第2章「愛情の振り子の振れ幅は」
いろいろなことがあった次の日。
「…結局眠れなかった…。」
俺は眠い目を擦りつつ、生徒会役員に用意された席から講堂の壇上を見つめていた。
「---新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。ヴァルホル国際平和学園へようこそ。」
壇上にいるのはリーザ。鶴城先輩の歓迎の言葉の後に、高等部生徒会会長の歓迎の言葉を読み上げるためである。…俺たちにたまに見せる適当さは今はなりを潜めている。まあ、リーザがぼろを出したところなんてまったく見たことがないので、別に心配はしていない。…が。
「……。」
俺の隣には、より眠そうな顔をして目をくしくし擦るアンの姿。…おそらく、彼女も眠れなかったに違いない。そりゃ、あんなことがあったら眠ろうにも眠れないだろうが…。
「---以上で、入学式を終わります。新入生はこの後、各学舎の教室にお戻りください。」
いつの間にか終わっていた入学式に、あっという間なのか長かったのかよくわからないままに祠島の自分の教室へと向かう傍ら、リーザが俺とアンのところに寄ってきて言う。
「…お二人さん、昨日は何してたのー?壇上でちらっと二人のところ見えた時、本気で爆笑しそうになったんだからね?」
「…いや、何もない。ただ眠れなかっただけだ。」
「うん…。」
「寝かさなかった、の間違いかとも思ったけど…どうやら違うみたいね。」
さすがのリーザも、俺たちの状態を見て冗談を言う空気ではないことを理解したらしい。
「でも、そうでなければ何でそんなに眠そうな顔してんの?」
「…まあ、いろいろあったんだよ、お前が想像してること以外のことがな。」
俺はそう言いながら、昨日の夜、夕飯を食べて部屋に戻った後の一連の出来事を思い出していた------
「…蒼天、一緒にお風呂入りたい…!!一緒にお布団入りたい…!!」
…部屋に戻って開口一番、アンが叫んだ。
「…は?」
なんでそうなる?と思いながら、俺はアンに聞いてみる。
「…落ち着けアン、何があった?熱でも出たか?それとも、さっきのうどんの出汁か何かに妙なものでも入っていたのか?」
いろいろあったからいっぱいいっぱいになっているのだろうか。そう思って聞いてみた俺に、アンはぶんぶんと首を振って答える。
「…あのね、さっきご飯を食べてた時、蒼天、聞いてきたでしょ?なんて言ってたんだ、って。…あのね、さっきの先輩たちのこと、覚えてる?」
「…さっき?」
「その…どこまで進んでるか、みたいな。お風呂とか、一緒にお布団に、とか…。あの…実はね、医療ブロックで先輩たちのお話を聞いて思ったの。やっぱり、恋人になったからには、聞いたようなこと、するのが当たり前なのかな、って…それで、さっきはじめてお部屋に入った時も、そのこと、ずっと考えてて…。」
「え…。」
俺は、この部屋にはじめて入った時のことを思い出す。
…そういえば、アンはどこかを…というか、バスルームの方をじっと見ていた。…まさか、そんなことを考えていたのだとは。
アンの言葉は続く。
「あ…あのね、無理ならいいの!そもそも私たち、付き合うようになってからお部屋に行くことはあってもそんなことはしたことなかったし…いきなりそんなこと言われても、っていう話だし…。ご…ごめん、忘れて!!ほ…ほら蒼天、疲れてるでしょ?早くお風呂入っちゃって!!」
…というわけで、俺はアンの剣幕に押されてバスルームに押し込まれ、風呂の中で悶々と考えて一時間ほど入っていて湯疲れしまくった上に、その後互いに何やら遠慮し合って、結局俺はソファで寝ることになった挙句、電気を消したら消したでこれまた悶々とするという妙なスパイラルに陥った結果、今のように二人揃って眠気の絨毯爆撃にさらされているのだった。
しかし…。
俺は隣で右に左にふらふらしながら歩くアンを支えつつ、昨日のアンの言葉を反芻する。
(…どこまで進んでるか…。)
鶴城先輩とローレライ先輩のことから連想したと言っていたところから察するに、それはすなわち、恋人としてどこまで進んでいるのか、ということだろう。…アンがそういったことを言ってきたということは…やはり恋人たるもの、風呂や布団まで一緒でなくてはならないのだろうか。もしかして、アンもそうしたいと思ってくれていて、それで勇気を出して言ってくれたんじゃないのか…?部屋のことだってそうだ。あの時、俺と一緒の部屋がいいと言ってくれたのはアンだ。昨日は元々俺の部屋に来ることを前提にしていたということもあってそこまで深く考えてはいなかったが…もしもアンがそんなことを考えてくれていたとしたら。
「う--------------ん……。」
考えれば考えるほど、俺は深く深く考え込んでしまう。
そりゃ、俺だってアンと一緒にいるのは嬉しいし、いつかそういったところができるまでの関係になれれば、それに足る男になれれば、とは思う。とはいえ…いきなりそんな風に一緒にいるところを増やすとかそんなことを言われてしまうと…さすがに俺だってどう答えていいのかわからない。応えるべきなのだろうか…だが、もしもアンにそんな気がなかったとしたら?そこまでのことはまだ考えていなかったとしたら?がっついてしまっていると誤解されてしまったりはしないだろうか…そうだとしたら、その誤解によってそのままアンに愛想を尽かされてしまう可能性だってある。アンを失った俺が果たして生きていけるのか…いかん、考えてみただけで震えが止まらなくなってきた。だが、そうだとすれば俺はどうすればいいんだ…?鶴城先輩なら、どうすればいいか知っているんだろうか?…いや、そもそも鶴城先輩とローレライ先輩の相思相愛っぷりは昨日見せつけられたばかりだ。そんなことをいちいち相談したところで、まともな答えが返ってくるのか…?「お前たちとは次元が違う」というようなことを、鶴城先輩のいつものやんわりとした言葉で言われて終わるのではないだろうか。そう言われたとしたら…アンを誰よりも愛している自負のある人間としては悔しいような、しかし先輩たちと比べたら俺たちなど足元にも及ばないと自覚しているがゆえにそう言われても仕方ないような…。
「…え…ええと、何考えてるかまったくわかんないけど…。とりあえず浦澤君、目の下にクマを作りながら顔が赤くなったり青くなったり、そうかと思うと百面相…ほんとに大丈夫?」
「…大丈夫だ、今日くらいは何とかなる…と思う。どうせ後は教室で連絡事項を聞いて下校するだけだ。部屋に帰ったら寝ることにする。」
「あ、そうだ。あたしも終わったら自分の部屋に戻って、しばらく本島で暮らす準備しないとなー。さすがに着替えとかは持ってこないといけないし。」
「…あ。」
あまりの眠気に頭から吹き飛びかけていたが…そういえば、俺とアンが帰るところもしばらくは本島のあの部屋なのだった。
「…眠れるんだろうか。」
俺はアンとリーザに聞こえないような声で呟いて、本島と祠島を連絡する海中トンネルを通り抜け、自分の教室へ入る------
「-----何だこれ…?」
俺とアン、それにリーザの机の上には、なぜか花瓶に生けられた花が飾られていた。
…どういうことだ?生徒会役員は全員、寮から本島の講堂に直行することになってはいたから、今日教室に入ったのははじめてとはいえ…さすがにこんなことになっているなんて思いもしなかった。
「…ん?え…何、これ …?ど、どういうこと!?ねえ、ミル…アリサ…!?」
それを見て、おそらくこういうことなのだろうと気がついたらしいアンが、ショックを隠せない表情でそう言って、二人の女子生徒…アンがリーザのように学舎内において珍しく友達になれたと言っていた女子生徒たちへと詰め寄るが…二人は答えようとしない。ただ俯いて、アンの悲痛な声を聞いてか、それとも何か別の理由でもあるのか、肩を震わせながらぽろぽろと涙を零すだけ。
「…ねえ、みんな。これ、一体どういうこと?あたしたち、いつの間にか死んだことにでもなってたってこと?…まあいいわ。とりあえず、やった子がいるなら言いなさい。今なら冗談で済ませてあげてもいいから。」
リーザが少しむっとした顔をしてクラスメイトの前に立ち、俺たちすら聞いたことのない冷たい声色で言う。当然だ。俺とアンはともかく、リーザはエールの学舎の中でも、こんな風に扱われたことはなかったし、そんなことをされる理由だってないやつなのだから。しかし、それに答える者は誰もいない。
