第3章『力を持つもの、持たざるもの』
「…ん…。」
窓から入ってくる明るい光。それを感じた俺は、眠気がまだ残る中で薄目を開けた。
「んにゅ…くぅ…くぅ…。」
…隣には、アンが丸くなって寝息を立てている。…そうだった、昼飯を食べた後に二人で昼寝と称して寝てしまったんだった。
部屋の東側にある窓から見えるのは、綺麗な青空、そしてそこから差し込む日の光。まるで朝のようなその光景に、何となく二度寝をしてみたくなるような…って。
「…待て。」
俺は今何を思った?東の窓、そして朝のように、と思った…だと?
「…………。」
俺は無言のまま、スマホのスリープを解除する。昨日ほぼ使っていなかったこともあり、充電せずともまだバッテリーが80パーセントほど残っているようだということを確認する前に、俺の視線は待受画面に表示された日付と時刻…日が変わっている上にいつもなら学園に向かう時間になっているという事実に釘付けにされていた。
「うぉ、まずい…!アン、起きろ!早く!」
…何てことだ、つまり俺達はあれから晩飯も食べずに今の今まで二人で寝てしまっていたということか。しかもここは本島。祠島にいた頃は多少寝坊しても問題はなかっただろうが、本島にいるならば話は別になる。そんなことを考えながら、俺はまだ寝ているアンの体をゆさゆさと揺する。しかし。
「…んにゅ~…蒼天、まだ食べたいの~…?もう、食いしん坊なんだから~…。」
そんなことを言って、ころんと寝返りを打つアン。普段なら可愛らしいと思って顔が綻ぶところなんだろうが…今はそんなことを言っている場合じゃない。
「お前は何の夢を見てる!?ついでに言えばお前の方がいつも俺より明らかに食い意地は張ってるだろうが!いいから早く起きろって!生徒会役員が遅刻してどうする!?」
「ふぇ…遅刻…?」
ようやく薄目を開けたアンに、俺はよく見えるようにスマホの画面を見せる。すると。
「……んにゃぁぁぁぁぁっ!?ど、ど、どうしようどうしよう!?蒼天、何で起こしてくれなかったの!?」
…よし、ちゃんと覚醒したな。
「さっきから起こしてただろうが!とにかく早く学園に行くぞ!」
「う、うん!あ、制服!制服に着替えなきゃ!ええと、それから髪は…うぅ、ぼさぼさになってるのは恥ずかしいけど、それで遅刻するくらいならもう学園に行ってからでいいもん!」
そう言って、アンは俺が目の前にいるのに、今まで着ていた服に手をかける。綺麗に引き締まりつつもすべすべしたお腹がちらりと顔を覗かせるのを見た瞬間、俺は叫んだ。
「アン、とりあえず落ち着け!俺が引っ込むから、着替えるならその後にしてくれ!着替え終わったら呼ぶんだぞ!」
そう言って、俺は制服をかけておいたハンガーごとひっつかんでバスルームに引っ込む。急いで着替え、アンの着替えを待っていると。
「蒼天、着替え終わったよ!鞄はもう蒼天の分も持ってるから!急いで急いで!」
…よし、アンも着替え終わったようだ。俺は脱衣所を飛び出し、アンから鞄を受けとった。
「よし、急ぐぞアン!」
「うん!」
そう言って、俺とアンはドアを蹴飛ばすように開けて外に出る…と。
「わぁ!?ちょっと二人とも、驚かせないでよ!もう、びっくりするわねぇ…。」
部屋の前に来ていたらしいリーザが、そんなことを呑気に言う。
「リーザ!お前、制服も着ないで一体何してるんだ!?早いところ---」
俺がそう捲し立てると、リーザは頭を抱えながら言った。
「あのね、浦澤君…もしかして、あたしたちの今の立場、忘れてるんじゃないでしょうね?あたしたち、今学舎から追い出し食らってる真っ最中なのよ?昨日の今日なんだし、どうせ今日になったって祠島には居場所はないわよ。ついでに言えば、鶴城先輩はとりあえず待ってなさいって言うし、学園の運営本部もあたしたちをどうするかっていうところはまだうんともすんとも言ってこないし。まあ、逆に言えば大っぴらに学園をサボれるってことでもあるけど。まあそんなわけで、せっかくだから二人の部屋に遊びに来てみたんだけどね。そしたら制服なんか着て血相変えながら飛び出してくるんだもの、びっくりしない方がおかしいわよ。」
「…あぁ…。」
…そういえばそうだった。とりあえず、念のために携帯と部屋の端末を確認してもみたが、それらしいメッセージはない。…とりあえず、俺たちが朝からあれほどまでに慌てる必要はまったくなかったのだということに気がついた時には、先程まで寝ていたはずなのに、どっと疲れが押し寄せてきていた。
「まあいいわ。とりあえず、部屋に上がらせてもらってもいい?お腹空いちゃってて。」
「…お前、最初から飯をたかるのが目的だったな?」
俺が呆れ顔でそう言うと、リーザは頬を膨らませて言う。
「いいじゃない、アンの作るご飯、美味しいもん。大丈夫よ、ちゃんと後で食費は出させてもらうし。食堂に行ってもお金はかかるんだから同じことよ。だから、たまには友達の作ったものに舌鼓打たせてよね。…まぁ、もちろん、アンが迷惑でなければ、だけど。」
「うん、大丈夫だよ。じゃあリーザ、少し待っててね。すぐ作るから。蒼天はリーザと待ってて。昨日はお買い物だけじゃなくて、ご飯作るのも手伝ってもらったから、今日のご飯は私が頑張るよ。」
リーザの言葉にそう笑顔で返し、アンはキッチンに立つ。…まあ、アンがいいなら大丈夫か。そもそも、飯をたかりに来たとはいえ、アンが友達の頼みを断ることなんぞそうそうないから、心配だのなんだのと俺が考える必要などないことなのかもしれない。
「リーザ、とりあえず入れよ。もう時間的に学生はほぼ出払ってるだろうが、そうだとしても廊下で騒いでいいわけじゃないしな。」
「ありがと。じゃ、お邪魔するわよ~。」
そう言って、リーザは部屋に入り、テーブルの椅子に腰かける。…座る場所がテレビなどが目の前に置いてあるソファじゃないあたり、本当にアンの飯を楽しみにしてきたんだろう。
「あ、そういえば浦澤君。」
「何だ?」
待っている間、リーザと適当にああだこうだと雑談をしていた時、突然話を振られた俺は、リーザにそう返す。すると、リーザはニヤニヤした顔をして、俺に言った。
「…さっきまで、アンと一緒に寝てたんでしょ?」
「…なぜそんなことがお前にわかる?」
俺が聞くと、リーザは先ほど頭を抱えた時のように呆れた顔をしながら言った。
「あのねぇ、あたしがどれだけ二人のこと見てきたと思ってんの?じゃあ教えるけどね、ここ二日くらいは、アンも浦澤君も、なんかいつもと違って二人とも表情が固いなーって思ってたの。
そりゃね、ここ二日でいろいろあったし、寝不足もあったみたいだからそのせいかなーとは思ってた部分はあるけどね。でも、今日はいつもなら遅刻寸前の時間まで、落ち着いてぐっすり寝られたんでしょ?二人とも気づいてないと思うけど、アンも浦澤君も、一番リラックスしてる表情をしてるのって、いつも二人で一緒にいる時なんだから。だから、それだけ落ち着いて爆睡できたってことは、できるだけお互いに近い距離で寝て、寝てる間もお互いを感じることができたからなんじゃないかな、って思ったのよ。」
「…いつも思うが、俺はお前の推論がたまに恐ろしく感じるよ。」
そう言うと、リーザはぽんと俺の肩を叩いて言う。
「そう言わないの。あたしだって、アンと浦澤君を馬鹿にしてるわけじゃないんだから。…むしろよかったわよ。特にアン、昨日のことでかなり参ってたでしょ?多分、あたしじゃアンに、そこまでしっかり落ち着きを取り戻してあげられるような手助けはできなかった。やっぱりアンにとって、君は本当に特別な人なんだろうな、って、心から思えたから。友達としてはちょっと悔しいけど、やっぱり恋人の力には敵わないってことかしらねぇ。」
…リーザはそんなことを言うが、俺は理解していることがある。
「…勘違いするなよ、リーザ。アンが大切にしてくれてるのは俺だけじゃない。社島に来てから出逢った人も、これまで出逢った人も、これから出逢う人も、だ。その中には、お前だって含まれてる。それに、もしかしたら、俺がアンにしてやれないことが、お前にならできるかもしれない。だから、俺に敵わないなんて考えるなよ。」
そう言っていた時ーーー昨日鶴城先輩から聞いたことが、頭の中に甦る。
(『---君にしかできないことはあるよ。』)
先輩が教えてくださった、自分にしかできないこと。
それは、俺の場合は、アンと恋人として共にいること。リーザの場合は、友達として俺たちに接してくれることだ。その繋がりが強固になるにつれて、きっと、俺とアン、俺たちとリーザ、その他たくさんの人たちとの繋がりも、きっと強固なものになっていくに違いない。
「…ありがとね、浦澤君。じゃ、今後も友達として、よろしくね!」
「ああ、俺たちもよろしく頼む。」
俺たちがそう言い合った時。
「蒼天、リーザ、できたよ~♪」
キッチンから美味しそうな匂いが流れ込んでくるのに気づくと同時に、俺の瞳に、キッチンから顔を覗かせるアンの眩しい笑顔が飛び込んできたのだった---
「「「---ご馳走さまでした。」」」
三人揃って食べ終わり、手を合わせてご馳走様を言う俺たち。
…正直なところ、ロシア人であるリーザが日本式の挨拶を知っていると知ったときはびっくりしたのだが、聞くところによると、俺たちが友達になってすぐの時期にアンが日本式の挨拶をいろいろと教えたらしく、面白がってやっていたら、なぜか習慣として定着してしまったらしい。まったく、好奇心といい順応性といい、いろいろな意味で恐ろしいやつだ。
