10「宙吊りの塚場」
10
竹彌が雅嵩村にいたのは一歳頃までの話だから、無花果といえども記憶はないだろう。その後、彼女はどこかの孤児院に入れられたわけだけれど――そのあたりの事情は僕は知らない――、知識として、己が出生について何か断片的なところを教えられていたのだと思われる。もしかすると、〈竹彌〉という本名まで知っていたのか。
ともかく無花果ははじめに松尋さんから話を聞いた時点で、雅嵩村が自分の生まれ故郷であると気付いたか、そうでなくとも疑い得た。これで今回における彼女の種々の振る舞いについて、そのミッシングリンクが明らかにされたのだと云えよう。
父親の手によって雅嵩村から連れ出された逆さ巫女。
生贄として逆様様へ捧げられるはずだった、罪人の子。
となれば――何もかもが、自明だ。
「いちじ――」
口を開きかけたところで、廊下を駆けてくる二つの足音が耳についた。
「くすくす」「くすくす」
断りもせずに部屋の戸を開き、梅罪ちゃんと梅罰ちゃんが姿を現した。
「馬鹿津さん、ご用があるの」「ちょっと来て頂戴、ね?」
鬱陶しい小蠅のように僕の周りをぐるぐる回り、右と左から手を取ってぐいぐい歩き始める。僕は無花果を見た。彼女は黙って頷いた。
そう、すべては自明。諸々の展開は、そこに帰結するお膳立てに過ぎない。
細工は流流仕上げを御覧じろ。
「くすくす」「くすくす」「くすくす」「くすくす」「くすくす」「くすくす」
双子は僕を引っ張ってズンズン進む。ちゃんと靴を履く暇さえ与えられず。玄関を抜け、松の木に挟まれた前庭を抜け、夏の日差しがジリジリと灼いた土の上を歩き、光と緑と青色が眩しく乱舞する視界は揺れ、シャワシャワシャワシャワと虫が合唱する声に混じって、どこからか調子外れな、旋律もへったくれもないような、それでいて実は狂気染みた規則性に従っているかのような、酷く落ち着かない、琴の音が聞こえてくる。
「くすくす」「くすくす」「れだみヨ」「れだみネ」「くすくす」「くすくす」
なるほど。これは『みだれ』をさかさまに弾いているのだ。
背後で新たな音がした。草を分け、土を踏む音。
振り返るのを待たず、後頭部を殴られた。
世界が、さかさまになる。
「すくすく」「すくすく」「すくすく」「すくすく」「すくすく」「すくすく」
遠のく意識。
いやはや。こんな手荒にやられるとは。参ったね。
リズミカルな疼痛。揺れ。熱。酩酊感。
頭に血が上っている……いや、下っているのか。
野蛮な手段で以て気絶させられた僕だったが、目覚めるとさかさまに吊られていた。蝋燭の火に浮かび上がったこの場所は、石造り、窓のない部屋で、向こうに見える階段から察するにどこかの地下室であるらしい。両足首を縛った縄は天井の梁から垂らされていて、なるほど、松尋さんの死体と同じ格好だ。ただし、幸い、僕は生きている。死んでいてもおかしくなかったし、そうなったらそうなったで相手は構わなかっただろう。
ぺちぺちと僕の頬を右と左から叩いていた梅罪ちゃんと梅罰ちゃんが「あは」「あは」と破顔した。
「起きたね」「起きたよ」
双子は無邪気に――もう、そう云えた年齢でもないと思うのだが――室の端の方へ駆けて行くと、籐椅子に腰を下ろした。
僕の正面には、恰幅の良い中年女性が腰に手をあてて立っていた。
「アンタは人質だよ」
開口一番それだ。肉に埋もれたような口を、意地悪そうに歪める。
「アンタが此処に監禁されていれば、イザと云うときにも、竹彌は村から逃げられまいってネ。でないと、あれはナカナカ手強い娘になったようだからネ。おまけに、こちらは傷をつけちゃいけないってんだから」
もはや隠そうともせず、無花果を竹彌と呼んでいる。此処に至れば〈詰んだ〉とでも考えているのだろう。
「貴女は、えーと……梅佳さんですね?」
逆さに吊られていると、喋るにもいつもと感覚が違うみたいだった。
「そうだよ」
梅佳さん――梅典さんの妻で、梅罪ちゃんと梅罰ちゃんの母。これで話に聞いていた御三家の人間全員と会ったことになる。また、この人は松墨さんの妹にもあたるわけだが、無論、まったく似ていない。こんなに明確な美醜の違いはそうそうないくらいだ。
じろじろ見る僕の視線が気に入らないのか、梅佳さんは「ふん」と鼻を膨らませた。
