7、8「不可能と悪魔」
7
二階に空いている客室が二つあって、その片方。
窓から月明かりが差し込むだけ。
アームチェアに腰掛けた無花果と、犬のように床で四つん這いになっている僕。
小さく、淫靡な音が響く。
僕はみっともなく、無花果の素足を舌で舐め回していた。
彼女が歓ぶように、なるたけ汚らしくべろべろと。
悲しいことに僕にとっては日常と化した奉仕なのでそれ自体に抵抗はないけれど、こんな状況でもやるのかよとは思う。
無花果はこうされないと頭が冴えないとか、落ち着かないとか、別にそんなことはない。こんな状況だからこそ興奮するとか、そういった変態性癖はあるかも知れないけれど、正直、馬鹿じゃないのかと呆れる。
頭上から、燐寸を擦る音。煙草を吸い始めたらしい。
「夕食の際、幕羅ユイにこっそり媚薬を服用させました」
「は?」
思わず顔を上げてしまい、睨まれてまた奉仕に戻る。指を執拗にしゃぶっていると、彼女は話を再開した。
「いまの彼女はベッドの上でひとり悶えていることでしょう。壮太、貴様はこれから彼女を抱きなさい。彼女は望んで受け入れます」
あまりにも滅茶苦茶な命令に僕は無花果の正気を疑わざるを得なかったが、指と指の間まで懸命に唾液で濡らす。
「そうして肉体関係を持った後で、彼女の抱える幕羅家の秘密、確執をすべて聞き出すのです。身体も頭も蕩けた彼女に、もはや警戒心はありません。簡単な仕事です」
それが目的かなるほどもう時間も限られていることだし他に手はないな、なんて僕が納得するとでも考えているのだろうか。そう疑問に思いつつも、次は足の裏に舌を這わせる。
「また、性交によって彼女が処女かどうかも確かめておくように。貴様が今回の依頼は殺された幕羅峯斎のためでもあるんだろうと問い掛けた際、彼女は曖昧な反応をしました。幕羅峯斎が自分を溺愛していたと話したときにも同様の表情が観察されました。彼女はこの邸宅で、日常的に性的虐待を受けていた可能性があります」
その点は僕も気になっていた。ご老体の隠居生活に十五歳の孫娘と二人暮らしというのは、どう考えても怪しすぎる。さらに夕食の席で気が付いた、彼女が純粋な血族とは違うんじゃないかという疑い……。暗澹たる気分になりながら、足首のあたりも万遍なく舐める。
「遠慮することはないでしょう。幕羅ユイが貴様に好意を抱いているのは明らかです。先刻も貴様に守ると云われ、顔を真っ赤にしてもじもじしていました。幕羅家の中で傷付いた彼女の心を、貴様が癒してやれるかも知れませんよ」
急にぞんざいな口調になる無花果。そんな殊勝なこと、まったく考えてないに決まっている。酷い奴だ、と内心で毒づくと共に舐め残しはないだろうかと舌を引き返させる。
「それに貴様からしても、幕羅ユイは好みのタイプでしょう。ああいう薄幸そうな女に目がありませんからね、貴様は。ただし――」
そこで無花果は、足を僕の喉の奥まで突っ込んできた。口が塞がれ、息ができなくなる。
「他は何をやっても構いませんが、あの女の足を舐めることだけは許しません。貴様が舐めていいのは私の足だけです」
そう云ってそのまま脚をぐいと上げたので、僕は膝立ちの状態となった。彼女は間近まで顔を近づけて、煙草の煙を吹きかけてくる。
「分かりましたね?」
二人だけのときにしか見せない最高に嗜虐的な笑み。僕は瞬きで応えた。
……もっとも、名誉のために云っておきたいのだが、無花果が足を舐めさせるのを趣味としているだけで、僕に足を舐める趣味はない。本当に。
単身、ユイちゃんの部屋へ向かう僕。無花果は先ほどの部屋で、僕が成果を上げて戻ってくるのを待っているつもりらしい。
云うまでもないけれど、僕にユイちゃんを手籠めにしてしまおうという意思は微塵もない。そもそも無花果が彼女に媚薬を盛ったというのも嘘に違いないのだ。無花果は人々の心理的死角を突くマジシャンみたいな技を得意としているが、あの夕食の席ではその機会はなかったはずだ。僕に恥をかかせたくてあんなでまかせを喋ったのである。そうはいくか。
しかし、幕羅家に渦巻いている思惑について核心的な部分を聞き出さなければならないのは本当だろう。依頼人とはいえ、ユイちゃんはそれを話すのを躊躇っている。ここは僕が培ってきた交渉技術の見せどころだ。
ユイちゃんの部屋の扉をノック。しばらく待ったが、反応は返ってこない。まさか眠ってしまったのだろうか。
「僕だ。這入るよ、ユイちゃん」
この邸宅で錠のかかる部屋は、峯斎さんのコレクションが保管されている部屋だけである。ドアノブを下げ、扉を開く。
ユイちゃんの姿は見当たらなかった。その代わり、ハートフルでファンシーな部屋の中でひとつだけ不釣合いな壺がひとつ、中央に置かれていた。
幕羅家に代々伝わるという、あの壺だ。
どうして此処に……?
