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零下273~君が君から去った日~  作者: 五速 梁
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第二部 刹幌 第四話 明日人

             


 『極光洞』のドアを押し開けると、多嶋がギターをチューニングする手を止めて僕を見た。


「おや野間君、どうした?姫川君たちと一緒じゃなかったのかい?」 


 多嶋は首を傾げた。僕は黙ってかぶりを振った。


「飛波ちゃんは僕らが捜すから『ハヌマーン』で待っててくれって」


 僕は顔を上げずにそう告げた。多嶋は「ふむ」と言って弦をはじいた。


「そっか。……ちょうど中休みだけど、そういう事なら開けようか。……ちょっと待って」


 多嶋は地下に通ずる階段に姿を消した。ドアを開け閉めする音が聞こえ、スパイスの匂いがぷうんと漂ってきた。


「よーし、来てもいいぞ。好きな席に座ってくれ」


 多嶋に誘われ、僕は階段に向かった。がらんとした店内に入ると、エプロンをつけた多嶋が鼻歌を歌っていた。


「何かしなくちゃいけないのに、何もできない時って苦しいですね」


 僕が言うと、多嶋は黙って深く頷いた。


「まあ、こういう時は焦ってもしょうがないさ。おごってやるからチャイでも飲んで、出番が来るのを待つんだな」


 多嶋がキッチンに消えると、僕はテーブルに頬杖をついて誰もいない店内を眺めた。


「こんにちはー。ちょっと早めに来ちゃった。……あれ?明日人君?」


 ドアを開けて入ってきたのは、奏絵さんだった。


「どうしたの、こんな時間に。……一人?」


「奏絵さん。僕は飛波の何を知っていたんだろう」


「え?」


 僕は奏絵さんに、総合博物館での一件を打ち明けた。


「そうね……それはショックね。でもそれって、新たな情報がプラスされただけでしょ。飛波ちゃんは飛波ちゃん。違う?」


「それはそうですけど……もし、飛波が僕たちの所に戻ることを拒否したらって思うと」


「その時はその時よ。諦められる人間になることも、大人の条件よ」


 僕は「わかりました」と答えた。だが、本当は何もわかっちゃいないような気がした。


「ほい、チャイ、入ったよ」


 多嶋がトレーに金属製のカップを乗せて僕の前に現れた。


「それでも飲んで、落ち着きな」


「はい……」


 僕はカップに口をつけた。その直後、キッチンで電話が鳴り響いた。


「電話だ。……まあ、ごゆっくり」


 多嶋はそう言い残して消え、奏絵さんは物入れからエプロンを取りだした。


「明日人君。大切なのは気持ちよ。居場所がわかったら、いつでも飛び出すくらいの気持ちで、どんと構えていればいいのよ」


 僕が奏絵さんの言葉に頷いた時、キッチンから声が飛んできた。


「おーい、野間君。電話だ」


「僕に?……誰からです?」


「……白崎さんっていう女性からだよ」


 僕はキッチンに駆け込むと、多嶋からひったくるようにして受話器を奪った。


「……もしもし」


「もしもし、野間君?……声に元気がないわね。大丈夫?」


「飛波を、どうしたんです?」


「ふふ、まあそう焦らないで。彼女を取り戻す最後のチャンスをあげるわ。今夜八時に、都計台の二階ホールに来て」


「都計台の?」


「必ず一人で来るのよ。いい?」


「待って、飛波はその、本当に人工……」


「知りたいことは、来たら教えてあげるわ。……じゃ」


 電話は一方的に切られた。僕は受話器を握りしめたまま、呆然と立ちつくした。


「どうしたの?」奏絵さんが聞いた。


「忘れ物を預かっているから、都計台の二階まで、取りに来いって」


「そう……で、行くの?」


「うん。文庫本なら後で買い直せるけど、今度の忘れ物は、一度失ったら二度と取り戻せない気がするから」


 受話器を置くと、僕は顔を上げた。待っててくれ、飛波。





                 ⑵





 都計台の二階は、教会を思わせる造りの多目的ホールだった。


 階段を上がり、灯りの漏れているドアを開けると、長椅子が等間隔に並ぶがらんとしたフロアの奥に、人影が見えた。僕が足を踏み出すと、人影がゆっくりと振り向いた。


 喪服を思わせる黒いワンピースをまとった女性——美織先生だった。


「ようこそ、野間君」


「飛波は、どこです?」


