第二部 刹幌 第一話 飛波
新幹線が刹幌さっぽろに到着したのは、夕方の六時過ぎだった。
シートに押し込まれてこわばった手足を伸ばしながら、僕は刹幌駅のホームに降り立った。
どうやら敵はいないようだな。
もしかしたら刹幌駅のホームにも敵がいるかもしれない、飛波と車内でそんな話もしたが、幸いなことにそれらしい人物の気配はなかった。
僕らは人波の間をすり抜けるようにして、地下へと降りた。統郷ほどではないにせよ、刹幌も北の果てとは思えないほどの雑踏だった。僕らは駅ビルに隣接する大型デパートに、建物伝いに移動した。飛波の親戚が、地下の総菜売り場で働いているというのだ。
「正直、もう長いこと会ってないんだけど、頼めばひと晩くらい泊めてくれる気がする」
僕は「任せたよ」とだけ言った。飛波らしい、多分に希望を含んだ計画だったが、どのみち今の僕らに安全なルートなどないのだ。
デパートの地下総菜売り場は夕方と言う時間帯のせいか、平日にもかかわらず移動するのも困難なほどの賑わいだった。
「なんだよ、全然、統郷と変わんないじゃん」
僕が不平を漏らすと、飛波が「当たり前でしょ。大手だもの。……それに野間君、小さい頃こっちにいたんでしょ。覚えてないの?」と呆れ顔で言った。
「うーん。なんかそのころの記憶がおぼろげでさ。今の自分とは別人っていうか」
「そうね。幼い頃の自分って、今の自分とは何か感覚が別っていう気がするよね」
飛波は珍しく、僕に全面的に同意した。女の子はこういう場所になれているのか、僕があちこちで買い物客にぶつかるのに比べ、飛波はまるで魚のようにするすると人波をすり抜けて行った。
僕はせめて飛波の背を見失わないよう、必死に目で追った。やがて売り場の奥まで進んだところで突然、飛波の足が止まった。
飛波の視線の先に、カップに入った試飲用のお茶を勧めている女性がいた。
声をかけるタイミングを見計らっているのか、飛波は珍しく緊張した表情をしていた。
「こんばんは」
飛波が声をかけると、女性が振り向いた。一瞬「だれかしら?」という顔をしたが、一呼吸おくと目に驚きの色が現れた。
「あらあー。飛波ちゃんじゃない。大きくなったわねえ。統郷に住んでるのよね、たしか。……今日は旅行?」
「はい。ちょっと急に刹幌に来る用事ができて……こちらはお友達の野間君」
唐突に紹介され、僕は慌ててぺこりと頭を下げた。中学生が急な用事って、いったいどんな生活してるんだよ。
「はじめまして、柾木夏実まさきなつみといいます。飛波ちゃんのお母さんの従妹にあたります。……飛波ちゃん、用事って言ってたけど、お友達と二人だけで統京から刹幌まで来たの?それってもしかして……家出?」
夏実は最後の「家出」のところを、あたりをはばかるように声をひそめて言った。当然の反応だろう。飛波は想定済みなのか、落ち着き払った態度を崩すことなく応じた。
「家出じゃないわ。まあ……小旅行ってとこかな。それでね、実は泊まるところを決めないで来ちゃったんだけど、おばさんのところ、今晩、駄目かなあ」
飛波は小細工をせず、いきなり用件を切り出した。唐突な頼みに夏実は目を白黒させた。
「泊めてって……ホテルも予約しないで来たの?……何だか怪しいわね。ボーイフレンドと来るってこと、お父さんは知ってるの?」
夏実は当然の疑問を口にした。無理もない。異性と二人きり、泊まるところすら用意せず旅行に来たというのだ。普通に考えたら家出か駆け落ち以外にありえないだろう。
「知ってるっていうか、そんなに心配はしてないと思うわ。野間君とも別に変な関係じゃないし、取りあえず一晩だけ、お願いします」
飛波は必死の表情で訴えた。これで話が成立しなければ、次を探すしかない。
「私のマンションってことでしょ。しかも男の子と二人でねえ……ちょっと考えちゃうわ」
夏実はあきらかに目に困惑の表情を浮かべていた。やがて、売り場に試飲を求める客が現れた。夏実は僕らに目で合図を送ると、いったん接客に戻った。客が立ち去った後、夏実はため息をついて僕らの方を向いた。
「しょうがないわね。とりあえず私、もうすぐ上がるから待ち合わせましょう。……光越の地下にある広場、わかる?六時を過ぎたら行けるからそこでで待ってて」
「わかった。それじゃあ、待ってます」
飛波はうなずくと、僕を促してその場を離れた。あまり好感触とは言えなかったが、いたしかたない。宿を用意してこなかったこちらの準備不足だ。僕らはデパートを出ると、ひとまず夏実が指定した待ち合わせ場所に移動することにした。
⑵
刹幌の中心部には三つの繁華街エリアがある。ステーションのある『刹幌』と、ホワイトフェスティバルで有名な『王通おうどおり』、そして歓楽街として名をはせる『笹木野ささきの』だ。
「光越はたしか王通りだから、少し歩かなくちゃだわ」
「行きかた、わかる?」
「地下伝いに行けることは知ってる。迷ったらその辺の通行人に聞けばいいのよ」
そう言うと飛波は前に立ってすたすたと歩き始めた。やれやれ、お気楽な事だ。
刹幌と王通りの間は数百メートルほど隔たっており、その間を巨大な地下歩道がつないでいる。僕らはどうにか地下歩道の入り口を探し当てると、光越を目指して歩き出した。
地下歩道は真冬でも暖かく、地上と変わりない雑踏でにぎわっていた。昔、父から聞いた話では、この空間は商業目的のテナント建設が許されておらず、旅行会社やアクセサリーショップなどの出張ショップに貸し出しているのだという。
「あっ、何かやってる」
三分の一ほど進んだところで、ふいに飛波が声を上げ、足を止めた。視線をたどると、壁際の一角に小さな人だかりができていた。目を凝らすと、人垣の間から椅子に座ってギターを弾く女性が見えた。
「あっ、あの人……」
僕の呟きに飛波が「どうしたの?」と反応した。
「昔、近所にいたお姉さんだと思う……ちょっと聞いていっていいかな」
「いいよ。行こう」
夏実に言われた時間までにはまだ間があった。僕らは人垣の後ろに紛れ込んだ。
近くで見た僕は、弾き語りの女性が知人の根橋奏絵もとはしかなえであることを確信した。統郷に来たばかりの頃、マンションの同じ階に住んでいた女子大生だ。シンガーソングライターになるのが夢だと言っていたが、まさか刹幌に住んでいるとは。