「…ふーん、そっか。誰が何の目的でこんなことをしたのかわからないけど…こんなことをされた以上、あたしたちも黙ってるわけにはいかなそうね。アン、浦澤君、行きましょ。この教室の中じゃあたしたちどうやらもういないことになってるみたいだから、教室にいる必要も、席に座って先生方のありがたーいお話を聞くことだってないでしょ。どうせあたしたちはしばらく本島にいなさいって言われてたんだから、それが半永久的にそうなったところで、たいした問題じゃない。死んで幽霊になってるんだったら、止められる義理も、授業を受けなくちゃならない義務もないしね。…ま、アンや浦澤君はともかく、あたしを止めようなんて考える子はどうせいないんだろうけど。あたしを止められる人間なんて、それこそ今の祠島にはいないしね。ついでに、白鷺先生や鶴城先輩たちにもいいお土産話ができたわ。本島でこれ見せて全部問題にしてもらいましょ。」
そう言って、スマホでささっと写真を撮った後、俺とアンの手を掴んですたすたと教室を出て行くリーザ。
「お、おい、リーザ、いいのか?」
「そ…そうだよリーザ、もう少しお話を聞いてみても…。もしかしたら、なにか理由が---」
「アン、みんなのことを友達って思ってるアンにはこんなことを言うのは申し訳ない気もするけど…それを知ってるからこそ聞くわ。…あんなものを置いて、あまつさえあたしたちを無視する、クラスのみんなが自発的にそうしようとしたのか、それとも誰かに指示されて仕方なくやったのか…その真相はあたしもある程度の予想でものを言うことしかできないけど…でも、あんなことをしていい理由、されてもいい理由っていったい何?それも、昨日何人かに喧嘩を売ったあたしはともかく、アンや浦澤君が。二人とも、そんなことされる理由なんて思いつかないわよ?なのになんで?」
「え…え…ええと。」
困った顔をするアンに、リーザは続ける。
「もちろん、ただの悪口やいたずらくらいだったらあたしだって大目に見るわよ。ついでに言えば、あんなことがあたしだけに対して行われたってことでもね。でも…そうじゃなかった。あたしを友達って言ってくれて大切に思ってくれるアンも、そんなアンのことが大好きな浦澤君も…そんなあたしの大切な友達である二人も同じことをされてる。それも、クラス全員が知らんぷりを決め込んでね。あたしの考え通りなのか、それともクラスのみんなが本当に何も知らなくて答えられないのかは知らないけれど…でも、考えようによってはちょうどよかったんじゃないかしら。昨日のことと合わせて、今まで表面化せずに、生徒会役員、なおかつ実際に学舎に通ってるあたしたちでも完全に把握できてなかった祠島の問題を、本島でも大きく問題にしてもらえるってことでもあるもの。祠島のことだから、本島からの介入がどこまでできるのかはわからないけど…どうにもできなかったとしたって、そのままで終わらせる気はないわ。」
------そう言うリーザに引っ張られていく俺たちの耳に、
「…高等部生徒会にいられなくなるのも、もしかしたら時間の問題かもしれないよ。」
…誰が言ったのかもわからない、そんな一言が重苦しく突き刺さってきた---
「…ああああああもう!!ほんっとに腹立つわ!!」
元々の寮に戻って本島で暮らす準備を整え、三人で海中トンネルを渡っていると、その半ばあたりでリーザがとてつもない大声を出していた。
「…ひゃう…!!リーザ、声大きいよ…トンネルの中なんだから、もうちょっと抑えて…。」
リーザの声にびっくりしたらしいアンがいさめようとするも、リーザの声は止まらない。
「今までは周りにたくさん誰かがいたから抑えてただけ!むしろここまで我慢しただけ頑張ったって思ってほしいわ!!まったく、何で新学期早々こんな腹立てなくちゃいけないのよ…。」
「あ…あぅ…。」
…トンネルの中ということもあり、かなり反響するその怒声に、アンが完全に目を回している。まあ、俺たちの分まで怒ってくれてると考えれば嬉しいことではあるが…だが、教室に行くまで眠気と戦っていた俺たちからすると、突然聞いたこともないようなでかい声を近くで出されると、そりゃ今のアンのように目を回したくもなるものだ。
「とにかく、荷物を部屋に置いたらすぐ鶴城先輩に直談判するわよ。とりあえず今電話しとくわ。…あ、もしもし、鶴城先輩ですか?グラーヴィチです。」
言うが早いか、リーザがスマホを取り出して、鶴城先輩に電話をかけ始める。…こういう時のリーザの行動力は本当にありがたい。
「……。」
ふと隣のアンを見ると、先ほどのびっくりした顔はどこへやったのか、少し沈んだ顔で電話をするリーザを見ている。
…そりゃそうだろう。あんなことがあって、そして学舎の中において友達と思っていた人間にも、意志の有無はともかく無視を決め込まれた形になったのだ。アンからすれば、何にも変え難い気持ちに違いない。
「…はい…はい、わかりました、伝えます。じゃあ、また後で。失礼します。…二人とも、先輩と連絡ついたわよ。とりあえず、いろいろ終わり次第すぐ行くから、あたしがローレライ先輩から借りてる部屋で待っててって。」
「わかった。アン、行こう。」
「…うん。」
そうやって歩き出すアンだが、やはりアンの顔はさっきの顔のまま。
…俺は、アンに何をしてやれるんだろう。どう言って励ませばいいんだろう。
「…鶴城先輩なら、こんな時なんて言うんだろうな。」
ちょうどいい。鶴城先輩には個人的にも聞きたいことがあったので、話ついでに聞いてみよう。入学式の時から悶々と考えて答えが出なかったもの…恋人として深い関係になるべきか、そのタイミングはいつなのかについてのことと共通することでもあるから、今俺たちを取り巻く直近の問題と比べたら些細な問題ではあるだろうし、考えていた時にもいろいろな不安が渦巻いたものではあったから、聞いてみていいものなのかどうかは未だに疑問だが…このまま放っておくのもなんだか気持ちが悪い。どういう答えが返ってくるにせよ、一人で考えているよりかは参考になる話が聞けるような気がする。
そんなことを考えながら本島に来て俺とアンの部屋に荷物を置き、リーザがローレライ先輩に使わせてもらっている部屋に入る。…俺が入ってもいいところなのかってところではあったが、リーザ曰く、
「鶴城先輩がローレライ先輩にもその場で聞いてたらしくて、問題ないって言ってたわ。行くまで適当に休んでてって。あとね、あたし、昨日ローレライ先輩に冷蔵庫の中のものも好きに食べたり飲んだりしていいからって言われてたんだけど、さっき電話した時に、鶴城先輩がローレライ先輩に、『休んでる間、アンと浦澤君も好きなもの飲んで待ってていいよって伝えてって言われた』とも言ってたわ。」
…ということで、遠慮なくお邪魔することにした。
「…そういえばリーザ、お前がさっき言ってたこと…予想がどうの、って、どういうことだ?」
とりあえずソファに腰掛けた俺は、体面に座るリーザにそう聞いてみる。
「あぁ、あれ?いやね、ただ単純に、昨日の彼を階段から落とした子たちの仕業だろうな、って。だってタイミングが良すぎるもの。あの時点であたしたちが誰かから恨みを買いそうなことなんて、それ以外思いつかないし。」
…それもそうか、と俺が思った時、リーザがまた口を開く。
「ついでに言えば…多分なんだけど、あたしたちを貶めようと画策したのはその子たちだろうけど、実際に実行した…というよりも、実行させられたのはうちのクラスの子たちでしょうね。ほら、あたしたちのクラスって通常クラスだし、第三位ヴァルキリー以上のヴァルキリーってあたしとアン以外いないじゃない?…そのことで、ちょっと気になることがあるのよ。あたしたちが二年生に進級する時のクラス分け、覚えてる?ほら、ランクや専属の有無なんかでエリートクラスと通常クラスのどちらかに振り分けられるっていうあれ。」
「あぁ、あれか。」
そういえばそんなものもあった。俺としてはアンと一緒のクラスになれればそれでよかった部分はあるし、リーザとも一年生の頃からずっと同じクラスで、なおかつ仲は良いと言えるものだったわけだから、クラス分けに関して大した不満はなかった。…しかし、リーザは何か気になることがあるという。それは何だ?そう思っていると、リーザは少し考え込むようにしてから続けた。
「そのことなんだけど…あたしは最上位ヴァルキリー、アンは浦澤君っていう専属付きの第三位ヴァルキリーであるっていう、エリートクラスに入ってもおかしくない人間だったにもかかわらず、まとめて通常クラスに振り分けられたわけでしょ?…これは後から聞いた噂だから本当なのかはわからないけど、あたしは面談の時、オーディンを必要ないって言ったって理由で、アンは競争意識がないってことで弾かれたんじゃないか、って聞いたことがあるの。まあ、あたしたち…少なくともあたしはランクだの何だの言われたってそもそも関係ないから今までほっといてはいたけど…でも、エリートクラスの子たち…それこそ昨日の子たちみたいなのからすれば、そういうクラス分けって、多分ものすごく都合がいいものだと思ったのよ。だって、自分のランクやヴァルキリーやオーディンとしての力以外に、振り分けられたクラス自体がそのまま自分のステータスとして機能しうるんだもの。そのステータスを使えば、通常クラスの子たちのことを、それこそクラス中を巻き込んで言うことを聞かせた上、自分たちはお咎めなし、っていう形にでっち上げることだって可能だと思う。それに…今思うと、もうひとつ疑問が浮かぶのよね。あたしたちの前に生徒会役員に選出されたエールの先輩方って、確かあたしたちと同じで全員通常クラス出身だったはずよね。その前も、そのさらに前も。その中には、少なくともアンと同じくらいのヴァルキリーや、専属オーディンがいる人も含まれていたわ。それが偶然なのか、それとも仕組まれたものなのかはわからないけど…もしもあたしの予想通りだったとしたら…。」
