11「万物が逆転する刻」
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夜の帳が降りてくる。
――遠くで、何かが爆発するような音が微かに聞こえた。
竹家の裏庭。竹呉が竹彌を抱いて空に落ちたとされた場所で、無花果は自分の旅行鞄に腰掛けて待っていた。僕の鞄も持ってきてあった。僕がまだいささかヨロめいている様を見ると「良い気味ですね」と嘲笑した。余裕ありありの態度だ。
「じゃあ行きましょ」
それが当然だけれど、葺武くんには焦りが見える。
竹帆さんの部屋の戸は開いたままになっていたので、僕は都合二度その前を通ることになったが、強烈な臭気、醜悪な死に顔……気分の優れない今の僕にはなかなか毒だった。無花果は目もくれなかった。
竹家から出ると、葺武くんは迷わず南方へ――頂に逆殿のある丘を迂回する格好で、木立に隠された細い道に這入って行く。満天の星空だったけれど、両側の木々が屋根となり、よく目を凝らさなければ躓いてしまう闇の中である。
「北の道は大岩が塞いでますンで使えません。ヘエ、あれも村の者数人がかりで落としたモンです。けれども実は、村を出る道はもうひとつあります。それはこの先を行きますと崖の下に下りられるようなっとりまして、其処に地下道の入口があるンです。この地下道がズーット続いて、村の外に繋がっとるンです」
「なら、もう安心だね」
歩きながら、僕が応じる。はじめはかなり足早に進もうとしていた葺武くんだったが、無花果が一定以上の速度を絶対に越えようとしないので――基準はおそらく、優雅かどうかだろう――、結局は折れて普通のペースになっていた。
「秘密の抜け道なうえに、僕が竹家の地下に監禁されている限り無花果は逃げないと皆は思っているんだから、此処を探しに来られることはないわけだ」
「イエ、のんびりしてると事情は変わりますよ」
葺武くんは暗に無花果の歩調を咎めているらしかった。しかし気にする無花果ではない。
「〈逆禍〉――それは逆様様を除きまして、雅嵩村のすべてが空へ落とされることを云うンです。甘施さんを捕らえられなかった場合、つまり逆さ巫女を捧げられそうにないと判断した場合、村の者は大挙して地下道に押し寄せて来るでしょう。なぜなら、前に〈逆禍〉が起きましたとき、子供達と一緒にこの地下道に避難した者だけが助かったからです。ヘエ、地下ならば、上下がさかさまになっても天井がありますンで……」
その声には、明白な怯えの色が浮かんでいた。
神経質そうに両手を擦り合わせながら、葺武くんはブツブツと語り続ける。
「逆様様は恐ろしい御方です。今度の〈逆刻の儀〉だけは決して失敗せぬように……あれはそういう意であったンでしょうか……。ヘエ、松尋さんを殺したのは逆様様に違いありませんです。あのお部屋は出入りができぬ状態でしたンでしょ? けども逆様様であれば、ご自身の時間を先まで切り取ってさかさまにしてしまえば、戸に南京錠を掛けたままで外に出られたンです。ヘイ、〈現在〉と〈未来〉とでさかさまになった逆様様の時間では、あの戸は甘施さんが蹴破った後なンですから……」
一定の時間を切り取って、自分についてのみひっくり返す――墓地で僕に見せた芸当だ。ありとあらゆる〈さかさま〉に精通する逆様様。それは時間であったり空間であったり。
「塚場さんが、梅罪さんと梅罰さんに連れ出されたころです……『みだれ』がさかさまに演奏されていたのを聞いたですか? あれはキット、松尋さんのお部屋から出た逆様様がご自身の時間において弾いていたンです。それがボクらにはさかさまに聞こえたンです。これが逆様様の、超道理の奇蹟ですよ……恐ろしい御方。今度の〈逆刻〉はもしかすると、地下道まで根こそぎに、この村を地の底からお空とさかさまにしてしまうかも知れンです。急がンといけねェですよ。急がンと……」