奏絵の歌はマイナー調のポップスで、ビブラートの少ない歌声が切ない歌詞によくあっていた。演奏を終え、奏絵が頭を下げると聴衆から拍手が起こった。
最後の曲だったのか、曲が終わると奏絵は後ろで控えていた男性に、場所を明け渡した。どうやら出番が終わったらしい。僕らは立ち去る聴衆に紛れて人垣を離れ、壁際で楽器を片付けている奏絵に近づいた。
「あのう……」
僕はおずおずと声をかけた。奏絵ははっとしたように顔を上げ、目をしばたたかせた。やがて僕を思い出したのか「あっ」と声を上げた。
「明日人君じゃない。ひさしぶりね。どうしたの、旅行?」
奏絵は夏実が飛波に見せたのと全く同じ反応を返した。僕は「うん、ちょっと……」と言葉を濁した。
「そちらは……もしかして、ガールフレンド?」
「いや、あの、全然。……きょうはどうしたんです?コンサート?」
「うん。路上……じゃない、地下歩道ライブね」
「刹幌にいるとは思いませんでした。夢をかなえたんですね」
「うーん、どうかなあ。自主製作でアルバムは出したけどね。まだまだ。今日はどこに泊まるの?親戚の所?」
「ええと……友達のおばさんの所に泊まる予定です」
僕は飛波の方をちらと見た。奏絵はああ、そういうこと、というように頷いた。
「そうだ、私、ラジオのパーソナリティーもやってるから、よかったら聞いて。……東京に帰ったら聞けなくなっちゃうけど」
奏絵はそう言うと、僕に名刺を渡した。そこには自宅の物らしい連絡先と、ラジオ番組の放送時間帯、周波数が記されていた。
「じゃあ、またね。ええと……」
奏絵は飛波の方を見た。飛波はすっと背を伸ばすと「縁飛波といいます。野間君のクラスメートです」と言った。
「飛波さんか。いいお名前ね。それじゃ旅行、楽しんでね」
奏絵は僕らに手を振ると、ギターケースを手に僕らとは逆の方向に姿を消した。
⑶
夏江が指定した光越前の地下広場とは、地下歩道を抜けたところにある、地下街同士をつなぐ広い空間の事だった。
「これから、どうすんだい」
壁面の一角に据えられた大型テレビを背にした飛波に、僕は言った。
「さあ。とりあえず、どこかに腰を据えて暗号を解かなくちゃね」
「それなんだけど、君のおばさんの部屋にお邪魔するのはいいとして、絶対、色々と聞かれると思うぜ」
「でしょうね。聞かれたら、あくまで小旅行だって突っぱねてね」
飛波はいつもの強気な表情を浮かべて言った。
「家に連絡されたらどうすんだい。あっという間に連れ戻されちまうぜ」
「そして逮捕される……でしょ?」
僕は返事に窮した。そうだった。僕らはお尋ね者なのだ。幸い、ニュースに写真は出ていないが、この刹幌にも僕らを捕えようとする者がやって来ないとは限らないのだ。
「大丈夫よ。ああ見えて苦労している人だから、多くは訊かないと思うわ」
飛波がそう断じた時だった。人影が僕らの前に現れた。
「この子かい、泊めて欲しいっていうのは」
野太い声が、頭上から降ってきた。思わず見上げると、コートに身を包んだ四十歳前後の男性が僕らを見下ろしていた。
「ええ。何とかしてあげたいところなんだけど……」
「ふむ、そうは言ってもな。こっちだって仕事を無理やり切り上げてきたんだ。邪魔されていい気はしない」
男性はそう言うと、じろりと僕らを見た。とうてい友好的とは言い難い眼差しだった。
「やっぱり、難しいかしら」
「泊まるだけならカラオケでもどこでもあるだろう。交番で保護してくれるのなら、それはそれで手間が省ける」
「そんな……この季節だし、危ないわ」
「なに、もう中学生だろう。統郷からここまで来られたのなら、自分たちで何とかするだろうさ。いくらか現金でも与えておけばいい」
男性に強引に押し切られ、夏実は押し黙った。
「……ごめんなさい、飛波ちゃん。泊めてあげたかったけど、今晩はやっぱり無理みたい」
そういうと、夏実は札入れから数枚の札を抜き出し、飛波に押し付けるように握らせた。
「……だめですか」
「ごめんね。……でも夜だし、寒いから気をつけてね。笹木野の方に行っちゃだめよ」
口ごもる飛波に「それじゃ」と言い残すと、夏実はコートの男性と肩を並べてその場から立ち去った。
「あーあ。フラれちまったかあ」
僕が呟くと、耳元でうっという押し殺した声が聞こえた。見ると、飛波が怒りに顔を紅潮させていた。
「なんなの、あの男……。子供だと思って」
飛波は手の中で紙幣をぐしゃりと握りつぶした。僕は飛波の手に自分の手を当てがった。
「待てよ。頼る人がいないんなら、どんなお金でも、ないよりはあった方がいい」
「……そうよね。もとはといえば私たちが一方的にお願いしたんだし、こうなるのも当然かもね。でも……」
飛波は目に悔しさを滲ませたまま、その場にしゃがみ込んだ。おそらく、ここまで張りつめていた気持ちが、体よくあしらわれたことで切れてしまったのだろう。
「飛波」
僕は飛波の傍らに屈みこんだ。飛波は迷子のように目線をさまよわせていた。
「……ラーメンでも食おうぜ」
僕はしょげている飛波に笑いかけた。不思議と気分が楽になりかけていた。
「うん」
僕らは味方が一人もいなくなった刹幌の街を、肩を並べて歩き出した。
⑷
十五分後、僕らはラーメン店のカウンターに並んで座っていた。
刹幌ではよく知られた老舗店で、やはり老舗の文具店の四階にある店だった。
僕は幼い頃、何度か父に連れられてきた記憶があった。
「味噌が底に沈んでるから、よくかき混ぜて食べてね」
店主の言葉とともに湯気を上げているどんぶりが僕と飛波の前に置かれた。
味噌の香ばしい香りがふわりと鼻先を包み、唾液が溢れた。僕はれんげを手にすると、熱々のスープを啜った。
「……うん、懐かしい」
スープが舌の上を通り過ぎると、塩辛さの中に甘みを含んだ味噌の風味がじわりと広がった。僕はメニューの中にシューマイを見つけ、飛波に語りかけた。
「シューマイも、食べる?」
表情を覗き込もうとして、僕はおやと思った。ラーメンをすする飛波の横顔が、今にも泣き崩れそうに歪んでいたのだ。
「……お父さん」
聞き取れない位の小さな声で、飛波が言った。僕は驚いた。
お父さん?あの、神社で会った男性か。僕が見る限り、父親は飛波と敵対しているようだった。それが、なぜ?