「…もしかして、今まで問題が表沙汰にならなかった理由…生徒会役員の私たちも把握できてなかった部分も、全部説明できちゃう…?」
キッチンにあったらしいミルクパンを使って牛乳を温めていたアンがこちらを向いて、なにかに気がついたように言うと、リーザは「ビンゴ。」と言って、指をぱちんと鳴らす。
「多分だけど、クラス分けの時にやる先生との面談も、それなりのヴァルキリーやオーディンの中で、エリートクラスにいたら都合の悪い人間…それこそアンやあたしみたいなのをあえて通常クラスに残して、同じく通常クラス出身の前任の生徒会役員の目に留まるようにする…そして優秀な子がエールにもいるんですよ、真面目な子たちですよ、こんな優秀な子がいるんですから、うちの学舎には、小さな問題はそれこそ無数にあるかもしれないけれど、目に見えるほどの大きな問題なんてあるわけないですよ、って、その前任の生徒会役員自身の言葉で学園中にアピールさせるためにやってるものなんじゃないかしらね。そうすれば、問題を起こしやすいであろうエリートクラスへの追及を上手いことかわすことも可能だし、実際に何かが起こった時のもみ消しだって簡単だわ。二人とも考えてみて。クラス振り分けの後、エリートクラスの子たちと学園の中で具体的に何かをしたことってあった?まあ、元々あたしたちと同じクラスでそれなりに仲の良かった子もいるし、どこかですれ違ったりすることもないわけじゃないだろうし、いたずらや悪口も言われることもあっただろうから、まったく接点がないとは言わないけれど…でも、エリート選抜された子たちと、少なくとも学園において何かをするっていうのはかなり少なくなってきていたと思わない?結局、クラス分けの時点で、エリートクラスやそこにいる子たち、もっと言えば、それに関する要望や起こりうる問題に対して第三者が介入しにくい状況を意図的に学舎ぐるみで作り出すためにやってることにしか思えないのよ。」
「…なるほどな。」
…考えてみれば、確かにリーザの言うとおりだ。
もっと言えば、生徒会役員が普段学舎でやることといえば、戸締り確認の見回りと備品の補充くらいのもので、基本的な事務仕事などはすべて本島の生徒会室ですることになっている。すべての機能を本島に集中させるためには仕方のないことと言われればそれまでだが、少なくともその間、祠島に目を光らせる厄介者はいなくなる。見方によっては体のいい厄介払いの方法であると捉えることだってできるはずだ。そして、問題を起こす生徒たち…もっと言えばその中でもエリートクラスの連中は学舎ぐるみで守られているに等しい。その厄介者とやらのいない時間や日…俺たち生徒会役員の目に留まりにくい時を見計らって悪さを働けば、学舎自体の気質も相まってその事実をなかったことにされたり、誰かに罪をなすりつけたりして自分はお咎めなしになったりすることも可能だろう。
…昨日の寮での一件を思い出すと、連中が元々用があったらしいのは、階段から突き落とされた彼ではなく俺とアンであると言っていた。…それが本当なのか、それともその場での口から出まかせだったのかはわからないが…どちらにせよ、そこで本当に俺たちを黙らせることができれば、学舎の加護により何かの理由をでっち上げてもみ消しが可能だという自負の元での実行だったことは確かなのだろう。この社島は伊豆・小笠原海溝のほぼ真上にある絶海の孤島なのだから、俺たちを黙らせることに成功したら、その後に海の藻屑にしてしまえばいい。捜索だって困難だろうし、万が一、俺たちの体の一部でも見つかったとしても、オーディンでしかない俺はもとより、スヴェルを纏って力を使えば空を飛べるヴァルキリーであるアンに至っても、何かの拍子に海に落ちて溺れ、そのまま魚や鮫あたりにでも食われたのだろう、とでも言えば、事故か何かで済まされる可能性は極めて高い。あのときリーザがいてくれて本当に助かった…と言いたいところではあったが、それだけでは済まされない可能性に俺は気づいてしまう。
「…まさか、昨日の私たち以外にも命を狙われてたり、過去にそういう事例があるんじゃ…。」
俺が思ったことをアンが代弁してくれる。その問いに対し、
「うーん、ないとは言えないけど…。多分あったとしても限定的なものじゃないかしら。…限定的でも、そんなことはあっちゃいけないことではあるけど。まあ、なんでかっていえば、昨日の子たちのことを見るに、どうやら自分は楽をしてヴァルキリーの子に貢ぎたいって考えるオーディンや、誰かの上にいたいって考えるヴァルキリーもいるのは事実みたいだし。そういう子たちからすれば、自分より下と思ってる子って、要は体のいいカモのようなものだから、そのカモがいなくなって威張れなくなるリスクを冒してまで、そんなにむやみやたらと命を狙うってことはないと思うわ。実際、あたしたちの代から見ても、悪口やら何やらが日常茶飯事なのは確かだし、オーディンの転科みたいな学生の移動の話は昨日の彼のこと以外にもいくつかあったような気もするけど、誰かがいなくなったとか、それによる大規模捜索が云々とか、そういう話は聞いたことないし。もしもそんなことが本当に日常的に起こってるんなら、さすがに隠し通せないだろうしね。…そういう意味では、昨日の浦澤君とアンがあの子たちに狙われた理由っていうのは、多分、昨日のリーダー格の子が言ってた、自分たちを差し置いて浦澤君やアンが生徒会に選出されたのが気に食わなかったからっていうのを信用していいんじゃない?その予想が大正解なら、二人とも運が悪かったとしか言えないところね。まあ、そこにあたしがいて、どの子も殴り合いではあたしに勝てないのはわかってるからその場は退いたけど、とりあえずただ単に悔しいからって理由で、浦澤君とアンへの嫌がらせに乗じて苦し紛れにあたしに対してもできる限りの嫌がらせをしてやろうってことで、うちのクラスの誰か、あるいはクラス全員を巻き込んでやらせた、ってのが真相じゃないかしら。」
「…それが事実だとして、昨日俺とアンがあいつらに本気で殺されかけたことをただの運の悪さで終わらせてほしくないんだが…。」
とはいえ、実際に運が悪かったのは確かだろうとは思うので、それ以上は何も言えない俺である。…と、その時。
「…あの、グラーヴィチさん、いますか?」
とん、とん、とドアが叩かれたと思うと、この部屋の元々の主であるローレライ先輩が、ドアを開けて顔を覗かせてくる。
「ローレライ先輩。すみません、お邪魔してます。」
「あ、私も…お邪魔してます。」
ぺこりと並んでお辞儀をする俺とアン。
「あ、みんな揃ってるんだね。」
ひょこっと顔を出した鶴城先輩が、ローレライ先輩に少し遅れて部屋へと入ってくるのに合わせて、リーザが言う。
「鶴城先輩、ほんっとに連日連日申し訳ないです…。だいたいの経緯は電話でお話ししたと思うんですけど、さすがに今回ばかりはあたしも腹が立ちすぎて…。」
その言葉に対し、鶴城先輩は真剣な顔をして、
「ううん、大丈夫。というか、電話で聞いたことが本当なら、そりゃ怒りたくもなるよ。だって、要は三人まとめてクラスから…というか、下手したら学舎全体から追い出しをくらったと同じだってことでしょ?それも高等部生徒会のエールからの選出者全員が。さすがにそんなことは前例としてなかったから、俺も聞いたときはびっくりしたよ。…とりあえず、もっと詳しく話を聞かせて。」
「はい。実は---」
俺とアンとリーザが、鶴城先輩とローレライ先輩に、今日遭遇したことや、先ほどのリーザの予想なども含めて各々説明していく。
「…なるほどね。クラスの時点でヒエラルキー上の立ち位置を確実なものにした上で、上位の子たちを学舎ぐるみで守る…。そっちの学舎だとありえそうな話かも。…実はね、俺たちもさっき、白鷺先生からちょっと不穏なことを聞いてるんだ。っていうのも、昨日の彼のことも含めてなんだけど、マルセイエーズ先生、転科するなら別にいいよ、って言うだけならよかったんだけど、逃げ出した、とか、必要ない、みたいなこと仰ってたらしくて。」
「あ…先輩、そういえば彼は…?」
アンがそう聞くと、鶴城先輩は少し顔を柔らかくする。
