21
婚前旅行の計画にも目処が立った頃、魔王城に訪問客が来た。
前もって訪問を聞かされていたミリアは馬車の音に反応し、外へと向かう。
一方の何も知らないルーカスは、訝しげに仕事を切り上げてミリアの後をついていく。
城の前に止まった馬車に刻まれた家紋を見て眉根を寄せる。
「久しぶりだな!」
「帰れ」
開いた馬車の扉を、速攻でルーカスが閉めた。
ぎゃっ、という悲鳴が上がったのは、すでに踏み出していたギルバートの足が扉に挟まれたからだ。
「お前、謹慎中じゃなかったのか。そもそも俺の命を狙っといてよくのこのこと顔を出せたものだな」
「それはもう水に流そうじゃないか!」
「反省してないだろ」
男たちの醜い攻防が続く。ミリアはルーカスの服の裾をそっと引っ張った。
「ルーカスさま、ギルバートさんはわたしに用があるんです……まさかギルバートさん直々に来るとは思いませんでしたけど」
「女神に会える機会に乗らない手などないですから!」
ルーカスがミリアに気を取られた一瞬の隙をついて、ギルバートは颯爽と馬車を降りる。
そのままミリアの前に跪き、手を取ろうとするがーーそれをルーカスが見逃すはずもない。
「……触るな」
ミリアの視界は黒に染まる。ルーカスがミリアの前に出たのだ。
「痛いっ手首が折れる! ミシミシという音が聞こえないのか!」
「聞こえているとも。……俺としてはまだまだ緩いくらいだ」
「そこまでにしてあげてください。いつまで経っても本題に進めませんから」
「……ふん」
ルーカスは不満気にギルバートの手を離す。しかしミリアの前からは退かなかった。
「はぁ……ギルバートさん、彼女はちゃんと連れて来ましたか?」
「もちろんです!」
骨を折られそうになったとは思えないほど元気な返事である。
「彼女に声をかけてください。……ルーカスさま、これではわたしは何も見えませんよ」
「そうか」
「そうか、じゃないですよ。もう……っ!」
ミリアは突然高くなった目線に驚きの声を上げる。ルーカスに抱き上げられたのだ。
ミリアはルーカスの片腕に乗っているような格好になった。
「以前から思っていたのですけど、わたしのこと、子ども扱いしていませんか?」
「いいや。大切な婚約者だと思っている」
少し頬を膨らませ、不満をあからさまに示したが、ルーカスはそれをさらっと受け流す。
ミリアは赤らんだ顔で嘆息した。
「……ずるいです」
「何がだ?」
「なんでもありません!」
そんな二人の甘い雰囲気は意に介さず、ギルバートは馬車の中に声をかける。
「綾! 降りておいで!」
「……ギルバートさま、この甘い空気を邪魔できるほど、私の心は強くないです」
愛らしいが、落ち着いた印象を受ける声が馬車から聞こえる。
その言葉に冷静になったミリアが声の主に呼びかけた。
「わたしたちのことは気にせず、出て来てください。そのために呼んだのですから」
「女神もこう言っているのだ! さぁ、手を取って」
「分かりました」
ギルバートの差し出す手を取って、その少女は現れた。
解けば腰まで届きそうなほどの長さの艶やかな黒髪が揺れる。
くりっとした琥珀色の瞳も、あどけなさを残す柔らかそうな頬も、とても愛らしい。
何より、燃えるように鮮やかな紅の、金糸で様々な華の意匠が施された着物が目を引いた。
少女は静かに頭を下げる。
「お初にお目にかかります。アシュレイ家執事長の娘、綾と申します。以後お見知り置きを」
幼いながらにしっかりとした挨拶だ。
「お顔を上げてくださいな」
綾はミリアと目を合わせる。が、わずかにミリアを見上げる形となった。
自分より小柄な綾に、ミリアは少しだけ喜んだ。ミリアは基本的に見下ろされるばかりだからだ。朔が来るまでは誰かを見下ろすことなんて皆無だと言っていい。
「ふふっ、可愛らしい方ね。わたしはミリア。魔王さまの婚約者です」
綾は瞳をきらきらと輝かせる。
「ミリア様……。ギルバート様から嫌という程貴女様のお話を聞いておりましたが、本当にお人形のように愛らしい……」
素直な賛辞に、ミリアも笑みを返す。
綾の白い手を握り、ギルバートにちらりと視線をやる。
