7、8「逆さ巫女の密室」
7
窓から斜めに入る蒼い月明かりが、細く立ち昇る紫煙の中で水面のように揺れる。
夕餉も風呂も済ませて、無花果と僕は同じ布団に並んで寝ていた。枕が粗雑だと云って僕の腕枕に頭を乗せた彼女は最前から退屈そうに、指に挟んだ煙草をゆらゆらと振っている。小さく開いた口から煙の塊がふわっと吐き出されて、滲むように拡散する。
「このロリータ・コンプレックス村ですが、」
逆様様が少女であったのを指してだろう、彼女はそう口火を切った。どこかメランコリックな調子が含まれていた。
「おそらく人身御供の風習が残っているのでしょう」
「……竹彌がそれだったというわけか」
「はい。竹帆は我が子が逆様様へ捧げられる贄となることを、光栄とは思わなかった。そして竹呉は嬰児を抱き、村を出たのです。あの足跡のトリックは逆様様への目配せであったのでしょう。昼にも述べたとおり、ああいった痕跡を残せば、逆様様に背いて我が子を守らんとした罪人・竹呉に裁きが下されたように思われます。絶対者でなければならない逆様様は、これを認めなければ、罪人をみすみす逃がしたということになってしまうのです」
人身御供――その現代においては忌むべきとされる俗習がゆえに、雅嵩村は閉鎖性を保持している……竹呉が竹彌を連れて失踪したこと等を考え合わせれば、たしかにそれは妥当な推測と云えた。
事件について無花果が話したのはそれだけだった。今日一日の別行動で彼女が何を掴んだかには触れられなかったし、僕の成果を訊ねられることもなかった。僕も訊かれないことに答えるような野暮な真似はしなかった。
ジュ……と、小さく音がした。傍らの、まだ水が残っていた碗の中に無花果が煙草を投げ入れたのだろう。やがて、彼女は規則正しい寝息を立て始めた。腕に彼女の頭の重さと微かな痺れを感じつつ、僕は瞼を閉じた。
無花果はムクリと起き上がって、ちょっと僕を気にしたらしい気配がした。時分はいつ頃だろう……丑三つのあたりか? ボンヤリとした意識。ゴソゴソという衣擦れの音を聞きながら、薄く目を開けてみた。
月光を浴びた無花果の白い背中が、ゾッとするくらい美しく映えていた。
寝間着からドレスに着替えた彼女は、簡単に髪を梳かし、足音も立てずに部屋を出て行った。厠へ行くのにわざわざ着替える必要はないから、どこか、外へ出掛けたものと思われる。
シーーーーン………………
僕は眠っているとも目覚めているともつかない状態でいたが、長針が一周は回った後だろうか、無花果が帰ってきたのが分かった。
彼女は再び寝間着に着替え直して僕の隣に腰を下ろすと、その顔を僕に近づけた。そしてチュ……と軽く口付けた。僕はいかにも今起きたふうに目を開けたけれど、真正面の無花果は大人の意地悪を非難する子供のように、可愛らしい立腹の表情であった。
「起きてたくせに」
彼女は僕に口は開かせなかった。また薄い唇で塞いでくると、華奢な身体を預けた。ぷん……と、ホンノリ、死体のかおりがした。
「抱いてください……」
何か――今だけ――忘れたい事柄ができたようだ。平常よりも、熱を帯びていた。
8
「モシモシ……モシモーシ……」
葺末ちゃんの声で目が覚めた。起き上がって寝間着を整えて卓上の腕時計を手に取り午前八時――雅嵩村においては寝坊だ――であるのを確かめつつ、戸を開けた。廊下で三つ指をついていた葺末ちゃんは僕を見上げ、
「おいで願えるですか? 少々、不思議なことになっとるです。甘施さんの知恵をお借りしたい次第で……」
すぐに無花果を起こして決して寝起きの良くない彼女をあれこれ宥めながら正装に着替えさせ、葺末ちゃんに連れられやって来たのは松家の西にあたる部屋の前。首をひねっている松墨さんと、不安そうな面持ちで母を見上げている松鵺くんの姿があった。