「彼は大丈夫。彼が傷だらけなのは昨日も聞いたと思うけど、少なくとも昨日階段から落ちた時の怪我はそれほど大きくなくて、今日の朝には医療ブロックを出たって。今は白鷺先生とアナスタシアと一緒に、昨日言ってたパンツァーのチームメイトとの顔合わせをしてる。さっき、ここに来る前にアナスタシアから電話があったけど、仲良くやれそうな雰囲気だって。」
「そうですか…よかった。」
安堵の息を漏らすアン。…何だかんだ、彼のことを心配していたんだろう。アンらしいと思っていると、鶴城先輩がまた顔を真剣なものに戻して言う。
「…しかし、今話を聞いた中で、気になったところは他にもあるんだよね。みんな、生徒会にいられなくなるかもしれないっていう声…全員が聞こえてたものだった?空耳とかじゃなく。」
その問いに対し、三人揃って肯定するために首を縦に振る俺たち。それを見て、
「そっか…それが本当だとして、マルセイエーズ先生、一体何を考えてらっしゃるんだろう?俺たちも、生徒会役員が交代するような話は何も聞いてないし…それに、みんなは知ってるよね、ヴァルホルの生徒会役員選出の方法、それから役職引き継ぎの期間にどんなことをするかとか、正式に任命されるのはいつ頃かとか。それを考えたら、そんな突拍子もない言葉は出てこないはずなんだけど。」
「はい。基本的には、高等部生徒会の役員がそのままエスカレーター方式で学園生徒会の役員になること、高等部生徒会の三年生が、自分と同じ学舎の後輩に対して推薦権を持っていること、推薦される人間は、生徒会にふさわしい気質を持ったものでなくてはならず、必ずしもランク等によって左右されないこと、それを本島の社島運営本部と学園生徒会が一月に行われる会議で審議して、承認をもらってはじめて任命されることのできる権利を得ること、引き継ぎ期間は三月いっぱいまでなので、それまでにどんな予定があるのか、何を用意すればいいのかということを把握しなければならないこと…そんな感じだったと思います。」
「うわ、浦澤君、よくそんなこと覚えてるわね…あたしすっかり忘れてたわよ。」
「り、リーザ?それはちょっと駄目なんじゃない?私たちも今年、推薦権もらってるってことになるんだよ?」
あっけらかんと言ってくれるリーザと、それに対して心配そうな顔をするアン。…まあ、リーザのすっとぼけに関してはもう何も言うまい。
とりあえず、そういうことを考えれば、俺たちは高等部終了後はよっぽどのことがない限り大学部に行って大学部生徒会役員の職に就くことになるわけなので、高等部生徒会からいずれいなくなることは確かだ。だが、それだって一年先で、なおかつ先ほどもアンが言っていた通り、今年のエールの学舎における推薦権は俺とアンとリーザにある。だから、そもそも俺たちが生徒会からいなくなる、という言葉自体、それこそ俺たちが高等部にいる限り起きないはず。まあ、昨日のことを考えると、少なくとも俺とアンが生徒会にいることに対して納得がいかないという輩がいないわけではないことはわかっているから、俺たちへの嫌がらせとしてあんなことをしたり、そのうち生徒会にいられなくしてやると脅しをかけてくるのは理解できるが…。そうだとするならば、リーザのことはどうなる?その場にいて連中を散らしただけで、そこまでのヘイトが集まるものか?それも、誰も追い落としを考えない、少なくとも今の高等部の学生じゃそんなことを考えることすらできそうにないようなやつを。
「学園の規則を捻じ曲げてしまえるようなことが起こった、って捉えるのが自然なんだと思うんですけど…でも、もしもそうだったとして、それは何なんでしょうか?社島の規則…例えば学園なら、先生方と学園生徒会合同の会議での承認から始まって、社島全体の運営本部、それから国連安保理からの承認も必要ですし、他の規則も同じ手順を踏むはずです。ただ…例えば、わたしと誠さんのこと…狼化現象とヴィーザル型のグレイプニル遺伝子についての情報を学生のみなさんや国連加盟国に対して開示を行うことを規則に盛り込んだ時も、その三重の決議に可決・承認されることが必要で、すべての審議で可決されるまでの期間だけでも数年かかっているんです。…確かに、規則では生徒会役員の選出に関しては、その年の選出者を国連安保理へ報告する義務があるだけで、承認自体は社島の中だけで承認しても大丈夫なことになっていますし、規模が違うこともあって、万が一承認が必要だとしてもわたしたちの時のような期間はさすがにかからないとは思いますけど…それでも、昨日今日で決められることではないはずですし、そもそも、学園生徒会役員…高等部生徒会のみなさんだけでなく、わたしや誠さんも知らされていないなんて、どう考えてもおかしいです…。」
ローレライ先輩が心配そうな顔で言うと、鶴城先輩が考える素振りをしながら言う。
「…うん、クリスの言うとおり。ただ単にいじめや悪口を黙認して競争意識を煽るなんてものとはわけが違う。…今は俺たちも何もわからないところではあるけど、本当のことであれただの噂であれ、そんな話が出てきちゃった以上、何もないとは言いきれないし…。とにかく、俺たちも独自に動いて調べてみるよ。それから、学舎から追い出しをくらった云々に関しては、とりあえず俺の方から運営本部の方にかけ合って、どうすればいいかの判断を仰ぐしかないかな…多分、学舎の方に何か言ったとしても、満足な答えは返ってこなさそうだしね。それに、ヴァルキリーやオーディンの主な教育カリキュラムは高等部に集中してるし、それでなくとも普段の学園の勉強なんかもあるわけだから。少なくとも、授業をちゃんと受けられるようにしなくちゃ。…ただ、かなりイレギュラーなことだから、それこそ、決定に多少時間がかかっちゃうかもしれない。そこは申し訳ないんだけど、もしそうなっちゃったら、気長に待ってくれるかな?」
「そうですね…それでお願いします。すみません、面倒をおかけしてしまって…。」
「ううん、それこそ気にしなくていいよ。昨日のこともそうだけど、俺たちは本島の学生のためだけにいるんじゃないもの。…それよりも、今後君たちがどうすればいいのか、学園の中でそんなことが実際に起こっているってことで、それをどうにかする方法を考えるのが先決だから。」
…本当に、頼りになる先輩たちだ。…と、そうだ。
「…あの、鶴城先輩。ついでと言ってはなんなんですが…俺、ちょっと別件で少しお話ししてみたいことがあって…。お時間とか、大丈夫ですか?」
俺が鶴城先輩に言うと、先輩はふと驚いた顔をして、
「俺に?うん、大丈夫だよ。ここで聞けること?それとも、どこか別なところの方がいいかな?」
そう言って、また優しそうな笑顔を浮かべる。
「あ…まあ、別のところの方がいいかもしれないです。一応、自分だけのことですし。」
「うん、わかった。クリス、女の子たちのこと、お願いしてもいいかな?」
「あ…はい、大丈夫ですよ。とりあえず、お茶を淹れますね。」
「あ、先輩、私、お手伝いします。さすがにごちそうになってばかりじゃいけないので。」
そう言って、いそいそとお茶の用意を始めるローレライ先輩と、それを手伝うアン。…何だろう、先輩の背丈の高さや雰囲気もあって、アンと並べると年の近い姉妹にも思えてくる。
「…で、案の定お前は手伝わないんだな。」
一向にソファから動こうとしないリーザに、俺は視線を向ける。
「あ、あはは…いやぁ、だってあたしがやったら確実にカップひとつは壊れることを覚悟しなきゃならないだろうし…。一応先輩から借りてる部屋なんだから、そんな粗相をしたら…ねぇ?」
…そんなことを言うが、こいつがそんなうっかりミスを犯すはずがない。ただ単に面倒なだけだろう。
「よし、女の子は女の子で仲良くやるみたいだし…とりあえず浦澤君、場所はどうしようか、俺の部屋でいい?」
「あ、はい、大丈夫です。じゃあアン、リーザ、行ってくるから。ローレライ先輩、二人をよろしくお願いします。」
そう言って、俺は鶴城先輩と一緒に部屋を出る。先輩の部屋に着き、中に入って座るように促されて俺が腰を下ろした時、鶴城先輩が言った。
「…さて、話っていうのは…察するに、フローレスさんとのこと?」
「…どうしてわかったんですか?」
まさか、さすがにここまでピンポイントで言い当てられるとは思わなかった俺は、びっくりして鶴城先輩を見返す。
「あぁ、まあなんとなく、ね。昨日の今日で君とフローレスさん、何だかんだあって一緒の部屋になったわけでしょ?二人が恋人っていうのは俺も知ってるし、仲がいいのも知ってるけど…いきなり距離が近づいたわけだし、何かを意識する…というか、意識してなかったことまで意識せざるを得なくなって、もしかしたらちょっと戸惑ってるのかな、って思ってね。それに、さっき聞いたことも。フローレスさんがたくさん仲良しの友達を作ってることは俺も知ってるから、今日のことって、すごく辛いことだと思うんだ。…違ったかな?」
