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魔王の居城での生活にも慣れてきたある日、ミリアが廊下を歩いていると、言い争う声が聞こえた。今日は非番だったので執務室には行かなかったのだが、騒ぎはそこで起こっているようだ。
(図書室に行こうと思っていたけど……)
そっと聞き耳をたてる。
「……あいつを……ても碌なことには……」
「ですが……の反発が……」
声はやはりルーカスとウィルのものだ。彼らはよく口論しているが、それは戯れに近いもので、ここまで険悪なのは珍しい。
(聞き取りづらいわ。まどろっこしいことしてても仕方ないわね)
盗み聞きをさっさと諦めると、ミリアは勢いよく突入した。
「お二方、何を揉めてらっしゃるの?」
「お前には関係ない。部屋で大人しくしてろ」
「関係大ありですよ。魔王ともあろう方が嘘をつかないでください」
ミリアはルーカスがすぐに後ろ手に何か隠したことに気がついていた。軽い身のこなしでそれを奪い取る。
それは手紙だった。魔物たちの文字はメルシリアとは違ったが、仕事をしたり図書室で勉強したりする間に覚えたので普通に読める。
「パーティの招待状?」
何でこんなものを隠すのか、とルーカスを見つめると、あからさまに目を逸らされた。
ウィルが代わりに説明してくれる。
「そのパーティ、魔物の中でも古株の人が主催していて、ルーカス様も断れないんですけど……それ、最後まで読みました?」
一番下に、噂の花嫁をぜひとも連れて来るように、と書いてある。
ミリアはわざとらしく口元に手をやって驚いてみせる。
「あら……? わたしたちいつの間に籍を入れたのかしら?」
「入れてない! 年寄りの世迷言だ!」
「冗談ですわ」
ミリアはひらひらと手紙を振る。
「これが揉め事の原因ですの?」
「ええ。絶対ミリア様を連れて行かないと言い張るので」
そう言うウィルは疲れ切ったように項垂れている。ルーカスはなかなか頑固なところがあるから、交渉が難航するのも当然である。
ミリアは膨れっ面をしてみせた。
「わたしをルーカスさまの婚約者として表に出すのは恥ずかしいのですか? わたしにはそんなに至らないところがあるのですか?」
「いや、お前が悪いというよりお前が人間なのがーー」
「人間だから、魔物たちに認められないと?」
ルーカスは息を呑む。おそらく、いつも柔和な笑みを浮かべているミリアの表情が無になったからだ。今ならルーカスのように冷気も漂わせているに違いない。
そういえば、ルーカスも最初に会った時言っていた。『人間』の女など好きにならない、と。
種族が問題なのならば、ミリアは絶対にルーカスと結婚できないではないか。
自分の力ではどうにもならないことーー例えば性別だとかーーを判断基準にされるのは、ミリアの最も嫌いなことだ。
(……でも、待って)
怒りに血が上った頭を、目を瞑って落ち着かせる。激しい感情は思考を鈍らせると、生粋の戦士である父が教えてくれた。
ミリアのこととなると暴走する父を見ていると、その言葉は正しいと実感したものだ。
(魔王と人間の結婚が禁忌なら、わたしは一も二もなく追い出されているはずだわ)
それなら、きっと何か事情があるのだ。
かといって今ルーカスに話しかけると怒りが再燃しそうだから、ウィルに水を向ける。
「……ウィルは、どうしてルーカスさまの意思に反してわたしを行かせようとしてるの?」
「……一つは、ミリア様をお披露目することで外堀を埋め、ルーカス様が婚約破棄しにくくするため。二つは、権力を持ちなおかつ美形の夫を捕まえたいばかりに群がる女性たちを牽制するためです」
「なるほどね。ルーカスさま、女性に人気なの」
ルーカスが媚びを売る女たちに囲まれる姿を想像すると、面白くない。そう感じたことに、ミリアは我ながら驚いた。
(わたし、思った以上にルーカスさまのことを……)
「言っておくが、俺は誘いに乗ったことはないぞ」
ルーカスは身の潔白を主張する。ミリアはそれを完全に無視した。
「わたし、パーティに行きますわ」
「やめとけ! 虐められるぞ。魔物の女は気性が荒い」
ルーカスは確かにミリアの身を案じているようだ。
彼は愛情はくれないくせに、ミリアを大事に扱ってくれる。つれないことばかり言うけれど、綺麗なドレスや美味しい料理を用意してくれるし、仕事で役に立ったら頭を撫でて褒めてくれる。
でもミリアが一番望むのは、ルーカスに認められて、妻になることだ。
「虐められたところで弱るような繊細な心など持ち合わせておりません。それに何よりーー邪魔な虫は、駆除するに限ります」
ミリアの敵意は見ず知らずの恋敵たちに向けられているのに、なぜだかルーカスとウィルは揃って自分の身を抱きしめている。
だがそんなことはミリアにはどうでもいい。
(容姿で、振る舞いでーー全てにおいて恋敵たちを圧倒してみせる!)