「まあそう、焦らないで。……それより、知りたくない?飛波ちゃんの秘密を」


 僕は大きくかぶりを振ると、美織先生を正面から睨み付けた。


「……知る必要はありません。知ったところで今さら何も変わらない」


「すべてを聞き終えても、そう言えるかしら?……少なくとも、彼女があなたにずっと隠し事をしていたのは、事実なのよ」


「飛波には飛波の、どうしようもない事情がきっとあったんだと思う。誰だって一つくらい、秘密があるさ」


「ふうん。随分、心が広いのね。……じゃあ、教えてあげるわ。彼女が、そしてみんながあなたに隠し続けていたことを」


「みんなが?」


 一瞬、僕の背筋に何とも言えない嫌な予感が走った。美織先生はテーブルの上にあった黒いプラスチック板をつまみ上げた。片側にリファイル用の穴が開いたそれは、飛波の日記帳にはさまれていた『端末』だった。


「飛波はある人に定期的に、あなたの事を報告していた。……誰かわかる?」


「飛波の「父親」でしょう」


「そうよ。よくご存じね。……じゃあどうしてそんな事をしていたのか。それはあなたが、ある大きなプロジェクトの欠くべからざるピースだからよ」


「欠くべからざるピース?」


「そうよ。話を少し前に戻すわね。今から五年ほど前、かつて『ゼビオン』を開発したプロジェクトチームが、刹幌で新たな人工人格を開発した。それらには「01」から「03」までの番号が与えられた」


「知ってます。「01」と「02」には会いました」


「人工人格たちはすべて「女性人格」で、彼女たちが種として永らえるためには「男の子」がどうしても必要だった」


「でも「男の子」を産んだのは「02」だけだった」


「そこまで知っているなら、話は早いわ。プロジェクトチームは「01」から「03」の子供たち同志を結婚させようとしていた。その際に、来るべき「人とプログラムの調和社会」のために教育が必要だと気づいたの」


「教育?人工人格にですか」


「そう。人間の心を理解してもらうための「人間学」をね。具体的に言うと、特定の人間の脳に、人工人格から発信された意識を受け取る装置を取りつけたわけ」


「受け取った人間はどうなるんですか」


「元の人格の上に、プログラム人格がかぶさることになるわね。一つの脳に、二つの人格が同時に存在する状況といえば、わかるかしら」


 僕はぞっとした。なんて恐ろしい研究なのだろう。


「そんなことを続けて、その人の人格は壊れてしまわないんですか」


「装置を数年ほど取りつけたままにしておいて、プログラムが人間の精神構造をある程度、理解したら発信をやめるの。言ってみれば、人間の脳に「留学」していた子供をデジタルの世界に里帰りさせる……そんな感じかしら」


「その、装置を取り付ける人間はどうやって選ぶんですか」


「ほとんどが、プロジェクトスタッフの身内よ。早く言えば……子供」


「自分の子供を、ですか?」


「そうよ。「02」……『風花メノ』の子供を預けるための男の子を一人、「03」こと『霧野ニナ』の娘たちを預けるための女の子が三人。合計、四人の子供たちが脳に装置を取りつけられた」


「どうして、子供が?」


「AIの意識を拒絶することなく受け入れさせるためには、できるだけ幼い人格のほうが、都合が良かったの。……最初はみんな、二つの人格のバランスをうまく取れずに苦しんでいたようだけど、デジタル人格が優位に立つにつれ、安定するようになっていったわ」


「その一人が、飛波というわけか」


 僕が問いかけると、意外にも美織先生は「いいえ」と否定した。


「もう少し、話を続けさせて。ある時、人工人格『氷月リラ』とその娘が、反乱を起こした。……これは知ってるわね?」


 僕は頷いた。二人には、博物館で直接、会っている。


「反乱が起きた時『風花メノ』の息子の身を案じたプロジェクトチームは、「彼」の身を一時的に刹幌から離れた統郷に移したの。そこで彼は数年間を、何事もなく暮らした。だけど、彼が人工人格であることを見抜き、支配下に収めようとした人間がいた。……それが、私」


「先生が?」


「ある学習塾の試験で監督のアルバイトをしていた時、私は生徒の中に、特殊な表情をする子がいるのを発見した。それはかつて私が父の研究所で見た、人工人格を受信するための装置をつけられた人と、同じ表情だった」


「その生徒って……」


「君よ、野間君。君が『風花メノ』の息子なの」


 僕は自分の足元が崩れてゆくような衝撃を覚えた。僕が、人工人格だって?


