール先生の人柄があるんだと思います。
…後からフィアお姉ちゃん…誠さんの前の学園生徒会長さんから聞いたんですけど、先生は、わたしをずっと守ってくださっていた方のお一人だったそうなんです。わたしがフィアお姉ちゃんのお部屋の隣に新しくお部屋を用意してもらえたのも、カリエール先生がわたしのことを聞いて、できる限り、ご自分の目の届かないところでわたしを守ることができるようにしてくださったかららしいので。
…と、ひとまずそれは置いておくとして…カリエール先生が運営をお辞めになってからの社島の運営本部は、わたしが見るに、ではあるんですけど、実際のところ、かなり保守的なものになっている部分はあるのかな、って思うんです。…確かに、社島の運営本部の人たちは国連のスタッフという扱いですから、国際的な非難を受ける可能性のあることをしたくないのは仕方ないかもしれないですけど…。ただ、問題が顕在化してしまったら、自分たちもカリエール先生のように社島を去らなければならない…そういったことは、きっと本部スタッフの誰もが思っていらっしゃることなのかな、って思うんです。」
「先輩、もうちょっと聞きたいんですけど…さっき、本部に問い合わせた、って言ってましたよね?その時、行事や学園についてとか、何かお話ってありましたか?実はあたしたち、さっき浦澤君を含めた三人で話し合って、サラが新入生歓迎会の模擬戦闘を使って、社島の中での発言力をさらに強めようとしてるんじゃないか、っていう結論に達したんです。それについて、本部から何か聞いてませんか?どんなことでもいいんですけど。」
…私の聞きたかったことを、リーザがローレライ先輩に問う。先輩はびっくりした顔をしたが、すぐに顔を元に戻して言った。
「…やっぱり、みなさんは鋭いですね。
実は、誠さんとわたし、それから白鷺先生も同じことを考えていたんです。というのも、マルセイエーズ先生から運営本部に、新入生歓迎会のエールからの選抜を、グレイマンさんとスヴォリノヴァさん…先ほどの二人にすると連絡があったらしくて。誰にも言わない方がいいって白鷺先生から言われていることなんですけど…ここまで詳しく、しかも同じような予想をしているなら、黙っていても仕方ないですよね。後でわたしから、白鷺先生や誠さんに、お二人にはそのことを伝えた、ってお話ししておくので、ひとまず、混乱を避けるためにも、みなさんの心の中にだけ留めておいていただいても大丈夫ですか?」
「もちろんです。多分大丈夫だとは思いますけど、後で浦澤君にも、先輩から黙っておいてって言われたこと、伝えておきますね。」
リーザのその言葉を聞いて、ローレライ先輩は安心したような顔をして、濡れた髪をまとめにかかる。
「…あっ…。」
…その時、私は気づいてしまった。
「…フローレスさん、どうかしましたか…あ…もしかして、これ、ですか…?」
私の視線に気づいたらしいローレライ先輩が、私やリーザにもそれが見えやすいように、まとめようとしていた髪の位置をずらす。
「先輩、それって、もしかして…。」
隣にいるリーザも、どうやら、その光景を見て絶句しているようだった。
…先輩の綺麗な金色の髪で見えていなかった、ローレライ先輩の背中。白くてきめ細やかなお肌であるはずのそこに、何かで切り裂かれたような、大きく痛々しい傷跡があるのだ。びっくりしないほうがおかしいだろう。
「…少し前に誠さんが言っていたので、お二人はご存じですよね。
グラーヴィチさんの考え通り…これはわたしが社島に来る直前に、実のお父さんに乱暴されてできた傷です。」
…それを聞いた私は、以前、鶴城先輩が言っていたことを思い出す。
社島に来てからどころか、ご家族にすらひどいことをされていたというローレライ先輩。他の怪我は消えても、お父さんによるものという一番大きな傷は、まだ消えることなく、彼女の背中に残っている…鶴城先輩は、そう言っていた。
ローレライ先輩の言葉は続く。
「…社島に来る直前…わたしは妹…みなさんには、アンネマリー・Z・ローレライ、って言った方がいいかもしれないですね。…とにかく、わたしは妹と一緒に中等進学校に通っていたんですけど…わたしがヴァルキリーの資質に目覚めた時…お父さんから突然、学校のあるベルリンから、ケルンにあるおうちに戻るように言われたんです。
