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甘施無花果の探偵遊戯  作者: 凛野冥
桜野美海子の逆襲・探偵学校編
75/76

22、23「All We Love We Leave Behind」

    22


「表彰状――ああ、いや、卒業証書もあるんだよぉ」

 桜野は傍らに置かれたテーブルの引き出しを探る。〈卒業証書〉を二枚引っ張り出して、僕らに差し出す。

「はい、どうぞ」

 無花果は受け取らない。僕も受け取らない。

 桜野は肩をすくめると、特に残念そうにもせず、〈卒業証書〉を床に捨てる。

「ところで、どうだったかな。楽しんでもらえた?」

「いいえ、まったく。貴様も楽しくなんてなかったでしょう」

「何を云うんだい。私は楽しかったよ。此処は私の理想郷みたいなものなんだからさ」

「嘘ですね。貴様にとってはこの箱庭も――この事件も、さして興味がなかったはずです」

「いい加減なことを断定しないでよ、甘施さん。他でもない、私自身が起こした事件なんだよ?」

「では、貴様は何がしたかったのですか? この事件の目的を、結果として得たものを、述べられますか?」

 桜野は口を開きかけたが――しかし閉じて、唇を撫でる。

「貴様には目的がない。〈真実〉を獲得しようと行動した白生塔事件と違って、この事件には貴様にとっても誰にとっても、何の意味もありませんでした。すべて、謎解きのための謎解き。相変わらず〈真実への到達〉だなんてそれらしいテーマを強調してはいましたが、それも単に謎解きゲーム内で〈貴様の居場所〉を指す言葉でしかありませんでしたね」

「良い批評だ。ありがとう、次回作の参考にするよぉ」

「貴様は作家ではありません。かつて探偵でありましたが、白生塔事件以降は、ただの幼稚な犯罪者に成り下がりました。信念なき、平凡な犯罪者です。ただ能力を持て余しているだけ。この〈探偵学校〉〈探偵病院〉にしても、貴様はまったく本気で取り組んでなどいません。メタレベルの混同という趣向だって、あまりに中途半端で、確かな主題に昇華しきれてはいませんでした。上辺だけの批判性。消化不良。しかし貴様なら、本来の貴様の能力なら、少なくとも貴様の尺度で以て満足のいく〈作品〉に仕上げることが、充分に可能だったはずです」

「へぇ、私を高く買ってくれてるみたいだね。でもさぁ、そう文句ばかり並べないでくれよ。貴女が云ったとおりだ、私は作家じゃない。読むのと書くのじゃ全然違うんだ。改めて、私の敬愛する推理作家たちの偉大さを知れたなぁ」

「貴様は端から、つくり込むつもりがなかったのです。ただ適当に、かたちだけ取り繕おうと、思い付きを並べただけ。情熱の欠如。なぜなら貴様自らもここに、何の意味も見出していなかったからです」

「ねぇ、私の話聞いてる? 何の意味もないと思っていたら、そもそもやらないよ。楽しそうだなぁ、面白そうだなぁ、こんなことできたらいいなぁと思ったから、やったんだ。でも私の力が及ばなかっただけ――まぁ私はある程度は満足してるし、さっきから貴女が貶してるほど不出来だったとは思わないけどね」

 いつだってマイペースだった桜野だが、今、少しだけ、ムキになっているような姿勢が窺えた。その証拠に、いつもならここで止めるところを、彼女はさらに言葉を続けた。

「それにさ、時間が足りなかったんだよ。そのせいで多少、突貫工事になってしまったのは認めよう」

「そこです――」

 無花果はすかさず攻めた。

「――なぜ、貴様は急いだのですか?」

「それはほら、時間が掛かるほど、摘発されるリスクが増すからさ。これでも当初の予定より大幅に遅れてしまっていたんだよ。これ以上は旨くないと思っ――」

「違いますね。貴様が計画を前倒しした本当の理由は、私と壮太が結婚したからです」

 これには、僕も、驚いた。

 どうして、ここでそんな話が出てくるんだ?