嫌な予感を覚えつつ、壺に近寄る。円形の木の蓋で閉ざされた壺。その蓋を取って、中を覗き込む。
そこには胸にナイフを刺されたユイちゃんの死体が、ぴったりと収められていた。
8
死体を直視して嘔吐してしまった僕は服を着替えて掃除し、それから事を伝えて回った。誓慈さん、維子さん、ケイくんはリビングルーム、釧路さんは隣のキッチンにいた。無花果も含め、全員がユイちゃんの部屋に集った。
時刻は二十二時に差し掛かろうとしている。
「どういうことよ。私達は皆、ずっとリビングにいたわよ? 釧路だってそう。キッチンから他に行くには、絶対にリビングを通らなければいけないもの」
維子さんが興奮気味に云う。その隣でケイくんはにやにや笑っている。どちらの顔にも、勝ち誇ったかのような満足感が浮かんでいる。やはり自分達の中に犯人はいなかったじゃないか――と。
憤りを覚えた。ユイちゃんの死に対し、表面上ですらショックを受けた様子を見せない彼女達に。
やや出すぎた行為かも知れないが、「お言葉ですが」と僕は差し挟む。
「身内同士の証言は不在証明(アリバイ)にならないんですよ」
「だから何?」
鴉の瞳がぎょろりと僕を射すくめる。
「それが本当なんだから仕方ないじゃない。嘘だって証明も、同様にできないでしょう?」
言葉に詰まる。その通りだった。全員で固まっていました、なんて単純すぎるアリバイを一体どう崩せると云うんだ? 警察にも彼らの息が掛かっているこの事件、依頼人のユイちゃんが殺され、言葉どころじゃない、僕らは完全な手詰まりじゃないか。
きっと今回は、どこかの窓の錠が開けられている。二度目の強盗殺人。そんな不自然な話が、しかし幕羅家の権力のもとでまかり通ってしまうだろう。
「それにしても不思議ですな」
誓慈さんは壺を覗き込んでいる。中には自分の娘の死体――それも裸だ。着ていたはずのネグリジェはどこにも見当たらない――があるにも拘わらず、軽薄な営業スマイルはまったく崩れていない。
「犯人はどうやって死体をこの中に入れたのでしょう?」
そう、その点は手詰まりどころか完全にお手上げだった。
不可能なのだ。
壺のサイズは、ユイちゃんが膝を抱えて背中を丸めてやっと収まるそれ。しかし壺の口はさらに狭く、壺を上から見たときの直径の三分の一程度しかない。胸にナイフを刺されているだけで五体満足、骨をバキバキに折られているわけでもないユイちゃんの死体は、絶対に入れることができない。
できないはずなのに、それが現実に為されている。
壺は細かく観察した。傾けさせて底までしっかり隅々と。一部がぱかっと外れたりしないか、一度割って修繕された痕があったりしないか、口のあたりだけゴムで造られた偽物だったりしないか、熱によって大きく伸縮する素材だったりしないか――すべて否だった。
この死体を壺に入れる方法は皆無だ。
じゃあどうして? どうしてこんなことが具現し得ている?