…さすがは先輩、俺の考えなどお見通しのようだ。
俺は少しずつ話し始める。
「…先輩の仰るとおりです。ひとつは、祠島から本島に来るとき、アンが悲しい顔をしてたこと…その時、俺はどう声をかけていいのか、全くわからなかったんです。どんな慰めかたをしても、あんなことがあったことは事実ですし…それにアンがショックを受けてしまったことも事実なわけですから。」
「…やっぱり。そうだよね、仕方ないって割りきれれば一番いいんだろうけど、そんなことはできないって思うのが普通の反応だと思う。フローレスさんみたいな子なら、なおさらね。」
いつものように、優しく俺の言葉に耳を傾けてくださっている鶴城先輩に、俺はもう一度口を開いた。
「…それから、もうひとつなんですが…昨日、アンが言ってたんです。先輩たちが恋人同士としてどこまで進んでるのか、っていう話を聞いて、いろいろなことを意識したんだ、って。恋人って、もっと近くでふれ合うべきなのか、とか、いつでも一緒の方がいいのか、とか。それを聞いてから、俺も今まで意識してなかったことを意識し始めるようになって…。どうすればいいのか、どう答えればいいのかもわからなくなってしまって…。」
「なるほどね。…懐かしいな。俺たちもそんなことあったっけ。周りに話すべきかそうでないかっていうところを考えてたりね。そうしたら、二人で話してるところをチームメイトに見られちゃって、そのまま学園中に恋人同士ってことがばれちゃったりして。それで二人して開き直ってみたりとかね。」
「それなんですが…俺、それって誰でもできることなのかな、って思ってしまうんです。」
俺はそう言って、失礼にならないだろうか、と少し躊躇ってから口を開く。
「鶴城先輩…あの噂、本当なんですか?ローレライ先輩が狼化した時、一緒に死のうとしたってこと…。」
…噂で聞いた話のひとつ。『オーバーロード』の時、鶴城先輩は暴走するローレライ先輩、そしてこの社島と共に海に沈む覚悟だったという。
「…うん、本当だよ。」
「怖いと思わなかったんですか…?」
俺の問いに対して、鶴城先輩は「まさか。怖くないわけないよ。」と少し笑ったと思うと、すぐに思い返すような顔をして答えた。
「自分が何をしようとしてるのか、それによって自分がどうなるのか…それは確かに怖かったけど…でも、それよりももっともっと怖かったのは、クリスと離れ離れになってしまうこと…今行動を起こさないと、クリスを愛しているはずの俺自身が、彼女のことを暗くて深い海の中に一人ぼっちにしちゃうことになるんだ、っていうことだったんだ。それってつまり、俺のことを好きだって言ってくれたクリスのことや、クリスとずっと一緒にいるって決めた俺自身、それだけじゃなくて…俺たちの関係を応援してくれた人たちや、俺の覚悟を試してくれた人たちの気持ちまで、全部裏切ることにもなっちゃう、っていうことでもあるわけだから。…それだけは、俺はどうしてもしたくなかった。自分のエゴであることはわかっていたけど…そんなこと関係ないって思ってたし、今だってその気持ちは同じだよ。」
…そう言いきれる先輩は、やはり、俺がアンに向ける気持ちとは比べ物にならない愛情を、ローレライ先輩に向けているのかもしれないと思う。俺はまた口を開いた。
「さっき、ふれあいを近くするべきかそうでないか、っていうお話をしたと思うんですが…ひょっとしたら、それって本当に特別な…それこそ、鶴城先輩とローレライ先輩のような人たちのところまで達することができなかったら、そういうことってできない、しても意味のないものなのかな、って思ったりもするんです。」
…一度声を出してみると、後から後から言葉が流れるように出てくるものだ。そう思いながら、俺は続ける。
「…それができない俺たち…いや、アンはわからないですけど、少なくとも俺は、きっとまだ先輩たちの領域に達せていない…というより、達せるのかすらわからないと言っていいかもしれません。…先輩たちと違って、俺がビフレストを通してアンに供給できる力も、普通のオーディンと大差ないですし、ヴィーザル型のグレイプニル遺伝子でもないから、鶴城先輩のようにいざという時に体を張ることもできない…それを考えたら、愛情にも優劣が生まれてしかるべきなのかも---」
「-----浦澤君。振り子って知ってるよね?」
「え…?」
止まらない言葉を垂れ流すだけだった俺の耳に、そんな声が聞こえてくる。
「振り子、って…あの理科の実験で使うようなあれ…ですか?」
「うん、その振り子。あれって、理科の授業で聞いたことがあるかもしれないけど、面白い性質があるんだよね。」
「振れ幅とか、往復にかかる時間がどうとか…そういうものですか。」
「そう。あれ、おもしろいよね。同じ高さから振り子を振れさせると、重りの重さとか、糸の長さとか、そういうの関係なしに同じくらいの高さまで振れるんだから。…まあ、別に物理学とか、力学的エネルギー云々とか、そんな話をしたいわけじゃないんだけどね…変な言い方になっちゃうけど、俺は愛情って、その振り子の振れ幅と同じようなものだ、って思ってるんだ。」
鶴城先輩はそう言って、俺にやわらかく、しかし真剣な視線を向けてくる。
「浦澤君、君は今こう言ったね。『自分たちは、何もかもが俺とクリスには及ばない、ヴィーザル型のグレイプニル遺伝子を持たない自分だから、ビフレストを通したフローレスさんとの繋がりも俺とクリスに比べて浅い、だから向けられる愛情にも優劣があるんじゃないか』って。でも…それって、本当にそうなのかな。そもそも、君の言う誰かを愛することに対する優劣って何なんだろう?人よりもビフレストを繋げた時に与えてあげられる力が大きかったり、ヴィーザル型のグレイプニル遺伝子を持っていなくちゃ、君がフローレスさんのことを愛しちゃいけないのかな?…俺も、もしもヴィーザル型のグレイプニル遺伝子を持っていなかったり、俺の持ってるヴィーザル型のグレイプニル遺伝子がクリスの狼化を抑えられるだけの力を持っていなかったとしたら…俺とクリスは、お互いのことを好きになっちゃいけなかった…ってことなのかな。」
「あ…。」
俺ははっとしてしまう。
…そうだ。
この話は俺たちだけの問題じゃない。…そんなことにまで気が回っていなかったことに今さら気づいた俺に、鶴城先輩は続ける。
「俺は…そんなのは嫌だな。だって、俺がクリスのことを愛してるのは、俺がクリスのことを愛したい、一緒に生きてほしい、一緒に生きていきたい、って思ってるから、ってだけなんだもの。ヴァルキリーとオーディンだからでも、もちろん、狼化を食い止められる力を偶然持っていたからでもない…というか、誰かを好きになる気持ちの中に、取ってつけたような理由なんて必要ない。俺は、そう思うんだ。」
「取ってつけたような…ですか。」
「うん…この言い方に関しては人によっていろんな意見があるだろうけどね。ひょっとしたら、それで嫌な思いをしちゃう人がいることも…否定はできないかも。でも正直、それはどう言っても一緒だろうから、あえて自分の言葉で言ってみたいっていうか、そうしなきゃって思う、というか。…まあ、そうは言っても、結局は俺の願望ではあるんだけどね。それが理想であってほしい、みたいな。」
…俺はなんとなく、鶴城先輩が昨日、あの男子生徒に「どんなにうまく言えなくてもいいから、包み隠さず、自分の言葉で教えてほしい」と言っていた理由が、少し理解できた気がした。あれは彼に言いたいことを言わせて落ち着かせようとしているのかとも思ったが…おそらく、それだけではなかったのだろう。
「それにね、浦澤君。君がフローレスさんにできること…。君にしかできないことはあるよ。俺がクリスの側にいたいと願ったり、俺にしか狼化したクリスを助けることはできなかったみたいに。」
「え…?」
そんなことを言われてぽかんとする俺の方をしっかりと見て、鶴城先輩は言う。
「だって君は、フローレスさんの恋人で専属オーディンなんだよ?それも、幼馴染からの知り合いっていうおまけまでついてる。俺とクリスはヴァルホルで出会ったからこそ今があるけれど、一緒に過ごした時間とこれから過ごすであろう時間の合計っていうのは、遥かに俺たちよりも君たちの方が長いはずだよ。それって、俺たちには絶対に真似できないことだよね。
それから、これはあくまでも仮定でしかない話として聞いてほしいんだけど…もしも君たちが軍属のヴァルキリーとオーディン…二人なら、そうだね、日本の航空自衛隊か、あるいはアメリカ軍のヴァルキリー部隊が考えられるけど、その所属になったとして、その中で、どうしても戦いの矢面に立たなきゃならなくなってしまったとしようか。その時、君がフローレスさんの側にいて、彼女とビフレストを繋いで、一緒に戦って、一時君の手を離れた彼女が帰ってくる場所になる…それだって、君にしかできないことじゃない?