そこでちょうど、木立に挟まれた道を抜け、視界が開けた。
断崖絶壁。眼下は彼方まで広がる、黒々とした渓谷の眺め。天蓋には無数の星を散りばめた夜の空。巨大な月。手つかずの自然。この雄大なスケールの中では、雅嵩村の狂騒などチッポケなことだった。
とはいえ、葺武くんは「こっちです。足元、お気を付けくだせェ」と促してくる。別に、彼が風流でないなんて話ではない。結局のところ、人の世界と自然の世界とは没交渉なのだ。
崖の壁面に沿うかたちで、人ひとりが通るには申し分ない幅の道が下方へとジグザグに伸びていた。もっとも、転んだりしたら一巻の終わりなので気は抜けない。二人分の荷物を持って、さらにまだ頭痛がしている僕にとってはいささかリスキーであった。
「まるで冒険活劇じゃありませんか」
背後で無花果が茶化したふうに云っているけれど、こんなに余裕たっぷりの人物が出てくる活劇じゃあ締まらないだろう。
やっと崖の下まで着くと、なおも壁面に沿ってちょっと歩いたところに、くだんの洞窟は口を開けていた。葺武くんは蝋燭に火を灯すと簡単な燭台みたいなものに乗せ、これを掲げて中へ這入って行く。
中はやや窮屈ではあったが、身を屈める必要はない程度だった。どうやら人の手によって掘られたものらしく、不均等な間隔をおいて木の柱が組まれている。一本道で、右にくねり、左にくねり、右にくねり…………
「ところで、」
最後尾の無花果が口を開いた。
「貴様が竹帆の死体を発見したのは今朝のことだったと云いましたね?」
先頭の葺武くんが「ヘエ、そうです」と応える。
「この遺書は死体の傍らに置かれていたと云いましたね?」
無花果は葺武くんの先へと一枚の紙――竹帆さんの遺書を受け取っていたのだろう――でつくった紙飛行機を投げた。葺武くんは立ち止まり、それでも「へエ、そうです」と応える。
「いいえ、それは貴様が書いたものですよ。私は昨晩に竹家を訪れ、竹帆の死体と対面しました。こんな遺書は残されていませんでした。竹帆に毒を飲ませて殺したのは、貴様なのです」
葺武くんはゆっくりと振り向いた。燭台は前方へ掲げたままなので、その表情は陰となって窺えない。今度は応えようとしない。
「松尋を殺害したのも貴様でしょう――ええ、竹帆が死に、貴様は手が空いたのですから。また、大人ひとりの死体を宙吊りにする仕事はひとりでは難しいので、もうひとりの共犯者がいました。これは密室の作成方法からも、葺末であったと分かります。貴様は内側から南京錠を掛け、鏡台の中に隠れていたのです。これを検めたのは壮太ではなく葺末でしたね。彼女は中に誰もいないと証言し、このときに貴様の姿は彼女の背中に隠れて他の者から見られなかったため、密室殺人が演出されました」
僕を間に挟んで睨み合う格好の無花果と葺武くん。何とも居心地の悪いサンドイッチだ。
「松尋は逆様様の超自然的な力を心から信じていましたね。これは他の御三家の人間も同様です。どういうことかと云えば、それが雅嵩村におけるヒエラルキーの真の姿なのです。すなわち、権力の分散ということで三つに分けられた御三家、しかしそのどれもに配属され、情報の共有ばかりか意図的な操作も行えるに違いない家が貴様ら――葺家。逆様様の奇蹟を演出するのもすべて貴様らの仕事なのでしょう。いえ、逆様様も貴様らの傀儡であると見做していい。有能なリーダーは他の構成員にすら自身がリーダーであるということを悟らせないものですが、使用人という蓑に隠れて暗躍する葺家こそが雅嵩村の本当の支配者、実質的な黒幕というわけです」
「…………いやァ」
闇の中でも、葺武くんがにへらと笑うのが分かった。