「ふふっ。ふふふ……」

 桜野は堪らなそうに、笑い声を洩らす。そして僕が抱いたのと同じ疑問を口にする。

「貴女達の結婚? どうして、ここでそんな話が出てくるのかなぁ?」

「誤魔化しは利きません。気付いているのでしょう? 私は貴様の、桜野美海子の真実を暴こうとしているのです。謎解きゲームなどではない。これは犯人たる貴様と、探偵たる私の一騎打ち。真面目にやった方がいいですよ」

「だからさぁ! どうしてそれで貴女達の結婚なんてどうでもいいことが――」

「どうでもいいはずないでしょう! 壮太に恋をしていた貴様にとって、その壮太が別の女と結ばれたのですから、邪魔したくなるのは当たり前のことです!」

 一瞬――桜野は言葉に詰まる。僕もまた、驚きと共に二人を交互に見る。

「――何だいそれ! ふふっ――私が塚場くんに恋してた? びっくりするなぁ、意外だよ甘施さん。私はさぁ、何でもかんでもくだらない色恋に結び付けて理由を説明するようなミステリが昔から大の苦手なん――」

「現実は推理小説ではありません! だから貴様も――いつまで経っても自覚できないでいたのです。幼少のころより推理小説の思考法に染まってしまって現実を直視できなかった愚かな貴様は、自分の恋心をそうと認めることができなかった――しかし感情とはそもそも言語化できないものであり、言語化する必要もないものであり、理屈で紐解けないものであり、理屈で紐解く必要もないものであり――ゆえに、貴様は自分でも自分が何をしているのか、何をしたいのか分からないまま、目的を見失ったまま、ひたすら回りくどく、それでいて愚直なまでに、まるで自分に素直になれない、恥ずかしがりの子供みたいに――私と壮太の恋路にちょっかいをかけ続けていたのです!」

「あっははははは!」

 桜野は、安楽椅子の上で、腹を抱えて笑い始めた。

「ははっ、あははははっ、け、傑作だなぁ――面白いねぇ甘施さん! あはは、今までで一番面白いよ――ははははっ――そうか、私は恋をしていたのか――塚場くんに? あははははははっ――自分の旦那さんに随分と自信があるんだね? あはっ、そんな奴どうでもいいよぉ私には! ただ私が探偵になるにあたって、やっぱり探偵にはワトスンのような助手がいなくちゃあと思って適当に見繕っただけの奴だよ! だから白生塔で捨てたんだ――要らないからねぇ――私は探偵を、少なくとも日の当たる場所ではもう、続けられないと分かっていたから――だから塚場くんは用済みだったんだぁ。それだけだよ、それっきりだよ。もぉ、笑っちゃうなぁ。やっぱり腐れ縁と云うのか、まだこうしておかしなかたちで付き合いが続いてもいるけどさぁ、私にはそんな奴に思い入れとか未練とかあるわけがないんだ。全然これっぽちもね」

 桜野の笑いが、段々と、無理をしているようなそれへ変わっていく。そのことに、自分では気付いていない――いや、認めていない。その目の奥には混乱がある。しかし僕もまた、彼女ほどではないけれど、当惑している。

 無花果だけだ。落ち着いているのは。彼女は、珍しく、見下げるのではなく、哀れむように桜野を見詰めている。

「腐れ縁だなんて、白々しい。毎度毎度、明らかに貴様から、干渉してきたではありませんか。雅嵩村でのことも、聖プシュケ教会でのことも、そして今回のこれも。『互いに干渉はしない、もう会うこともない』――あの白生塔で交わした約束を破って。知っていますよ、それ以前にも、貴様がこっそり壮太に接触していたこと。貴様が元〈桜生の会〉の連中を率いるに至った経緯を推察すれば、分かることですからね。貴様は、自分のいないところで私と壮太がよろしくやっているのが我慢できなかったのです。だから壮太に再会した――しかし再び離れた――それからは邪魔をするようになった。嫉妬心、構ってもらいたいという気持ち、プライド。それらが複雑に絡み合い、行動は支離滅裂になる。これが貴様の真実です」