「飛波?」
「……えっ、なに?」
こちらを向いた時、飛波の目はいつもの冷静な色に戻っていた。
「いや……シューマイ、食べるかなと思って」
僕が言うと、珍しく飛波は笑顔を見せた。
「そうだね、食べよっか」
僕はほっとしながらも、飛波にも色々あるんだろうな、と漠然と思った。
ラーメンを食べ終えた僕らは、文房具店の中をあちこち歩きながら、次の目的地の検討を始めた。
やみくもに通りに出てしまっては風邪を引きかねない。まずは方向を定めなければ。
事務用品が並ぶ棚の前をうろうろしていると、突然、女性の声が飛んできた。
「あら、また会ったわね、明日人君」
見ると、地下歩道でわかれた根橋奏絵だった。
「どうしたの?待ち合わせは?来なかったの?」
好奇心をあらわにした表情を見て、僕は思い切って窮状を伝えることにした。
「フラれました。泊めるのは無理だって」
「泊めるって……もしかして今晩、泊まるところがないの?あなたたち」
僕は頷いた。必要以上に興味を持たれるのはいつものことだ。
「ふうん……なにかわけがありそうね。いいわ。うちに泊めてあげる」
「本当ですか?」
僕と飛波は思わず声をそろえて言った。
「……ただし、私、これからアルバイトがあるの。部屋に帰るのは十時過ぎになるけど、それでもいい?」
「はい、大丈夫です」
「……とはいえ、君たちくらいの年の子を夜の街に放っておくわけにもいかないわね。九時くらいにうちの店に来てくれれば、そんなに待たせないで済むかな。それでいいかしら」
「どこのなんていうお店ですか?」
「田貫小路たぬきこうじにある『ハヌマーン』っていうスープカレー店よ。田貫小路はわかる?」
「はい、わかります」
「じゃあ、九時になったら来てちょうだい。これ、お店の電話番号」
そう言って奏絵は僕に一枚のカードを手渡した。猿を思わせるエキゾチックな動物の絵と、電話番号が書かれていた。奏絵にカードをもらうのは今日で二度目だな、と僕は思った。
「悪いけど九時まで、イルミネーションでも見て来てね。……じゃあ、後で」
奏絵は手を振りながら、僕らの許を去った。
「さて、あと二時間、どうしよう」
「決まってるじゃない。イルミネーションを見るんでしょ」
そういうと、飛波はいきなり僕の腕をつかんだ。僕は驚き、思わず身を引いた。
「あっ、野間君、冷たいんだ」
からかい口調の飛波に僕はわざと「冷たくなったかもな。なにせブリキストン線を超えてきちゃったし」とそっけなく返した。
⑸
刹幌の中心部はこの時期、いたる所白く輝くイルミネーションで覆われている。
もちろん季節的にはイルミネーションくらい仁本のどこであろうと見られるのだが、整然とした街並みと、眩い光に彩られた街路樹の取り合わせが異国に迷い込んだかのような心地を与えてくれるのだ。
「ね、気が付いた?」
唐突に飛波が切り出した。僕は「えっ?」と間の抜けた反応を返した。
「液晶パネルの広告が多いでしょ。統郷とまるで違うと思わない?」
僕はあっと叫んだ。そういえば、そうだ。
統郷は実存党のお膝元だけあって、広告に関しても厳しい統制がなされている。液晶パネルによる動く広告は実質、ほぼ禁止に近かった。そのため、建物の壁や窓に紙の広告がべたべたと大量に貼られるようになっていた。
それと比べると、刹幌の町並みは驚くほど華やかで、変化に富んでいた。紙より薄い有機液晶がビルの壁面や自動車の車体に貼られ、動く風景と化していた。電話ボックスの扉にさえ、極小の液晶広告がびっしりと隙間なく貼られ、色と動きで客を呼んでいる。
首都圏から遠い分、この街では電子製品の使用率が高いのに違いない。
「もしかしたら刹幌にインターネットカフェがあるのは、敵の影響が及びづらいからかな」
僕がふと浮かんだ考えを口にすると、飛波は「多分そうでしょうね」と頷いた。
「……ね、田貫小路に行ってみようよ」
「まだ八時だぜ。早いんじゃないか」
「いいじゃない。お店を探しながら、ぶらぶらしようよ」
飛波はさきほどまでとはうって変わって、目を輝かせながら言った。僕はあっけにとられた。頼る人もなく、お金もあまりないというのに、このはしゃぎようは一体、どういうことなんだろうか。まるで故郷に戻ってきたみたいだ。
「いいけど、あんまりはしゃがないようにしようぜ。僕たち、お尋ね者なんだからさ」
「……そうか。たしかに、そうよね」
僕らは光と音に溢れた街の中を、商店街目指して歩いた。
「奏絵さんの働いてるお店って、何丁目だっけ?」
「……ええと、二丁目だって」
「ね、端から端まで歩いてみようよ。まだ時間あるし」
「えー、けっこうあるぜ」
「いいじゃない。せっかくの旅行なんだし」
こんな旅行、一生に一度で十分だと言う言葉を飲み込み、僕は頷いた。
僕らは田貫小路のアーケードを西に向かって移動した。ゲームセンターやドラッグストアなど、どこの商店街にもある風景の合間に、巨大な木彫り熊や狸の置物など、他の地域ではなかなかお目にかかれない物が突然、姿を現すのが面白かった。
「外国人が多いね」
「本当だね」
何気なく歩いていると気づかないが、たしかに仁本人とは違う顔つきの集団がそこかしこにたむろしていた。
「ゼビオン事件」以降、統郷には外国人の姿が目に見えて減っていたが、ここ刹幌がその代わりに外国人のるつぼになりつつあるようだった。
そういえば、と僕は思った。店構えの中にもインド料理やロシア料理など、心なしかエスニックな店が多いようだ。北欧から東南アジアに迷い込んだ気分を味わっていると、突然、商店街に「まてっ」という鋭い声が響き渡った。続いて何かが倒れる音と、仁本語ではないわめき声とが入り混じってあたりは騒然とした。
声のしたほうに目を向けると、十メートルほど先にあるアジア料理っぽい構えのカフェから、一人の太った男性が転がるようにして飛び出してくるのが見えた。男性は大きな紙袋をいとおしむ様に抱きしめながら、必死の形相で僕らの方に駆けてくるのだった。
「どうしたんだろう、あの人——」
そう言いかけた瞬間、僕の傍らを男性が走り抜けた。通り過ぎた瞬間、かちゃん、と小さな音を立てて何かが路上に落ちた。
「なんだ?」
僕は身をかがめ、男性が落としたらしい物を拾いあげた。指先ほどの大きさの、チョコレートのような黒い板に、僕はなんとなく見覚えがあった。おそらく電子部品の一種だ。
「なに、それ?」
手元を覗き込んできた飛波に、僕は「さあ。何かの部品かな」と曖昧な答えを返した。
「ふうん。なんか怪しい感じだったね、あの人」
飛波が男性の去った方向を見つめて言った。僕は拾い物をポケットにしまうと「行こう」と言った。
少し景色が寂しくなりかけたところで、僕らは向きを変えて引き返した。来て早々、面倒に巻き込まれてはかなわない。少し早いが、奏絵の働いている店に向かうことにしよう。
それにしても、気候が違うだけで、こうも見える景色が変わるものだろうか。アーケードを吹き抜ける乾いた風に顔をさらしていると、なんてことない商店街の風景も、奇妙に謎めいて見える。