「さて…飯も食べたことだが、これからどうするか…。」
俺はそう言って考え込む。
普段なら学園で授業を受けている時間ということや、いきなり暇を言い渡されたに等しいこともあり、何をすればいいのか皆目見当がつかない。学舎からの課題もないから、やれるとしたら予習と復習くらいなんだろうが、それにも限界はある。…ついでに言えば、俺とアンはともかく、リーザはどうせ予習も復習も嫌だが部屋に戻るのはもっと暇だから嫌だとか言って駄々をこねることはわかりきっているしな。まあ、一応、テレビなどは備え付けのものが部屋にあり、衛星放送の受信までできるようになっているので、やろうと思えば暇を潰せないわけではないが…さて、どうするか。
「ゲームでもする?あたし自分の持ってきてるわよ?」
そう言って、持ってきていたバッグから、俺やアンも持っている携帯ゲーム機と充電器を引っ張り出すリーザ。
「…いや、やめておこう。お前にタコ殴りにされて悲しくなるだけだろうしな。」
俺はそう言って、遠くを見始める。
…俺とアンがリーザと仲良くなった後、何度かゲームで遊ぶことはあったし、そこそこやり込んでいて自信のあるゲームもあったことはあったのだが…まさか、本当に文字通り何もできずにリーザに負けるとは思わず、それから三日ほど虚しい気分に襲われたことがある。…いかん、思い出しただけで涙が出てきた。
「うん、そうだね…それに、私の持ってるゲームも、リーザが好きなジャンルってあんまりないし…。」
アンも同じような顔で、俺と同じ方向を見始めている。まあ、アンが面白がってやるゲームはどれも可愛らしい系のものや育成系みたいなものばかりだしな。
「あ、じゃあみんなで協力できるものやらない?これなら、確かアンも浦澤君も持ってたはずだし。」
そう言って、リーザは携帯ゲーム機の画面を見せてくる。
「あぁ、これか…。」
画面に映っているのは、巷で人気のあるアクションゲーム。まあ、確かに俺もアンも持っているものだし、マルチプレイならば、それほど悲しいことにはならないかもしれない。…人並み程度はできる俺と、確実に俺よりも上手いであろうリーザは、だが。
「…アン、大丈夫か?」
俺はそんなことを少し考えつつ、そっとアンに聞いてみる。
このゲームは、俺とアンが付き合い始めたばかりの頃…厳密には社島に来る直前に、アンが俺と一緒にプレイできるゲームをやりたいと言って買い求め、社島にも持ってきたはいいものの、アンがそもそもアクションゲームが苦手であるがゆえにそれほど進められていないらしいという曰く付きのものだ。…ちなみに、アンに後から聞いた話によれば、最序盤の初見殺しとして配置されている敵にやられたらしい。その時は戦わずに逃げてもストーリー上の問題はないところだからと教えてはおいたし、アンがまずはできるだけ一人で頑張ってみると言っていたこともあり、それ以上は何も言わないでおいたのだが…その後遊んでいる姿を見たことがないところを見るに、その時に植えつけられた恐ろしさは相当のものだったということなのだろうということは理解できた。…まあ、もしかすると、アンが苦手なジャンルのゲームということで、逃げても大丈夫だと言われてもそもそもどうしたらいいのかわからず、その結果として中断するしかなかった、ということなのかもしれないが。
そんなことを俺が考えていると、アンがぽつりと言う。
「…また、やってみようかな。」
…え?
俺はその言葉に、少し面食らってしまう。
「…本当に大丈夫か?俺やリーザに対しては気を遣わなくていいんだぞ?」
俺がそう言うと、アンはふるふると首を振って、
「ううん、無理なんてしてないよ。…あのね、昨日、蒼天がご飯を作るの手伝ってくれたでしょ?その時、まずは卵をしっかり割れるように、練習頑張ろう、って言ってたのを思い出して…私も、苦手なものに挑戦してみなきゃ、って思ったの。…それもきっと、蒼天と一緒にできることを増やせる、すごく貴重な経験なのかな、って。だから…私が卵の割り方を教えるから、蒼天、このゲーム…やり方、教えて。リーザも、どういう時にどうすればいいのか…教えてほしいな、って思うんだけど…いい?」
…そこまで言われてしまったら、俺は首を縦に振るしかないじゃないか。
「よし…やるか。」
俺がそう言うと、話を聞いていたリーザもまた、にこりと笑顔を見せて言う。
「オッケー。確か、アンがこれをやったのって結構前って言ってたわよね?じゃあ、少しずつで大丈夫だから、まずは操作を思い出すところから始めましょ。」
そのリーザの一声を聞いて、俺とアンは祠島から持ってきていたバッグからゲーム一式を取り出し、起動した。俺も最近はあまり触れていなかったこともあり、起動画面は非常に懐かしい気分になるものだ。
そんなことを考えつつ、俺とリーザはアンに、基本的な操作と、とりあえず敵と距離を取って戦えるような武器の使い方をレクチャーする。
「えっと…武器を構えるのはこうで、攻撃はこのボタン…狙いをつけるのはこれで、武器を仕舞うのはここ…アイテムは…。」
俺達が教えた内容を、指差し確認のように可愛らしくひとつひとつ確認するアン。…いかん、こんなところでも自分の彼女の可愛らしさを再確認することになろうとは。
「うん、操作は大丈夫そうね。じゃあアン、試しに行ってみる?アンが詰んだって言ってたとこ。まあ、アイテムを集めるだけだし、本来は逃げても問題はないところではあるけど…せっかく三人いるんだし、頑張って倒しちゃってもいいんじゃないかしらね?」
「え…い、いきなり?どうしよう、できるかな…。すごく怖かった覚えしかないんだけど…。」
リーザにそんなことを言われて少したじろぐアン。それを見て、リーザが言った。
「大丈夫。どうすればいいかはあたしと浦澤君がちゃんと指示するし、フォローもするから。浦澤君、あたしが正面に立つから、アンのサポートの方、お願いね。」
「あぁ、任せろ。」
そう言って、ホストプレイヤーであるアンにミッションの受注をしてもらい、俺たちはミッションを開始する。
「蒼天、リーザ、いたよ…!あのおっきなの…わっ、こ、こっち向いたよ!わわわ、こっちに来る…!ど、ど、どうすればいいの!?」
さっそく敵に見つかったことであたふたするアンに、俺は声をかける。
「アン、落ち着け。まずは正面に立たないようにするんだ。とりあえず、俺の行く方向についてくるといい。」
「え…ど、どういうこと?」
そんな疑問を感じつつ、俺の言うことに従って俺の操作するキャラクターの方に、自分の操作するキャラクターの足を向けさせるアン。と、そこにリーザが口を出してくる。
「アン、浦澤君の指示の補足なんだけど…授業で教わったこと、覚えてないかしら?ほら、実技の時に教わった、空中での格闘戦の定石。」
「あ…ええと、敵の後ろを取る…こと…?」
突然投げかけられた問いに、アンは少し困惑しながらもそう返す。
「そう、それと同じ。…まあ、あたしは今確かに目の前にいるけど、これはそもそも、敵の予備動作がわかってることで被害を最小限にしながらダメージが取れる自信があるからここにいるだけなのよね。でも、被弾リスクがゼロになるわけじゃないから、実際、危ないことには変わりないわ。特にアンは初心者だし、敵の攻撃パターンやモーションも知らないんだから、被弾して攻撃できなかったり追撃をもらったりするリスクを背負いながら戦うなんてできないでしょ?なら、横や後ろっていう、敵からしたら死角になる上に攻撃がなかなか当たらないところから一方的に攻撃した方が、総合的なダメージは大きくなるし、心に余裕を持つこともできるはずよ。大丈夫。あたしも浦澤君もついてるんだから。ね?」
そう言いながら、リーザは忙しなくボタンを操作し、攻撃を器用に掻い潜りながら、できる限りアンにヘイトが向かないように敵にちょっかいを出しながらダメージを稼いでいく。
…なるほど、そういう教え方があったか。
リーザがアンにどう教えようとしているのか、俺はなんとなく察する。
俺たちの通っている…まあ、今は「通っていた」と言った方が正しいかもしれないが…とにかく、エールの学舎の多くの学生や教員にはどう思われているものなのかは俺もよくわかってはいないが、元々の共通認識として、ヴァルホルの授業は、基本的にはヴァルキリーやオーディンの持つ力の危険性を学生たち自身が理解し、無闇な力の行使を避けさせるためのものだ。しかし、力を使った戦闘の基礎知識を学ぶためのシミュレーションや、模擬弾を使用した実技の授業もカリキュラムには組み込まれている。学生たちが自分の力を理解することにより自分を律し、力を悪用したがるような輩から身を守るために学ぶだけではなく、学生によっては、力をより良く使うための術として、自分の国や世界の平和を守る仕事に就きたいと願い、専守防衛前提の組織である各国の軍のヴァルキリー・オーディン部隊という進路に進みたいと思う者も少なからずおり、国連や学園もそれを許可していることから、こういった授業は、ヴァルホルの授業の中でも、とても重要なもののひとつとして考えられているのだ。
今やっているこのゲームは、多少ジャンルは違うが、言ってしまえば戦闘シミュレーションのようなものだ。当然、その授業で得られた知識や経験は、ある程度活かすことができるように作られている。それを理解しているからこそ、リーザはアンに対して、そんな質問をしたのだろう。俺はただ単にセオリーに則ってついてくるように指示を出しただけだったから、もしかしたら、いきなりそんなことを言われてもよくわからない、と思われてしまったかもしれないな…反省しなければ。