「ああ、心外だなぁ。あはは……お願いだよぉ、私をそんなくだらない人間にしないでくれるかな? 私は俗世間のことには関心がないんだよ。私が心惹かれるのはさ、心躍るのはさ、大好きなミステリに関することだけなんだ。甘施さん、貴女は信じ難いくらい丸くなったねぇ。人間としての幸せってやつに目覚めたわけだ? あはっ――軽蔑するよ」

「私が社会によって規定された形式上の幸福に迎合する盲目的な愚者に見えますか? であるならば、それが推理小説の世界に閉じこもり現実の直視を避けてきた貴様の限界です」

「話にならないね。これ以上は水掛け論だよ。貴女は常に自分が勝たないと気が済まない性格みたいだけど、私はそう頑なでもない。終わりにしよう。安心して。此処に辿り着いた時点で充分に、貴女の勝ちなんだからさ」

「本当にそれでいいのですか? 何ひとつ解決していないままで。それこそ、終わりなき水の掛け合いが続きますよ。それとも諦めると誓えるのですか? もう二度と壮太の前に、私達の前に現れないと。私達にちょっかいを掛けないと」

「しつこいなぁ。つくづく女ってやつは面倒臭いよぉ」

 桜野は背中に隠していた拳銃を手に取って、銃口を無花果に向けた。

 それを見とめた僕も、学生鞄の中から、前に湯夏から回収していた拳銃を取り出して、銃口を桜野に向けた。

「撃つな、桜野。無花果を撃てば、僕がお前を撃つ」

「…………はは、」

 桜野の笑顔が、歪む。

「撃てるの、塚場くん。この私をさ」

「どうして撃てないと思うんだ?」

「………………は、はは、」

 先ほどから溢れかかっていた涙が、とうとう一筋、桜野の右頬を伝った。

「か……悲しいことを云わないでくれよ、塚場くん。まったく躊躇する気持ちがないのかい? 幼馴染の私を殺すことに」

「本当の幼馴染じゃないだろ、お前は」

「うわぁ、酷いことを云うじゃないか……でも、そうだね、私は君の幼馴染なんかじゃないよ。ふふ。ずっと嘘ついてたんだ。怒ってるのかな、そのことで」

「別に怒ってはないよ。騙されたとも思ってない。途中で、そうだろうと気付いてたしな」

「へぇ、そうだったんだぁ。それ負け惜しみじゃなくて? ふふふ。そうだね、君が私を撃てるのも、なら当然か。私は君の人生を、私が思うままに、滅茶苦茶にしたんだからさ」

「桜野、お前にはやっぱり、悪役ぶるのは似合わないよ。ちょっと無理がある。様になってない」

「あは、何だいそれ。悪役ぶってるつもりもないし私は私だけど――私を理解してる気になってるのなら、やめてほしいなぁ塚場くん。君が私に本性を隠してたように、私も君に本性を隠してたんだよ。私と君は〈名探偵・桜野美海子〉を創るための共犯者に過ぎなかったんだ」

「そうなのかな。その割には、僕はいまのお前にも大した違和感はない。ただ、無花果が云ったように、白生塔事件以降のお前は空回りし続けてるように見える。それはたしかに、僕と別れて以降という意味だ」

「やっ、やめてくれないかな。君まで――ははっ――みっともない自意識過剰だ。私がよく君に好きだとか大好きだとか云っていたから、勘違いさせてしまったかい? あんなのでまかせだし、本気で受け取られては困るよ。私は〈名探偵・桜野美海子〉を演じていただけなんだって」