「刹幌で人工人格が完成し、コピー同士を「結婚」させる計画があるという情報をその時、私はすでに入手していた。そして思ったの。何も「01」ナンバーのコピーでなくとも、ようするに女性型の人工人格であれば「彼」と結婚できるのではないか。そう考えた私は、父が密かに保存していた『ゼビオン』の最後のコピーを自分に移植したの」


「じゃあ、先生も……」


「そう、『ゼビオン』のコピーという人工人格よ。私はあなたが中学校に入学するのを待って、あなたの中学に教師として赴任した。もちろんあなたと接触し、親しくなるために」


「わざわざ、僕に近づくために……」


「でも、そのことに気づいた人たちがいた。刹幌のチームから依頼を受けて、あなたの行動を監視していた「01」開発メンバーよ。彼らはかつて『ゼビオン』と同時に開発し、凍結しておいた『ゼビオンⅡ』を起動させた。『ゼビオンⅡ』は、『ゼビオン』を人間に敵意を持たないよう改良したセカンドヴァージョンだった。「01」開発メンバーは、当時、事故で意識不明の状態が続いていたあるスタッフの娘に、『ゼビオンⅡ』のコピーを「留学」させるための装置を取りつけたの」


「いったい、なんのために?」


「あなたを、近づいてくる敵から守るために。つまり、私から守るためによ」


「それが……飛波だっていうのか」


「飛波は、近づいてくる敵からあなたを遠ざけるため、統郷に対する恐怖を植え付けようとした。そのことに気づいた私は、どうにかあなたを私の方に引き寄せようと策を弄した」