「見事なモンだァ。でもなァ、チト舐めすぎだぜ、甘施無花果」
剥がれたメッキ。彼は息を大きく吸うと、
「ぅ、オーーーーーーーーーーイ!」
その大声が、洞窟内に反響、反響、反響する。
続いてざっざっざっざっざっざっ……大勢の足音が、後方から、こちらに向かってくる。
葺武くんは顔は僕らに向けたまま、再び先へと歩き始めた。
「ボクを倒したって無駄だぜ。全員、もう洞窟ン中に這入ってきてる。お仕舞だな。分かったら大人しくついて来いよ。アハハ……」
無花果が足を踏み出す気配を感じ取り、僕も歩みを再開する。葺武くんは燭台をユラユラさせながら、僕らを嘲笑うように自分もユラユラと歩く。ちらと振り向けば、後方にも明かりが見えている。大勢の雅嵩村の人々が、慌てることなく追尾してきている。
「アハハ……甘っちょろいなァ。こんなモンかね。アハハ……甘施無花果ってのはこんなモンなのかね。アハハハ……」
今度は無花果が黙する番だった。僕が口を出す幕でもない。
緩やかなカーブを曲がると、空気の流れの変化に気付いた。先の方が明かりに包まれている。胎内から外界へと出る赤子を連想するけれど、実態は真逆だった。
「アハハハ……オーウ、お待ちどォー」
葺武くんが前方へ軽く手を上げる。僕らが出たのは、此処まで経てきた道と比べれば恐ろしく広い空間だった。円形で、明かりの届かない遥か上方まで続いている……いや、よく見れば、気が遠くなるような上の方にぼんやりと明かりが見えないこともない。其処から二筋の縄が、この空間の中央に垂れてきていた。一方は、据え置かれた大きな巻き取り機にその名のとおり巻き取られており、もう一方はぶらーんと垂れているのみだ。
この大穴は、知っている。底に来たのは初めてだけれど、逆殿の中でそのふちに立った。
抜け道なんていうのはもちろん嘘っぱちで、洞窟は此処で行き止まりだ。最初から、この天然の大穴の底へとアクセスするために造った洞窟なのだろう。
穴の底には、取り囲むようにして、御三家の人間や葺末ちゃん、葺埋くん等が僕らを待ち受けていた。そこら中に立てられた灯篭の明かりで、闇は取り払われていた。皆、ニヤニヤニヤニヤといやらしく口角を上げていた。
「お二人さん、もうチョットこちらですよ。アハハハ……」
葺武くんに導かれ、無花果と僕は縄が垂れている傍まで進んだ。後ろでは僕らを追尾してきていた他の村人達がゾロゾロゾロゾロ這入ってくる。各々、鍬や鉈、鋸なんかを手にしている。ほどなくして、この場に雅嵩村の全員が収まりきった。それらの顔ぶれを見て、まだ確認は取れてなかったものの、僕は自分の推測が正しかったとほぼ確信した。
束の間、水を打ったように静まり返った。馬鹿馬鹿しいくらい厳粛な雰囲気。
梅典さんが一歩、進み出た。
「お分かりかナ。全部、お前達を此処に来させるための芝居だったのだ」
梅佳さんが、大きな腹を揺すった。
「大事な大事な逆さ巫女だからネ、無理矢理に連れてこようとして抵抗されちゃあ堪らない」
松墨さんが、手を口元にあてた。
「竹彌チャン、松尋が貴女に依頼したのも、貴女を竹彌チャンと分かってのことだったのよ。松呉が貴女を外へ逃がしてしまってから、私達はズット貴女を探していたの。そしてようやく見つけ出したの」
「随分と手間を掛けさせられたものだ」また梅典さん。「ああ、お前の父親は既に死んでいるよ。あんな下手な策が通じるものか。私達の追っ手がすぐに捕えて連れ帰り、首を斬ってやったサ。だが、竹呉はお前をどこかに預けた後だったのだ。もっとも、竹帆には夫の首を寄越すと共に、竹彌も殺したと云ってやったがナ」
「ふん……哀れな女」梅佳さん。「葺武の報告じゃあ、アンタを一目見て娘だと気付いたそうじゃないか。邪魔をされちゃあ拙いからネ、すぐに口を封じたよ。そもそもあんな反逆者、今まで生かしておく必要もなかったんだから」