「じゃあいまは、何を演じてるんだ? 本心で話してくれないか、桜野。〈真実〉なんて限定できないものだけど、それでも個々人の中には、確かにそれがある――らしい。お前はそれを見つけられてないんじゃないか? なのに自分の外側に唯一絶対の〈真実〉を求めようとし続けて、道に迷った。自分の中に閉じこもっていたのに、その自分から逃げ続けていたのなら、それはわけが分からなくなって当然だ」

「もぉっ――何なんだよぉ! どいつもこいつも私に分からない言葉で喋って――勘弁してよっ――だから嫌いなんだよぉ!」

 桜野の両目から、涙が次から次へと溢れ始める。

 僕は桜野が泣くのを、たぶん、初めて見ている。

 桜野は何を思ったのか――自分でも分かっていないに違いないが――銃口を僕の方へ向けた。

「嫌いだよ塚場くん。大嫌いだよ。ずっと君を殺したかったんだ」

 桜野と僕が、互いに銃口を向け合っている格好。睨み合い――とは少し違うだろう。桜野は睨むというより怯えているかのようだし、僕は桜野を睨もうとは思えない。

 どちらの引き金も、引かれない。

「羨ましいですよ、桜野美海子」と、無花果が云った。

 桜野は涙が流れるに任せている目を、無花果に向ける。

「羨ましい?」

「はい。やはり貴様と壮太の間には、特別な絆があるようです。壮太が貴様に語り掛ける様子には、壮太が私に語り掛けるときとは別種の親しみがあります。それは貴様が壮太に語り掛ける様子にしても同じです。今、貴様と壮太が話している間、私はまったく蚊帳の外に置かれている気分でした。壮太は私の味方をしているのではなく、純粋に、塚場壮太として桜野美海子に、尊重の意志を持って相対しているようでした」

「ふふ……ふふふ……こんなふうに銃を向け合っている私達に絆とは、可笑しなことを――」

「しかし二人とも、撃っていません。おそらく貴様は、壮太を撃てませんよ。壮太もまた、貴様を撃つことはできないんじゃないでしょうか」

「……………………」

 そうなのだろうか。僕は桜野を、撃てないのだろうか。

 撃とうと思えば、撃てるんじゃないだろうか。

 だが今のところまだ、撃とうと思ってはいない。

 これは、撃とうと思うことが、できないのか?

「壮太、これは貴様の仕事です――」

 無花果は僕の方へ向き直った。

「――私か桜野美海子の、どちらかを選びなさい。貴様がこれからついて行く方を、貴様が自分で選びなさい」

「…………ああ」

 そういう、ことか。

 無花果か、桜野か。

 選ぶのは、決めるのは、僕。

 中心にいるのは僕。

「意味がないよ、甘施さん」

 そう云う桜野の声には、自嘲の響き。

「塚場くんは貴女を選ぶ。なぜならいま、塚場くんは貴女の語り部だからだ。私――〈名探偵・桜野美海子〉は白生塔で終わった。塚場くんにとってはそのときに語っている探偵こそが絶対。そういうふうに、私が教育したんだからね」

 はははははっ、と破滅的に笑う桜野。

「そうなんだよ。塚場壮太は探偵の語り部。それだけが存在意義であり、行動の指針だ。私という語る対象を失っていたから、彼は新たな探偵――甘施無花果からの誘いを受けた。それだけのことなんだよ。彼は探偵の従僕なんだ。そうやってしか生きられないんだ。貴女と結婚したのだって、それが〈探偵・甘施無花果〉の要求だったからに過ぎない。貴女は塚場くんを愛しちゃってて、塚場くんからも愛されてるとか思っちゃってるみたいだけどさぁ、ここで彼が貴女を選ぶのは、全部私がそう定めた〈語り部・塚場壮太〉のルールに従ってのことでしかないんだよ。塚場くんは空っぽなんだ」