「では、ギルバートさま、今日は綾ちゃんをお借りしますね」
ギルバートは敬礼した。
「はっ! 女神よ、俺もついてーー」
「ギルバート様」
浮き足立ってミリアに近寄ろうとしたギルバートは、冷たい声にぴしっと固まった。
綾の口元は弧を描いていたが、目は笑っていない。
「申し遅れていましたが、私を送ったらすぐに屋敷に戻るように伝えろ、と父に言われていました」
「なっ、しかしだなーー」
「ギルバート様? 確か私の記憶では、今日中に終わらせなくてはいけない仕事が少なからずありましたが……」
「ぐっ、わ、わかった。すぐに戻る」
ギルバートは肩を落として馬車に乗り込む。
その間際に捨てられた犬のように目を潤ませて綾を見つめたが、綾はその間完全にギルバートに背を向けて無視を決め込んでいた。
去っていく馬車を尻目に、ルーカスがぼやく。
「……子どもに手を出すとは、と思ったが、完全に尻に敷かれているな」
「あのギルバートさまには、このくらいしっかりした女性がお似合いですよ。さ、行きましょう」
「待て、どこに行くんだ?」
「わたしの部屋に。旅行先で綾ちゃんにわたしの世話をしてもらうことにしたんで、親睦を深めようと思って」
「……そんな話は聞いていないが」
「今お伝えしましたからね。今日の分のお仕事は終わっているので、心配しないでください」
「いや、そんなことは心配していないが……」
「それでは、失礼します」
にっこり微笑んだミリアは、綾を連れて城内に戻る。
残されたルーカスも、ミリアと一緒に過ごしたかったという不満を抱きつつ、先刻のギルバートと同じように悄然として仕事場に戻った。
ルーカスのそんな様子を全く知らないミリアは鼻歌でも歌いそうなほど機嫌よく私室に向かう。
「あら……?」
前方から小さな何かが猛然と走ってきた。
その勢いのままミリアにぶつかるが、凄まじい体幹の持ち主であるミリアの身体は揺らぐことなくそれを受け止めた。
『朔? どうしたの?』
『……あの女から逃げてきた』
朔の乱れた髪を整えてやりながら、ミリアは苦笑した。物音を聞きつけた朔はミリアの背後に潜む。
「坊や〜、どこに行ったのかしらぁ? あ、ミリアちゃん……と、え?」
あの女ことローラは、目をぱちくりとさせた。視線の先には、ミリアの後を大人しくついてきた綾がいた。
「……坊や? あの一瞬の間にどうして女装しちゃったの?」
「しかもかわいい」と思わずといった様子で呟くローラに、朔は姿を見せる。
『女装なんかしてない』
「あら? 坊やが二人?」
「ローラ、こちらの女性はギルバートさまの恋人の綾ちゃんですよ」
「恋人ではないです」
速攻で綾から否定の言葉が入る。が、ミリアはスルーした。
「まぁ、そうだったの。二人がよく似てるから間違えちゃったわ」
言われてみれば、確かに朔と綾は似ている。姉弟と言われれば納得してしまいそうなほどに。
「同じ国の血が流れているからかしら?」
「そうかもしれませんね。私は同郷の者を母以外に見たことがないので、よく分かりませんが」
『…………』
「…………」
黙り込む朔の顔を、綾はじっと覗き込んだ。
綾はすっと朔の頭に手を伸ばし、そのまま撫でる。朔は一瞬びくっとしたが、逃げはしない。
『朔、良かったわね。お姉ちゃんが三人もできて』
『は?』
朔はローラを見た。
『少なくとも、姉じゃない。年齢的にもーー』
「坊や? 何か失礼なこと言ってないかしら?」
「気のせいよ、ローラ。それよりね。これから綾ちゃんとわたしの部屋で親睦を深めようと思っているの。ローラもどう?」
朔のためにローラの気を逸らす。
「楽しそうね〜。あたしも混ぜてもらうわ」
「そうと決まったら行きましょう」
ミリアは朔に目をやる。
『これから女子会を開くけど、朔はどうする?』
『……行かない。男だから』
『そう。じゃあまた後でね』
そのまま、ミリア達は楽しげに立ち去ってしまう。
自分の決断とはいえ、ミリアに置いていかれた朔の背中はどこかしょんぼりしていて、一部始終を見ていたウィルはぽん、と小さな肩に手を置いた。