「僕は僕で、何が起きているのかわからず、警察や都倉に怯えていたわけか」


「飛波の任務は、あなたを刹幌に連れてくることだった。もうわかってると思うけど、彼女はあえて、色々な人間があなたを狙っていると思わせて、私からあなたを引き離した」


 なんてこった……僕たちが逃げていたのは、国家や警察からではなく、美織先生からだったのだ。


「でも、それももう終わり……飛波がこちらの手に落ちた以上、あなたに加担する人工人格はいない。……野間君、観念して、私と一緒になりなさい」


「……いやだ。僕の運命は、僕が決める。飛波を元に戻してくれ」


 僕はきっぱりと言い放った。考えるまでもないことだった。


「……そう。そこまで嫌われているとは、思わなかったわ」


 美織先生の目に、それまで僕が見たことのない怒りの炎が揺らめいた。


「私を拒絶するということは、いずれ『霧野ニナ』の三人の娘の誰かと結婚させられるという事よ。……それでもいいの?」


「そういう運命なら、それでも構わない。……でもその前に、飛波だけは僕の手に取り戻す」


「そう……どうあっても、私の元には来てくれないのね。……なら、ここで死んでもらうわ」 


 気が付くと、美織先生の手には冷たく光るもの——ナイフが握られていた。


「僕を殺すつもりなのかい」


「そうね……でもあなたを殺すのは、私じゃないわ。……いらっしゃい」


 美織は口の両端を持ち上げ、指を鳴らした。ドアを開けて入ってきたのは、飛波だった。


 飛波の首から下は、金属か樹脂と思われるアーマーに覆われていた。


「飛波!」


 飛波はまっすぐ美織先生の方に進むと、傍らでぴたりと足を止めた。


「飛波、これで野間君を殺しなさい」


「はい」


 美織先生にナイフを手渡された飛波は、無表情な顔を僕に向けた。


「野間君、死にたくなければナイフを奪って彼女を殺しなさい。……飛波、行きなさい」


「はい」


 飛波は体の前でナイフを構えると、僕との距離を詰め始めた。もとより戦う気のない僕は、後ずさりする以外に無かった。


「やめろ、飛波……本気なのか」


 飛波が利き足に力を込めるのが見え、僕は反射的に後ろに跳び退った。顔の前を紙一重の距離で刃がかすめ、心臓が跳ねた。とても飛波の動作とは思えなかった。


「やっぱり……だめなのか」


 僕はじりじりと後ずさった。本当に僕らの決着はこれしかなかったのだろうか。


「どうしたの?ナイフを奪いなさい」


 美織先生が、冷たく言い放った。飛波は表情を変えずに詰め寄り、やがて僕の背中は壁に当たってそれ以上、下がることができなくなった。


「くっ……」


気が付くと僕の前に飛波がいた。飛波はナイフを腰だめにすると、僕を見据えた。


僕はポケットに手を入れると、唯一の武器を取りだした。飛波が突進を始めた瞬間、僕はバナナ型のボムを飛波の足元に投げつけた。


「あっ」


 飛波の足元で、衝撃を受けたバナナが液化した。足を滑らせた飛波はバランスを崩し、前のめりに転倒した。僕は駆け出し、飛波が取り落したナイフを蹴り飛ばした。倒れた飛波の様子を見ようと振り返った瞬間、胸の前を鋭い蹴りがかすめた。


「うわっ」


 僕は思わず身を引いた。これが本当に、飛波の動きなのか?


「はあっ」


 蹴りの次は、手刀が飛んできた。僕はよろめきつつ、どうにか攻撃をかわした。


「やめろ、目を覚ますんだ、飛波」


 僕はフロアを横切ると、長テーブルを盾にした。飛波は動きを止めると、長テーブルの両端をつかみ、やおら持ち上げた。恐怖を感じた僕は再び駆け出した。直後、背中に風を感じたかと思うと、テーブルが折れる派手な音が聞こえた。振り返ると、ナイフを拾いあげた飛波が僕の前まで迫っていた。もう逃げる場所はない。僕は覚悟を決めると、壁を背に飛波を見た。


「好きにしたらいい。……そのナイフで、今までの僕らの記憶をずたずたにすればいい」


 僕は飛波の瞳を見据えた。おそらく何も映ってはいないだろう瞳を。


 飛波は僕の正面に立つと、ナイフを構えた。僕は静かに目を閉じた。


 ——さようなら、飛波。


 僕は待った。……が、いくら待っても最後の時はやって来なかった。僕は思い切って目を開けた。そこには奇妙な光景があった。


 飛波は、ナイフを構えたまま硬直していた。見ると手が小刻みに震えていた。


 やがて飛波の目尻から涙が一筋、流れ落ちた。


「野間君……私は、飛波」


 その目を見た瞬間、僕ははっとした。目の前の飛波の表情が、記憶の中のある表情と結びつき、僕は一瞬で何が起こったかを理解した。


「君が……本物の「飛波」なのか」


「そう……長い間、夢を見ていた……あなたを「飛波」に殺させはしない」


 今、ナイフを構えているのは『ゼビオンⅡ』の送り込む意識の下で眠り続けていた、かつての「飛波」、つまりこの肉体の本当の持ち主なのだった。


 涙が顎からしたたり落ち、ナイフを持つ手の震えが大きくなった。おそらく、本当の「飛波」と、美織先生によって初期化された「飛波」とが、一つの身体の中で戦っているのだろう。……やがて、ナイフを持つ手が力を失い、手を離れたナイフが冷たい音を立てて床に落ちた。力尽きたようにがくりと崩れ落ちた飛波を、僕は抱き留めた。


「……どういうことなの、これは?」


 振り返ると、美織先生が信じられないと言った表情でこちらを見ていた。


「わかりませんか……本当の「飛波」は、自分の心を写し取ったもう一人の「自分」が、友達を殺すことに耐えきれなかったんです」


「まさか、元の人格が人工人格に勝ったってこと?」


「彼女たちはもう、半ば一つの人格なんです」


 僕は直感した。僕もまた、元の僕と一つになろうとしているに違いないと。


「僕と飛波は刹幌に来てすぐの頃、ラーメン屋に入りました。そこで飛波は「お父さん」と呟きながら涙を流してラーメンを食べました。思えばあれは、身体の奥深く封じ込められていた本当の飛波の、幼い頃の記憶だったんです。そしてその頃から、元の彼女が徐々に目覚め始めたんです」