その時、お父さんとお母さんは、わたしがベルリンでヴァルキリーの資質に目覚めたことを知っていました。世界中のすべての学校施設は、ヴァルキリーやオーディンの資質に目覚めた学生を見つけたときには、きちんとヴァルホルへ報告する義務がありますし、そのためのヴァルホルとの直通回線を必ず持っていますから、多分、学校からヴァルホルに連絡が行った後、おうちにも何らかの形で連絡が行ったんだと思います。
帰ったばかりの時、お父さんはいつもの乱暴な物言いも暴力に訴えることもしないで、怖いくらいに優しく私たちを迎えてくれました。でも、わたしが最上位ヴァルキリーの資質に目覚めたことで、娘が軍人になってお金持ちになれると喜んでいたお父さんを前に、わたしがヴァルホルに行くことを躊躇するようなことを言うと、その物言いは変わりました。いつもの…いえ、もっと怖い顔をして、いつもよりもっと強い力でわたしはほっぺを叩かれて怒鳴られました。妹がそれを止めようとしてくれましたけど、結局お父さんの怒りを鎮めることはできなくて…最終的に、妹はお父さんによって無理やりにベルリンに戻されて、わたしは社島に来るまで、おうちに閉じ込められることになりました。…この傷はその時…おうちに閉じ込められていた時にできたものなんです。
…あれは夜のことでした。朝から晩までお父さんの怒鳴り声と暴力に苦しんで、身も心もぼろぼろだったわたしが唯一安らげるのが、夜、ベッドで眠りについてから起きるまでの時間だけでした。
でも…その日は違いました。お父さんがいきなりお部屋に入ってきたんです。…その時はわたしを庇ってくれる妹もいなかった上に、お母さんもお父さんを怖がったり日頃のお仕事で疲れはててしまっていたりしたので、お父さんはきっと、かなり欲求不満だったんだと思います。
わたしはそれに必死で抵抗して…気がつくと、ヴァルキリーとしての力を使ってしまっていました。スヴェルを纏ったりグングニルを撃ったりはしなかったけれど、お父さんを思いきり投げ飛ばしてしまったんです。…後から、わたしはルーンの詠唱が基本的に必要のないヴァルキリーである、っていうイレギュラーな存在であることがわかったわけですけど…でも、それはわたしがお父さんのことを限界以上に怒らせてしまうには充分すぎる出来事でした。…お父さんは、お父さんの言うことを聞くしかできなかったわたしのことをずっと見ていたわけですから、きっと、自分がわたしを好き勝手にしたとしても、どうせ大した抵抗なんてされないだろう、って思っていたんだと思います。
…お父さんは、わたしが机の上に置いて大切にしていたガラスの写真立てを壊してから、自分のしたことが怖くて力が入らないわたしをベッドに押さえつけて、その破片でわたしの背中を刺しました。刺されたところ自体はそれほど深くはなかったからまだよかったけれど、痛くて痛くてたまらずにわたしが叫びながら体を反らせても、ガラスは構わずにわたしの背中を滑り続けました。ようやくそれが止まったのは、お父さんがそれをわたしの背中から引き抜いて、震えながら『お前が抵抗したからこうなったんだ、化け物め』って言ってお部屋を出ていった時です。…お父さんにそんなことをされたこともとても怖かったけれど…それよりも、わたしがヴァルキリーとしての力に目覚めたことをあれほど喜んでいたお父さんにそんなことを言われたことは、わたしにとってはすごくショックなことで…でも、それだってわたしのせいなんだ、わたしはこんなに怖い力を…人を不用意に傷つけかねない危険な力を実際に持ってしまって、それでお父さんを怖がらせてしまったんだ、って…そう言って泣くことしかできませんでした。
それ以来、お父さんに乱暴されることはなかったけれど、その日から社島に向かうことになる日まで、わたしはお医者さんに行くこともできずに、お部屋にあるもので何とか応急処置をする以外にできることはありませんでした。…そして、社島に来た後、…カーティス先生に診ていただいた時に言われたんです。大きい上に長い間満足な治療をしていなかったことで、この傷は一生残るものになってしまうだろう、って。フィアお姉ちゃんに何があったのか聞かれた時は、『雨の降っている時に、転んでたまたまその場にあった石によってできてしまったもの』と言って誤魔化しましたけど…真相がわかって叱られてしまった時に、『やっぱりそうだったのね』って言われたところを見ると、さすがに無理のある言い訳だったみたいです。」
