第二話 桐原紅美子
「ましろー、なんか凹んでない?」
同じサークルに入っている友人「桐原紅美子」が美術室で実習前に話しかけてきた。キャンパスの前に気だるげに背中を丸めて座る眞白は既にパレットナイフと油彩絵の具を出したパレットを用意していた。
「朝から気分悪いモノ見ちゃったから……」
眞白は思い出すのも忌々しいとばかりに右隣に座る紅美子を見やり低く話す。
「ぶつかったのに謝りもせず通り過ぎてってさ……」
紅美子にだけ聞こえるように必要最低限の声量で言うが、その途端紅美子は声を張り上げた。
「なにそれ! 私達の眞白にぶつかっといて謝らないなんて罰当たりよ!」
古びて黒く変色したバッグから絵の具のチューブと筆、パレットと美術実習に必要な物を出しながら憤怒した。
「え〜! マジありえないんですけど!」
「ね。眞白に謝らないなんて……呪いかけとこう! ぶっせつま〜か〜はんにゃ〜しんぎょ〜」
「それ般若心経だから呪いは……」
紅美子に反応したように紅美子の友人、美智恵と美々子が話に加わる。物静かな眞白と違い、いわゆる“ギャル”と言われるような類いのものだ。
眞白は頬を引きつらせて苦笑した。
「は、はは……」
低く小さい声は他人に届きにくい。話題の中心であるはずの自分を差し置いて勝手に盛り上がる女子たちの輪に入ることもできず、片手に持ったパレットの絵の具をパレットナイフで少量ずつ取り分け色を作り始めた。
ヴーッ……ヴーッ……
途端、バッグに入れていたスマートフォンのバイブレーションが鈍く響く。絵の具を混ぜている最中だったが眞白は手を止めスマートフォンをバッグから出した。
電源を切り忘れていたことを迂闊に思いながらも着信を必死に知らせている画面を見た。
「え……?」
そこに表示されていたのは『非通知』の三文字。文字の上のノーイメージの画像がより一層不気味に思え、勝手に盛り上がる紅美子達をすり抜け美術室を出た。騒がしい美術室は通話に相応しくない。
喧騒を抜け出してきた眞白は恐ろしいと思いつつ通話しようか、それとも切るべきか迷っていた。
ノーイメージの電話口の向こうの人間などわかりきっている。以前から悩まされていたストーカー。年齢も性別も一切を隠したまま日常の様々な事象をメッセージで送り続ける張本人。
眞白は震える指先で通話ボタンを押した。声だけでも聞けば、もしかすれば知っている人物に思い当たるかも知れないと淡い期待を携えながら。
手汗の滲む左手でスマートフォンをゆっくりと耳に当てる。
「も、しもし……」
声の震えを抑える暇もなく、日々自身を苦しめていたストーカーの声がすぐ耳に飛び込んでくるという状況になってしまった。
カラオケの予約、バイトの接客のように声を変えることも忘れ低い地声で出てしまうほどの極限状態のまま電話口の向こうの声を待つ。
『…………眞白』
「っ!」
スマートフォンのスピーカーから聞こえてきたのは若い男の声。その声の後ろでは車が通り過ぎるような風の音、人の話し声が通り過ぎる環境音が聞こえる。
「あなた……誰なの? 私をつけ回して楽しい……?」
眞白はふつふつと通話先の相手に対する怒りがこみ上げてきた。夜眠れない時もあった。いつ自宅に押しかけてくるのかと布団の中で震えた日もあった。
姿は現わさなかったストーカー。その声はスピーカーに繋がっており声を発すればマイクが声を届けてくれる。ここで眞白は真意を聞き出そうとする。
『……あの三人、苦手なんだろ?』
だが望んだ答えは帰ってこず、代わりに美術室の中のことを示唆するような言葉を発した。
「なんのことよ……!」
眞白は顔を引きつらせ反論した。
「今は関係ないでしょ! 質問に答えなさいよ!」
『おっと、大きな声は近所迷惑だよ。眞白』
何も知らされない不安と相手が何も知らせない苛立ちに声を荒げるが、逆に宥めすかされる。