誓慈さん、維子さん、ケイくん、釧路さんを順々に見回す。
……貴方達は何をしたんだ?
背筋がゾーっと冷たくなった。追い打ちをかけるように、誓慈さんの陽気な声がさらに続ける。
「これは大きな損失ですねえ。だって死体を取り出すには壺を壊さないといけない。死体を入れたままにしておくわけにもいきませんし……。犯人にしてやられましたなあ」
損失。ユイちゃんでなく、壺。ユイちゃんの命を惜しむ気持ちが、此処にいる人々には豪もない。
……じゃあ何だ?
この中の誰かが犯人として、ユイちゃんを殺してわざわざ壺に入れたのは、幕羅家の人間が大事な壺を失うようなことをするはずがない、よって自分達は犯人でないとでも主張するためなのか? 何だその理屈は。ユイちゃんの命には端から価値がないということが世界の前提にでもされているみたいじゃないか。
あるいは、これはやはり峯斎さんに対する犯罪なのか? 峯斎さんを殺し、そして峯斎さんが異常な愛情を注いでいた二つのもの――ユイちゃんと壺を、同時に葬る。だが、何がそこまでさせるんだ? 幕羅家にはどんな秘密、確執があったんだ?
何かもかもが根こそぎ、狂っている。
信じられない。
信じられない。
信じられない。
信じられない。
僕は無花果に目を向けた。窓際のアームチェアに腰掛ける彼女は、いつも通り悠然と、超然とそこに存在している。だが彼女の敗北は決定してしまったんじゃないか? ここからの大逆転なんて、ユイちゃんの死体を壺に入れるのと同じくらいの不可能なんじゃないか? 俗世から隔絶されたこの邸宅には、この世の者でない悪魔が潜んでいて、唯物的な世界の法則を簡単に捻じ曲げてしまえる。幕羅家の人々はその悪魔の力を授かった異形共で、悪魔に囚われたお姫様・ユイ姫から助けを求められてこの異界にのこのこ迷い込んでしまった無花果と僕は、最初からずっと彼らの掌の上で踊らされているだけだった。そういうことなんじゃないのか?
甘施無花果の敗北。次は僕らが取って喰われる番なんじゃ…………。
「確認したいのですが、」
凛とした無花果の声が、次々に展開されていく僕の想像を断ち切った。
人々の視線が、一斉に彼女へと向く。
「今回の依頼は幕羅ユイからもたらされたものでした。しかし幕羅ユイはこうして死亡しました」
すかさず「ええ、貴女の負けよ」と維子さん。だが無花果は動じず、
「負け? いいえ、貴様からの挑戦は今日中に私が事件を解決するか否かであり、それは未だ決していません。話を戻しますが、私が確認したいのは、私がこれから事件の真相をお話して、果たして報酬が貰えるのかどうかという点です。直截の依頼人は幕羅ユイでしたが、これは貴様ら幕羅家からの依頼と見なして構わないのかという点です」
こんな状況で報酬の心配? 依頼ということなら僕達はユイちゃんを守れなかったのだから……と思ったところで、はたと気付く。今回の依頼内容がユイちゃんの護衛であったのを、此処にいる人々は知らない。ユイちゃんは秘密にしていたし、僕達も口に出さなかった。事件の解決に、ユイちゃんの安否は関係しない……。
「無論ですよ、甘施さん。父が殺され、ユイが殺され、一族の家宝までこんなことにされて……真相を暴いてくださるのなら、是非ともそうしていただきたいというのが私達の総意です。それが叶えば、いくらでもお支払いしましょう」
誓慈さんの白々しい台詞。だが無花果はそれで満足したようだった。「ふん。捕らぬ狸の――」と云い掛けた維子さんを遮り、彼女は告げた。
「それでは今から、事件の真相をお話ししましょう」
全員が、時間までもが、呆けてしまった。
誰にとっても予想外の、まさに急転直下だった。
……真相? 今から? じゃあ無花果には、もうすべて分かっているのか? 本当に?
真っ白になった頭の中に、しかし職業柄、僕は次の文言を書き綴ってしまうのだった。
さぁいよいよ解決編。
私は読者に挑戦する。
諸君には、この謎が解けるだろうか?