そんなことを思いながら、俺はまた画面を確認する。…よし、アンはちゃんとついてきているようだ。敵は相変わらず、的確に攻撃をかわしながらカウンターを繰り出し続けるリーザに気をとられているようで、こちらには見向きもしていない。
「よし…アン、今のうちだ、俺たちは後ろから攻めるぞ。リーザに誤射しないように一斉射だ。ゆっくりでいい、落ち着いて敵をしっかり狙うんだ。いいな?」
「…う、うん、頑張る…!」
俺の言葉にそう返した後、ボタンを操作してキャラクターに武器を構えさせ、狙いをつけるアン。それを見て、俺も武器を構えた。
「いいわよ!アン、浦澤君、やっちゃって!」
俺たちのスタンバイが完了したのを確認したらしいリーザがそう言った瞬間、画面が一瞬白に染まり、敵の動きが鈍る。リーザが、俺たちが狙いやすいように、スタングレネードを使って動きを封じてくれたようだ。…最前線で戦いながらほぼダメージを受けることなく、そんなフォローもできるリーザに感心しつつ、俺はアンに声をかけた。
「よし、今だ、アン!」
「うん…!」
俺とアンが各々のボタンを操作する。その瞬間、俺たちの操作するキャラクターの構えた武器が同時に火を噴いた。アンの撃った弾が敵に当たってよろけるのを見て、アンが褒めてほしそうな顔でこちらを見て言う。
「あ…当たった!蒼天、当たったよ!」
「よし、アン、その調子だ。このまま攻撃を続けるぞ!」
「うん、わかった…!」
俺たちはそのまま攻撃を続ける。すると、敵の視線がこちらを…厳密には俺の方を捉えた。どうやらスタングレネードの効果時間が切れ、リーザから俺の方に狙いを移したらしい。
「アン、今度は俺が狙われてる。リーザの方に合流して、さっきと同じように後ろを取るんだ…っと!」
言っている間に敵が突っ込んできているのを見た俺は、武器をしまって回避に専念することにする。
…一応、このゲームにおいてはどの武器もそれなりに使える俺だが、普段俺が使っているのは近接武器、しかも回避行動と攻撃を両立できるリーザとは違い、俺は防御行動が可能な武器を使っている。だが、今回持ってきているものは遠距離武器。普段使いの武器ではない上、いつも頼りきっている武器を出しながらの防御手段もない。…今回、アンに教えるために遠距離武器を持ってきたのが裏目に出たな…そう思いながら攻撃をやり過ごしていると、敵が俺のキャラクターから見てかなりの至近距離で大技のモーションに入った。
「あぁ、これは食らったな…。」
一定時間無敵判定となる回避行動を取った後だったこともあり、大きな隙を晒している現状、次の回避はさすがに間に合いそうもない。まあ、初見殺しの強敵とはいえ、所詮はストーリー最序盤の敵だ。俺も一度クリアしているゲームであり、防御力は相応にあるので、何発かは被弾してもすぐ戦闘不能にはなることはない。仕方ない、ここはおとなしく攻撃を受けて---
「わ、わ…危ない、蒼天!」
…そんなアンの声が聞こえたその時。
BGMが消え、俺のキャラクターへと襲いかかろうとしていた敵が大きくよろけたかと思うと、重苦しい音を響かせてその場へと崩れ落ちた。
「…あ、あれ?」
何もわかっていないらしいアンが、画面から目を離して俺とリーザの顔を交互に見つめる。
「…リーザ、攻撃、当てたか?」
「ううん、あたしはだいぶ遠くにいたし、何もしてないわよ?浦澤君の方に加勢に行こうかと思ったらこうなったんだもの。」
…ということは。
アンの画面を覗きこんでみる俺とリーザ。…アンの操作するキャラクターの照準は、武器を構えた状態で、しっかりと敵の方へと向いている。
「…アン、弾、撃ったか?」
俺のその声に、アンはまだよくわかっていないような顔をして言った。
「ええと…撃ったのかな、撃ったような気がする…うーん、覚えてない…蒼天を助けなくちゃって思って…それで…撃ったんだと…思う…。それで…これ、どうなったの…?」
「……。」
一瞬ぽかんとする俺だったが。
「------やったじゃない、アン!!」
リーザが大きな声を出して、アンに勢いよく抱きついた。
「むぎゅっ…り、リーザ、ちょっと離れて…。」
「えー、いいじゃないの!だって、アンの記念すべき最初の獲物がこれなのよ?いやぁ、ファイティング・ファルコンのヴァルキリーは伊達じゃないってことね!!」
「ええと、よくわからないけど…私のヴァルキリーとしての力はあんまり関係ないんじゃないかな…?と、とりあえず離して…く、苦しい…。」
いかん、リーザの胸に顔を埋められたアンが本気で苦しがっている。
…まあ、リーザは顔の見た目だけでなく、発育もとんでもなく良いからな。
アンを経由して友人になったある男子学生から聞いた話なのだが、どうやら『彼氏や彼女になってほしい学生ランキング』なるものが非公式で存在しているらしく、リーザはその女子部門の中でも、かなり上位に食い込んでいるそうだ。…ちなみに聞くところによれば、男子一位と女子一位は双方共にぶっちぎりで鶴城先輩とローレライ先輩らしいのだが、あの二人に関しては半分ジョーカーのようなものである上、あの二人の仲の良さを知っている以上、どちらかを差し置いて彼氏彼女になってほしいなどとは例え匿名であったとしても口が裂けても言えないらしく、微笑ましくしている二人を見守るというのが、ランキング投票に参加した学生たちの共通認識だ、とか何とか…まあ、そこはどうでもいいことか。
…とにかくだ。俺が思うに、そのランキングとやらの基準には、顔や性格の良さだけでなく、おそらくスタイルの良さといった下心に直結するような部分も含まれているに違いない。それを考えると、それだけの見た目的優位を我が物にしているリーザに、名だたる男子学生たちが突撃しては玉砕を繰り返したという逸話も、何となく信憑性が出てくるし、そして、今のアンが受けている状態のように、そんな下心満載のランキングに名を連ねるほどに発育の良いリーザの胸に顔を押しつけられたとしたら、そりゃ呼吸もままならなくなるというものだろう。
「…リーザ、アンと一緒に喜びたいのはわかるが、とりあえずそのくらいにしておいてやってくれ。そのままわちゃわちゃしていて窒息されても困る。」
「あら…ほんとだ、アンの顔真っ赤ね…ごめんねアン。」
俺が言うと、リーザはそう言って素直にアンから離れる。
「むにゅ~~~…。」
アンは完全に目を回している。よほど苦しかったようだ。
…まあ、しかし、だ。
「…こういう日も、いいな。」
俺は、心からそう思う。
アンと一緒にできることが、また増えたこと。それによって、俺自身も、アンと一緒にコミュニティを拡げることができる可能性があること。それを改めて理解することができること。
きっと俺は、このような経験をもっともっとしていくのだろう。
---隣にいる、アンという最愛の人と共に歩む、その道のりの中で。
「…うわ、もうこんな時間か。」
あれから、アンに付き合ってゲームを進めていた時。ふと時計を見た俺は、今の時間が夕方に差し掛かることに気がついた。…昼に一度休憩を挟んだとはいえ、一体俺たちは何時間ぶっ通しでゲームをやっていたのかと思うほどに熱中していたようだ。…まあ、それだけ楽しい時間を過ごすことができた…ということなんだろうな。
「あ、ほんとだ…とりあえず、今日はここまでにする?」
「そうね。いい時間だし、アンがかわいいから作りたいって言ってた装備一式も作れたしね。」
「うん。ありがと、蒼天、リーザ。」
アンがにこにこしながら、俺とリーザを交互に見てくる。よほど嬉しかったんだろう。
「いや、大丈夫だ。俺も楽しかったしな。」
「そうそう。あたしも楽しかった~♪また三人でやりましょ。鶴城先輩や本部からまだ連絡が来ないあたり、どうせ明日も暇なんだろうし。」
そんなことを言うリーザ。
…しかし、俺はその言葉に素直に首を縦に振ることはできなかった。
「…おかしいな。丸一日経っても音沙汰すらないなんて。」
そう、丸一日だ。
確かに、時間はかかるかもしれない、と鶴城先輩は言っていた。だが、ヴァルキリーやオーディンということや、身体的、年齢的ハンデや仕事に就いているついていないなどの有無があるわけでもない、一般的なヴァルホルに通う学生である以上、こちらにも正規の教育を受けなくてはならない義務が生じていることは、国際法を見れば一目瞭然だ。カリキュラム自体はほぼ同じもののはずだから、暫定的に『パンツァー』や『オーシャン』の学舎へと通い、授業を受けることができるような体制を整えてくれるものだと思っていたのだが…その考えは浅はかだったのだろうか、と思えるほどに、この何も言ってこないという虚無の時間に、俺は少なからず疑問を感じていた。
「うーん、どうなんだろ…もしかしたら、いろいろお話が複雑になってるのかもしれないし…私たちは昨日先輩が言ってた通り、気長に待つしかないんじゃないかな。」
アンがそう言うと、リーザがそれに続けて言う。
「そうそう。浦澤君は考えすぎ。さすがにここまでのイレギュラーなことが起こってるわけだし、本部だっていろいろ手を尽くしてるはずよ。どうせあたしたちはそれを待つしかできないんだから、向こうが何か言ってくるまで待ってればいいのよ。大丈夫大丈夫。」
「…真面目なときは真面目に考えるくせに、なんで今になってそこまで単純に考えられるんだよ、お前は…。」