「ひとつ訊くけどネ、いいかい、慎重に答えるんだよ? もしもアンタが利口ならネ。ふん……竹彌は処女だろうネ?」
「僕が知る限り、経験はないはずですよ」
梅佳さんは重い溜息を吐くと、重い身体で大儀そうに踵を返し、階段の方へ歩き出した。
「アンタが殺されンのは〈逆刻の儀〉の後だよ」
すると梅罪ちゃんと梅罰ちゃんが籐椅子から下りて「くすくす」「くすくす」また僕の傍まで駆けてきて、二人して宙吊りの僕を左回りに回し始めた。気持ち悪くなるからやめて欲しい。
「お祭りだ」「お祭りだ」「楽しいな」「楽しいな」「また後でね、馬鹿津さん」「また後でね、馬鹿津さん」
『それとも前かな、塚場さん』と最後だけ声を揃えて、くるくる回り続ける僕を放置して、母親に続いて階段を上がって行った。扉がバタンと閉じる音。
くるくるくるくるくるくる…………さすがに吐きそうになってきた。
僕のこの醜態を見たら、無花果は腹を抱えて笑うだろう。是非とも見せてあげたいけれど、如何せん、どうしようもない。僕は両手首も縛られて、さらに背中に回したその腕ごと胴を縄でぐるぐる巻きにされた状態だ。腹筋を鍛えていたなら足の縄を噛み切るくらいの芸当もできたかも知れないが、あいにくと、もやしっ子の僕である。
大人しく待とう。
蝋燭は短くなり、頭痛は酷くなり、意識が朦朧としてきたころ。
微かにキィ……と扉の開く音がして、なるたけ忍んで階段を下りてくる何者かの気配。
現れたのは、葺武くんだった。天井を歩いている……んじゃなくて、僕がさかさまなのだ。ちょっと頭の回転も危うい。
「塚場さん、助けに来ましたです」
ちゃんと僕の真下に籐椅子を置いた後、その端に立って剃刀で足の縄を切ってくれた。椅子の上に落下する僕。眩暈、明滅する視界と、体内を何か逆流するような物凄い不快感。喉元までせり上がってきたものを、なんとか飲み下した。
「だ、大丈夫で?」
心配そうに覗き込んでくる葺武くん。
「ああ……なんとかね」
それにしても酷い目に遭った。
葺武くんは残りの縄もすべて切断してくれて、久方ぶりに自由となった僕はしかしストレッチもできずにしばらく椅子の上でぐったりしているしかなかった。その間に葺武くんは説明してくれた。
「甘施さんは無事です。塚場さんが攫われたすぐ後に甘施さんは裏ン方から松家を抜け出しまして、傍で張ってたボクと合流できたです。ヘエ、ボクはお二人を探してましたです。他ン者に気取られないように……途中で松墨さんに見咎められまして一旦は退きましたけど……お二人を村から逃がしてやらんといけねェもんでしたから」
サ、此処にこうしているといけねェです、と云われ、手を引かれて僕は立ち上がらせられる。吐き気。しかし我儘は云っていられない。歩いているうちにいくらか落ち着くことだろう。
「甘施さんは竹家にいますンで、行きましょ」
二人縦に並んで、忍び足で階段を上がる。五感を研ぎ澄ませ、慎重に廊下を進む。そうして適当な窓から庭に出た。梅の木が密生する間を縫い、梅家から抜け出した。
絵具で塗りたくったような夕焼け空だ。朱く染め抜かれ、惨憺たる様相の雅嵩村。
「もうじき〈逆刻〉です。もっとも、このままでは〈逆禍〉になるでしょうけど」
「無花果……逆さ巫女を捧げられないからか。葺武くんはどうして僕達の味方を?」
「竹帆さんの遺志です。ヘエ、今朝にボクがお部屋に行ったら、竹帆さんは死んでおりましたです。毒を飲んで……あれはトリカブトでしょう。傍らに遺書があって、お二人をお逃がしするようにと書かれてありました。ヘエ、ボクは竹帆さんに仕える身ですンで」
立派なことだ。
「気を付けてくだせェ。村中ン者が、甘施さんを探してます。塚場さんも、見つかればたちまち捕えられるでしょう」
「うん。僕達か雅嵩村か、どちらかが滅びるという構図だもんね」
「よくご存知で」
遠くから、野蛮な響きの掛け声が聞こえてくる。あれでは自分達の位置を知らせて回っているようなものだから愚かと云うほかないけれど、無花果と僕が普通の感性を持っていたなら、すくみ上がって身動きが取れなくなっていたかも知れない。
静かに、陰気に、狂おしい熱気が渦巻いていた。陰謀が、策略が、思惑が、トロトロに絡まり合って重苦しい空気をつくっていた。その核に、甘施無花果――竹彌の存在を据えて。




