6、紅代3「これにてお開き」
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無花果が提示した解決策を、弥魅さんひいては〈悪魔の生贄〉は採用することに決めた。その準備が行われていくなか、聖堂にて僕と弥魅さんは二人で会話する機会を得た。とは云ってもすぐ傍に無花果がいたが、彼女は煙草を吸っていて僕らの会話を聞いているのかどうか分からなかった。
「申し訳なかったわ、壮太。本当なら何の迷惑も掛けないつもりだったんだけれど、大事になってしまったわね」
「いえ、この教会で挙式しようと決めたのは無花果と僕ですし、何も問題ありませんよ」
弥魅さんが僕を見る目に、またも哀しさが滲んだ。親愛の情と抱き合わせの、深い哀しみ。察するに、旧知の仲である僕が他人行儀な敬語を使ったためだろう。
「記憶を失った貴方だけれど、知識としても、私に憶えはない?」
「……すみません」
「いいのよ。変なことを訊いて、私の方こそ無遠慮だったわ」
続けて、彼女はぼそりと呟いた。
「――われわれの歴史とは公認された作り話に過ぎない」
ヴォルテールの言葉だ。しかし、そこに触れて欲しくはなさそうだった。僕は話題を変えることにした。
「差し支えなかったら教えて欲しいんですけど、〈悪魔の生贄〉の目的って何なんですか」
少しだけ考える間が開いた後に、弥魅さんは例の聖ペトロ十字のあたりに視線を向け、話してくれた。
「テロ組織としては定番のところよ。この社会に巣食う悪魔の殲滅。すなわち、腐敗した体制の破壊ね」
その目の奥には、何か強い感情、情熱のようなものが、静かに燃えている。おそらく、僕が記憶喪失となっておらずにこれが互いにとって久し振りの再会であったとしても、その目は昔の僕が知らなかった彼女の一面――新たな一面なのだろう。
「本質的には、この国だって凝り固まった階級社会なの。一部の特権階級が甘い蜜を啜り、懸命に生きる者達の足をすくうことを愉悦としている。そんな悪魔を業火で以て焼き尽くす。ただし、私達のそんな行いこそが社会では悪とされるし、悪魔と呼ばれる。だから私達は、悪魔として真の悪魔と心中する。真の悪魔を根絶やしにするために、自らが悪魔となり共に滅ぶ者達――〈悪魔の生贄〉。悪魔への生贄ではなく、悪魔が生贄なのよ」
正直、抽象的でよく分からなかったけれど、まぁ当然ながら、具体的なことについては話すつもりがないに違いない。
どうやら昔、それなりの仲にあったらしい僕ら。しかし年月が経ち、両者には歩んできた道の違いと、その結果としての異なる現在がある。
「壮太にはこっちの世界には来て欲しくないわ。そっちはそっちで、大変でしょうけれど」
「どうでしょうね……大変と感じたことはありませんよ。少なくとも無花果と僕は」
「そう。それは良かったわ。本当に良かった」
弥魅さんは、無花果をチラと見遣り、彼女が別の方向を向いているのを確かめると、僕の頬に軽く口づけした。
「幸せになってね、壮太。愛してるわ」
潤んだ瞳がキラリと光る、魅力的な微笑みだった。
▽紅代3
陽が沈むころになって動きがあった。桜野美海子も本から顔を上げて、テレビ画面をにやにやしながら見始めた。
〈悪魔の生贄〉は交渉を持ち掛けたのだ。仲間の車が数台やって来るから、自分達がそれに乗って逃亡するのを認め、追わないこと。と同時に、人質もまた六十人、解放する――これは人質のおよそ半数にあたる。人質は二グループに分けられる格好になるが、それぞれひとりずつに遠隔から起動できる爆弾が持たされる。〈悪魔の生贄〉が車に乗って敷地を出て、それから三十分が経過するまで、解放された人質に誰も近づいてはならない。これを破るか、あるいは人質が爆弾を手放した場合、起動。大人しく指示に従い、〈悪魔の生贄〉が敷地を出た三十分後以降であれば、解放された人質は爆弾を手放していいし、警察は彼女らを保護していい。しかし教会内に残っている人質は爆弾を持ったままだ。彼女らがこれを手放すか、あるいは警察が救助しようとした場合、起動。それらがないまま、〈悪魔の生贄〉がさらにある地点まで無事到達すれば、その旨が通知され、そこで初めて、残りの人質も解放となる。誰も死ぬことはない。