「ローラと作戦会議しなくちゃ」
ミリアは舌舐めずりをした。
「でも、その前にーー」
ミリアはルーカスの腕を掴む。相手が逃げようとする前に捕まえる様はさながら一流の狩人のようだ。
「ウィル、ルーカスさまは今からお休みにするわね。わたしの仕事を増やしても構わないから」
「は、はい。ごゆっくり……」
「売りやがったな……」
ルーカスの恨み言を聞き流しながら、ミリアは彼を引きずっていく。嫌なら力づくで逃げればいいのだ。
ミリアは自室を通り過ぎ、その隣のルーカスの部屋の前に立った。
そのまま鍵を開ける。
「おい! 何でお前が鍵を持っているんだ⁉︎」
「わたしとルーカスさまの仲じゃないですかぁ」
「そうか……いやいやいや、おかしいだろ⁉︎」
ミリアはルーカスと腕を組み、ベッドに飛び込んだ。
すぐに降りようとするルーカスを引き止める。
真紅の瞳と紺碧の瞳がかち合う。
「ルーカスさま、わたし、怒っていますの」
「……連れて行こうとしなかったことにか?」
「違いますわ、わたしが人間だからだめって言ったことにです」
「俺は、別に人間が魔物より劣っていると考えているわけではない。ただ……」
言い澱むルーカスに、ため息をついてみせる。
「わかっていますわ。ルーカスさまにはルーカスさまなりの事情がありますのよね。そして、わたしはそれを教えてもらえるほど親しくはない」
服の裾を引っ張ると、大した抵抗もなくルーカスはミリアの横に寝転んだ。彼なりに罪悪感があったのだろう。
寝台に金と黒の髪が広がり、交わる。
「一つ言わせてもらうと、俺は相手が人間であろうとなかろうと、結婚するつもりはないのだ」
ぽつ、とルーカスが呟く。
「どうして?」
無垢な瞳で尋ねると、ルーカスは薄い唇を完全に閉じてしまった。
ミリアは苦笑する。
「それもルーカスさまの事情に関わるのでしょうね……いつか教えてもらえると、嬉しいです」
「……驚いた」
全く驚いているようには見えない無表情で、ルーカスはそんなことを言う。基本的にこの人は怒り以外の表情はないに等しい。
「何にです?」
「もっとしつこく問い詰められるかと」
「まだわたしたちは知り合って間もないんですよ? 焦る必要はありませんもの」
ミリアはルーカスの艶やかな髪を撫でる。
「ただ、ルーカスさまを落とすのは全く諦めておりませんよ」
「諦めてくれてもいいんだがな」
「嫌ですよ。出戻りなんてしたら……ああ、父は喜びそうですね」
きっと涙を流して抱きしめてくれるだろう。
ルーカスは真面目くさった顔でとんでもないことを言った。
「出戻りが嫌なら、ここで働けばいい」
「え?」
ミリアが予想外の言葉に目を丸くすると、ルーカスは気まずげに頭を掻く。
「お前は有能だから、待遇は今と同じくらいでここに住まわせておく分には構わない」
ミリアの胸が熱くなる。これは喜びのせいに違いない……だが。
「嫁にはしないけど働いて欲しい、なんてずいぶん都合がいいことですわね」
都合のいい女にはなりたくないので、そんな憎まれ口を叩く。
「すまない」
「いいですわ。言いたいことは言えましたし、わたしはもう帰ります」
起き上がろうとすると、今度はミリアが引っ張られた。
「俺からも言っておきたいことがある」
ミリアが転んだ先はルーカスの胸の上で、そのまま反転してベッドに押さえつけられる。
呆然と見上げると、ルーカスが唇を歪ませていた。あれは笑みに見えないが、彼の中では笑顔なのだとミリアは知っている。
「……男のベッドでほいほい寝てはいけない。そんなに迂闊だと獣に襲われるぞ」
どこか勝ち誇ったようなルーカスの腹を拳で殴る。
「よぉくわかりましたわ! 失礼します!」
ミリアは痛みに悶えるルーカスを置いて部屋から走り去る。赤らんだ顔を見られたくはないからだ。
一人になった部屋で、ルーカスは独りごちた。
「普段の仕返しだ。馬鹿者め」
血の気が感じられないその白い肌が、ほんのり色づいているのに、ミリアは気がつかなかっただろう。
ルーカスはなんとなく、今日は悪い夢を見ないような気がした。
魔物たちが暮らす街の中でも、一際目立つ豪邸に、夜会の招待状が届いた。
魔物の中でも由緒正しい家に連なる彼からすれば、そんなものは掃いて捨てるほど届くがーー今回のはいつもと違った。
「魔王が来るのかーーなに、あいつの花嫁も招待する、だと」
彼は渡された手紙の内容に目の色を変える。
「あの浮いた話一つない男に女ができるなど考えられんが……本当なら、何かに利用できるかもしれんな」
彼は家柄、見目、魔力など、様々な面で恵まれていたが、それで満足してはいなかった。
求めるのは、魔物を統べる王の座。
「そもそもあんな臆病者が魔王の地位にいることがおかしいのだ。王の称号は……俺のような真の強者にこそ相応しい」
カーテンをがっと開き、夜空に浮かぶ月を見つめる。
芝居がかった大袈裟な仕草は彼の癖である。
口の端から覗く鋭い牙が、月光に照らされた。
「まずは花嫁とやらを見極めなければな」
魔王がご執心なら、奪ってやるのもまた一興。どちらにせよ、この機を逃す手はない。
「夜会が楽しみだ……っふ、ふはははは!」
「ギルバート様、お楽しみのところ申し訳ございませんが湯浴みの時間です」
「む、そうか」
いそいそとカーテンを閉め執事に向き直る。いまいち格好がつかないのはご愛嬌だ。