さまざまな言語で客を呼び込んでいるドラッグストアは、店の中も外も巨大な液晶パネルで覆われ、極彩色の広告が目まぐるしく動いていた。そうかと思うと、その近くにご機嫌な紳士の人形が壁面から顔を出している店があったり、年季の入った刃物の店があったりする。過去と未来が、混じり会うことなく共存している、そんな感じだ。
「もうちょっとで、教えてくれた番地を行き過ぎるんだけど……」
飛波が眉を寄せ、小首を傾げた。僕は行きつ戻りつしながら、あたりの店構えを確かめた。飲食店はあるが、スープカレーの店はなかった。
「変ね、私、注意してみてたけど『ハヌマーン』なんてお店、なかったよ」
「うん、たしかに……あ、ちょっと待って。……かすかに匂いがする」
「匂い?」
「うん。香辛料の匂い」
僕は鼻をひくつかせた。雑多な匂いに混じってうっすらとエキゾチックな匂いがあたりに漂っていた。
「匂いの一番濃いあたりを中心に探そう」
僕らは嗅覚に全神経を集中し、アーケードの中を行ったり来たりした。やがてある一点で、僕らは足を止めた。そこから一定距離以上、離れると匂いが薄まるのだった。
「ここだ。ここがおそらく中心だ」
僕らが足を止めたのは、老舗っぽい楽器店の前だった。
「ここ?そんな感じ、しないけど……カレー店の看板も、出てないし」
「とにかく入ってみよう」
僕は意を決して楽器店の分厚いガラス戸を押し開けた。途端に、爆音のようなギターの音が鼓膜を震わせた。店内は壁と言わず床と言わず、楽器とその関連機器で埋め尽くされていた。値段さえもわからない商品の間から、絃の張替えをしている店員の姿が見えた。
長い髪を後ろで縛り、バンダナをまいた中年の店員は、僕らに気づくと顔を上げた。
「ん?……なんだい?」
鼻の上にちょこんと乗った丸眼鏡を指で押しあげながら、店員は言った。
「あのう……この辺にスープカレーのお店があるって聞いてきたんですけど」
「スープカレー?」
店員はぎらりと光る眼で、僕らをねめつけた。僕は反射的に身を引いた。なにか気に障ることを言ってしまったのだろうか。
「ええと、匂いがしたんです、このあたりで」
「匂いだって?……ふん、そりゃあ、するだろうな」
店員はつまらなそうな口調で言うと、僕らから目線を外した。
「……下だよ。そこのアンプの後ろに階段がある」
店員が目で示した場所を見て、僕は目を丸くした。フロアの隅に大きなアンプが四つほど固めて置かれ、その陰に穴のように見える四角い闇が覗いていた。
「アンプの後ろって……どけろってことですか」
「ああ。遠慮しなくていいよ。下の店に行く連中は、みんなそうやって入る」
僕と飛波はアンプの前に進んで行った。たしかに、間近で見ると、真っ暗な空間に向かって階段が伸びていた。僕らは協力してアンプを脇にどかした。出現した階段を見ても、その下に店があるかどうかはよくわからなかった。
「ここから降りて行くんですか」
「気が進まないなら、やめたまえ。何も無理にカレーを食べることはない」
「い、いや……ありがとうございました」
「行くの?」
飛波が僕の顔を覗き込んできた。
「行くしかないだろう」
僕らは楽器店の床にぽっかりと空いた穴から、下の暗がりへと降りて行った。
階段を降り切ると、突き当りに木製の扉が現れた。扉には『ハヌマーン』と彫られた木のプレートが掲げられていた。さすがにここまで来ると、疑いようもないほど濃厚なスパイスの匂いが漏れ出ていた。
僕は思いきってドアを押し開けた。中は思いのほか、広々としていた。地下のせいか天井が低く、落とした照明の中でアジアの民芸品と思われる人形や装飾品が神秘的な魅力を放っていた。
「あら、もう来たの」
店の奥から現れたのは、奏絵だった。バンダナを巻き、お経のような文字がプリントされたエプロンをつけていた。僕らは暗い店内を、奥へと進んだ。
「その辺に座って待っててもらえるかしら。……お水を持ってくるわね」
僕らが適当なテーブルに腰を落ち着けると、奏絵さんが銅製のコップに水を入れて戻ってきた。
「良く見つけたわね。上の店員さんに教えてもらったの?」
「ええ、まあ……でも、看板も出てないし、これじゃあ普通の人には見つけられませんよ」
「うふふ、そうよね。いい具合に時間つぶしになるかと思って」
「まさか地下にあるとは思いませんでした。何だか秘密クラブみたいですね」
「そうでしょ。うちのオーナーのこだわりなのよ。常連さん中心のお店にしたいって……せっかくだから、何か食べてく?」
「実は、ラーメン食べちゃったんで、あんまりお腹が空いてないんです」
「あ、そうなんだ。……わかったわ。じゃ、私がラッシーおごったげる」
奏絵はそう言うと、キッチンに姿を消した。ラッシーというのはヨーグルトドリンクのことだ。スパイシーな食べ物と相性がいいと言われている。
「こういうお店、私、初めてだな」
飛波が目を丸くして言った。僕は少しだけ、エスコートしている気分になった。
「僕は刹幌にいたころ、よく両親とスープカレー、食べに来てたよ。納豆の入った奴がうまいんだよな」
僕はメニューを見ながら、知ったかぶりを披露した。飛波は珍しそうにあたりを見回していた。
「あっ」
突然、飛波が声を上げた。
「どうした?」
「あの人形……動いた気がする」
本当かよ、と思いながら、僕は飛波が目で示した方向を見た。踊りの途中で固まったような、猿を思わせる人形が棚に置かれていた。
「あれが、動いたのか?」
「うん。……あ、あっちの人形も動いたみたい」
僕は飛波が指さした方を見た。反対側の壁の窪みに置かれた鳥の人形が、たしかに一瞬、羽根を震わせたような気がした。
「からくり人形か……?」
僕らはもう一度、動かないものかと人形をまじまじと見た。痺れを切らしたころ、奏絵さんが白い液体がなみなみと注がれたコップをトレーに乗せ、姿を現した。
「どうしたの二人とも、びっくりした顔して」
「あの人形……動いたんです」
僕が指摘すると奏絵さんは「ああ、あれね」と表情を崩した。
「動くわよ。動くようにできているもの」
「じゃあ、やっぱりからくり人形なんですか」
「そうねえ……からくりっていうか、生きてるのよね。うふふ」
奏絵さんは不気味な冗談を口にしながら、コップをテーブルの上に置いた。
「やめてくださいよ、怖いことを言うのは」
僕が顔をしかめると、奏絵さんの顔に一瞬、困惑の色がうかがえた。
「うーん。これはちょっと説明が必要かな。……ま、いいや。とりあえず、飲んじゃって」
僕らは勧められるまま、水滴のついたコップに口をつけた。甘くとろりとした液体が、舌の上を通って喉に滑り落ちた。
「うん、おいしい」と僕が言うと「私、この味、好きかも」と飛波も唇を舐めた。
——なんか刹幌に来て、はじめてだな。こんなにくつろいだ気分は。
追われていることも忘れ、椅子の上で体をのばしかけた、その時だった。
どすんと何かをひっくり返すような音が、上の方で聞こえた。続いて金属が床にぶつかるような音、何かを喚き散らすような声が聞こえたかと思うと、何者かが階段をどたどたと駆け下りてくる気配があった。
「何かしら……あっ」
奏絵さんが言いきらないうちにドアが開け放たれ、丸っこい人影が転がり込んできた。
「あっ、あの人——」
飛波が床に手をついて全身をあえがせている人影を見て、叫んだ。
「アーケードで見た人だ」