…とはいえ、リーザの言う通りでもある。正直、俺たちが迂闊に動けるような状況でもないし、先輩から待機しているようにと言われたこともある。ここはおとなしく待っているのが吉だろう。
「そういえば、晩飯はどうする?朝や昼と同じように三人で食べるか?」
空腹に気づいた俺は、二人にそんな言葉を投げかける。
「あ、そうだね。冷蔵庫の中、何があったかな…。」
そう言ってアンが腰を上げようとすると、リーザが言った。
「それなんだけど…今日、三人で外で食べない?」
「外…?」
首を傾げる俺とアン。
「そう、外。ショッピングモールにも外食用のお店ってあるわけだし、たまにはそういうところに行くのもありかな、って思って。あ、朝とお昼は完全にご馳走になっちゃったし、晩ご飯はあたしに奢らせてよ。」
「…なるほど。」
確かに、リーザの言う通り、周囲ブロックCの地上区画にあるショッピングモールには、スーパーマーケットや各種専門店、娯楽施設以外に、学生でも手が出る値段のファミレスから高級料亭まで、様々な飲食店もまた軒を連ねている。
まあ、たまにはいいかもしれないな。どうせここは祠島ではないわけだし、祠島の学食であったような気まずさはないだろう。
「俺は問題ないが…どうする、アン?ご馳走になるか?」
俺は隣にいるアンに問う。すると、アンは少し心配そうな顔をして言った。
「私も大丈夫だけど…いいの?リーザ…私たち、ご馳走になっちゃって。蒼天はともかく、私、いっぱい食べちゃうよ?」
その言葉に、リーザはにこりとして言う。
「大丈夫、心配しないで。アンがたくさん食べるのは知ってるし、そこをケチるんならそもそも奢るなんて言ってないわよ。お父さんからお小遣いの仕送りも毎月結構な金額もらってるし、社島にいるとそれもほとんど使わないから結構貯まりっぱなしになるのよね。だから、今日は安心して、お腹いっぱい食べまくってくれていいわ。」
そう言って、リーザはバッグから出した財布からお札を五枚取り出して、こちらに向かってぱたぱた扇ぎ始める。社島が日本の領土であり、通貨もそれに準じることから、そのお札は当然ながら日本円であり、しかもすべて一万円札ときている。
…正直、リーザがご両親から毎月いくら小遣いをもらっているのかは知らないが、少なくとも俺の家族からの仕送りよりは明らかにもらっているんだろうな。社島で暮らす金額の大部分…少なくとも普通ならば一番お金がかかるであろう衣食住の住の部分に関しては、ヴァルホルの学生であるという立場上、完全に国連の予算で過ごすことができているために、俺も父さんと母さんが仕送りしてくれたものは、社島に来てからは、どうしても必要な部分、あるいはそう判断した部分以外で手をつけたことはそれほどないし、実際、毎月数万円ほどは貯まりっぱなしにはなっているが、毎度財布に入れているのは多くて二万円程度だ。学生は得てして貧乏だと巷では言うが、少なくともこいつには当てはまりそうもない。
「…じゃあ、遠慮なくご馳走になるか。」
「うん、ありがと、リーザ。」
俺とアンが言うと、リーザはまたにこりと笑って言う。
「決まりね。じゃ、行きましょ。あたしもお腹ぺこぺこだし。」
そのまま貴重品だけ持って部屋を出た俺たちは、どこで飯を食べようかだの、今度は昼間にどこかに遊びに行こうだの、ああでもないこうでもないと雑談をしながら寮を出て、一番近い周囲ブロックAのモノレールの駅舎の方へと足を進める。時間的にも、学生や先生方などの往来が激しい時間帯だ。
「…っと…失礼。」
前を歩いてきた女子生徒に肩がぶつかってしまった俺は、素直にそう言って謝ることにする---
「…は?」
…手首に違和感を感じたその刹那、俺の体が宙を舞う。
今ぶつかってしまった女子生徒に、知らぬ間に手首を捻られて投げ飛ばされていたことを理解した時には、すでに俺の体は、空中で一回転した勢いそのままに、固い地面へと叩きつけられていた。
「がっ…は…!!」
「蒼天!!」
「浦澤君!!」
衝撃で呼吸もままならず、蹲って咳き込み続ける俺に、アンとリーザが駆け寄って抱き起こしてくれる。
「…ちょっとあんた、いきなり何してくれてんの?浦澤君はあんたに対してぶつかったことちゃんと謝ったでしょうが。それなのに何でこんなことしたのか、さっさと言いなさいよ、ほら。」
俺の介抱をアンに任せたリーザが、普段見たことのないような剣幕で女子生徒へと食ってかかる。それに合わせて、先ほど俺とぶつかった女子生徒がこちらを振り向いた。
…銀色のショートヘアを揺らしてこちらを見たその女子生徒のグレーの瞳が、先ほどの声と同じような、無機質で人形のような表情で俺を見る。
「…目の前の障害物を排除しただけだ。一体何の遠慮や謝罪が必要になる?」
女子生徒が、グレーの目や表情と同じ、無機質で起伏を感じさせない声色で言う。
「はぁ?障害の排除ですって?…もしかしてあんた、浦澤君の前にも人を何人かいきなり投げ飛ばしてんじゃないでしょうね?めちゃくちゃ混みあってるこの時間帯なんだから、目の前や横に誰か立ってないわけないし、肩が触れただけの浦澤君に対してそんなことやったってことは、真正面から来た人とかにもお構いなしに同じことしてたんじゃないの?浦澤君に一体何の恨みがあるのか知らないけどね、他人から恨まれるようなことを浦澤君が絶対しないことくらい知ってんのよ、あたしは。しかもさっきも言ったけど、浦澤君はあんたに対してちゃんと非を認めて謝ったわ。いきなりぶん投げられる道理なんてないわよ。」
リーザの言葉に、女子生徒は何も気にしていないと言わんばかりに言った。
「非を認める、それは最初から戦う気のない愚か者のすることだ。そしてその愚か者には、何をされたとしても従順でなければならないという義務が生じる。ゆえに私は間違いを犯してはいない。これは絶対だ。」
女子生徒は、今度はアンに介抱されている俺に対して侮蔑のような目線を向け、少しだけ口角を上げて言う。
「…たかがオーディンごときが、第二世代ヴァルキリーである私の目の前に立つなど…笑わせてくれる。一人では戦う力すらもない弱者と同じ空間にいることも、その弱者のことを庇う第一世代であるらしい貴様らが目の前にいることも、だ。」
…『第二世代ヴァルキリー』…?
息苦しさの中、聞き慣れない単語に気がつき、俺は疑問符を浮かべてしまう---と。
「---クレアちゃん、ごめんなさい、遅くなっちゃった…。マルセイエーズ先生ももう少しでいらっしゃるから、先に本部に行ってて、って。」
傍らから、金色の長い髪をツインテールにしたルビーの瞳の女子生徒が、銀髪の女子生徒---クレアと呼んでいたか---へと声をかけてきた時、リーザの目の色が変わる。リーザはそのまま、金髪の女子生徒に詰め寄った。
「…今、サラの名前を出したわね。…ってことは、あんたたちはエールの学生ってことね。しかも本部に行くですって?一体何のために?多分今、本部ではあたしやここにいる浦澤君とアンっていう、祠島からなぜか追い出しをくらった三人の授業やら何やらをどうすればいいのかっていうところを話し合ってくださってるはずなんだけど?」
「え…あの…これ、誰にも言っちゃ駄目って先生が…。」
「教えられないのね。だったらあたしたちも本部について行かせてもらおうじゃない。あたしたちは祠島から追い出されて、本来の寮には戻れない、学園にも通えないから授業も受けられないで大迷惑くらってんのよ。あんたたちとサラが本部で一体全体何をやらかそうと思ってるのかは知らないけど、エールの学舎の責任者のくせに、学生のあたしたちが学舎から追い出されても何もしようとしない上に、そもそも学生に対して優越つけるのが大好きで大好きで仕方ないサラのことだから、どうせろくでもないこと企んでるんでしょうが。一応、あたしたち生徒会役員なんだから、そのろくでもないことを黙って見過ごすわけにはいかないのよ。」
「う…ぅ…ど、どうしよう…。」
リーザの剣幕にたじろぐ金髪の女子生徒。…俺とアンも、今のリーザに対して何かを言うことはできない。それだけの気迫と怒りを発するリーザに俺たちすらも気圧される中、クレアが言った。
「…臆するな、エカテリーナ。私と君はこいつらとは違う。…邪魔をするのなら、排除するまで、だ。」
クレアが目を閉じる---
「『------My solitude justice------』」
クレアが声を発し、一思いに飛び上がったかと思うと、彼女の体を覆ったのは、俺たちには見慣れた、レオタードのような衣装とその各所にあてがわれた装甲---スヴェルを纏ったということは、やはり、今の言葉はルーンの詠唱だったということか!!
「ははぁん、今さっきちらっと『ニーベルングの環』が見えたけど、あんたたち、第二位ヴァルキリーと第三位ヴァルキリーじゃない。それなのにあたしとやる気なの。面白いじゃない!オーケー、来なさいよ。身の程を教えたげようじゃない!
『---Цветы выдерживают холода и цветут』!!」
一足先に空へと飛び上がったクレアに続き、リーザも左手に浮かぶ自身の『ニーベルングの環』…己が最上位ヴァルキリー(ブリュンヒルデ)である証を見せつけるようにしながらルーンを唱える。瞬間、リーザの体を、今しがたクレアが纏ったものに似ているものの、細部が異なる衣装---リーザの持つヴァルキリーとしての力、Su-30SMのスヴェルが包み込んでいた。
「クレアちゃんが戦うなら…わ、私も…!!