「いえ、違います。私は探偵を辞めます。壮太が私を選ぶなら、それは〈語り部・塚場壮太〉を諦めることになります」

 桜野は絶句した。僕も――驚きを禁じ得なかった。

「本気か、無花果」

「本気です。ここが〈名探偵・甘施無花果の最期〉です。壮太があくまで探偵の語り部でありたいのなら、私を選んではいけません」

 そうか。はじめから、そのつもりだったのか。

 探偵・甘施無花果はここで死ぬ。

 僕に選ばれても、選ばれなくても。

 桜野に勝っても、負けても。

「いや…………勝ち負けじゃ、ないな」

 僕に選ばれれば勝ちというわけでも、僕に選ばれなければ負けというわけでもない。

 その逆ということだってあり得る。

 何が正解かなんて分からないし、ひょっとすると正解なんてないのだから。

「でも、それでも、選ばなくちゃいけないな。僕は」

 思えば、僕は自分で選んだことがなかった。

 記憶を失くした僕に何かを選ぶことなどできるはずもなく、はじめは僕を選んだ桜野に従った。

 桜野と別れた後には無花果に選ばれ、さっき桜野が云ったように、僕は探偵の語り部としてしか生きるすべを知らないから、それを受け入れた。

 しかし今、初めて、僕は自分で選ばなければならない。

 いつも探偵を語るばかりで、自分を語ることはしなかった――自分を見ることはしなかった、この僕が。

 初めて、自分の気持ちを。

「僕は――――」

「私を選んでよ、塚場くんっ!」

 桜野が、拳銃を投げ捨て、立ち上がっていた。お祈りするみたいに両手を合わせて、泣きじゃくりながら、彼女もまた初めて、おそらく本心を叫んだ。

「私は塚場くんが好きっ! 塚場くんがいなくなって、初めて気付いたんだ! 馬鹿だったよ私は――大馬鹿だったよぉ――私が君にしたこと、ぜんぶ謝る――謝るからっ――どうか私を選んでぇ! もう一度、私の傍に来てよぉ! そうしてくれないと、私はもう駄目なんだよ、駄目なのぉ、苦しくて苦しくて死んじゃいそうだよぉ――嫌だよぉ――捨てないで、私を捨てないで塚場くんっ――私が、私がどんな気持ちでいたと思うのぉ? いつも私だけを見てくれてた塚場くんが、私のいない場所で、甘施さんと一緒になって、二人はどんどん親密になって、私はおいて行かれるみたいで、君に捨てられたみたいで――ううん、分かってるよ、分かってるぅ、私が君を捨ててしまったんだっ――馬鹿だったんだよぉ、赦してよぉ――ほんとにほんとに、君のことが好きなんだ、必要なんだよ、私には――君が――塚場くんが――ね、ねぇだからっ、選んでよ塚場くん――私をっ、私を助けて、私を救ってよ――お願い、お願いだよぉっ! もう一度、今度はちゃんと、二人で一緒に生きようよぉ!」

 僕は、次に無花果へ目を向ける。

 彼女は僕を真っすぐ見詰めている。

 選ばれる自信がある――という様子ではない。いつだって気高く、完全無欠として振舞っていた無花果が、今はただ僕がどう決断するのか、期待と不安が入り混じった複雑な表情で、やもすると零れてしまいそうになる涙を堪えるようにしながら、じっと待っている。

 僕がこのところ頻繁に、無花果に対して覚えていた違和感。その正体はこれだったのだ。探偵・甘施無花果ではない。甘施無花果という名の、ひとりの女性。

「私を選んでください、壮太」

 少しだけ震える声で、無花果は静かに、しかしこれ以上ない信念を籠めて訴える。

「愛しています、壮太。この私が恋をするなんて、昔は想像もしていませんでした。そんなものはくだらない、恥ずべきことですらあると、知らないうちから決めていたものでした。その私が、貴方と過ごすうちに、愛を知りました。壮太を愛し、壮太に愛されたいと想うようになりました。なんと幸福な時間だったでしょうか。そして、この幸福を、これからも紡いでいきたいのです。貴方と二人で、生きていきたいのです」