人影は、先ほど、アーケードの中を外国人から逃げていた男性だった。
「ふう、ふう」
男性は、しきりに背後をうかがいながら、荒い息を吐いた。血走った眼と額にびっしり浮かんだ汗の玉が、男性がいまだ逃走中であることをうかがわせた。
「……姫川ひめかわさん、どうしたんです?」
奏絵さんが声をかけると姫川と呼ばれた男性は「と、とにかく鍵をかけて」と、絞り出すように言い、入り口近くのベンチにぐったりと体を預けた。
「追われてるんですか?さっきの外国人に」
飛波が声をかけると、姫川はぎょっとしたようにベンチから跳ね起きた。
「どっ……どうしてそれを知ってるんだ?」
「だってさっき、私たちにぶつかったじゃないですか」
咎めるような目を向けてきた姫川を、飛波はばっさり切って捨てた。
「あっ……そうだっけ、それは失礼しました」
姫川は大きな体を形ばかり折りたたんだ、その時だった。上の方からどたどたという足音とともに、複数の人間の怒声が響いてきた。
「上の店で何かあったのかな」
僕が呟くと、人間が転倒したような大きな音が響き渡った。
「あ、あいつらが来たんだ。ど、どうしよう……」
姫川の額にびっしりと汗の玉が浮いていた。が、物音はそれ以上、聞こえては来なかった。様子をうかがっていると、階段をゆっくりと降りてくる音がした。
「く、来る、来るううっ」
姫川は頭を抱えてうずくまった。やがて足音が止まり、ドアが開けられた。
「上の音、聞こえたかな?」
ドアを開け、顔を出したのは楽器店の店員だった。
「あ、あいつらが来ただろう。こっちに来たら見つかるじゃないか」
「ああ、来た。来たけど、偵察に現れた二人をのしたら帰っていったよ。ああいう、楽器を大切にしない連中に店を荒らされたらかなわないからな」
丸眼鏡の店員は、立腹をあらわにしていった。
「本当に……帰ったのか?」
「ああ、しばらくは来ないだろう。君の知り合いなのかい、あの連中は」
「いや、違う。あいつらは電子部品を集めて売りさばいてるごろつきさ」
姫川は目に恐怖を宿しつつ、吐き捨てるように言った。
「そうか。もし知りあいなら、楽器を壊された時に請求書を渡すところなんだが」
店員はどこか間延びした口調で言うと、上の階に戻っていった。
僕はふと思い出し、ポケットから黒い電子部品を取りだした。
「これ、落としませんでしたか?」
「ああっ、これ!……どうりで無いと思ってたら!」
「僕らとぶつかった時に、落としていったんですよ」
「そうだったのかあ。……いやあ、助かった」
姫川は僕からパーツを受け取ると、安堵したように目を細めた。
「……これって、PCのパーツですよね」
いきなり飛波が割って入り、姫川の目が警戒するように細められた。
「……素人は知らないほうがいい」
「もし、姫川さんPCに詳しいなら、こんな噂を聞いたことないですか?ホワイトフェスティバルの間だけ開くインターネットカフェがどこかにあるって」
飛波が問いを発した途端、店内に沈黙が満ちた。当然だろう。インターネットという言葉は、口にしただけで取り締まりの対象になりかねない要注意単語なのだ。
「どうしてそれを……」
姫川のあからさまな狼狽ぶりに、今度は飛波が目を丸くする番だった。
⑹
「こいつはね『アイドル』を思いのままに操るためのパーツなんだよ」
なんの前置きもなく聞いたら眉を潜められかねない文句を姫川竜彦は言った。
度の強そうな眼鏡にミリタリージャケット、肥満気味の体格という外見が、発言の異様さを一層濃くしていた。
「『アイドル』って言うのは『AI DOLL』と書くんだけど、人工知能によって制御されている人形やぬいぐるみのことなんだ。コンピューターが規制されているにもかかわらず、こいつらの需要は非常に高い。まず、自治体のイベントなんかに出演してる着ぐるみ。昔は中に入っている人間が動きから喋りからすべてを担っていたんだけど、今は人間はただ入っているだけか、もしくは無人なんだ。どれがアイドルで、どれがそうでないかは外見には判別しづらい。と言うか容易に判別されないように作られている」
姫川は辛さ七番の厚切りベーコンカレーを啜りながら、熱弁した。
「どうして人工知能が搭載されるようになったんですか?」
「まだコンピューターの研究が大っぴらに許されていた時代、高度な知能を有するロボットの研究が急速に進んだ時期があった。家庭や医療の現場に役立つ道具としてね。しかし、便利さが歓迎される一方で、人間に似たアンドロイドが生活に混じる事への忌避観も強くなっていった。そこで、高度な知能を持つぬいぐるみや人形の開発が進んだんだ。コンピューターの民間研究がある程度規制されて以降も、それらの技術は着ぐるみや重機に生かされた。そうやって我々の日常に紛れ込んできた「生きた着ぐるみ」がアイドルなのさ」
姫川は一気に語り終えると、おしぼりで滝のように流れ落ちる汗をぬぐった。
「それを操るっていうのは?コントローラーで遠隔操作をするってこと?」
「そう。人工知能から一時的に意思を奪って、外部から操作するための装置だ」
「意思を持ってるんですか?アイドルっていうのは。それじゃあまるで……」
ゼビオンだ、という言葉を僕はすんでのところで飲み下した。インターネットという言葉ですら危険なのに、ゼビオンなんて最も危険な単語を口にしたら、店から追い出されるかもしれない。
「人間みたいだっていうんだろう。実際、そういうことを言うやつもいる。何しろ最近、AIの原因不明の暴走が増えてるからね。あながち誇張した表現とも言いきれない」
「原因不明の暴走?」
「突然着ぐるみが暴れたり、重機がめちゃくちゃな動きを見せたりする事故が、この刹幌で相次いで起きているんだ。ニュースや新聞では、あまり大きく報じられないけどね」
「そうなんですか。……それで外から操作できる装置が必要なんですね」
「そう。……といっても、こいつは非公式のコントローラーだけどね。このパーツは外部からのマニュアル操作が非常に難しいと言われるM社のアイドルを動かすためのアンオフィシャルパーツなんだ」
「それをどうして外国人が狙ってたの?」
飛波が棚上げになっていた疑問を口にした。
「よくわからない。M社に近い人間たちかもしれないし、パーツを売りさばこうと狙っているギャングかもしれない」
「姫川さんは、どうしてそのパーツを手に入れようとしたんですか?」
飛波がたたみかけると姫川は「うっ」と言葉に詰まった。
「まあ……好奇心かな。難しいと言われるとやってみたくなるのがマニアなんだ」
得意げに言う事でもあるまい。半ばあきれながら僕は思った。
「姫川さん。あなたを悪い人じゃないと見込んで、相談があるんです」
飛波がいきなり身を乗り出して言った。至近距離から顔を覗き込まれ、姫川は「え?」と言ったきりその場に固まった。
「な、何かな?僕でよければ……いや、内容によるか。……君たち、中学生かい?」
「そうです。統郷から旅行中です」
僕が口を挟んだ。怪訝そうに眉を寄せている姫川を尻目に、僕らは顔を見合わせた。今までの体験をどこまで話すべきか、暗黙の確認をするためだった。飛波がこっくりと頷き、僕は意を決して切り出した。
「姫川さん。僕らはインターネットカフェを探すために、刹幌まで来たんです」