警察はこの条件を呑んだ。人命第一。そうせざるを得ない。しかしながら無論、逃走する〈悪魔の生贄〉を追わないなんてわけはないだろう。勘付かれないようにしながらも、その動きを何らかの手段でマークし、人質を全員保護できてから、捕獲作戦に移るはずだ。〈悪魔の生贄〉とて、そうされるだろうことは承知の上。そこは駆け引きだ。ともかく教会から脱出しなければ話にならない。とはいえ、本当に人質を全員解放してしまうというのは冴えたやり方でない気もする。
夜になり、聖プシュケ教会に八台のワゴン車が到着した。無論、〈悪魔の生贄〉あるいはその協力者が運転するそれだ。敷地内に次々と這入って行くのを、警察は黙って通す。それらは聖堂の前に並んで停められ、レザーフェイスの仮面を被った運転手達は一度車を降り、聖堂に這入って行く。画面越しにも現場の緊張した空気が伝わってくる。
数分後、聖堂からレザーフェイス集団〈悪魔の生贄〉が大勢出てきた。彼女らはそれぞれワゴン車に乗る。一方で、聖堂と繋がっている建物――人質が監禁されていたそれだ――の入口からは、正装に身を包んだ人質達が固まって出てきて、ゆっくりと教会の正門へ歩いてくる。皆が俯いているが、先頭は甘施無花果だと分かる。彼女は頭上に何かを掲げている――おそらく爆弾だろう。その隣を歩いているのは塚場壮太か。
人質が正門を抜ける。警察はまだ彼女らに近づけない。それと前後して〈悪魔の生贄〉が乗るワゴン車が、こちらは聖堂の脇にある裏門から出て行く。これにも警察は手を出さない。しかし水面下では、大勢の命を賭けた、極限の攻防が繰り広げられているに違いない。
そして、少なくとも表面上はそのままの格好で、二十分ほど経過したときだった。視聴者としては、変わらない光景に退屈し始めたころだった。
人質が突然、真っ白な煙に包まれた。
甘施無花果が掲げていた爆弾が起動――いや、爆弾ではない。それは白煙を噴出するのみで、爆発はしなかったのだ。
途端に――人々の怒鳴り声。画面が揺れる。蜂の巣をつついたような大騒ぎ。
現場が、この放送を見ている日本中が、一斉に混乱へと叩き落される。
「ふふふ」
桜野美海子が笑った。
「仮面ときたら、入れ替わりを疑わないと駄目だよ。解放された六十人の人質というのは、塚場くんと甘施さんを除いて、全員〈悪魔の生贄〉さ。ワゴン車に乗って行った方が人質――運転手もまた入れ替わってね。こうして〈悪魔の生贄〉は、意表を衝くかたちで包囲を突破。マークする対象を見誤っていた警察は、これに対応しにくいだろうなぁ」
放送は現場からスタジオに切り替わった。キャスターの呆けた顔が大写しとなった。
真相が明らかとなるまでには、その後しばらく時間が掛かった。やがて速報により伝えられた事実は、桜野美海子が述べたとおりのそれだった。〈悪魔の生贄〉が乗ったと思われていたワゴン車は教会から離れると互いにまったく別々の方向へ進んだらしく、人質と思われていた人々が白い煙に包まれ大騒ぎとなった後に、各地――何の意味もない適当な場所で停車し、保護を求める連絡をしてきた。確認するとこちらが人質で、遠隔起動の爆弾を持たされ、この行為を強制させられていた。そして〈悪魔の生贄〉は、引き続き人質にするつもりらしい甘施無花果と塚場壮太と共に、煙の噴射と同時にやって来た大型バスに乗って逃げ去っていた。現在、警察は彼女らを見失っているとのこと。
なんて茶番だったんだろうか。
私は呆れた気持ちで「閉式だね」と云った。
すると桜野美海子は、首を横に振った。
「いやいや、これでようやく開式だよぉ」
そうだった。私は準備に取り掛かった。




