10「プライヴァシー」
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久架は燃え尽き、陽子さんは解放され、悲しみに暮れる天文部は――時計塔にいなかった者も含めて――依然として行方の分からない左条以外の全員が生徒会と風紀委員によって捕らえられ、体育館の二階に閉じ込められることになった。扉を内側から開けられないようにしてしまえば、窓には格子が嵌っているし、無駄に広さだけはあるから窮屈じゃないだろうという慈悲だか何だか分からない理由もあった。
階段移動の作業をもう一度やらされてすっかり疲労したところで、僕らは一旦、解散となっていた。もしかしたら他の皆はまだ固まっているのかも知れないが、少なくとも無花果は離れて行き、僕も彼女と共にそうしたのは云うまでもない。
時刻は午後六時。まったく忙しい一日だ。それにまだ、終わっていない。
「全体の半分にも達してないでしょうね」
昼に蘭佳の死体が見つかった花壇を横目に見ながら、無花果がそう云った。
「久架の最期の言葉――『さくらのみ』は、意図的にそこまでしか発声しなかったことが明らかであり、さしずめ彼女の台本にあった台詞というわけですが、それが彼女の見た〈真実〉とイコールであるとは文脈から読み取れました」
「うん。彼女によれば〈真実〉とは〈神〉であり、それが〈桜野美海子〉なんだってことだろ」
そして〈真実への到達〉とは〈桜野美海子への到達〉か?
「壮太らしくありませんね。そう断定するのは早計ですよ」
「まぁ……そうだな。『さくらのみ』の後にどう続くはずだったのかは分からないし、あの台詞そのものがフェイクかも知れない」
「とはいえ、それとは別に、最終到達点に桜野美海子がいることは確かでしょう。彼女は何重ものプロテクトで自分を隠し、守っているのです。ですからフェイクもすべて重要と云えます。プロテクトをひとつひとつ剥ぎ取っていくこととは、仕掛けられたすべてを消化することですから」
ゆえに、横着はできない。いちいちまともに、取り合わなければならない。
「あいつらしいよ。この面倒臭いところが」
「壮太、」
無花果は足を止め、僕を見上げた。そこにはなぜか、いつもの超越性が薄らいでいるように映った。ただの可愛い女の子――と云うには不自然に美しすぎるし、充分に異様だけれど、こちらを圧倒するような強烈な気迫はなくて、すると普段なら覚えようもない庇護欲みたいなものを、掻き立てられる。あの甘施無花果にだ。
いや、しかし無花果は僕と二人きりのときには、時折こういった表情を見せることがある。特に近頃になって、増えたように思う。僕に心を開いている――なんては今更の話だし、〈丸くなった〉というのとも違うのだが――分からない。
「――待ちなされ、お二人さん」
無花果が何か云いかけたところだったけれど、そこに背後から声が掛かった。
僕らを追いかけてきたらしい、覇唐眞三郎だった。
「何ですか」と振り返る無花果に気分を害したようなところはなく、その佇まいもついさっきまでとは違う――いずれにせよ僕くらいにしか見分けられない〈違い〉だったかも知れないが――探偵・甘施無花果のそれに戻っていた。
年端もいかない少女のような身体でありながら、周囲のすべてを支配せんとするほどの、人間離れした神々しさと気迫とをまとった、完全無欠の名探偵。
「ほほ……ひとつ、訊きたいことがあってじゃな」
無花果と対峙し、この老練なる探偵もまた、温厚な表情の中に研ぎ澄まされた刃物のような鋭さを忍ばせて言葉を継ぐ。
「その前に、この挨拶が遅れておった……久し振りじゃな、甘施譲」
「私と貴様は今日が初対面です」
「いいや、昔に会っておるよ。八人の赤子の眼球が出鱈目に交換された、あの珍妙な事件を忘れたわけじゃあるまい。お主がまだ、新倉というご老人と共にいたころじゃ」
「知らないのですか? 新倉という執事は死に、同じときに甘施無花果も死にました。私は二代目であり、二代目とはいえ、初代・甘施無花果とは関係がありません」
「それは嘘じゃよ。たしかにお主は変わったらしい。各段に人間らしくなり、良くなった。しかしまぎれもなく、昔に儂が会った甘施譲と同じ人物じゃ。なれば白生塔でお主が殺されたというのも嘘じゃろう。お主が幽霊でない限りのぉ」
「どうやら、耄碌しているらしいですね」
「ほほ……そこは懐かしい強情ぶりじゃな。認めたくないなら、それでもよろしい。言質が取りたいわけではないんじゃ。ただし、この質問には正直に答えてくれると有難いのぉ」
「質問次第ですが」
「では……この事件は畢竟、お主と桜野美海子との二人の問題なのじゃろう?」
無花果なら、しらばっくれるのも容易だったに違いない。
だが彼女はそうしなかった。
一瞬だけテンポを後ろにずらして、応えた。