 僕は、飛波の日記帳を見てしまった時の事を思い返した。あの日記の前半は、ほぼ何も書いていなかった。おそらく新しい日記を買った元の「飛波」が、色々な事を書こうとした矢先に事故に遭い、「人工人格」に支配された。だから、これから書きこまれるであろう、心の中を僕に見られた気がしてあんなに怒ったのだ。


「僕は統郷の神社で、飛波の「お父さん」らしき男性と会いました。あの人はおそらく、元の「飛波」の父親であると同時に、人工人格『ゼビオンⅡ』の開発者、つまり『ゼビオンⅡ』のコピーである「飛波」の父親でもあったんです」


 そう、あの時、男性が口にした「母親と同じだな」という言葉の「母親」とは『ゼビオンⅡ』のコピーである「飛波」の母親——つまりオリジナルの『ゼビオンⅡ』のことだったのだ。「飛波」の父、つまり開発者は飛波の事を「オリジナルと同じで不完全だ」と言ったのだ。


「美織さん……残念ながら、人工人格がどれほど脳を支配しようと、肉体に封じ込められた本来の自分を支配することなんてできないんです。自分はどこまで行っても自分でしかないんだから」


「……くっ!」


 美織先生は突然、駆け出すと、飛波が落としたナイフを拾って僕らにつきつけた。


「そう……おしまいなのね、なにもかも」


 美織先生が振りかざした手を、僕は咄嗟につかんだ。思ったより強い力だった。


「馬鹿な真似は……やめてください」


 僕はナイフを必死で食い止めながら、説得を試みた。しかしさすがに大人の力だけあって、ナイフの切っ先がじりじりと顔の前に迫ってくるのがわかった。


「一緒に来てほしかった……本当に」


 美織先生の目に光る物が見えた、その時だった。


「やめろっ、美織っ」


 突然、太い腕が美織先生を羽交い絞めにした。次の瞬間、美織先生の顔の横から、古屋の必死の形相が覗いた。


「離して……離してってば!」


 美織先生が、それまで見せたことがないような狂おしい表情で叫んだ。その手首を、今度は別の手が背後からつかんだ。


「もう終わりなんだ、姉さん」


 聞こえてきたのは、修吾の声だった。


「離しなさいっ、修吾っ」


「みくびらないでくれよ、姉さん。もう初めて会った十歳の僕じゃないんだ」


 そう言うと修吾は、手首をつかんだ手に力を込めた。美織先生が「うっ」と呻くのと同時に、ナイフが手からこぼれ落ちた。力尽きて床に崩れた美織先生を、古屋が抱き留めた。


 修吾は僕と飛波の前まで歩いてくると、僕にぶどう型のフルーツ・ボムを手渡した。


「真淵沢さんから、君に手渡すよう頼まれた。そいつを噛めば、脳に送られてくる人工人格の意識は今後、すべてシャットアウトされるはずだ。さらに今までの記憶も消去され、完全に元の人格に戻るそうだ」


 僕は受け取ったぶどうを、飛波の顔の前に掲げた。


「飛波……口を開けて」


 うっすらと開いた飛波の歯の間に、僕はぶどうを押し込んだ。


「さよなら飛波……それを思いきり噛んだら、お別れだ」


 僕は自分が涙を流していることに気がついた。そうだ、僕もまた、元いた場所に帰る運命にあるのだ。


「飛波……僕もすぐ、同じことをする。決して君を一人では行かせない。いつかネットワークの海でもう一度、出会い直そう」


 飛波の頬を涙が伝い、歯の間でぶどうの実がわずかにたわんだ。


「待ちなさい」


 ふいに声が投げつけられた。僕は驚き、声のした方を見た。どうやら声の主は美織先生のようだった。……が、何かが違う。


「その必要はないわ、野間君」


 声は確かに美織先生の口から発されていた。……だが、いつもの先生の声とは微妙に異なっていた。普段の声よりほんの少し高く、こもった感じだった。


「飛波さんもあなたも、すでに分離困難な状態まで同化しているわ。元の人格が、人工人格を受け入れて吸収しつつあるのよ」


 何だって?……ということは、今、喋っているのは、元の「美織さん」なのか。


「美織が……つまり私が『ゼビオンⅠ』のコピーに支配された時、私は半ば強制的に眠らされていた。でも、意識の深いところではいつも、彼女にこう訴え続けていた。……お願いだから、私の事を思い出して。決して追い出したりしないから。一緒に生きましょう」