 僕は、

 もう一度桜野を見て、

 無花果を見て、

 そして。


「無花果――僕もお前と、生きていきたい」


 選んだ。

 悩む気持ちはなかった。

 そうしたいと思ったのだ。

 それは単純で、純粋で、間違いなく、塚場壮太の真実だった。


 無花果は脱力したのか、倒れるように僕に抱き着いた。

 それから僕の腕の中で、喜びの涙と共に、噛み締めるように、

「はい。よろしくお願いします」と深く頷いた。


 桜野は、何の言葉を発することもできずに、安楽椅子へ崩れ落ちていた。

 悲しみの涙を流し、目は虚空を眺めていた。まるで屍のようだった。


    23


 もう此処ですべきことはない。真実の結末は、終わった。

 無花果と僕は桜野に背中を向ける。

 すると、新たに梯子を下りてくる者がいた。

「どうも~~。大事なお話は終わりましたようで。あとは僕らが引き継ぐっすよ~~」

 血だらけの学ランを着て、軽薄に笑う誠くんだ。続いて、やはり血だらけのセーラー服を着た樽木さんも下りてくる。

「見つけたぞ、桜野美海子。あたしの復讐を果たさせてもらう」

「いやぁ、漁夫の利と云いますか、久井世池の洞窟から戻ってきた甘施さんと塚場さんを尾行して正解でし――おっと桜野さん、分かりますよそれ、腕輪の毒を注射させるリモコンっすね? でも残念でーしたー」

 誠くんと樽木さんは揃って右手を振る。どちらの右手も、親指が付け根から切断され、傷口は焼かれて止血されていた。もちろん、あの腕輪は外されている。

「僕はね、桜野さんを助けてあげようと思うんすよ~。やっぱり復讐とか人殺しとか良くないでしょ~? でも桜野さん、これから全国指名手配犯になっちゃうわけですし、その素敵な顔はもう捨てないといけませんよね~。ちょっと痛いかも知れませんけど、僕が鋏と糸でつくり変えてあげますね~」

「あたしはお前を殺すぞ。あたしの娘達は生きたまま身体を切断された。お前には最低限、それ以上の痛みと苦しみを与えないといけない」

 誠くんと樽木さんは、肩に掛けていたスポーツバッグの中をガチャガチャと漁る。凶器と云われて思い浮かべられるもののほとんどすべてを集めてきたようだ。そうしながら、無花果と僕の横を通り過ぎ、桜野へ近づいて行く。

「は、はは、嘘だよね君達、」

 ガタガタと震える桜野の声。

「そ、そんな酷いこと――」

「貴女のためなんすよ~。ほら、僕が貴女の身体を、誰もが目を背けてしまうくらい悲惨な姿に改造すれば、貴女の逃亡が楽になるかも知れないじゃありませんか~。なにせ誰も貴女を直視できないわけっすから~」

「お前がやってきたことのすべてをその身体に返そうとしても、お前の命はお終いまでもたないだろう。それが残念でならないよ。でもできる限り、あたしも頑張るつもりだ。少なくとも百回は生きたまま死んでもらおう」

「や、やだやだ、痛いのは嫌だよ――死ぬのも嫌だ、お願い、赦して、赦してよ、ごめんなさい――な、何でもするからさ、何でも――」

「は~い、何でもしてもらうつもりっすよ~」

「もう、もう本当に誰にも迷惑、かけないから――表舞台には一生、出てこないから――私はひとりでミステリさえ読めれば、本当に、それだけでいいんだから――」

「今更、赦されるわけがないだろ。甘えるな」

「やだーーーーっ! たっ、助けて塚場くん、塚場く――――」

 無花果も僕も地上に出て上蓋を閉じたので、あとの声は聞こえなかった。

 ごめんな、桜野。僕はお前を選ばなかったし、助けないし、救わないんだ。


「行きましょう、壮太」

「ああ、行こう」


 どこかで、鳥が啼いている。

 心地良い風が吹く、静かな、山の夜だ。

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