『Положите его на снежный ветерок и доберитесь до своих друзей』!!」
クレアにエカテリーナと呼ばれていた金髪の女子生徒もまたルーンを唱えてスヴェルを纏ったかと思うと、二人と同じように背中のエンジンノズルから火を噴かせ、空中へと勢い良く飛び上がる。
「み、みんなやめて!リーザも…駄目だよ、規則違反だし、それに…こんなところで戦ったら、みんな怪我しちゃうよ…!」
まだまともに動けない俺よりも先に、アンが声を上げる。しかし、いつもの余裕はどこへやら、頭に血が上りきっているらしいリーザには、その言葉は届いていないようだった。
「アン、黙ってて。こいつらはこの場で戦いたくて仕方ないみたいだし、あたしも理不尽続きな上に友達を傷つけられてイライラしてんのよ。ふん、二対一、上等じゃない。---ちょっと、下にいる人たち、いつまでそこにいるの!?巻き込まれて死にたくなかったら、さっさとどっか行きなさい!!」
上空からでも聞こえるリーザの怒声に、周りにいた連中は我先にとわらわらと逃げ始める。しばらくして周りに俺とアン以外誰もいなくなったことを確認し、リーザはクレアとエカテリーナに言う。
「最後通告よ。浦澤君に対する謝罪と、本部に何をしに行こうとしてたのか教える気は?」
「ない。何度も言わせるな。」
「…私も、ごめんなさい、先生からのお達しですから…。」
「そう---じゃ、仕方ないわ…ね!!」
リーザが言った瞬間、翼のような形状の装甲に現れたミサイル---形からして、おそらく短距離空対空ミサイルと呼ばれるものだろう---その推進装置が火を噴いた。それらは左右に散開したクレアとエカテリーナを追いかけるように、誘導しながら一直線に向かった。しかし、クレアとエカテリーナはフレアを用いてミサイルの自分に対する熱源による誘導を切りつつ、空中で大きく旋回したと思うと、今度はあちらの方から機銃を撒き散らしながらリーザへと突っ込んでいく。そのまま、クレアとエカテリーナも先ほどのリーザと同じように空対空ミサイルを呼び出し、それを同時にリーザへと放った。体をずらして危なげなく二人の機銃掃射を避けたリーザだったが、今度は合計四発もの空対空ミサイルが迫る。同じくフレアを用いて撹乱を試みるが、撹乱しきれなかったらしい一本がリーザに狙いを定めた。その一本に追いかけられる間にも、リーザの進行方向に近い場所へと機銃掃射やミサイルが襲いかかり、リーザの動きをどんどん制限していく。
「あぁもう、めんどくさいわね…どうせ格下のあんたたちの攻撃じゃほとんど怪我なんかしないことはわかってるけど、何だかんだ攻撃が当たるのはあたしだって嫌なんだから、ね!!」
リーザは急制動をかけて、進行方向に置くように発射されていた機銃の弾をすれすれで避けたかと思うと、今度は自分を追っていたミサイルに向かって自分から突っ込み、すれ違い様に機銃を撃ちまくる。被弾によって爆薬に引火したのだろう。リーザの後ろで、誘導性能を失ったミサイルが木っ端微塵に爆発した。
「…止めなきゃ…私が止めなきゃ…!
『------When I hold hands with someone, my wings will fly higher』…!」
俺から離れたアンが、そう言ってルーンを唱える。今上空で取っ組み合っている三人の纏うものに似ている衣装…F-16のスヴェルがアンの体を包み込むが、彼女の足は小刻みに震えている。
「アン…よせ…行っちゃ駄目だ…!!」
俺は苦しさを圧し殺し、アンに言う。しかし。
「駄目だよ…仲良くしなきゃ…駄目…!!」
アンの背中のノズルが火を噴き、勢い良く空へと飛び上がる。そのまま、なおもリーザを狙おうと照準を合わせるクレアへと一直線に突っ込んだ。
「ぐ…っ…。」
武装も何も使わない、文字通り突っ込んだだけではあったが、おそらく自身の反応だけでなく、スヴェルに搭載されているであろうレーダーの探知も間に合わなかったのだろう。アンの渾身の体当たりを受け、避けきることができなかったクレアの顔が歪む。しかし。
「…この、第一世代風情が…。」
先ほどと同じ、抑えめの声の中に確かに怒りを込めたクレアの目が、今度はアンの方へと向いたかと思うと------クレアはそのままアンの腕を掴み、空中で強引に投げ飛ばした。
「------っ…!!」
投げ飛ばされたアンが、推進装置と揚力制御によって何とか体勢を立て直そうとする------しかし。
「遅い------」
急加速してアンの目の前に肉薄したクレアの左手が、今度はアンの首を捉えた。
「ぐっ…うぅっ…ぅ…ぁ…。」
気道を確実に締め付けられる苦しさに、苦悶の表情を浮かべるアン。
「アン…!…っ、こいつ…アンから離れなさい!!」
アンの危険に気づいたリーザが、クレアへと突っ込んでいくべく方向を変えた。しかし。
「ご…ごめんなさい…!!」
そんな声を上げながら、リーザの横からエカテリーナが飛び出し、リーザへと組みついた。そのまま、エカテリーナはノズルからとめどなく火炎を吹き出し、リーザをアンとクレアがいるところから引き離していく。
「く…っ…!?」
あらぬ方向に体を持っていかれながらも、何とか体勢を立て直したらしいリーザが、同じようにエカテリーナの真正面で、背中のノズルから全力で火炎を噴射する。しかし。
「ぐ…うぅっ…何よ、これ!?」
苦しそうな声を上げながら、リーザは同じく顔を歪めているエカテリーナと一進一退の押し合いを繰り広げる。…だが、俺はその光景とリーザの表情を見て、恐ろしい事実がこの場に存在していることを確信してしまっていた。
(---馬鹿な!!リーザの推力と拮抗する推力だと…!?)
先ほどのリーザの言葉通り、目の前に現れた時にちらりと見えていたエカテリーナの右手の『ニーベルングの環』から察するに、エカテリーナが第二位ヴァルキリーであることは間違いない。オーディンの姿も見えないから、誰かとビフレストを繋いでいるとも考えにくい。そうなれば、本来なら、最上位ヴァルキリーであるリーザが全力を出せば、容易に押しきって振り切れる程度の推力しか出せないはずだ。リーザの持つ力であるSu-30SMよりも高い推力を生み出せる兵器の力を宿し、それが性能補正としてより強く作用しているならば話は別かもしれないが、そもそも、それほどまでに高い推力を生み出せる機体はほぼ限られている。その上、エカテリーナのルーンの響きや、炎を吹き出している背中のノズルがリーザの背中にあるノズルの形に似ていることから考えるに、エカテリーナの力はおそらくロシアの機体であり、なおかつ、Su-30SMとほぼ同じような規格のエンジンを用いている機体のはずだ。さすがに、見ただけでそれ以上詳細に判別することは俺には難しいが…しかし、それならばよほどのことがない限り、リーザとエカテリーナの持つ力である元々の兵器の性能自体はほぼ同格と見ていい。ゆえに、こと推力だけで見れば性能補正での優越はつきにくいはず。加えて、今回は兵器そのものの性能だけではなく、ヴァルキリーとしての能力値も考えなければならない。ランクの軛がある以上、性能補正での優越がつかないのであれば、そのままヴァルキリーのランクが優位性として機能する、これは絶対のルールであるはずなのだ。それなのに…どういうことなんだ!?
…俺はまだ続く息苦しさに歯を食いしばり、もう一度アンとクレアの方に視線を向ける。
「はぁ…はぁ…く…っ…ぐぅ…っ…!!」
アンはまだ首を掴まれながらも、少しでも気道を確保しようと必死で抵抗を試みているようだが、クレアは無表情でありながらも涼しいとも取れる表情をしている。
先ほどのリーザの言葉からするに、クレアはアンと同じ第三位ヴァルキリー。しかし、基本的に戦闘が嫌いな性格であるとはいえ、ヴァルキリーとしての力としては同格であるはずのアンを圧倒するクレア。…一体どういうことなのかが未だにまったくわかっていない中、クレアが少しだけ目の色を変えて言う。
「…二つに結んだ大きな長い黒髪…そうか、貴様が先生の仰っていたファイティング・ファルコンのヴァルキリーか。…だが、所詮第一世代…第二世代ヴァルキリーである私の敵ではなかったようだな。」
…正直、第二世代ヴァルキリーなるものが何なのかは未だにまったくわからないままだが…だが、わかったことがある。リーザとエカテリーナがまだ取っ組み合っているところを見るに、その第二世代とやらが、オーディンとビフレストを繋ぐ以外の何らかの方法で、少なくとも能力を一段階以上自前で底上げできることは間違いない。アンと俺がビフレストを繋いでも、おそらく互角程度まで持っていくのが関の山。先ほどクレアに投げ飛ばされたダメージが残っていることで俺がビフレストを繋げる状況にすらない今、アンに到底勝ち目はない。
「離せ…アンを…離せ…!!」
俺は痛みと苦しさの中、クレアに向かって叫ぶ。すると、クレアは俺を高みから見下ろし、ふん、と鼻を鳴らして言った。
「…いいだろう。この程度の力でしかない雑魚に、これ以上手間をかけさせられることもない。」
最後の言葉を言うよりも早く、クレアはアンを再び空中から投げ落とす。今度こそ重力に引かれて勢いよく落ちるだけの形となったアンは、声を出す間もなく、俺から数十メートルほど離れた場所に、大きな音と土埃を上げながら叩きつけられた。
「う…ぅ…げほっ、げほっ…!!」
…ようやく気道が確保できたところに、舞い上がった土埃を吸ってしまったのだろう。アンが蹲って激しく咳き込む。
だが、地面が軽く陥没するほど盛大に地面に叩きつけられた割に、スヴェルには損傷があるようには見えない。擦り傷や打撲はあるとはいえ、大きな怪我は何とか免れたようだ------と、俺が少しだけ安心した時。