 僕ははっとして、飛波の口からぶどうをつまみ取った。ぶどうは床に落ちて転がり、同時にそれまでうつろだった飛波が、まるでたった今、目覚めたかのように目を見開いて僕を僕を見た。


「野間君……私、今……どっちの「私」に見える?」


 僕は、飛波を抱きしめた。


「どっちでもいい。そんなことはもう、関係ないんだ」





——気に入らないからといって、周囲を変えようとするのは間違っている。共に生きてゆく道こそが、唯一の答えなんだ——





「わかってくれたようね、野間君。私もこれから「美織」とうまくやってゆくわ。……でも、たまには昔の彼女のことも思い出してあげてね」


 言い終えると、美織先生はがっくりと項垂れた。古屋が、力尽きた美織先生の頭を愛おしそうに撫で、抱きかかえるのが見えた。





                  終章





「じゃあ、とりあえず統郷に帰るのね」


 奏絵さんが、お土産をはみ出すほど詰め込んだ紙袋を、手渡しながら言った。


「ええ、運よく帰りの新幹線が取れたので」


「またいらっしゃいね」


「もちろん。今度は「辛さ5」に挑戦します」


 僕が宣言すると、椿山の足元で「友達」が、がしゃがしゃと嬉しそうに飛び跳ねた。


「ん?……あれは?」


 姫川が突然、僕と飛波の背後を指さした。振り返ると、そこに目を疑うような光景があった。田貫小路の中を電車が……メノがこちらに向かって走ってくるところだった。


「こらーっ、水臭いぞ、少年っ!」


 そう叫びながら、あらゆるものを蹴散らしかねない勢いで電車が滑り込んできた。


「……もう、なんで「お母さん」に一言も言わないで帰っちゃうの」


 メノの声は、いつになくおばさんっぽかった。


「……だって、いちいち母親が見送りに来たら、彼女が引くじゃないか。マザコンだって」


 僕が意地悪く言うと、メノが不満そうに汽笛をぶう、と鳴らした。


「あーあ、そういうことかあ。やっぱり私、お邪魔だった?」


 まるで家にガールフレンドを連れてこられた母親のような反応をメノは見せた。


「それより「母さん」、僕は本当に『霧野ニナ』の娘さんたちと会わなくていいの?」


 『霧野ニナ』の娘たちとは、少し前まで僕の「許婚者」だった人たちだ。もちろん、どんな人たちか、僕は知らない。


「いいの、いいの。いつか気が向いて会いたくなったら教えてちょうだい。……とりあえず、飛波ちゃんが焦るくらい良い娘たちとだけ、言っておくわね」


 巨大なプロジェクトが白紙に戻りかねないのに、メノはどこか楽し気だった。


「それじゃ、お邪魔虫は帰るわね。……飛波ちゃん、うちのひ弱な息子をよろしくね」


 飛波は、メノの車体にまっすぐ向き合うと「はい、任せてください」と言った。


「じゃあ、バイバーイ」


 別れを告げると、電車はアーケードの中でゆっくりとバックを始めた。


 去ってゆく電車を見送った後、僕はあらためて飛波に向き直った。


「さあ、帰ろうか。一緒に、統郷へ」


 僕が言うと飛波は一瞬、思案するような顔つきになった。


「野間君が一緒に帰るのは、どっちの私かしら。今の私?それとも昔の――」


 言い終わらないうちに、僕は持っていた紙袋をむりやり飛波に押し付けた。


「あいにく僕は優柔不断で、どっちか一人なんて選べない。だから、全員だ」


 僕の答えに、飛波は笑って頷いた。


「さ、行ってらっしゃい。帰ってくる時も、必ず二人でね」


 奏絵さんが、勢いよく僕の背を叩いた。僕らはほんの少し春の匂いがする刹幌の街を、身体の奥にもう一人の愛すべき「自分」を感じながら、並んで歩き始めた。



                  〈了〉


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