「あッ……甘施さん、妙なのです。松尋が帰ってるようなのです。錠なんか掛けていて……しかしまったく返事をしません」
なるほど、松尋さんの部屋らしい。彼は昨晩、結局帰宅することはなかった。夕餉のころからは松墨さんも気を揉んでいる様子だったが、それで朝になって部屋を確かめてみれば、内側から施錠されている――という経緯だろう。一見して鍵穴がないから、内側から下ろすのみの錠なのだと分かる。
「これは一体どういう……」
困りあぐねている松墨さんとは対照的に、無花果はあくびを噛み殺している顔で戸の前まで進み出ると、断りもせずに蹴破った。和洋問わず様々な格闘技に精通する彼女の蹴りなので、木製の戸なんか一発だ。
松墨さんは絶句。松鵺くんはひっくり返り、葺末ちゃんは「へェッ!」と声をあげた。構わず、無花果は部屋の中へと這入って行く。僕も続く。
状況は一目瞭然だ。
松尋さんは天井から逆さに吊られて死んでいた。八畳ほどの部屋の中央――縄の一端は天井の板が破られて露出した梁に結ばれ、もう一端が死体の両足首を縛っている。昨日の昼に着ていたのと同じ和服は帯のところまでめくれ返り、褌が丸見えだ。肌はすっかり土気色に変わっていた。頭部が変形しているのは、何度か殴打されたかららしい。額へと伝った鼻血が渇いてこびり付いている。犬歯まで剥き出した口元とかっ開いた両目には、なかなか鬼気迫るものがあった。
「あらッ」松墨さんが変な声を洩らした。
「父上……?」ポツリと呼ぶ、松鵺くん。
無花果からアイコンタクトを受けて、僕は足元に倒れていた戸を起こして壁に立て掛ける。無花果の豪快な蹴りによって戸枠の一部ごと剥がれるかたちとなったが、錠とは南京錠だった。たしかにしっかりと掛かっている。
趣味の品なんてない小ざっぱりした室内を見回した後、押入れを開く。布団や座卓などが入っているばかり。続いて箪笥、木箱、葛籠と検めていく。気を利かせた葺末ちゃんも部屋に這入ってきて、物入を兼ねた鏡台を開くと、首を横に振って閉じた。
誰も潜んでいない。
無花果は隅から隅へと視線を巡らせながら死体を迂回して部屋の奥まで歩き、並んでいる四枚の窓を確かめた。これらもすべて、施錠されていた。
それから最後に残った、天井の穴。今回松尋さんを縄で吊るすために剥がされたのだろう。梁が見えるぶんだけの小さな穴で、人が出入りできるだけの隙間はない。僕がいちおう、穴の下まで適当な木箱を移動させてそこに乗って観察してみたけれど、不審な点はなかった。
「密室ですね」
無花果は無感動に云いつつ懐を探り、煙草を入れ忘れたのだろう、眉をひそめた。
「みっしつゥー……ですか」
耳慣れぬ言葉に曖昧な反応で返す松墨さん。何だか呑気な響きがあって、夫の死体を前にしているショックはあまりないようだ。ただひとり、松鵺くんだけがいじらしく母の腰に抱き付いて、唇を噛んでいる。
その時、誰かが廊下を歩いてくる音が耳についた。誰かと云っても、松家にいるのはあとひとりしかいない。果たして現れたのは、僕が見聞きした限りにおいて雅嵩村の数少ない老人のひとり――松國老だった。口髭がいささか見苦しい、禿頭の翁である。実際に相見えるのはこの時が初めてであったが、経てきた苦労が皺となって刻まれているようとでも表現すべきか、云い知れぬ凄みを感じさせられた。
松國老は息子の無惨な姿を目にして、
「ふぉっ……ふぉっ……ふぉっ……」
皺だらけの顔を綻ばせた。痰が絡んだ声だった。
「逆さ巫女そのまんまじゃナ……オオ、栄えあることじゃ……」
足裏を畳に擦らせながら歩み寄り、死体をべたべたと触り始める。ぶらぶらと間抜けに揺れる死体。
「でも、お爺々……」
松鵺くんが少し震えた声を出した。
「父上は男だよ……?」
「ウン……いかにも」
死体をいっそ弄びながら、松國老は深く頷いた。そして「ふぉっ……ふぉっ……ふぉっ……」と、また笑った。
無花果が嘆息した。