「そうですよ。ですから彼女に引導を渡せるのは、私しかいません」
「ほっほっほ……」
覇唐さんは肩を揺すった。彼からしても、無花果が正直に答えたのはいささか驚きだったらしい。
「そうか……ならばもう、何も訊くまい。ほほ……余計な介入はせんよ。他の者とて、儂が見たところ、それほどの能がまずなさそうじゃ。ただひとり、白山書店くんは昨日会ったときには既にすべてを理解している様子じゃったが……うん、彼もこれから此処に来るそうじゃ。だが彼は理解したうえで、お主らの邪魔をするつもりはなさそうじゃったな」
無花果は黙って聞いている。覇唐さんは頷く。
「頑張りなさい。せっかくじゃから、儂も見させてもらうよ。どうもお主が探偵しているのを見られる、これが最後の機会のようじゃからな……」
彼は蓄えた白髭をさすりながら、僕に目を向けた。
「塚場壮太くん、君は面白い男じゃ。安心せえ……この歳まで探偵なんぞやってる人間は、善も悪もないことをよく知っとるつもりじゃ……じゃから君も、自分にくらい、正直になっても良いのじゃぞ」
またの――と最後は簡単に〆て、仙人の如き老探偵は立ち去って行った。
その姿が遠くなってから、無花果は、
「お節介な爺さんですね。相変わらず」
と、珍しく、どこか素直な響きを持って呟いた。
珍しいと云えば、僕も、どういうわけか混乱を覚えていた。ただ覇唐さんの、射貫くようでいながら、同時に何かを赦すような、不思議な眼差しだけが確かに残っていた。
校内をしばらく適当に散歩してから、無花果と僕は食堂で夕食を取ることにした。
食堂は賑わっていた。テーブルのひとつには、レイモンドさん、ジェントル澄神、桝本さん、陽子さんの姿があった。無花果は別の、もっと隅にあるテーブルを使おうとしていたが、僕はいちおう、皆に挨拶した。
「さすがに一筋縄ではいかないが、まずまずの好ペースだと思うぜ」とは、オムライス――意外に可愛いチョイスだ――を食べているレイモンドさんの言。
「他の天文部員は全員捕まったことだし、これで的は左条ひとりに絞られた。さっきの時計塔みたくちょっとした仕掛けを解かないといけねぇ場所に隠れてるのかもな。まぁ聞き込みやフィールドワークを重ねれば、またヒントが出てくるんだろう。あるいは次の殺人が起これば、か」
「うーむ……」
腕組みをして唸っているのは桝本さん。箸のつけられていないラーメンは伸びてしまっている。
「あの時計塔の仕掛けだが、どうしてあんなものがある? おまけに他にもあるかも知れんとなると、この学校はまるで魔境だぞ」
「ははっ、何を云います。その通り、此処は魔境ですよ。真面目にお答えするならば、見たところ痕跡はありませんでしたが、桜野さんが改造させたのでしょう。それとも、元からギミック満載であったからこそ、此処を舞台に選んだのか。いずれにしましても、彼女は五年弱も沈黙を守っていたのです。下見調査、人員集め、修繕・改造工事……準備に費やす時間は充分にありました。そう考えますと、麓の楚羅原町の人々も皆、黙認を約束した協力者なのかも知れませんね」
つらつらと述べ立てるジェントル澄神の前には、何の食べ物も置かれていない。桝本さんが食事を禁じているわけではないだろうし、針金みたく痩せ細った体型を見るに、拘置所生活のストレスで拒食症にでもなったのだろうか。
「左条は桜野なんでしょうか?」
僕はしかつめらしく訊ねる。
「観篠も久架も見つかって、僕らの前に顔を出してないのは、もう左条だけとなりましたよね。あとは教師役の人達も行方が分からないですけど」
「おそらく、教師共についちゃ考える必要がないぜ。このエリア内にはいそうにねぇ。退場済みだ。『私達は〈真実〉の意向に従ったのみだから気にするな』っつうメッセージは、いわば作者からの断りみたいなもんだろう。それさえも疑えってことなら話は随分ややこしくなるが、今んとこ、事件に絡んでる気配もないしな」
「ふむ、そのメッセージですがね、〈真実〉を〈桜野美海子〉に置き換えれば『私達は〈桜野美海子〉の意向に従ったのみだから気にするな』となります。ほら、久架は最期に〈真実〉が見えると叫び、桜野さんの名前を口にしようとしていたではありませんか。教師陣は桜野さん――それが果たして左条なのかはまだ分かりませんが――彼女によって導かれたのですよ」
「つまりは高メタレベルの存在――〈神〉――〈真実〉によってか」
「いかにも! はははっ、この謎解きゲームではやはり、メタレベルの混在こそが鍵なのです!」
議論が白熱していきそうだったので、あんまり無花果を待たせるわけにもいかないし、僕はお暇しようとした。そこで陽子さんに、学ランの裾を掴まれた。
「あの……この事件の一部始終は、もし事件が無事に解決したら、また小説に書くんですか……?」
「さあ、今のところは予定してませんけど」と僕は応えたのだが、聞いているのかいないのか、彼女は両手で顔を覆う。