それに、さっき言ったことにも繋がる話なんだけど、今日のことだってそうだよ。友達から無視されることになって、フローレスさんもきっと辛いと思う。でも、君やグラーヴィチさんが側にいたことで、もしかしたら少しでも辛い気持ちに負けないでいられたのかもしれない。それも、君たち以外には、他の誰にも…それこそ、俺やクリスにも無理なことだよね?」
「あ…。」
その言葉に、目の前の確かな事実をも、俺は完全に見失っていたことに気付いた。
…そうだ。俺とアンはただの恋人同士じゃない。幼馴染として交流を育み、そして前に進みたいと二人で願った結果恋人になったのだ。その中で俺とアンが暮らした日々…恋人になるまでの日々、恋人になった後の日々、その中で育んだ友情、愛情、一緒にいたいという気持ち…それが、他の人間たちに真似できるか…その答えはノーだ。当然だ。他の人間たちは、俺とアンではないのだから。
鶴城先輩は俺を見て、にこりと笑顔を見せて言う。
「重い愛情でも、長い愛情でも、愛情は等しく愛情で、誰もが同じだけの高さから振れることのできる振り子…俺はそう信じてる。…だから、俺たちは俺たち、君たちは君たちで、まずは一緒にいることができて、存在をお互いに感じられて、お互いをお互いが理解して、共感しあえてるなら、それでいいんだと思う。急がなくてもいいだろうし、二人が早く前に進みたいと願うならそれに従う…そんな簡単な考え方でいいんじゃないかな。…まぁ、もちろん、それは二人で一緒に決めなきゃいけないことだし、そもそも二人のことだから、俺がとやかく言えることじゃないんだけど。」
「…ありがとうございます、先輩。」
…本当に、この人に相談してよかった気がする。
俺は心からそう思いながら、感謝の言葉を呟いていたーーーーーー
「…なあ、アン。」
一度ローレライ先輩の部屋に戻り、その場を解散して部屋に戻って早々、俺はアンに声をかける。
「ん…?どうしたの、蒼天?」
アンがそう言ってこちらを向くと、俺は少し置いて、こう言った。
「…この後、買い物行かないか?」
「え…?あ、そっか…ごめん、そういえば私たち、お昼まだだったんだっけ…蒼天は休んでて。私、行ってくるから。」
「あぁ、いや…そうじゃない。…俺がアンと行きたいんだ、食料の買い出し。…駄目か?」
「あ…ううん、そんなことないよ?…でも、どうして?」
アンの当然と言っていい疑問に対して、
「…昨日のこと、覚えてるか?その…一緒に風呂とか、ベッドがどうとか…。」
俺の言葉を聞いたアンが、「え…。」と言って顔を赤くする。
「あぁ、悪い…。そんな顔をさせたかったんじゃないんだ。何ていうのか…そこまでは今の段階じゃ難しいかもしれないんだが…その代わりに、その段階でできそうなことを一緒にできないか、って思ったんだ。それで、俺たちのペースでいろんなことができるようになったり、したいと思えるようになったりできれば、って。…変か?」
俺がそう言うと、アンははっとして、ふるふると首を振って言う。
「…そんなことないよ、蒼天。…じゃあ、お買い物、行こ?」
「ああ。」
そう言って、財布と学生証を持って寮を出る俺たち。
寮は祠島の寮と同じシステムで、本来は部屋に置かれた端末…学園全体に対する連絡事項が送られてきたりもするものだが、それを使って本島ブロックにあるショッピングモールの各店舗から取り寄せができるようになっている。そのため、実際のところを言えば、わざわざショッピングモールまで買い出しに出る必要はないと言えばないのだが…アンはいつも、自分の部屋に置く食料はわざわざ自分で買いに行っている。アン曰く、「生徒会でどっちにしろ本島に行くわけだし、その時にお買い物をしちゃえば、配達してくれる人たちにご迷惑がかからないから。」ということらしい。
「…蒼天、ありがと。」
寮からほど近いところにあるモノレールの駅に着き、ホームでモノレールを待っていると、アンがぽつりと呟いた。
「…どうした?」
俺が聞くと、アンは嬉しそうな顔をして言った。
「…さっきのこと。私たちは私たちのペースで、って言ってくれたから。…そうだよね、焦ったって仕方ないもん。私たちは私たちなんだから…だから、ありがと。」
「…俺が気がついたんじゃない。早く前に進むべきなのかそうでないのか、って悩んでたら、鶴城先輩に教えてもらったんだ。先輩たちも同じようなことを考えてた時期があったんだ、って。」
「あ…もしかして、さっき先輩としに行ったっていうお話って…。」
何かに気がついたように言うアン。
「ああ、そうだ。…ごめんな、俺だけで先輩にそんな相談して。」
「…ううん、そんなことないよ。…私も、同じことをローレライ先輩にお話ししてみればよかった、って、少し後悔してることだから。…でも、蒼天からお話を聞いて思ったの。きっと、私がそういうお話をしたとしても、ローレライ先輩は鶴城先輩と同じことを言ったんじゃないかな、って。なんとなくそれがわかるから…だから、それでいいの。…それに、蒼天が私のことをどう思ってくれてるのか、どのくらい大事に思ってくれてるか、っていうこと…それに、大事に思ってくれてるからこそ、真剣に考えて向き合ってくれてるんだ、っていうこと…ちゃんとわかったから。」
…本当に、アンにはかなわないな。
俺はそう思いながら、アンの右手を取る。
「…蒼天?」
俺の行動に首をかしげるアンに、俺は言う。
「…いつも何気なくしてたけど、手を繋ぐことも、俺たちはその時そうしたいからしてたんだよな。」
はじめてアンと手を繋いだのは、まだ俺たちが小さい子供の頃。思い出すと、はじめてアンと会って幼馴染になり、恋人となって今に至るまでの俺たちの記憶が、とめどなく溢れてくる。
(『----わたし、アンジェリーナ。アン、ってよんで。』)
(『----蒼天、一緒に学校行こ!』)
(『----私、蒼天がいいの。蒼天じゃなきゃ嫌なの------』)
そのすべてにあるのは、俺とアンが手を繋ぐ姿。
笑顔でいる時も、泣きたかった時も、アンは俺の側にいて、絶えず手を握り続けてくれていた。アンが俺の元を離れて行ってしまうのであろうことに対して諦めを感じはじめていた俺に、『一緒にいるのは蒼天じゃなきゃ嫌だ』と言ってくれた。
…さっきまで、いろんなことに対してどうしていいのかわからなかった気持ちが、どんどん違う方向に変わっていっているような気がする。
「…アン、これからも、一緒に考えてくれるか?俺たちのペースで、その時してみたいと思ったことをするかしないか、ってこと。」
「…当たり前だよ、蒼天。私は、蒼天と一緒にいたいんだもん。そのためには、私たち二人が納得できるまで、たくさんたくさん話して、考えて、悩んで…時には喧嘩もしちゃうかもしれないけれど…それでも、二人で一緒に考えていきたい。」
------モノレールの到着を知らせるアナウンスが聞こえてくる。
「…その一歩として、まずは一緒にお買い物…だね。」
「ああ。」
俺たちはそう言って、繋いだ手に互いに優しく、しかししっかりと力を込める。
これから二人でいろんな経験をして、話をして…一緒の世界を生きていく。今までとは変わらないこともあれば、変わっていくこともあるだろう。
そんな中でも、俺たちは自分たちのペースを崩さない。
そんな未来に互いに思いを馳せながら、俺たちはモノレールへと乗り込んだーーーーーー
「到着~♪じゃあ蒼天、何食べたい?」
ショッピングモールの一角、アンがいつも使っているというスーパーへと到着すると、アンがにこにこしながら聞いてくる。
「実は、来るまでにいろいろ考えてみたんだが、正直迷っててな…。」
元々嫌いなものが特別ない俺だが、アンの作ってくれる料理というだけで、なんとなく心が躍るのがいつものことだったりする。それに、アンは食べるだけでなく、料理も本当に上手い。それを知っているからこそ、どうしても目移りしてしまうのだ。
「ふふ、じゃあ、お買い物しながら何作るか決めよ?お夕飯の分もね。」
「ああ、そうだな。」
二人でそう言って手を繋ぎ直し、ああでもないこうでもないと話しつつ、食材を物色していく俺たち。
「…蒼天、ごめんね、持ってもらっちゃって。」
買い物を終え、右手をアンの左手と繋いだまま、左手にアンが持ってきていた買い物用のエコバッグを持っている俺に、アンが少し申し訳なさそうにしながら言ってくる。
「気にするな。作ってもらう側なんだから、これくらいさせてくれ。」
それは俺の本心だった。実家にいた頃、飯は母さんとアンに頼っていたようなものだった俺は、料理は小、中学生の時にやった調理実習くらいしか経験がない。それだって、同じ班だったアンが隣にいたおかげである程度何とかなっていたようなもの…いや、ほぼ役になんぞ立っていなかった覚えしかないが…何もできないならば、荷物持ちを買って出るくらいのことはしなければなるまい。…よし、アンの負担を減らすためにも、これからは積極的に荷物持ちをさせてもらうことにしよう。
「…それにしても、本当にいつみてもすごいな。ここが太平洋のド真ん中だということを忘れそうになる。」
俺は、周りの喧騒を見ながら、そう口に出していた。
社島の中枢部である本島ブロックを取り巻く周囲ブロック群、通称『ヨルムンガンド』の一角である周囲ブロックCの地上部にあるショッピングモールは、先ほどの俺の言葉通り、日本本土から離れた絶海の孤島にあるとは思えないような広さと賑やかさで溢れている。ヴァルホルの学生や学園関係者だけでなく、島の運営スタッフとその家族も多く暮らしており、生活必需品だけでなく、嗜好品や遊ぶための施設などもある程度は必要と判断されたことで、そういったものや場所が一通り揃えられていることがその理由だ。特に、今日は入学式だけということもあり、ちらほらと制服姿も見て取れる。おそらく、学園からそのまま遊びに来たか、俺たちのように買い物に来たか…あるいはバイトをしに来た学生たちに違いない。
「うん、そうだね…あっ。」
「どうした?」
声を出して固まったアンの視線を追うと。
「…なるほどな。」
視線の先に、小さなフラワーショップがある。元々花が好きなアンだ。やはり興味があるのだろう。
「…寄って行ってみるか?」
「え…?」
俺が言うと、アンは驚いた様子でこちらを見る。
「…いいの?寄り道になっちゃうよ?」
そんなアンの言葉に対して、俺は言った。
「駄目なわけがない。それに…気になったんだろ?俺に遠慮なんてしなくていいんだ。」
俺がそう言うと、アンはぽっ、と顔を赤らめて言う。
「…ありがと、蒼天。じゃあ、行こ?」
「ああ。」
手を繋ぎ直した俺たちが、フラワーショップの扉を開ける------
「------あら、いらっしゃい、アンジェリーナ。今日は蒼天も一緒なのね。」
------ドアにつけられている鈴の音とともに、上品で、しかし芯の通った綺麗な声が、俺たちを迎える。
それと同時に、絹糸のように流れる金色の髪を揺らし、アンよりもかなり背の高い…見た目的にはローレライ先輩と同じくらいか、あるいはそれより少し高いくらいの背丈の女性が、こちらを向いて微笑みを向けてきた。
「シャシコワ先輩…どうしてここに?」
俺は驚きのあまり、彼女に問う。すると、彼女は少し不思議そうな顔をして言った。
「蒼天。わたくしの仕事場にわたくしがいることが、それほどまでに不自然かしら。」
…アナスタシア・ニコライエヴナ・シャシコワ先輩。
ローレライ先輩と同じ『ヴァルキリーパンツァー』の最上位ヴァルキリーの一人であり、学園生徒会書記も行っている彼女は、高等部とはいえ生徒会にいる以上、当然俺も知っている人だ。…だが、この人は確か、世界でも有数の大財閥の一人娘だったはず。制服の上から着ているエプロンと、今手に持っているじょうろ。先輩がここが仕事場と言ったということは、おそらく学園で認められている学生アルバイトとして雇ってもらってるってことなんだろうが…なんでそんな金持ちのお嬢様が、こんな小さな花屋でバイトなんかしているんだ…?