…そんなことを言いながら、目を細めた先輩は、一度私たちから顔を背けた。
(ローレライ先輩…。)
先輩のそんな姿を見た時、私の脳裏に、先ほど見た光景がよぎる。
…自分へと向かって降り注ぐ、銃弾やミサイルの雨霰…そんな、普通の人間ならば死と隣り合わせの恐ろしい空間の中を、髪の一本すら焦がすことなく歩き続けたローレライ先輩。スヴェルを纏っていたとはいえ、ミサイルが直撃しても、怪我はおろかスヴェルに汚れひとつすらないという、そんな途方もない力の持ち主であるローレライ先輩の背中に、あの傷跡は確かに存在するのだ。…それはすなわち、彼女の他の追随を許さない圧倒的な力は、あくまでもスヴェルを纏っている状態…力を発現させた場合でのみ行使されるものであるということに他ならない。
(…あれほど特別視されてるローレライ先輩も、普段はどこも皆と変わらない、普通の女の子なんだ…。)
私が、心の中でそう思った時。
「…本当に、間に合ってよかったです。
わたしがあの時にもしも間に合わなかったら…今度はフローレスさんが、わたしと同じ、完全に癒えることのない傷を負ってしまっていたかもしれないんですから。」
タオルで髪をまとめ終えたローレライ先輩が湯船につかり、私たちの近くまで来て、そう言った。
「あ…ええと…そうだ、先輩…先ほどは、ありがとう、ございました…。」
私は、先輩にそんな言葉を向ける。
…先ほど、クレアちゃんによって命を奪われかけた私。それを未然に防いでくださって、私が今、怪我もなく五体満足でいられるのは、他でもない、私を守ってくださったローレライ先輩のおかげなのだから。
…だから、今の言葉は、私の精一杯の感謝。それを受け取ってくださったのだろう。先輩が、少し暗かった表情を緩め、微笑みとして私に返してくれる。
「…それから…ごめんなさい、先輩…私が気になっちゃったばっかりに、辛いことを思い出させるような形になっちゃって…。」
私がそう言うと、先輩はふるふると首を振って言った。
「そんなことはないですよ。お二人にこれを自分から見せたのはわたしなんですし…それに、今はこの傷はわたしにとって、何物にも換えがたい勲章みたいなものだと思えていますから。」
「勲章…ですか?」
そう聞くリーザの声を聞いて、先輩は目を細め、自分の体を抱きしめるような仕草をしながら続ける。
「…そうです、勲章、です。
だって、わたしがあの時お父さんにあれ以上好き勝手されていたら…お父さんに対して抵抗できていなかったら…きっと、わたしが今、誠さんにあげたいと願うものや、誠さんと一緒に体験したいと思う大切なことは、誠さんに出逢った頃には、すべてなくなったりできなくなってしまっていたはずだから。
誠さんは出逢ったばかりの頃、わたしの力を、無闇に傷つけるために使う力ではなく、守りたいと願うものを守るために使えばいい力と言ってくれました。恋人さん同士になって、一緒に狼化現象を乗り越えて…そして、これまでだけでなくこれからも、いつまでも誠さんと一緒にいたいと思う今なら、その意味がもっと良く理解できていると思ってます。…この力によってわたしが守りたいと願ったもの…それは、わたし以外の他人だけではなくて、誠さんと一緒にいたいと願う自分自身の体と心でもあったんだ、って…そう思えるようになったんです。」
…先輩のその言葉に、私ははっとする。
『自分自身の体と、心を守る』。
「…あの、先輩…。」
私は、目の前のローレライ先輩に向かって、今思ったことを聞いてみようと思った。
「…今、先輩は『自分の力は体だけでなく、心も守るもの』って仰ったと思うんですけど…その…自分の中の気持ちって、自分や周りだけじゃなくて、敵対する相手にどう向ければいいもの…なんでしょうか?」
「…アン、どういうこと?」
リーザが、何を言っているのだろうと思えるような目で私を見る。
「ええと…例えば、なんだけど…今回、私とリーザは、クレアちゃんとエカテリーナちゃんと戦うことになっちゃったわけで…でも、私は本来、喧嘩なんてしたくなくて…でも、多分力を使わなきゃ、もっと大変なことになっていたかもしれなくて…でも…『喧嘩なんてしたくない、仲良くしてみたい』っていう気持ちのために力を使う、っていうことになったら…それって、ただの矛盾にしかならないような気がしていて…。だから、さっき言っていた『心を守る』っていうことって、どういうことなのかな、って思って…。」