「ああ、恥ずかしい……何もできず、おまけに手足を縛られ監禁までされてぇ……月子さえいてくれたら……月子さえいてくれたらぁ……」
この人はそればっかしだ。
「早く来てくれるといいですね、月子さん」
「はい……本当に……」
しかし月子さんも月子さんで、もうひとつ暗号を解いて此処にやって来ようと奮闘中なのだろうが、陽子さんと同じくひとりじゃ実力を発揮できないのなら、そのときはまだまだ遠いか、ずっと来ないかも知れない。
とまれ、僕は今度こそ無花果のもとへと戻って、二人で夕食にした。僕がカレーライス、無花果がロコモコ。……どうしてロコモコ? 彼女の感想は「不味い」の一言だった。
「次から私達のぶんだけは壮太がつくりなさい」
「厨房の使用許可をもらっておくよ」
食べている途中で一度、誠くんがやって来た。「お疲れ様っすー」と適当に笑って、菓子パンが何個か入った袋を掲げた。
「買い出しっすよ。はるか先輩、ナイーブになっちゃってて。あ、時計塔での顛末とかは生徒会の宗頃庶務から聞いたんでお構いなく。皆さんは〈空原館〉の部屋割り、聞きました? いやぁ、はるか先輩も僕も通ってる高校じゃ帰宅部っすから、学校に泊まるのって初めてっすよ。楽しいっすねぇ。それじゃあ、また明日。この後も事件に進展あるのかも知れませんけど、僕達キッズは今日んとこは早めにお風呂入って休ませてもらいまーす」
「うん、明日もよろしくね。お疲れ様」
彼が立ち去った後で、無花果は「昔の壮太に似ていま――」とまで云いかけて、首を小さく横に振った。
「いえ。あれはまったく別種ですね。失礼しました」
素直にそう謝る姿が、全然似合わない。
「……どうしたんだ?」
「どうもしませんよ。ただ、私が惹かれた壮太をあれと同列に並べることは、私自身への侮辱ですから。私自身に訂正し、謝ったまでです」
まただ。チラチラと覗く、無花果の可愛い面。僕だけに見せる、信頼と愛情。
ふと思う。――どうして彼女は、僕を選んだのだろう?
分からない。
食事を終えてとりあえず〈空原堂〉を出ようとしたところで、外から数人の生徒達が慌ただしく駆け込んできた。その中の二人が先頭に躍り出て横に並んで、よく通る声で、食堂中にその報せを響かせた。
「ぱんぱかぱーん!」
「新しい殺人よーッ! 月組の鞍更が殺されたわーッ!」
そして犯行現場へと、生徒達が大挙して押し寄せる。現場は空原神社へと上がっていく階段の入口――正確にはその少し前方だった。
毒殺されたらしい鞍更。死体は赤いソファーに腰掛け、橙色のクッションに背中を預け、足元に置かれた段ボール製のハート型の盾には〈♀〉のマークが描かれていた。月桂樹の冠を被り、木の棒を手に持ち、セーラー服には無数のザクロが落書きされていた。
『女帝』である。タロットの大アルカナ、三番『THE EMPRESS』。カードの絵には背後に木々の間を流れる川があるけれど、それは配置からして、階段と一致していた。
犯人は左条か? 久架が彼女を庇って自殺したいま、天文部の夢を一身に背負い、〈真実への到達〉に向けて十六の贄を揃えるつもりなのか?
であるならば――いつぞやの、どんどんどんどん人が殺されるのに任せれば自ずと容疑者が絞られるなんて安直な考えではないけれど――
「なぁ無花果、放っておけば十六人の死者が出て、勝手に〈真実〉が現れてくれるんじゃないか? 探偵じゃあ〈真実〉を掴めないってのは久架の言だったけど、それは桜野の言でもあるんじゃないか?」
探偵であることを放棄し、ついにただの犯罪者へと堕ちた桜野の。
「それが正解ってことはないかな? フェアプレーでも何でもない。桜野はただ、僕らに思い知らせたいのかも知れない――探偵は無力なんだって。もはや桜野は、五年前に、探偵に絶望したんじゃないか?」
「良い考え方ですよ、壮太。しかし間違っています」
無花果は断言する。無感動に死体を見詰め、彼女が見ている〈真実〉の一端を口にする。
「桜野美海子は未熟です。ひたすらに未熟なのです。それに、十六の贄が揃ってもまだ足りませんよ。天と地を繋がなければいけません。時計塔の仕掛けはダミーです。あそこにあったのは〈最上階〉であって〈天上〉ではありませんでした」
この僕らのやり取りを聞いていたらしい――背後から、くすくすと忍び笑いする声が聞こえた。振り返ると、カメラを持った女性がいた。周囲の生徒達が皆、複数人で語り合っているなかで、彼女だけはひとりでぽつんと立っていた。長い前髪で目元が隠れた、陰気そうな人だった。三日月を象ったバッジをつけ、名札には『湯夏』とあった。
「……貴女達は、他の馬鹿共とは違うみたいだな」
それだけ告げると踵を返し、群衆の中に消えて行った。
胸にさげていた、四ツ葉のクローバーのネックレスが印象に残った。