「シャシコワ先輩、こんにちは。また来ちゃいました。」
「え…アン、先輩がここで働いてること、知ってたのか?」
嬉しそうに言うアンに、俺は思わず聞き返してしまう。
「うん。何回も来てるし、知ってるよ。いつもお買い物の後に寄ってたから。」
…まったく知らなかった。アンのにこにこ顔を見るに、いつもここに来ることは買い物のついでの楽しみの一つだったのだろう。
「そういえば、蒼天には話してはおりませんでしたね。実は以前、鶴城さんから、島の外では経験できないであろう、学生らしいことをしてみては、という話を聞いて、アルバイトに興味を抱いたのです。…それが、わたくしの望み…周りの学生たちのように、共に学び、遊び、そして唯一無二の友となる…その一歩だと思いましたので。」
そう言って、どこか遠くを見るように目を細めるシャシコワ先輩。
…ここでも、鶴城先輩の名前が出てくるとは。彼がどれほど慕われているのか。それを、俺はまたここで改めて感じたような気がした。
「そういえば、今日は二人、それに手を繋いでいるということは…察するに、逢引かしら。」
「「ぶふっ…!?」」
先輩の発言に、二人して吹き出す俺たち。
「あら…その反応からして、どうやら間違いではなかったようね。」
「ま、まあ、二人で買い物に来たことは間違いないですし、確かに逢引…デートにも見えなくはないような…。」
「あ…あわ…あわわわわわわわわわわわ…。」
泡を食う俺たちに、シャシコワ先輩は、いつも学園で見せるものとは違う、年相応の笑顔…心なしか少しいたずらっぽそうにも見える表情をして言う。
「慌てることはないでしょう?二人の関係はわたくしも知るところ。遠慮は必要ないのではなくて?」
…前に聞いた話になるが、この人は以前はものすごくとっつきにくいと言える人だったらしい。金持ちであり最上位ヴァルキリーであるために周りが絡むことを遠慮していたことももちろんだが、それ以上に、周りにいた当時のチームメンバーが彼女の強さに惚れ込んで、周りに対して睨みを利かせていたことや、彼女自身も自分は強くなければならないと思うあまり、周りと関わることを自分から遠ざけているように誤解されてしまう発言をしたりしてしまうことも多かったようで、少し怖がられていた時期があるのだそうだ。
だが、この表情を見るに、怖がられていたなんてことは微塵も感じることができない。時間の流れは人を変えるっていうのは、どうやら本当のようだった。…もしかすると、これが先輩の素なのかもしれないが…どちらにせよ、自分というものを出せるようになったということは、先輩にとって良かったことなのかもしれない。
「あ…そういえば先輩、エールの学舎からの編入生のこと…ありがとうございました。」
俺は、先ほど鶴城先輩から、シャシコワ先輩が昨日の彼を新しいチームメンバーに会わせてくださったと言っていたことを思い出してそう言うと、先輩は再び微笑みを浮かべ、
「先ほどの彼のことね。いいえ、礼は必要ありません。先ほど、彼とチームのヴァルキリーたちの雰囲気を見て、特段の問題はないと判断しています。それはすなわち、彼らが互いにしっかりと信頼関係を築きたいと切に願うためでしょう。それはわたくしの力ではなく、彼ら自身の力です。ただ、彼も慣れない環境で戸惑うこともあるでしょう。何かあった時はわたくしもフォローします。安心なさい。」
…それはよかった。アンもどうやら同じ気持ちだったようで、俺の隣でほっと胸を撫で下ろしている。
「あ…そうだ。先輩、ちょっといいですか…?」
そうこうしていると、アンが少し思いついたか、あるいは思い出したかのように先輩に言う。
「何かしら、アンジェリーナ。」
「実は…。」
そのまま、少し陰になったところに行ってひそひそ話し始めるアンと先輩。…何をしているんだ?
「…というわけなんですけど…このお店で用意できたりしますか…?時期からちょっと外れちゃってるので、もしかしたら難しいかもしれないんですけど…。」
「…なるほど。承知しました。確認して後ほど連絡します。少しお待ちなさい。」
「あ…ありがとうございます。よろしくお願いします。ふふ…やった♪」
そう言って、笑顔を浮かべる二人。…よくわからないが、アンが先輩に何か用事があって声をかけたことは確かなのだろうから、それに関して言及するのは野暮というものだ。そもそも、アンのことだ。俺にも関わりのあることならきちんと話してくれるだろうし、やっちゃいけないことをアンが絶対に手を出したりしないことは俺が一番よく知っている。アンがシャシコワ先輩と何か悪だくみをすること自体考えにくいわけだから、その辺の心配は不要だろう。
「…さて、そろそろわたくしは仕事に戻ります。二人とも、ゆっくりしていらっしゃい。」
そう言って、先輩はおそらく途中だったのであろう花の水やりを始める。…ただ花に水をやっているだけのはずなのだが、その所作には優雅さが見て取れる。これが本物の貴族のオーラというものなのだろうか。
「…さて、どうする?もう少し見ていくか?」
アンに聞くと、彼女はふにゃ、と笑顔を見せる…と思った時。
「…あ、あぅ…。」
小さく鳴ったお腹の虫に、アンは顔を赤くしながらお腹を押さえる。…まあ、俺も腹は減っているし、俺よりも食い意地の張っているアンならばなおさらだろう。まあ、元々当分の食料の買い出しに来たわけだし、早いところ帰って、二人で飯にした方がよさそうだ。
「…ひとまず、帰るか。」
「…そうだね。じゃあ先輩、私たち、これから帰ります。ありがとうございました。」
「あら、もうお帰りかしら。では、ごきげんよう。蒼天も、またいつでもいらっしゃい。」
先輩の笑顔に見送られ、俺たちはフラワーショップを出る。
「蒼天、ごめんね…?さっき先輩と一人でお話ししちゃって。」
店から出た時、アンがそんなことを言ってくる。
「いや、気にするな。大事な話だったんだろ?」
「ええと…確かに大事なお話ではあったんだけど…蒼天にもお話をしないといけなかったのに、私だけで勝手に先輩とお話をしちゃったから…。」
「え…俺にも関係することなのか…?」
俺は、頭の上にクエスチョンマークを少なくとも三つほど連ねてしまう。
俺の表情を見て、アンが少しずつ話してくれる。
「…あのね、育てたいお花の球根があるの。…せっかく蒼天と一緒に暮らしてるし、一緒にいろんなことをしてみたい、って言ってもらったんだもん。だから…一緒に育てたいな、って思ってたんだけど…どうかな?もちろん、蒼天がよければ、なんだけど…。」
「俺と一緒に…か。」
…アンの言葉に、俺は自然に答えることができる。
「俺も…アンと一緒なら、やってみたい。」
…俺の本心からの言葉に、アンは嬉しそうに、ふにゃ、と顔を緩めた。
「…ちなみに、その育てたいもの、って何なんだ?俺の知ってる花ならいいんだが…。」
俺が聞くと、アンは笑顔を崩さず、しかし少し赤い顔をしてから言う。
「…スノードロップ。おうちでも育ててたから、蒼天も知ってると思う。」
「…スノードロップか。そういえば、昔から好きだったよな。」
小さい頃のアンが、白く可憐な花を俺に見せるために、俺の家へと突撃してきたことを思い出す。…そんなことを考えていた時、アンがまた口を開いた。
「…蒼天、言ったことなかったから、知ってるかどうかわからないんだけど…知ってる?スノードロップの花言葉。」
「花言葉…?聞いたことがないな…。」
首をかしげる俺に、アンは少しだけもじもじするような素振りを見せたと思うと------俺に向けて、これ以上ないくらいに愛おしいと思える微笑みを浮かべて言ってくれたのだった。
「スノードロップの花言葉はね…『希望』、それから…『初恋の眼差し』。
私がスノードロップを育ててた理由…それはね。
私が小さい頃からずっと蒼天のことが好きで…ずーっと一緒にいたいって思ってたからなんだよ。」
「「…ごちそうさまでした。」」
寮に戻り、少し遅めの昼飯を食べた俺たちは、揃って手を合わせて挨拶をする。
「今日も美味かった。…ごめんなアン、役に立てなくて。」
…実は、俺は今回、アンと一緒にキッチンに立っていた。アンが一緒に花を育てたいと言ってくれたこともあり、俺もアンと一緒にやってみたいことを片端からやってみようかと思ったのだ。…ただ、やはりというか、思いっきりアンの足引っ張りになってしまい…正直、かなりへこんでいる。卵を割ってくれと言われたから、アンが前に、鼻歌を歌いながら器用に片手で卵を割っていたことを思い出して、見様見真似で実践してみたのだが…まさか、割れた卵の殻があれほど脆いとは思わなかった。