「…だが、蚊蜻蛉にちらちらと目の前を飛ばれるのも目障りだ。」
------クレアがそう言って、アンにミサイルの照準を合わせる。
…まずい!アンだってすぐに動ける状況じゃない。それに、リーザも助けには来られないのだ。
「…やめろ…。」
戦うことができず、ヴァルキリーの力を増幅させるという、この場において唯一できるはずのこともできないでいる俺は、そんな情けない声を出すしかない。だが、その声も虚しく、無情にもクレアの呼び出した二発のミサイルの推進装置に火が灯り、発射体制に入ってしまう。
「逃げろ…アン、逃げろ…!!」
俺の声が聞こえているかどうかもわからない。アンは苦しそうに蹲って動けない。刹那とも永遠とも取れる時間の中ーーー
「…ここまで早く、私の悲願が達成できるとはな。私はつくづく運が良いらしい。
私に与えられた力…F-20『タイガーシャーク』よ…お前の無念、この私が晴らしてやる…お前を打ち負かしたと傲る愚か者の力を宿しているらしい、そこで地べたに這いつくばる女の死によって、な。」
------その言葉と共に、推進装置から火を噴いたクレアのミサイルが、アンに向かって撃ち出された。
「------やめてくれ…やめろ…やめろぉぉぉぉぉぉぉぉっ…!!」
------俺の叫びも虚しく、アンにミサイルが吸い込まれ、巨大な爆発が巻き起こり------
「…何…?」
クレアが怪訝な顔で、視線を着弾地点へと向ける。
…俺は、その爆発の刹那、土煙の中にもう一人の人影を見た。
風によって土煙が少しずつ晴れ、何が起こったのか理解できていないらしいアンと、その前に立つ女性の姿を、俺の視線の先へとはっきりとした形で映し出す。
ミサイルの爆発によって巻き起こった衝撃と、それに伴う大きな空気の流れによってふわふわと揺れる、綺麗な長い金色の髪。
土埃の中でも決して汚れることのない、清く美しい純白を基調とした、軍服を可愛らしくアレンジしたような衣装と、各所に散りばめられた装甲。
それらを纏う彼女が、ヴァルキリーとしての力を使って呼び出したのであろう分厚く堅牢な白い装甲を掲げ、アンに肉薄していたミサイルを真正面から受け止めただけでなく、唸りを上げて殺到したミサイルによって装甲もろともに貫かれるどころか、爆発の衝撃すらもすべて吹き散らしたのだということに気がついた時。
「------ローレライ、先輩------」
彼女の…最高のヴァルキリーと称される彼女の名が、思わず俺の口から洩れ出していた------
※※※
(another view“Angelina”)
「------よかった、間に合った…!フローレスさん、大丈夫ですか?」
私を守ってくれたらしいローレライ先輩が、背中越しに私に声をかけてくる。
「は…はい…大丈夫、です…。」
私はそう返すものの、体は思うように動かない。スヴェルは無事だったものの、首を掴まれていたことや地面に叩きつけられたことによって生じたダメージは、私の体に痛みや苦しさとして、しっかりと刻まれてしまっていた。
「…何だ、貴様は。私は貴様の後ろにいるその虫けらに用がある。そこを退け。」
先ほどまで私の首を捉えていた女の子…クレアちゃんと言っただろうか…が、ローレライ先輩に対して、そんな言葉をぶつけてくる。しかし、ローレライ先輩は私を庇うような仕草をしながら、己を高みから見下ろすクレアちゃんに語りかける。
「…退きません。わたしは…守りたいんです。自分自身も、大切な人も、今ここにいる場所も、そこにいる人たちも。わたしの力はそのためにあって、そのために使うもの…だから退かない…退きたくない…退くわけにはいかないんです。」
「…ならば、もろともに消えろ…目障りな第一世代共が。」
静かにそう言ったクレアちゃんが、先ほどのミサイルだけでなく、併せて巨大なミサイルを二つ呼び出す。
…空での戦いではほぼ使う機会などないものだが、それらは一発で分厚いコンクリート製の壁を木っ端微塵に破壊したり、軍艦を沈められる破壊力を持っているもののはずだ。
…第三位ヴァルキリーである私やクレアちゃん。私のような戦後第4世代戦闘機の力を持った第三位ヴァルキリーであるならば、あの巨大なミサイル…対艦ミサイルと呼ばれるそれがひとたび命中した時の破壊力は、格上のヴァルキリー…それも、第二位ヴァルキリーはおろか、相手によっては最上位ヴァルキリーのスヴェルすら吹き飛ばすことができるものになる。それを、クレアちゃんは私とローレライ先輩に撃ち込もうとしているのだ。
「せ…先輩…。」
涙声になってしまった私に、ローレライ先輩はまた背中越しに優しく、しかし決意を持った声色で言った。
「大丈夫、装甲の後ろから離れないでくださいね。…絶対に…守ってみせますから。」
先輩がそう言った瞬間------上空のクレアちゃんが呼び出していたミサイルの推進装置が火を噴いた。それらはローレライ先輩が私を守るために呼び出していた巨大な装甲に真正面からぶつかり、耳をつんざく音とともに、再び巨大な爆発を起こす。
---しかし。
「何、だと…。」
クレアちゃんが驚くのも無理はない。そんなものを撃ち込んだというのに、ローレライ先輩の白い装甲は、貫かれたり破壊されたりするどころか、傷ひとつついていないのだから。
…ローレライ先輩が、装甲から体を覗かせ、クレアちゃんを見上げながら、まるで自分から狙われようとするかのように足を踏み出す。
「くっ…。」
クレアちゃんは一瞬たじろぐが、すぐさま新しいミサイルを呼び出し、ローレライ先輩に向かって発射した。巨大な爆発がいくつも起こり、社島にその音が何度も木霊する。
---しかし、ローレライ先輩の歩みは止まらない。あれだけの数を撃たれているのならば直撃弾だってあるはずで、周りには爆発によって陥没したり延焼したりしている箇所だってあるのに、彼女は土埃が上がり火の粉が舞い踊る中、スヴェルを土埃で汚すことも、綺麗な髪や肌を火の粉によって焦がすこともなく、ただただその歩みを進めていく。
(---これがローレライ先輩の…鶴城先輩と一緒に『史上最大の狼化現象』を乗り越えた、最高のヴァルキリーの力…。)
私は、そんなことしか考えられない。
聞くところによれば、『史上最大の狼化現象』の時、狼化ヴァルキリーとなってしまったローレライ先輩は、攻撃がまったく有効打にならなかったとはいえ、ある程度衝撃で吹き飛んだりはしていたらしい。当時、決死の足止めを買って出たという『ヴァルキリーパンツァー』の先輩たちが、狼化を止めるために送り込まれた鶴城先輩と一時的にビフレストを繋ぎ、その多くが、鶴城先輩とのビフレスト接続のみで可能な、複数人に対する二段階以上の能力向上の恩恵に預かっており、逆にローレライ先輩が誰ともビフレストの接続をしていなかった、ということもあるのだろうが、逆に言えば、少なくとも当時は、足止めや陽動程度ならば、頑張れば何とか可能だったのだろう。
…しかし、今、私の目の前にいるローレライ先輩は違う。
『史上最大の狼化現象』の副産物として、ローレライ先輩は、鶴城先輩とのビフレストの接続を、絶対に途切れることのないものにまで昇華させている。そして、鶴城先輩のグレイプニル遺伝子は、ただでさえ複数人に対する大きな能力向上を約束しているという類稀なものなのに、ことローレライ先輩との接続相性は、これもまた前例もなければ今後二人に匹敵する相性を持つヴァルキリーとオーディンが出てくることもないだろうと言われるほどのもの。
…ただでさえ誰も足元にも及ばない才能の持ち主であるローレライ先輩の力と、それをさらに計測不能なレベルにまで引き上げられるという鶴城先輩の力が合わさって、今のローレライ先輩の力となっているのだ。ゆえに、今のローレライ先輩は、誰からどんな攻撃を受けたとしても、傷をつけるどころか足止めすらかなわない…そういうことなのだろうと、私は察していた。
「何だ…何なのだ、貴様は…!?」
クレアちゃんの表情が、先ほどまで見せていた冷静なものから、まるでお化けでも見ているかのような怯えた顔へと変わり、自分よりも遥かに下にいて、悲しそうな顔で自分を見上げるローレライ先輩に、彼女の視線が釘付けになる。
ローレライ先輩は、その視線をしっかりと受け止めて、悲しそうな顔で、しかし優しくよびかけた。
「…お願い。これ以上ここで暴れないで。これ以上やんちゃをするようなら、わたしはこの力で、あなたを傷つけるしかなくなってしまうもの。
…わたしは、できるならそんなことはしたくないんです…だからお願い、これ以上ここで戦わないで。誰かを傷つけたりしないで。この社島…わたしが守りたいと思うこの場所を、昔のわたしがしてしまったように、壊したりなんかしないで…。」
…ローレライ先輩がそう言った時。
「------グレイマンさん、スヴォリノヴァさん、こちらへいらっしゃい。」
突然、空から聞こえてきたもう一人の女性の声…私や蒼天、リーザも知っているその声に、ローレライ先輩が今までとは別の方向を仰ぐ。その隙を見て、クレアちゃんはそちらの方向へと飛び、リーザと戦っていたエカテリーナちゃんも、リーザがその声に気をとられた一瞬の隙をついてリーザから離れ、一目散にそちらへと向かう。彼女たちが飛んでいったところに『ヴァルキリーエール』としての証であるスヴェルを纏って浮かんでいる、私も知っているその女性に対して、ローレライ先輩が問いかけた。
「…教えてください、マルセイエーズ先生。
どうしていきなり本部に対して、生徒会や各委員会の入れ換えをしたいなんて、勝手なご要望を出されたんですか…?」
※※※
…生徒会役員の入れ替え、だと?