…私のその言葉に、ローレライ先輩が反応する。
「…フローレスさんは、あの子たちと仲良くなりたい…そういうことですよね。」
ーーーその瞬間、私の頭の中に、先ほどの蒼天とリーザとの会話が蘇ってくる。
私が言った、『クレアちゃんとエカテリーナちゃんとは仲良くできないのか』という一言。それに返してきた、蒼天とリーザの『難しいだろう』という言葉。
その時、私はどう思ったか。
…そうだよね、と言いながら、その言葉に納得していない私が、心の中に確かに存在していた。
そもそも、蒼天とリーザが言っていたのは、学園や学舎の内情や今後の予想も含めて総合的に判断した結果でしかないものだ。…それには、私の意志は介在していない。あの子たちにも、私の意志は伝えられていない。そして…本人たちから一度や二度嫌だと言われても…いや、ずっと拒絶され続けたとしても、きっと、私の気持ちは変わらない。
…私は、はっきりと告げる。
「…はい。私は、あの子たちとお友達になりたい。あんな風に喧嘩して、そのまま仲が悪くなって終わりにはしたくないです。
確かに、さっき蒼天が痛い思いをしたり、私を守れなかったってリーザが泣いちゃったりしたことを考えると、それで終わりにしていいかどうかなんて、私にはわからないんですけど…でも、少なくとも私は、私が駄目だと思う方向に進んで行ってほしくないんです。
…それに、あの子たちと仲良くしたいだけじゃありません。私は、みんなに仲良くしてほしい…今のエールの学舎みたいに、ヴァルキリーの能力値やオーディンの有無で優越が決まることなんてない、みんなが同じように笑顔でお友達としてお話しできるような、そんな学園や世界になってほしいんです。…私のわがままかもしれないですけど。」
「…それが、フローレスさんの思う、『守りたいもの、守りたい自分の意志』ということなんですね。」
私の言葉を聞いたローレライ先輩が、ちゃぷん、という音を立てて湯船から右手を出し、私のほっぺを優しく撫でてくれる。
「それなら、その思いをずっと持ち続けていいと思います。だって、それはフローレスさんの心からの気持ちのはずだから。誰にも邪魔されない、邪魔されるべきじゃない、そんな、綺麗で尊いものだと思うから。
たとえ今は仲良くできなくとも、きっと大丈夫です。さっきもお話ししましたけど、フローレスさんは繋がりを何よりも大切にする子ですから、その気持ちはきっと伝わると思うんです。
そして、それを実現するために力が必要、ということなら…これは、わたしがどうこう言えることではないとは思うんですけど…それが自分の意志ということなら、その意志に従っていいと思います。…かつて、誠さんがわたしと一緒に歩みたいと言ってくださって、暴走するわたしを止めるために一人だけ島に残ったように。リゼット・ポワティエールちゃん…わたしの大切なお友達が、わたしが社島を壊して回ることで島の人たちを危険に晒していることや、わたしが記憶の獣のお腹を満たすためにオーディンのグレイプニル遺伝子を命ごと食べ尽くしてしまうことをよしとせずに、自分がそれは駄目だと言わなくてはならない、って言って、お友達として、必死でわたしを止めようとしてくれたように。もちろん、無闇に傷つけるためじゃない、っていう前提は必要ですけど。」
…ローレライ先輩のその言葉だけで、私はなんとなく救われた気持ちになる。彼女の言葉には、そんな優しい力があるのだと、私は思った。
…よし。
私は、心の内にある気持ちを胸に、私自身の気持ちを固める。
…私が守りたいものは、繋がり。仲良くしている人、仲良くしてくれる人だけではなく、これから出逢う人、今は仲良くない人、そういう人とも仲良くなれる…そんな繋がり。
そのために、力を使うこと…戦うことが必要なら。
---ならば、私は、私のできることをしよう。
その中で、クレアちゃんとエカテリーナちゃん、マルセイエーズ先生が力を用いることを決めて、それに対しての対話ができないと言うのなら…私も一人の力を行使できる者としてそれに応えなくてはなるまい。
---私だけが持つ、その大切な気持ちを守るために。