「ネットカフェを探しに来たあ?」
姫川は、椅子からとび上がらんばかりに驚いた。さすがにこの言葉は予想外だったのだろう。
「そうです。統郷ではPCやインターネットが厳しく制限されていますし、インターネットに関する大っぴらな商売は禁止されています。……だけど、この刹幌に、ひそかに営業しているインターネットカフェがあるらしいんです。聞いたこと、ありませんか?」
僕はここぞとばかりにたたみかけた。姫川は慎重な態度の中にも、何か言いたげな空気を見せた。
「やれやれ、まったく無謀な中学生もいたもんだな……で、もし本当にそういう店があったとして、行って何をしたいんだい?ただネットがやりたいだけかい?」
僕と飛波は顔を見合わせた。ここまで言ってしまったら、全て話すべきだろう。
「実は、統郷で色々と調べていたら、警察だか政府だかに睨まれて、つかまりそうになったんです。それでどうせならネットカフェがあるという刹幌に行って、一緒に戦う仲間を見つけようと思ったんです」
「なんだって、それじゃあ学校や親に内緒で来たのか。……ということは家出、いや、駆け落ちか……」
「違います、逃亡です。僕らはお尋ね者なんです」
僕は姫川に、今までの経緯を丁寧に、噛み砕いて聞かせた。
「なんてこった……それじゃあネットカフェを見つけられなかったらすべてが終わりなのか。うーん、境遇には同情するが、いくら僕がPCに明るいと言ったって、こんなでかい話にはつきあえないなあ」
姫川は腕組みをすると、険しい顔つきになった。僕は無理もないと思った。
「じゃあせめて、暗号を解くことに協力してもらえませんか?今の私たちには、カフェの存在だけが唯一の支えなんです」
飛波が僕に代わって、懇願した。姫川の表情がふっと和らぐのがわかった。
「暗号?どんな」
「暗号と言っても、ゲームに出てくる予言みたいな文章です。刹幌まで来られたのはいいけど、手詰まりになってしまって」
飛波は持ち歩いているバッグからノートを素早く取りだすと、暗号を書いてある頁をテーブルの上に広げて見せた。
「うっ……なんだこりゃ」
姫川は文面にさっと目を走らせると、うーんと唸って腕組みをした。
「三つ目の文なんですけど、わからないですよね、こんなの……」
僕が諦めを口にした時だった。
「いや」
姫川は、それまで天井に向けていた視線をテーブルに戻した。
「わかったかもしれない」
姫川はノートを手にすると、あらためて見返した。やがて鼻からふん、と息を一つ吐き出すと、ノートをテーブルに戻した。
「インターネットカフェとのつながりは不明だけど、文章の示す意味は分かったと思う」
「本当ですか?どんな意味です?」
「いいかい?『七から十へ 星を間に山の民と川の民を取り持つウロボロス』ってあるだろう。これがもし、刹幌の何かを表すものだとすれば、星は前の文から考えて北極星、イコール北開道庁だ。道庁を挟む山と川……広く考えれば、何種類かの組み合わせが考えられるが、あまり広い範囲だとわざわざ暗号にする意味がない。ここはごく狭い範囲と考えるべきだろう。そうすると山は摸岩もいわか真瑠山まるやま、川は創世川そうせいがわと考えていいだろう」
「取り持つ、というのは?」
「山の民、つまり摸岩か真瑠山のあたりに住んでいる人たちと、創世川のあたりに住んでいる人たちの生活圏をつなぐなにか、だ。東の人が西に行ったり、西の人が東に行ったりする時にはどうするか」
「バスか地下鉄……ですか」
「そうだね。でもこの文ではウロボロス、とあるからね。ウロボロスと言うのは口で自分の尾を咥えた蛇の事で、円環構造を意味する。刹幌の地下鉄は円環構造になっていないし、バスは山と川を繋ぐ円環構造というにはあまりにも路線の形が不定形すぎる。つまり……」
「市電だ!」僕は思わず叫んでいた。
「そうなるね。最初の二つの数字は、おそらく日付だろう。実際、今月の七日から十日の四日間だけ運行する、ホワイトフェスティバルの特別電車があるんだ」
「それに乗れって言う事ですか」
「おそらくね。ええと……」
姫川は自分のリュックから黒い板を取りだした。僕はあっと声を上げた。あれは禁止されている携帯端末——タブレットだ。
「風花かざばなメノ号、これだ。こんな感じの車体だよ」
そういうと姫川は僕らにタブレットの画面を見せた。画面上には可愛らしい女の子の絵が一面に描かれた市電のイラストがあった。
「今日は六日だから、あと一日あるな。その前に心強い味方を一人、引き入れておこう」
「味方?」
「元、伝説のエンジニアさ。ホワイトフェスティバルに行けば、会えるんじゃないかな」
⑺
奏絵のマンションは、王通りから西へ二キロほど行った真瑠山界隈にあった。
僕らは横になれれば充分だと思っていたけれど、奏絵さんは僕らにシャワーを使うよう勧めてくれ、正直とてもありがたかった。
「私の仕事部屋にマットレス敷いたから、明日人君はそこで寝てくれる?」
そう言って奏絵さんはリビングに隣接している部屋を見せてくれた。部屋を覗き込んだ途端、僕は自分の目を疑った。ギターやキーボードなどの楽器に混じって部屋の一角に、あきらかにコンピューターと思われる一式が据えられていたからだ。
「奏絵さん、あれって……」
「そう、パソコンよ」
「……いいんですか?あれ。管理人さんとかに何も言われないんですか?」
「うーん、正直、微妙ね。刹幌はデジタルに寛容な街だから、見つかったからと言って逮捕されるようなことはないけど、いろんな噂は立つでしょうね」
「いったい、どこで手に入れたんです?」
「うふふ、それは秘密。ここだけの話、音楽の世界ではどうしても使わないと成り立たないところがあるの。だから、こっそり持っている人は少なくないわ」
「じゃあ、インター……」
「インターネットをやっているか?こればっかりはいくら明日人君でも教えられないわ」
奏絵さんは、意味ありげに微笑んだ。刹幌は統郷と比べるとまるでデジタル天国だ。
「でも、仲間がいるんですよね」
「……そうね。近いところだと、『ハヌマーン』のオーナーかな。統郷にいたときの、私の上司よ。その人が企業のエンジニアを離職した時、私も引き抜かれたの。口説き文句は『私と北の大地にAIの逃避行をしないか』って。思いきり危険な匂いがしたけど、音楽を続けるのに、デジタルに寛容なこの街の存在は魅力だった」
「じゃあ、姫川さんとか、お店の常連はみんな……」
「よそではできない話をするために、うちの店に来るのかもね」
僕は急に味方が倍くらいになったように感じた。遠い最果ての地で飛波と二人きりで戦う覚悟をしていたのが、こんな形で仲間が増えるとは。
洗面所から聞こえる、飛波のドライヤーの音を聞きながら、僕は刹幌に来て初めて戦いの足場ができたような気がしていた。
※
僕がその音を耳にしたのは、尿意を催してマットから身を起こした時だった。
トイレに行くにはリビングを通る必要があったが、リビングのソファーでは奏絵さんが寝ている。僕は起こさないようそっとドアを開け、足音を忍ばせてリビングを抜けた。
トイレに通じる廊下に出た時だった。ふと、洗面所の方から灯りが漏れていることに気づいた。
——電気の消し忘れかな?