ローレライ先輩が、空に浮かび高みから自分を見下ろす女性…サラ・マルセイエーズ先生に対して言ったその言葉に、俺は面食らっていた。
「------クリス!…これは…何てこった…いや、今はそんなこと言ってる場合じゃないか…。」
ローレライ先輩を追いかけてきたのだろう。いつの間にか来ていた鶴城先輩が、同じく周りに集まってきていた学生たちに、的確に指示を出し始める。
「よし…風紀委員のみんなは、まず島の被害状況の確認から。本島ブロックと周囲ブロックAからCまではスプリングフィールド委員長の班、周囲ブロックDからFまではテューダー副委員長の班にお願いします。祠島には、俺とローレライ副会長が、これから来る白鷺先生が到着し次第向かいます。俺たち以外の生徒会役員のみんなは、マニュアル通りに二手に別れて各班に同行してください。それから、医療ブロックには、姫菱 飛鳥委員長とエレーナ・シロフスカヤ・チャーチナ副委員長をはじめとした保健委員のみんなが、情報集約の窓口、及びカーティス先生をはじめとする医療スタッフへの情報の取り次ぎ役として、それから、集約した情報をリアルタイムで俺とローレライ副会長にフィードバックしてもらうために、生徒会書記のアナスタシア・シャシコワさんと、有志のリゼット・ポワティエールさんに待機してもらっています。怪我をしている人を見つけたときは、ある程度医療ブロックの混乱を避けるために、スプリングフィールド班は姫菱班の回線に、テューダー班はチャーチナ班の回線に連絡を。また、もしかしたら、流れ弾が飛んでいっていたり、不発弾になっているかもしれません。充分に注意してください。万一危険なことがあれば、ビフレストの接続やスヴェルの装備も許可します。…じゃあシャーリー、ヴィクトリカ、みんなのこと、お願いするね。」
「任せなさい、誠。…いや、違うわね。…了解です、鶴城 誠学園生徒会長。じゃあ、スプリングフィールド班のみんな、こっちに来て。どこに誰が行くのか割り当てをするわ。それから、何かあればあたしから会長に伝えるから、まずはあたしに連絡をちょうだい。」
「ああ、任せておけ、誠。お前はお前でやることが山ほどある。しっかり励めよ。…よし、行くぞ、テューダー班!遅れるな、私に続け!」
…俺たちも知っている風紀委員の二人…シャーリー・スプリングフィールド委員長とヴィクトリカ・C・C・テューダー副委員長が、鶴城先輩にそう言って各々動き出す。それを確認し、鶴城先輩は俺に声をかけてきた。
「浦澤君、大丈夫?血とかは出てないみたいだけど、他に痛いところとかはない?」
「…は、はい、とりあえず、あそこにいる銀髪の女子に投げ飛ばされたりして、まだ少し苦しいですが…他は何とか大丈夫です…。」
マルセイエーズ先生の傍らに浮かぶクレアを指差す俺の言葉に、鶴城先輩は「そっか…よかった。」と胸を撫で下ろし…すぐに真剣な顔で言った。
「…正直、嫌な予感はしてたんだよね。君たち三人のことを本部に伝えてから、丸一日経っても連絡が来なかったから。だから、俺とクリスで本部に行って進捗を聞こうと思ったら、今は取り込んでる、とか言われたんだ。それでその理由をかなり無理矢理本部から聞き出したら、学園の規則を度外視したようなことをマルセイエーズ先生が言い出して、今日までに答えを出さないと本部に乗り込むとか言ってきたって言うんだから、俺たちもびっくりするしかなくて。そうしたら、いきなり外から爆発音でしょ?…正直、あの声を聞いたクリスが本部を飛び出していなかったら、もっと大変なことになってたかもしれないね。」
「…そう、だったんですね。」
…どうやら、先輩は俺と同じ懸念を抱いていたようだ。しかし、あの声とは…ローレライ先輩が誰からそれを聞いたのか、ということを聞く前に、鶴城先輩は学舎の側から走ってくる人影に気づいて手を振った。
「来た…白鷺先生、こっちです!」
「マコ、クリスちゃん!遅くなってごめんよ…あぁもう、全く、とんでもないことをやらかしてくれたもんだ…ねぇ、サラちゃん。」
こちらに駆け寄ってきた白鷺先生がそう言って、上空の三人を見据える。
「サラちゃん…あんた、一体何やってんのか、自分でもわかってるはずだよね?…まったく、あたしの後ろをちょこちょこついてきてた昔のあんたは、一体どこに行っちゃったんだか。」
「理解していますよ、白鷺先生。それがこの社島に必要なことであり、しなくてはならないことであることも。」
マルセイエーズ先生はそう言って、ヴァルキリーでありながらまだスヴェルを纏っていない、丸腰の白鷺先生に、両腕の装甲に一門ずつついた機銃のうち、右手側の機銃を向ける。
「物騒なもんを丸腰の人間に向けてんじゃないよ。…あたしは知ってる。戦後第四世代戦闘機の力を宿してたのは、あんたが初めてだった。でもさ…世界初の第四世代戦闘機のヴァルキリーだからって、こんなにも調子に乗って無茶苦茶するような人間じゃなかったでしょうが。それなのに、ヴァルキリーでもオーディンでもない、そもそも戦えない本部の人間に脅しまでかけてさ。…正直に答えな。あんた、祠島で好き勝手やるだけじゃなく、うちの学園の規則をそれだけわけのわからないほどひん曲げてまで、一体全体何がしたいの?」
白鷺先生の言葉に、マルセイエーズ先生が冷たい視線を向けて答える。
「あなたがそれを仰るのですか?この社島において、一番の権力者と言っても良いあなたが。」
「あたしは権力者なんかじゃない、ただの自衛隊兼務のヴァルホルの先生だよ。というかあんた、あたしの質問に答えてないでしょうが。もう一度聞くよ。あんた、何を考えてる?」
「------ならば答えましょう、白鷺先生。
このヴァルホル国際平和学園の在り方を変え、学生を強く育てる。それが私の目的です。」
…マルセイエーズ先生の言葉が、俺にはよくわからなかった。
学園の在り方を変える?
学生を強く育てる?
俺がそんなことを考えている間にも、マルセイエーズ先生の言葉は続く。
「白鷺先生、私がなぜ、あなたをヴァルホルの権力者と言ったのかがおわかりですか?…それは今現在、この社島において権力を握る存在の多くが、あなたの教え子であるからです。先ほどまでこの場において名が出てきた各委員会の長たちだけでも、一体あなたの教え子の名が何人出てきましたか?生徒会もそう。例えば…そこにいる化け物のような二人も、あなたの教え子なのですから。」
白鷺先生の傍らに立つ鶴城先輩と、まだ先ほどの場所に立ち続けているローレライ先輩に、マルセイエーズ先生の視線が向く。
「化け物だって…?あんたね…マコとクリスちゃんだって、人一倍能力の高いオーディンやとんでもない力を秘めたヴァルキリーである前に、一人の人間だろう?それに、そもそも生徒会役員や各種委員会は学舎ごとに決まった人数出すことになってて、前任者の推薦と本人の同意があって決まることくらい、あんただって知ってるでしょ?生徒会長や委員長たちだって、基本的には前任者の推薦から、本人と周りの同意があって決まるんだ。マコとクリスちゃんが学園生徒会の会長と副会長になったのだって、前任会長のフィアナちゃんと副会長の千代ちゃんの推薦と、この二人なら学園を良くしてくれるだろう、って当時の生徒会役員全員が思ってくれたからなんだからさ。そこにあたしの依怙贔屓なんぞ、一片たりとも存在なんかしてないんだよ。委員会だってそうだ。さっきも言ったけど、教員には委員長たちを決める権限なんてないし、そもそも委員会の長にも、エールやオーシャンの学舎の子たちは普通にいる。はっきり言って、選ばれた子たちや、その子を選んだ子たちは、今のあんたの言葉を聞いたらさぞ心外に感じるだろうさ。…まあ、ことエールの子たちに関しては、そういう役に就いてる子たちはあんたがエリートに育てるとか何とかぬかして引き抜いた子たち以外の子ばっかりみたいだから、そりゃあんたには懐かないだろうけどね。聞いたときにはびっくりしたけど、いろいろ伝手を辿って調べてもらったらほんとにそうなんだから、あたしも開いた口が塞がらなかったんだからね。」
…白鷺先生の言葉を聞いて、俺は気づく。これは昨日、リーザがローレライ先輩の部屋で予想として言っていたことだ。傍らの鶴城先輩に目を向けると、先輩はこちらに向かって首を縦に振る。どうやら、鶴城先輩の方から白鷺先生に伝わったようだ。…しかし、まさかここまで早くリーザの予想が大正解だったことが判明するとは思わなかった。
しかし、マルセイエーズ先生は白鷺先生のそんな言葉にも怯む様子すら見せず、再び口を開く。
「では…あれは確か六年前でしたか。パンツァーの学生の一部が、本部に対して、今私がしようとしたようなことをしたらしいということは?私はその時はまだフランスに戻っていたために深くは知りませんが…確か、自分たち専用のチームを作る許可を求め、場合によっては戦闘行為も辞さない…と言っていたと聞いた覚えがありますが。」
白鷺先生は、「あぁ…アナちゃんたちの時代のパンツァーのチームΩのことね。」と言って続ける。
「あの時だって、相当大わらわだったんだよ。まあ、ほとんどヴァネッサちゃんやそれに同調する子たちの暴走みたいなものではあったらしいけどね。あたしはその当時はもう旦那と一緒に自衛隊にいたから、あの子たちが一体何をやらかしてくれたんだかはよく知らないけど、その後、社島に呼ばれた時に知ったのは、どうやらあたしは、本部があの子たちの圧力に屈した後に、あの子たちに言うこと聞かせるための手綱にするために呼ばれたみたいな感じだったね。だから、あたしがあの子たちを操って本部に言うこと聞かせたって考えてるなら、それはとんだお門違いってもんだよ。…しかし、まさかあんたがあの子たちと同じようなことを考えるとはね。大人として恥ずかしくないの?…まあ、それはいいか。それで、学生たちを強く育てる、とか言ってたけど、それっていうのはどういうこと?」
白鷺先生が再び、マルセイエーズ先生に問う。マルセイエーズ先生はため息をつくような仕草をして言った。
「このヴァルホルの学生は、卒業後に軍人になる者も数多いことは、白鷺先生もご理解いただけているでしょう。しかし、現在のカリキュラムでは不十分です。なぜなら、このヴァルホルのミッションが、ヴァルキリーやオーディンの保護と、力を無闇に行使させないことにばかり重点を置いた教育をすることであるからです。すなわち、それは本格的な戦闘行為になった有事の際に、力を使うことを躊躇させかねない危険な教育。特に、力を持つ者は外からの脅威に対する抑止力とならなければならない、そうでなければ意味がない…それは、あなたが一番良く理解なさっているのでは?」
