11
先代の魔王は、人間の妻を愛していた。
愛しすぎていた。
魔王は、人間の弱さを理解していなかった。
だから彼の妻が流行病に侵されて命を落とした時、彼はその事実を受け入れられなかった。
訃報が彼の耳に届いたのは、遠方へ長期視察へ行っていた頃。病に罹ったことは便りで聞いていたが、それほど重篤だとは思ってもみなかったのだ。
馬を急き立て、尋常じゃない速さで帰還した彼を迎えたのは、冷たくなった妻の身体。
気が狂ったように泣き叫んだのち、彼は妻を蘇らせる方法を探し求めた。
魔法で時を止め、腐ることのない妻の死体に、彼は何度も語りかける。
「……待っていろ。すぐに生き返らせてやる……そしたら、俺を抱きしめてくれ」
父の虚ろな目は、息子のルーカスを捉えることはなかった。彼が見ているのは妻だけだった。
そんなある日、彼は創造神オーレンに妻の蘇生を願った。
全てを創り出した神なら、できるはずーーそんな思いも虚しく、返事は否だった。
ルーカスは当時を思い返して沈痛な面持ちをしていた。
「詳しいことは知らないのだが、母はその時既に転生していて、魂があの世になかったらしい」
魂がないのに生き返らせるのは不可能。そして創造神でさえ無理ならーー他に手立てがあるはずもない。
微かな希望が潰えた。
「父の哀しみは、世界への憎しみに変わった」
願いを叶えられないと告げた創造神も、妻の命を奪った病も、何もかも、全てを憎み、壊そうとした。
たった一人の愛しい人間の死が、数え切れないほどの犠牲を招いたのだ。
「俺はそれが怖い。俺も、いつか同じことをしてしまうのではないかと思うと……」
ミリアは首を傾げた。
「ですが、お話しに聞く限りルーカスさまはお父さまと性格も違うみたいですし、大丈夫なのでは?」
ルーカスは唇を歪めた。
「……どうだかな。お前が傷ついたら、傷つけた奴を塵にしてしまいたいと思う俺がいる」
ルーカスの自嘲とは裏腹に、ミリアは輝かんばかりの喜色を浮かべた。
「まぁ! ルーカスさまったら、そんなにわたしのことを……」
「喜ぶところか⁉︎ お前が死んだら、世界がまた破滅に向かうかもしれないということだぞ!」
ミリアは笑みを引っ込めて真面目な表情をしてみせた。
「ルーカスさま、歴史を学ぶ意義は知っていますか?」
藪から棒に全く関係のない質問をされて、ルーカスはすぐに答えが出ない。
ミリアは物分かりの悪い生徒を見守るような慈愛の目でルーカスを見つめる。
「過ちを繰り返さないために、わたしたちは歴史を学ぶんです。ルーカスさまはお父さまと同じ轍を踏みたくないんでしょう?」
「……だから誰も愛さないようにしてたんじゃないか」
不貞腐れたようなルーカスの頭を撫でる。
「それはもう、わたしと出会ってしまったからしょうがないんです。だから他の対処法を考えましょう」
「……例えば?」
「わたしが思うに、ルーカスさまのご両親は話し合いが足りなかったんだと思います」
「話し合い?」
「だって、お父さまは生き返らせてまで一緒にいたかったのに、お母さまはさっさと転生してしまったんですよね? 二人で落とし所を見つければ大ごとにはならなかったのに」
「誰だって死んだ後の相談なんて早々しないだろ」
「しませんね。でもするべきです」
ミリアはふと立ち上がり、向かいに座っていたルーカスの膝の上に座った。
ルーカスは突然のミリアの行動に固まる。
「何でそこに座るんだ!」
「大事な約束をするんだから、近くにいる方がいいと思いまして」
ミリアは上目遣いでルーカスを見上げる。
その可愛らしさに、ルーカスはもはや文句を言う気力を失ってしまった。
細い小指がそっと差し出される。
「わたしも寿命が短い人間ですから、約束しておくに越したことはありません」
「……わかった」
ルーカスの小指が絡む。
まるで子守唄のように優しい声音で、ミリアは約束を述べていく。
「わたしが死んでしまっても、世界を壊しちゃだめですよ」
「……万が一、お前が誰かにーー」
「その時はその人を潰してもいいですけど、そうなる前にわたしを守ってくださいな」
「……あぁ、絶対守る」
「次は……後追い自殺とかやめてくださいね、ちゃんと天寿を全うしてください」
「………………あぁ」
危ない。するつもりだったらしい。
魔王の愛する者への執着に、ミリアは少しだけ引いた。
「わたしたちの子供ができたら、その子たちが立派に独り立ちするまで見守ってください」
子供、という言葉に、ルーカスの耳が赤くなる。かわいいな、とミリアも笑みをこぼす。
「あとは……」
長い長い約束をひとしきり伝えると、ミリアは苦笑した。
「なんだかわたしからの要望ばっかりになっちゃいましたね」
「……構わない。的を射たものばかりだったから」
ミリアは絡めた小指に力を込めた。
「ルーカスさまが全部守れたら……わたしはあなたが亡くなるまで、あなたを待ってあの世にいます」
ルーカスの目が大きく見開かれた。
罪を犯すことなく命を終えた亡者は、転生かあの世で過ごすかを選ぶことができるのだ。
「いいのか? 俺の寿命は恐らくとんでもなく長いが……」
「いいんです」
ミリアはぎゅっとルーカスを抱き締めた。
「わたしがあなたと一緒にいたいんですから」
ルーカスはミリアの顔をくいっと上向かせる。
整った顔が近づいてーーミリアは目を閉じはせず、指で唇を押しとどめた。
尋常じゃなく不服そうなルーカスの表情がとても愉快だ。
「口づけは、まだだめです」
「どうして」
「……名前を呼んでくれない人とはしません」
ルーカスはその言葉に、まだ一度もミリアを名前で呼んだことがないことに気がついた。
「み……」
改めて呼ぼうとすると、気恥ずかしさに襲われる。
そのまま口をぱくぱくさせるルーカスに、ミリアは少し呆れた顔をする。
「口づけまでしようとした方が、どうして名前を呼ぶくらいでそんなに恥ずかしがるんですか」
「あれは勢いでーー!」
ルーカスは自分の行動を思い出し、また恥ずかしさに悶絶した。
結局その夜、ルーカスはミリアの名前を呼ぶことができなかった。
(いったい、いつになったら呼んでもらえるのかしら)
ミリアは恥ずかしがり屋の婚約者の成長を楽しみにすることにした。