「ううん、大丈夫だよ。殻を取り出すのが少し大変だっただけだし、黄身が潰れちゃったのだって、オムライスなんだから関係ないもん。とりあえず、両手で綺麗に割れるように練習しようよ。蒼天は元々器用だから、ちょっと慣れれば大丈夫。すぐできるようになるよ。」
「…頑張ろう、俺。」
アンの言葉にやる気を奮い立たせていると、アンが少し考えるようにして言う。
「…ええと、今言ったことと逆になっちゃうけど…蒼天、本当に無理しなくていいんだよ?蒼天にご飯を作りたいって思ってるのは私なわけだし。お買い物やお花のことも一緒にやってくれるんだから、これ以上蒼天に何かしてもらうのも…。」
「…いや、これでいいんだ。」
俺は、その言葉に首を横に振って言う。
「…さっき買い物に行ったとき、ちょっと思うことがあってな。いろいろ一緒にしてみたいって思ったこともそうだけど…その…俺、アンに本当に頼りっきりだったんだな、って思ったんだ。さっきの買い物の荷物だってそうだ。いつもアンは、買い物に行ったときにはあのくらいの荷物を持ってたんだろう?…自分の彼女に買い物に行ってもらって、あんな重いものを持って帰ってきてもらっただけじゃなくて、俺はそんなこと知らずにただ作ってもらったものを食べてたり、世話を焼いてもらってるだけだったんだな、って思ったら、何もしてないと同じなのが本当に申し訳なくなったんだよ。…ほら、あれはまだ付き合うことになる前の話だが…覚えてるか?中学の頃、熱があるのに、ふらふらしながら俺を起こしに来たこと。」
「あ…そんなこともあったね。それで、お母さんが私がお布団にいないことにびっくりしておっきな声出して、蒼天のおうちに走ってきたんだよね。そのあと、お医者さんからインフルエンザって言われて、そうかと思ったら今度は蒼天がお熱を出しちゃって…お母さんにすごく怒られたっけ。『そんな体調で蒼天君の世話を焼きに行って、逆に迷惑かけてどうするの?』って。あんなに怒ったお母さん、はじめて見たかも。」
…まさか、あのとてつもない包容力の美翔さんが怒ったとは。俺が知らない事実を垣間見てしまったようだ。そんなことを思いながら、俺は続ける。
「その時も…そんな体でも、アンは俺の世話を焼きに来てくれたわけだろ?辛かっただろうに、それでも、いつもみたいに俺を起こしに来てくれた。…きっとそれって、さっきアンが言ってくれたこと…俺のことをずっと思ってくれてたんだ、ってことを、アン自身が行動で示してくれてたんだな、って思ったんだ。…それを思ったら、俺だって同じように、アンに対して、大事にしたいって気持ちを向けてやりたい…できることを増やして、あの時アンがそうしてくれたように、今もそうしてくれているように、アンに対してしてやれるようになりたい、って思うようになったんだ。だから…無理とかじゃない。これは、俺がしたい、って思ってることだから。」
本心のままにそう言うと。
「……えいっ!!」
向かい合って座っていたアンが、椅子から立って俺の後ろに来たと思うと、途端にぎゅっと抱き着いてきた。
「…ど、どうした?」
俺が少し驚いて言うと、アンは耳元で囁くように言う。
「…もう、蒼天はいつもそう。私が嬉しいって思うようなことしか言わないんだもん。」
…耳に当たる息のくすぐったさに悶えそうになりながら、俺は言う。
「…こんな簡単なことでも、嬉しいって感じてくれるんだな。」
「…言ったでしょ?蒼天の言うことは、私にとって、全部嬉しい言葉に聞こえるの。だから、もっと言ってもらえるように頑張るから。…それに、私だって、蒼天に言う言葉の全部が、蒼天にとって嬉しいって思える言葉になるように頑張りたい。」
「そうか…まあ、お前の言葉だって、全部俺にとっては嬉しいものなんだけどな。」
俺がそう言うと、アンはきょとんとした顔をして、そうかと思えばすぐにふにゃ、とかわいらしい微笑みを浮かべて言った。
「ありがと…蒼天。大好き。」
アンがそう言った時。
「…ん、ふぁ…。」
小さく、アンが欠伸をする。…さすがに、朝からの眠気が、昼飯を食べて安心したことでどっと襲ってきたのだろう。
「アン、後は休んでてくれ。片づけは俺がやっておくから。」
「…うん…。」
そんな会話をしている間にも、アンはとろんとした目をこちらに向けて、右に左に船をこぎ始める。…アンが椅子からずり落ちる前に、さっさと食器洗いを終わらせた方がよさそうだ。そう思いながら食器を洗い、それが終わると、俺はふらふらするアンを抱き抱えるようにして椅子から降ろした。
「…ちょっとごめんな。ベッドまで我慢してくれよ。」
そう言うと、アンがまたこちらにとろんとした目を向けてきて、
「…えへへ…蒼天に抱っこされてる…お姫様みたい…。」
…そんなことを寝ぼけ眼で言ってくるものだから、正直悶絶したくなる。こいつはどれだけ俺に好きとかかわいいとか思わせれば気が済むんだ。…まあ、それがとてつもなく嬉しいんだが。
「…蒼天。」
「ん?どうした?」
俺が反応すると、アンはその寝ぼけた顔のまま、こんなことを言う。
「…あのね、お昼寝…蒼天と一緒にしたいの。…駄目?」
…マジか。
正直、そんなことを言われるとは思わなかった。
俺がそんなことを思っている間に、アンがこちらに対して、寝ぼけていてもなお、絶対にこの機を逃すまいと思えるような視線を向けてくる。
…ずるいぞ、その視線は。
まあ、そうは言っても、俺も朝から眠いのは変わらない。別に変なことをするでもない、一緒に昼寝に勤しむだけだ。
「…わかった、一緒に昼寝しよう。」
そう言って、アンをベッドの奥の方に寝かせると。
「ふふ…やった…。蒼天と一緒に…お昼寝…。」
そんな言葉を最後に、アンから規則的な寝息が聞こえてきた。
アンの隣に潜り込み、一緒に布団をかぶると、アンの温かさと柔らかさ、それから甘い匂いが伝わってくる。…普段も感じているはずのそれらだが、一緒にベッドに入っていると、距離が近いからなのか、はたまた別の理由があるのかはわからないが、より強く、より温かく…これでもかというほどに、アンがそこにいるという存在を感じることができる。
「…おやすみ、アン。」
俺がそう言ったと思った時。…俺の眠気も、どうやら限界に達したようだった。
温かさと甘い匂いに包まれ、俺の意識が飛んでいくのを感じる。
…きっと、いい夢が見られるに違いない。
※※※
(another view “Sara”)
「…以上です。何か質問はあるかしら。」
暗い部屋の中で、私…サラ・マルセイエーズは、目の前の女子生徒二名に問う。
「…いいえ、ありません。」
「私も…ないと思います。」
最初に無機質で冷酷とも言える声を発したのは、そのうちの一人…きっちりと姿勢を正して立つ、銀色のショートカットの髪とグレーの瞳の女子生徒。次いでもう一人…綺麗な金の髪を白いリボンでツインテールにしたルビーの瞳の女子生徒が少し自信のなさそうな声を出したのを聞いて、
「よろしい、クレア・グレイマンさん、エカテリーナ・スヴォリノヴァさん。物覚えのいい子たちで、私も嬉しいです。」
私は、「いつもの社交辞令」としてではなく、長らく封じていた本当の微笑みを彼女たちに向ける。
「長い間の航海、本当に疲れたでしょう。部屋は用意してあります。まずはしっかりとお休みなさい。食事の心配は無用です。あなたたちの部屋に持っていかせますので。」
「え…あの、この学園って、そんなことまで…?」
先ほど、私がエカテリーナ・スヴォリノヴァと呼んだ金髪のツインテールの女子生徒が、私の言葉に驚いたように言う。
「ええ。あなたたちは特別な子たち。こちらからそのくらいのことをしなければならないほどの存在。ですので、何も心配はいりません。」
…そう。
この子たちは特別な子たち。現状、この社島の歴史においても、もっと大きな規模で考えれば世界全土においても…そんな、この地球上ではじめて確認された特殊な資質を持つ子たち。
私はもう一度、二人を見る。
ヴァルキリーとしてのランクは、スヴォリノヴァさんが第二位ヴァルキリー、グレイマンさんが第三位ヴァルキリー…表面的な力だけ見れば、上位層の一人としか見られないかもしれない。
…しかし、この二人の特殊性。それだけを考えれば…あの忌々しい白鷺 珀亜の教え子…現学園生徒会長と副会長でもあり、最高のオーディンとヴァルキリーなどと称されているらしい二人、鶴城 誠とクリスティナ・E・ローレライにも匹敵するものなのだ。
「ありがとうございます、マルセイエーズ先生。ご期待に応えることができるよう、頑張ります。」
グレイマンさんが、そのグレーの瞳でこちらを見て、それほど抑揚のない、自分たちはそういった存在であって当然、というような口調で言う。
私は二人を見て、最後にこう言った。
「期待していますよ――世界初の『第二世代ヴァルキリー』たち。」