僕は洗面所に近づくと、ドアを細目に開けた。淡い照明の光とともに、呟くような声が耳に飛び込んできた。
「報告……経過は予定通り……はい。順調です。本人は気づいていません」
ドアの隙間から中をうかがった僕は、思わず息を呑んだ。飛波が椅子に腰かけ、日記調のような冊子を開いて、その内側に話しかけていたのだ。日記調に見えるそのページは、どうやら液晶画面のようだった。おそらく日記にカムフラージュした小型の端末だろう。
なぜ、飛波があんな物を持っている?いや、それは構わないが、あの報告のような行為はなんだ?飛波が端末を持っているなんて、一度も耳にしたことがない。
僕はそっとドアを閉じると、トイレに向かった。用を済ませてトイレから出てくると、すでに洗面所の灯りは消え、人の気配もなかった。リビングに足を踏み入れると、暗がりの中で人が立ち上がる気配があった。飛波だった。
「あ、起きてたの。トイレ?」
「うん。君も?」
「ちょっと眠れなくて、日記を書いてたの」
「日記……そう」
「びっくりさせちゃってごめんね」
「いや……眠れるといいね」
飛波の口調には、どこか芝居がかった響きがあった。僕は自分の寝室に戻り、再び横になった。マットレスの上に体を横たえても、もやもやとした疑問が胸に渦巻き、なかなか眠りに引き込まれなかった。
報告って、いったいなんだろう。
少しづつ仲間も増え、やっと孤独から解放されつつあるというのに、僕の中で新たな不安が膨らみつつあった。
⑻
ホワイトフェスティバルの初日は、平日ということもあって外国人旅行客が目についた。
僕らと姫川は地下街で待ち合わせをした。カラフルなセキセイインコが飛び交うガラス張りの檻の前で待っていると、ニット帽にリュックを背負った姫川が「やあやあ、お待たせ」と息を切らせて現れた。
「僕らが会う予定の真淵沢鉱三まぶちざわこうぞうって人は五丁目にある『ノスノテック』っていう会社の宣伝ブースにいるはずだ。毎年そこで甘酒を配ってるんで、僕らの間では通称『甘酒屋』って呼ばれてる」
「本職は何をしている人なんですか?」
「ノスノテックで雪を使った冷房の研究をしている人だよ。他にも低温科学、ナノテクなどを研究してるらしいけど、元々はロボットの技術者さ」
「その人が、どういう形で力を貸してくれるのかな」
飛波が、鋭い突っ込みを入れた。姫川は答えあぐね、一瞬、言葉に詰まった。
「ええと、要するに昔、ニューロコンピューターを組みこんだロボットを開発してて、真淵沢さんの開発した技術が『アイドル』の基本構造にかなりつかわれているんだよ」
「つまり刹幌で起きているAIがらみの事件にも詳しいんじゃないかってことね」
「そういうこと。さあ、行こう。寒いから、二丁目くらいまで地下を通っていかないか」
「だめ。せっかくのホワイトフェスティバルなんだから、一丁目から全部見ましょ」
飛波の強い口調に姫川はしぶしぶ、地上に通じる階段を示した。地上に出てからも姫川は「こんな氷細工、後からでも見られるだろう」などと不平を言って先に進もうとした。
「こんな綺麗なものに興味がないなんて。だからモテないんじゃない?」
痛いところをつかれたのか、姫川は飛波に向かって「うるさいな」と歯をむき出した。
さらに二区画ほど歩くと、メインの大雪像が姿を現した。今年公開の映画のキャラクターだろう。ビルほどの高さのキャラクターは古代の遺跡さながらで、眺めていると不思議な気分になった。
「おお、あのグループは去年、デビューした『メルティスマイル』だな。可愛いなあ」
突然、姫川が叫ぶとリュックから大きなカメラを取りだし、観光客に混じってシャッターを切り始めた。雪像の前に設けられた雪のステージ上で、足を大胆に露出した女の子たちが、歌いながら踊っていた。この寒い中、根性があるなあと思いながら眺めていると、突然、後方から魚と熊の形をした着ぐるみが現れ、一緒に踊りだした。
「おお、アイドルにアイドルか。後ろのみんなも、頑張れよ」
姫川の言葉を聞いて、僕ははっとした。そうか、あの着ぐるみが姫川の言っていた『アイドル』か。人間が入っているようだが、実はAIによって自分の考えで動いているのだ。
「よし、撮ったぞ。さあ、行こう」
「アイドルなんて、後からでも見られるでしょ」
にこにこしながら戻ってきた姫川に、飛波はさげすむようなまなざしを向けた。
大雪像を横目に次の会場に向かうと、ご当地メニューの屋台に混じって白いプレハブの建物が姿を現した。プレハブの壁面に『雪と低温を科学するノスノテック』とあり、白いウインドブレーカーに身を包んだ男女が、コップに入った飲料を配っていた。
「あそこだな」姫川が言った。
僕らは飲料を受け取る人々の列に並んだ。コップを配っている男女の中に、白髪交じりの年配の男性がいた。男性は姫川の姿を捉えると、にやりと笑った。
「姫川君か。今年も現れたな。あいにくだが、ここで動いとるアイドルに、私が直接設計した物はないぞ」
男性から湯気を上げているコップを受け取ると、姫川も不敵に笑った。
「いえ、今年はちょっと面白い話を持って来たんですよ、真淵沢さん」
「面白い話だと?」真淵沢と呼ばれた男性は、眉を動かした。
「ええ。お暇だったら、ちょっとお耳に入れようかなと思いまして」
「あいにく、暇ではないな。こうして甘酒を配らなければならないし、雪像の一部にわたしの考案したシステムが使われていてな。そのアドバイザーも兼ねて来ておるのだ」
「そうですか。それは残念だなあ」
姫川は甘酒を一口すすると、真淵沢の耳に何事か囁いた。
「なんだと。確かにその店の存在は聞いたことがあるが……しかし、まさか。……うむ、ちょっと待っていろ。少しだったら時間がなくもない」
そう言うと、真淵沢は近くにいた同僚らしい人物に何かを告げた。
「よし、ではそこの飲食ブースで話を聞こう。ただし十分だ。いいな」
「結構です」
僕らは連れ立って、簡単な椅子とテーブルが用意された一角に移動した。テーブルを確保した姫川は、椅子が足りないことに気づくと「ちょっと待って」とあたりを見回した。
「僕らは立ってもいいですよ………んっ?真淵沢さん、どうかしたんですか?」
僕は真淵沢が背後を見つめたまま、微動だにしなくなったことに気づいた。
「あの連中……」
真淵沢の示した方向を見遣ると、田貫小路で見た外国人が迫ってくる所だった。
姫川が青くなって、慌てふためき出した。パーツを取り戻すべく追ってきたのだろうか。
「逃げよう。奴らは何をするかわからない」
姫川は外国人たちと逆の方向を指さした。
「とんだとばっちりだな」
僕らは王通り公園を西に向かって駆け出した。あの連中から逃げおおせるには次の会場との境目からいったん、右か左の車道側に出て地下に入るしかないだろう。
「真淵沢さん、次の信号で左に曲がって下さい」
「やむを得んな。まったく、まだ仕事が残っているというのに」
先頭の姫川が息を切らせながら、信号の手前まで来た、その時だった。
「うわっ!」
信号待ちをしていた観光客の一群が、一斉に僕らの方を振り返った。外国人だけでなく、あきらかに仁本人と思われるカップルや親子連れ、学生も全員、僕らを凝視していた。
「経口タイプのナノボットを吸わされたな。みんな、操られてる!」
姫川が叫んだ。僕らはくるりと踵を返すと、反対方向に駆け出した。正面からは外国人たちが迫りつつあった。真淵沢が咄嗟に「こっちだ!」と叫んで右に曲がった。雪像を眺めたり写真を撮ったりしている人ごみの間を縫って、僕らは逆側の順路を目指した。
「きゃっ」
突然、飛波が声を上げた。見るとイカの形をした着ぐるみに、触手で腕を掴まれていた。