「…サラちゃん、いい加減にしなよ。」
白鷺先生の言葉が、いつもの楽しそうに話すものからそうではない冷たいものへと変わっていく。
「…ヴァルホルのミッションは、ヴァルキリーやオーディンの人権保護、それから卒業した子たち…軍人になると決めた子たちに対してはできる限り戦いの場に引っ張り出さないように、それを選ばなかった子たちには人殺しの道具として誰かに使われることのないようにするための教育を行うことだ。サラちゃん、あんたはその大前提を完全に忘れてる。それに、万が一あたしがその部分に対しては同調したとしても、あんたのやってることを全肯定なんてできるはずがない。強い力を持っているヴァルキリーやそのお気に入りになってくれるオーディンだけを集めて、そうでない子や自分の意にそぐわない子はいらないとか、あんたのお気に入りの子たちは、そうでない子たちに何をやったって許されるとか…そんなもんを肯定してる時点で、今のあんたは教育者でもなんでもない。ただの狂人であり、わがままな独裁者さ。」
「…かつてあなたがしたこと…あの時から、あなたの判断は間違っていなかった…そう思おうとずっと努力していたところでしたが…どうやら、私の見込み違いだったようですね。」
「…やっぱりね。あんたの本音はそれだろう?サラちゃん。まあ、何となくわかってたさ。あたしのことをあんたがそこまで嫌う理由なんて、それ以外には考えられないしね。」
マルセイエーズ先生の言葉に何かを察したのだろう。白鷺先生が一歩踏み出す。
「あたしがスヴェルを纏わずに蜂の巣にされるだけならまだいい、何度も言ってるけど、あんたをそうしたのはあたしと秀なんだろうなってことはわかってるから、それであんたの気が晴れるならそうしなよ。あんたは第三位ヴァルキリー、そんでもって世界初の第四世代戦闘機の力を宿したヴァルキリーだ。…最上位ヴァルキリーが何だ、10式戦車の力が何だ。スヴェルを纏ってないあたしだったら、あんたのその銃に蜂の巣にされることなんて簡単だよ。ただし…ここにはスヴェルによって身を守ることのできない、オーディンであるマコや蒼天君もいる。どちらにせよ、その銃を今ぶっぱなせば、あんたはヴァルホルの教員でも、ヴァルホルに来るまでにいたらしいフランス軍の軍人でもない、本当にただの人殺しの狂人に成り果てるだけだよ。当然、国連安保理だって黙っちゃいない。その上、教え子たちにも手を出すなんてことがあれば…あたしはあんたを、絶対に許さないからね。」
白鷺先生がそう言うが、マルセイエーズ先生は動かない。
…そう、世界初の戦後第四世代戦闘機のヴァルキリー。
今のところ、アメリカのF-22やF-35、ロシアのSu-57といった、戦後第五世代戦闘機と呼ばれる機体のヴァルキリーはまだ登場していないため、現状でヴァルキリーの力に還元されている戦闘機の中において一番新しいものは、アンのF-16やリーザのSu-30SMのような戦後第四世代戦闘機になっている。…マルセイエーズ先生は、ヴァルホルの学生としては三期生という非常に早い段階の学生であったものの、出身国であるフランスの誇る戦後第四世代戦闘機『ラファール』の力を宿した第三位ヴァルキリーとして、当時から話題に上がっていたと聞いたことがある。
「…ならば白鷺先生…今この場で、あなたの力で私を撃てばよろしいのでは?そうすれば排除すべき対象である私を排除でき、あなたは一躍、社島の英雄となれるでしょう…あの時のように、ね。」
マルセイエーズ先生が、白鷺先生に冷たい視線を向けて、そのようなことを吐き捨てるように言った瞬間。
「…今のあたしに、そんなことさせるんじゃないよ。
あたしはね…あんたに恨まれるようなことをしちまったけれど…あたしが人でなしのことをやったことで、あんたすら人でなしにしちまったみたいだけれど…それでも、まだ感情のある人間でいたいんだ。そんなことをしちまったからこそ、するしかなかったからこそ、人間でいたいんだよ。兵器の力なんて持ってても…それを振りかざして誰かを傷つけること…あんたを変えてしまったあの時みたいなことは…本当ならもう二度としたくなんかないんだよ…。」
俺と鶴城先輩に背を向けたまま俯き、小刻みに肩を震わせながら、嗚咽を含んだ声で言う白鷺先生。
「珀亜さん…。」
鶴城先輩も、こんな弱々しい姿の白鷺先生は見たことがなかったのだろう。ただただ肩を震わせる白鷺先生に、俺たちはどう言えばいいのかわからなかった。
「…興が冷めました。グレイマンさん、スヴォリノヴァさん、戻りましょう。お腹が空いたでしょう?」
俺たちが聞いたことのない優しい声色で、両側に立つクレアとエカテリーナに話しかけるマルセイエーズ先生。
「ま…待ってください、先生…!朝に先生の仰っていた、憎きファイティング・ファルコンのヴァルキリーをようやく見つけたのです…とどめを刺す許可を------」
そんなことを言うクレアの声を聞いて、アンの近くにいるローレライ先輩が、またアンを庇うような仕草をするのを確認したマルセイエーズ先生が、クレアに対して優しく微笑みながら語りかける。
「いいえ、今はやめておきましょう。第二世代ヴァルキリーであるあなたたちが、現在のエールの生徒会役員選出者であるエリザベータ・グラーヴィチ、及びアンジェリーナ・美翔・フローレスと、最低でも互角、あるいはそれ以上に渡り合うことができることを証明できただけで十分です。…それに、グレイマンさん、あなたも見たでしょう?あの白いスヴェルを纏ったヴァルキリー…クリスティナ・E・ローレライは、本当に文字通りの化け物です。たとえあなたたちが全力でかかったとしても、あの化け物には到底太刀打ちできない…それがわかっている以上、あなたたちの第二世代ヴァルキリーとしての貴重な力を無闇に使わせるわけにはいきません。代わりに…ここではない場所において、あなたの輝く場所を作ってあげましょう。…大衆の目の前で、あなたの方がヴァルキリーとして格段に優れているのだということを、その身を以て証明すればよろしい。さあ、戻りましょう。」
「クレアちゃん…行こう。先生も、そう仰っているのだし…。」
「…了解しました。…命拾いしたようだな、ファイティング・ファルコン…次は仕留める。」
そう言って、三人は祠島へと体を向け、一気に加速して見えなくなっていく。
「…そうだ、アンは無事か…?」
先生方の話によって休む時間が長かったおかげか、体の軋みや息苦しさもだいぶ引いている。俺がアンのいるところ…ローレライ先輩の呼び出した装甲の裏へと駆け寄ると、アンの纏うスヴェルが、今日ずっと来ていた服へと切り替わる。
「蒼天…。」
涙を湛え、震える声でこちらに呼びかけてくるアン。…当然だ。ローレライ先輩に守ってもらっていたとはいえ、同じ学園の学生にあれだけ痛めつけられ、何度も爆発音に晒され続けた挙げ句に、去り際にあんな捨て台詞まで吐かれたのだ。恐ろしくならない方がどうかしている。アンの目から涙が溢れだしたと思うと、俺へと一目散に飛びついて大声で泣き始めた。
「蒼天…怖かった…怖かったよ…!!それに駄目だった…みんな仲良くしてほしかっただけなのに、蒼天の言うこと聞かずにいきなり飛び出して、でも喧嘩を止めることもできなくて…。」
「そんなことない…アン…俺もごめんな、俺、力になれなかった…。アンが喧嘩を止めたいって思ってたのに…何も…できなくて…。」
…俺もまた、抱きしめてくるアンを抱きしめ返し、涙ながらに言葉を紡ぐ。その時。
「------二人とも、痛い中、怖い中…一生懸命、よく頑張りましたね。」
------いつの間にか来ていたローレライ先輩が、俺とアンの頭に腕を回し…頭を撫でながら先輩自身の胸に抱いてくれる。
「え…?」
「せ…先輩…。」
いきなりのことに驚く俺とアンだったが、ローレライ先輩は、俺とアンを離そうとはせず、まるで小さな子供をあやすかのように、頭を撫でたり、背中をぽんぽんと軽く叩きながら、柔らかく温かなその全身で、俺とアンを包み込んでくる。
「…大丈夫ですよ。二人のことは、わたしもちゃんとわかってます。もちろん、グラーヴィチさんのことも。みんな、無闇に力を使ってやんちゃをするような子たちではないですから。
フローレスさんは、多分、浦澤さんやグラーヴィチさんと、まだお友達にすらなっていない、マルセイエーズ先生が連れてこられたあの二人が仲良くしてほしいと思って、喧嘩を仲裁しようとした…そうでしょう?それは、誰でもできることじゃない、とても素敵なことだと思うんです。
今回は失敗しちゃいましたけど…でも、これで終わりじゃないと思います。だって…フローレスさんは今までも、たくさんの人たちと繋がりを持ってきたはずだから。だから…きっと大丈夫です。
浦澤さんも…何もできなかった、なんて言わないであげてくださいね。
だって、フローレスさんは浦澤さんが駆け寄って来たとき、最初に涙を見せてくれたでしょう?…それだって、きっと誰でもできることじゃないはずだから。浦澤さんのお顔を見て、緊張の糸が切れたからこそ、フローレスさんはあなたの顔を見て涙が出たのだと思うから。
多分、二人にしかできないことがある、って誠さんから聞いてると思うんですけど…こうして一緒に泣くことも、無事でよかったことを喜ぶことも…浦澤さんがフローレスさんと一緒にできること…いいえ、浦澤さんとフローレスさん、二人でいなければ無理なことだと思うんです。まずは二人で、無事でよかったことを喜んで。そのあとは、グラーヴィチさんと一緒に、みんなが無事でよかったことを喜びましょう。
…だから、今は思い切り泣いていいですよ。わたし、二人が大丈夫って言うまで、ずっとこうしていますから。…ね?」
…ローレライ先輩の、聖母マリアのような優しい言葉。
それを全身で感じた時…俺とアンの両の目から、止めどなく涙が溢れだす。
「アン…よかった…お前が無事で…よかった…!!」
「わたしも…蒼天が怪我したりしてなくて…よかった…本当によかった…!!」
俺たちは、ローレライ先輩の温もりに抱かれたまま、再び強く抱きしめあう。
------もしかしたら、少し前に失ってしまっていたかもしれない互いの存在を、お互いの体でしっかりと感じあいながら。