訊いてもないのに、好き勝手、順繰りに話していく。
「けども、私達を人殺しだなんて思わないで頂戴ね。私が松尋の死を悲しまなかったことも貴女は訝しく思ったかも知れないけど、この村では死なんて一時の状態に過ぎないのよ」
「それが逆様様の力なのだ。逆様様によるさかさまの奇蹟は、死から生へと戻すことさえ可能とする。〈逆刻〉において実行されるのがこれだ」
「老いもまた同様だよ。あたし達の肉体は〈逆刻〉のたびに、前回の〈逆刻〉から流れた時間をさかさまに辿るってわけさ」
「逆様様ご自身と同じく、私達さかさまの民には老いも死もないと同然なのよ」
「一種の不老不死だナ。その〈折り返し〉において死する逆さ巫女を除き、私達は永遠なのだよ」
「あとはそうだネ、〈逆刻〉と〈逆刻〉との間に生まれたこの子らも消滅することになるんだけど」
「くすくす」「くすくす」「消滅」「消滅」「楽しいな」「楽しいな」
彼らは恍惚として、延々と喋り続けそうであったが――
「はっ!」
ここ一番というやつだ。無花果がまるで見事に、鼻で笑った。
「聞くに堪えませんね。いいですか、〈さかさま〉とは道理に合わないことであって、知恵が足らないことではありませんよ」
顔を引きつらせる御三家の面々。するとバトンタッチで葺家の三人が進み出た。
まずは葺末ちゃん。「何だァ、負け惜しみ云ってェ」
次は葺武くん。「アハ。空元気ならこっちこそ見るに堪えないぜ」
最後は葺埋くん。「貴女は贄。換言すれば餌に過ぎないってことサ」
すると、そこら中で悪趣味な笑いが起こった。僕らを囲む雅嵩村の人々が皆、互いに顔を見合わせながらさぞ可笑しそうに肩を揺すった。鍬や鉈が当たってカチャカチャ音を立て、祭りに相応しい陰気な賑わいが大きくなった。
それでも無花果は、不遜な態度を微塵も崩さない。
「すべてが芝居だった。ええ、そうでしょう。貴様らは今も、下手な芝居を続けています。出来損ないの台本に従って、それでいて自分達が道化であるとは気付かずに」
これを受けて一歩、二歩、三歩と進み出たのは、松國老であった。
「芝居じゃと? ふぉっ……ふぉっ……ふぉっ……もはや芝居など要らぬワ。〈逆刻〉とはさかさまの真実が顕現する刻ヨ。お前達も喜ぶが良い。逆さ巫女となりし者は、その死の間際においてさかさまの真実を読むと云うからナ」
サテ、その刻じゃ――老人はそう云って片手を挙げた。村人達が揃って、僕らを囲むその円をジリジリと小さくしていく。葺武くんがいっそ拍手でもしそうな様子で笑う。
「アハハハハ。抵抗はよしてくれよ? 特別に塚場壮太と一緒に仲良く吊り下げてやる。アハハハハ。お前らの負けだよ。もう謝ったってやめねぇからな。アハハハハ。お前らは上で逆様様に喰われるんだ。ボク達はその血の雨を浴びながら大宴会さ。アハハハハ」
それはまったくの、標準語だった。
無花果は云った。
「もう付き合うこともありませんね。――壮太」
僕は頷き、鞄からショットガンを取り出して無花果に手渡した。
直後、威嚇として一発、天へ向けてズガーンと撃たれた。
人々は綺麗に全員その場ですくみ上がり、押し黙った。
お祭りから一転、まるでお通夜だ。
「これより一歩でも近づいた者は洩れなく頭部が消し飛びます」
淡々と述べ立て、無花果は銃口を洞窟の方へ向けた。「決して洞窟には逃げ込まず、左右にどきなさい」の声で、人の波が割れる。モーセにでもなった気分である。
そうして僕達は悠々と、穴の底から出て行く。口を一の字にするか、あるいはパクパクと開けたり閉じたりしている大勢の間抜け面を尻目に。
「下手な芝居に見物料は払いません。貴様達が、この私に見てもらった代償を支払うのです。無論、三千万では足りません」