「まずい。会場内のアイドルは全部、敵のコントロール下だ!」
「ぐあっ」
今度は真淵沢がクマ型の着ぐるみに抱きすくめられていた。僕と姫川の方にもそれぞれ、魚型と鳥型の着ぐるみが迫ってきつつあった。
「姫川君、これを!」
真淵沢が着ぐるみに頭を齧られながら、黒い箱を放った。姫川は強く頷くと、手を伸ばして箱を受け取った。その動きに気を取られた一瞬、鳥型着ぐるみの羽根が僕を脱きすくめていた。目の前に大きな嘴が迫り、僕は思わず顔を捻じ曲げた。
「もう少し、みんなちょっと我慢してくれっ」
姫川は箱に、僕が拾ったパーツを接続した。姫川も魚型の着ぐるみに頭を二割ほど呑まれかけていた。
「ぐうううっ」
苦し気なうめき声に驚いて顔を向け、見えた光景に僕はぞっとした。真淵沢の頭部がすっぽりとクマの口に飲み込まれていた。いくらなんでも人を丸飲みにはしないだろう、熊。
「もう少しです、……ああっ、僕もやばいっ、食べないでえっ」
姫川が箱の上に指を滑らせながら、悲鳴を上げた。気が付くと、鳥の口から飛び出した赤いアームが僕の口をこじ開けようとしていた。開いた嘴の奥からは、銃口のようなものが覗いていた。あそこからナノボットとやらを打ちだすのだろうか。いやだ。
「やめてええっ」
飛波の絶叫がこだました。触手で体をがんじがらめにされた飛波が、イカ型着ぐるみの頭上に高々と掲げられようとしていた。
「よし、アクセスできた。今度はこっちが主導権を握る番だ!」
姫川が顔の上半分を魚に飲まれた状態で言った。続いてけたたましい電子音が鳴り響き、着ぐるみの動きが一斉に止まった。
「どうした……さあ、離せ、離すんだっ」
姫川の悲痛な叫びが響き渡った。どうにか動きは止まったものの、着ぐるみたちは以前、僕らを離す気配がない。このままではまたいつ、前の状態に戻らないとも限らない。焦りと恐怖で汗が腋の下を濡らした、その時だった。
どすん、という鈍い衝撃とともに、僕を捉えていた着ぐるみが横倒しになった。固い雪面に投げ出されて腰をしたたかに打ち、僕は悲鳴を上げた。
「いたたたた」
見ると飛波や姫川、真淵沢も同様に、背中や腰を抑えながら雪面に這いつくばっていた。
僕を拘束していた鳥型の着ぐるみは、会場のどこかから駆けつけてきた牛型の着ぐるみと、壮絶な取っ組み合いを繰り広げていた。
「いまのうちだ、逃げよう」
姫川の声に僕らは、弾かれたように一斉に駆け出した。その後ろを、どうやらコントロールしきれなかったらしい敵の集団が、再び追いかけてきた。
「やむを得ない、特殊なルートで脱出しよう。あの大雪像の後ろ側に回るんだ」
真淵沢の一言で、僕らは外国の領事館をモチーフにしたらしい雪像の裏側に回りこんだ。雪像の背面は表側とは違い、ただの白い雪の壁だった。真淵沢は姫川から黒い箱を受け取ると、表面を指でなぞり始めた。
「この雪像は、中に入れるようになっておる。それ」
真淵沢がそう言って指を動かすと、ピッと言う音がして、壁面の一角に亀裂が生じた。見ているとそこを中心に縦横に亀裂が広がり、やがて扉のように左右に大きく開いた。
「行くぞ」
真淵沢にうながされるまま、僕らは真っ暗な雪像の内側へと入っていった。
雪像の内部にはシャフトのような立坑が穿たれており、その内側にやはり雪でできたらせん階段が上に向かって伸びていた。
「二階に行くんだ」
僕らはらせん階段を一列になって上った。上り切ったところに、外界に通じる穴があり、外光が漏れていた。真淵沢の後に続いて外に出た僕らは、思わず息を呑んだ。
「ここは……」
僕らが出た場所は、雪でできた半円形のバルコニーだった。下を覗くと、まだ敵のコントロール下にあると思われる群衆が僕らを指さし、口々に何か叫んでいるのが目に入った。
「真淵沢さん、二階に出たのはいいですけど、ここから一体、どうやって逃げるんですか」
姫川が尋ねると、真淵沢は短く唸って遠くを見た。
「心配はいらん、助けはもう呼んである」
真淵沢が言うや否や、どこからか地響きのような音が聞こえてきた。続いてモーターの駆動音が聞こえ、頭上に象の鼻のような赤いクレーンが現れた。
「あれがここまで降りて来たら、つかまるんだ」
真淵沢が言うと同時に、クレーンのアームがゆっくりと降りて来て、僕らの目の高さで止まった。真淵沢はアームに抱き着くと「一分くらいの間、全力でしがみつけ」と言った。
僕らはしり込みしつつ、アームにつかまった。全員がしがみつくと、アームはゆっくりと上がり始めた。全員の足がバルコニーの床を離れた時、二階の出口から群衆がわらわらとバルコニーに溢れ出てくるのが見えた。
「いいぞ、そのまま公園の外に出すんだ」
やった、成功だ、そう思った瞬間「わっ」という姫川の叫び声が聞こえた。見ると姫川の片足に、イカ型アイドルの触手が絡みついていた。
「やっ、やめろっ、離せっ」
姫川はアームにしがみついたまま、じたばたともがいた。アームは上がり続け、やがてイカ型アイドルもろとも空中に持ち上げた。
「やばい、落ちそう」
姫川が絞り出すような悲鳴を上げた。真淵沢が「ふん、軟弱めが」とくわえていた煙草を吐き出した。煙草は空中で閃光を放って爆発し、姫川を捕まえていた触手が緩んだ。
クレーンを積んだ重機は、車道に停まっているトラックの荷台に固定されており、僕らはそのまま百八十度回転して車道を飛び越え、公園の南側の歩道にゆっくりと下された。
「よし、助かった。とりあえず地下に逃げよう」
真淵沢はそう言うと、銀行の玄関から地下に向かって延びる入り口を指さした。
「……畜生、アイドルなんてもう一生、信じないからなっ」
姫川は公園の方を振り返ると、額にびっしりと浮かんだ汗を拭いながら叫んだ。
⑼
「そうか、電車に乗って行くのか。なるほど、面白い」
姫川から暗号とインターネットカフェの話を聞き終えた真淵沢は、ふむふむと頷いた。
「取りあえず明日の始発に乗ることにしたんですが、真淵沢さんも行かれますよね?」
「うむ、そういう話なら行かざるを得まい。会社の方は有給消化で何とかしよう」
真淵沢は姫川の話に前のめりになっているようだった。僕は王通りでの一件以来、気になっていたことを切り出した。
「でも、僕らの足取りが読まれてるっていうの、気になりますよね。今、ここでこうしていることも掴まれてるのかなって思うし」
僕は入り口の方に目をやりながら、エビ天入りのスープカレーを啜った。
「うちは心配いりませんよ。特にこの二丁目は怪しい人たちに対する警戒が強いですから」
水のお代わりを運んできた青年が言った。針金のようにひょろ長い体つきをしたウェイターで、椿山剛太つばきやまごうたという名前だと、姫川が紹介した。どうやら二人は幼馴染らしかった。
「いいなあ、竜彦は面白そうなところに行けて」
「馬鹿、面白いで済むようなところじゃない。危うく着ぐるみに食べられかけたんだぞ」
姫川は、鼻息を荒くして言い返した。
「ねえ椿山さん、この厚切りベーコン、トッピングでもう一枚、貰えないかなあ」
突然、飛波が言った。逃げてばかりの一日で、尋常じゃない空腹状態のようだ。
「それ、結構、カロリーあるんです。一枚で十分だと思いますよ」
「えー、二枚食べたい。一枚じゃ足りないよ」
「一枚で十分ですって」
草しか食べないような体格の椿山に言われたのが不満だったのか、飛波は「じゃあ、いい」とふて腐れたように言うと「お得なセットメニュー」というポップを指さした。
「ミニカレーうどんも頂戴」
そういうと、飛波はぷい、とそっぽを向いた。……やれやれ、女子って奴はどうしてうどんが好きなんだろう?
編集




