炭水化物「なんか最近オレだけ悪者にされてね」という発想とエッセイにおける創作論がよくわかんないままくっついた
あなたは一瞬でわたしを殺すことができる。
何を言っているかわからない?
ん。そうですね。カンタンなんです。ブラウザを閉じればいいんです。
あるいはブラウザバックすればいい。
そうしたら、わたしとあなたのコミュニケーションはそこで閉じる。
死とは、その人とコミュニケーションがとれないことを言うんです。
だから、あなたはわたしを殺せる。
一瞬で死に至らしめることができる。
でも、どうなんだろうな。
作者というのはそういう思考からすれば、ナウシカが両手を開いて、相手を受け入れているポーズみたいな感じなのかもしれない。
いつでもあなたのナイフで一突きできますよ。
作者にとっての読者の最強のナイフとは、言うまでもなく無視することだけれども。
なぜ、わたしはエッセイを読んだりするんだろうな。
エッセイはたぶん正しいことが書いているとは限らない。
ほとんど帰納法的に書かれているし、帰納法の一種であろうけれども、自分の経験をもとにしか書かれてなかったりするし、創作論なんて、そもそも頼りないデータをもとにしたものくらいしか存在しない。
そりゃ部分的には『論理的正しさ』は存在するよ。
例えば、『タイトルが凡庸なものよりタイトルが優れている作品のほうが読まれる』というのは、いくつかのサンプルを持ち出せば、一応の証明はできるかもしれない。
それだって科学的な証明とは言いがたいかもしれないが、たとえば、十人中九人くらいは納得するだろう結論が得られるかもしれない。
だけど、それって、創作論の中のほんのちいさな小さなちっちゃな一粒みたいなものでしょ。
その一粒をもって、創作論は正しいことが書かれているなんて言えないと思う。
創作論は、つまりは勘ですよね。
勘というか、霊感とでもいえばいいのか、直観とでもいえばいいのか。
ともかく、最初に結論が頭の中にポンって浮かんで、それが真理だと思われる『感覚』がする。
それが、創作論なんじゃないのか?
帰納法にしたって、データで証明するには、『データ量』が現象の真実を浮かび上がらせるぐらいの『質』へと相転移しなければならないわけで、たった数ページで終わってしまうエッセイに、そんなことができるなんて思わないし、思えない。
たとえ話になるけれど、今の世の中には『炭水化物は悪である。食べちゃいけません』という言説があるけれども、それは必ずしも正しくないけれども、過食したらそりゃ身体に悪いのは確かであって、本当はバランスよく食べましょうという留保つきの真実なのだけれども、それがいつのまにやら、大衆というフィルターを通じて『炭水化物は悪である』というふうに圧縮されちゃってる。
だからってエッセイが必ずしも嘘っぱちだらけとは思わないんだけど、エッセイで創作論を書かれていても、なにひとつだれひとり、本当の真実の正しいあるべき創作論なんてものは書けてないんだ。
あるのは、例えば、『売れる小説の書き方』というふうに、真理の一面を絞ったとして、その真理にいたるためのさまざまな手法を体系化してまとめるってことが考えられるけど、それをするには帰納法的に莫大なデータをもって書き連ねなければならないし、そのためには紙面と労力がかなり必要で、コストの面から考えて、そんなにやりたいものでもないだろうから、世に溢れる創作論エッセイは、勘による結論だけを端的に述べたものに、無理やりほんのちょっとの事例やら、データをくっつけたものになる。
つまり、エッセイは霊的な性質を帯びた信仰心によって支えられているので、これを霊的ではない物質的な言論によって間違いを指摘したところで、枝葉末節部分についての反論にしかならないだろう。
エッセイの中核部分を担っている言説は、作者の信仰心によって守られている。これには論理的な正しさなど『ほとんど無い』のだ。
もっとカンタンに言えば、ここに投下されるエッセイは、ほとんどが詩である。
したがって、霊的感受性が合えば、ラジオのチューナーを合わせたかのように、その言説が一息に理解されるし、そうでなければ、どんなに言葉を尽くしたところで、分かり合えるということはないだろう。
付言すると、論理的な言説というものは、たとえ狂人であっても論理的に話すことは論理的であると評価されるから、その意味では一応通じる部分もある。が、論理的であることもまた宗教の一派なので、これもまた伝わるとは限らない。
我々の言語プロトコルはひとりひとりが異なっている。
そう考え、しかし、なぜそれでもエッセイを読むのか。なぜ感想を送ったりするのか。
ひとつに、他人は違うということを認識するのが、わたしにとって大事だったから。
わたしのコヒーレンスはそれほど強いものではないと常々感じている。
コヒーレンスが弱いということは、あらゆる言説がポエティックに霧散するということだから、わたしは極端にいえば、すべての言説をポエムとして読んでいる。
が、他者と議論をするとか、誰かを説得するためには、コヒーレンスがぜひとも必要になる。
コヒーレンスによって、ある程度、言葉を象徴ではなくサインとして使わなければ、そもそも議論が成り立たないからだ。反射的に、パブロフの犬のように、言葉を形成しなければ、どうにも世の中のスピードについていけない。
わたしはサインとして使うのはあまりうまくないという単純な事実を痛感するばかりだ。
今日もあまりよくわからないまま他人の書いたエッセイを読みました。
エッセイには、他者の祈りがこめられている。
祈り、のところを呪いと言い換えてもいいかもしれない。
祈りも呪いもベクトルの違いだけで、要は想いだ。エネルギーの圧だ。
他者という存在がまるでガンマ線のように身体を貫いていく。
そうして、少しだけわたしはわたしであるということを確認するのです。
あれ、このエッセイってもしかしてポエムじゃね?
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