1「空に落ちた男」
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初夏。予定に少し空きが生まれたので、無花果と僕は海野島にいた。さる事件の後にこの孤島は僕らの所有となり、作家・有為城煌路が住んでいた屋敷はすなわち別荘となったのだ。
かつて此処に囚われていた煢独の少女達は施設なり何だりに散っていったものの、ただひとり、織角ちゃんだけは留まった。僕らがいないときはひとり此処で生活、僕らがいるときには家政婦として働いてくれる。無花果の世話係という任から半ば解放され、僕もゆっくりくつろげるというのは有難い。
「二人が来てくれると、私も嬉しいよ」
冷房の効いた食堂でアイス・ミルクティーを飲みつつ、織角ちゃんは云った。僕と彼女の二人きり。無花果は無花果の木がずらりと植えられた屋敷の裏で日光浴の最中である。
「ひとりは寂しいから」と織角ちゃんは続ける。有為城煌路の教育方針によって感情表現という能力が欠損した彼女だけれど、今ばかりは物憂げだった。
「かと云って私には他に行くあてもない。施設に引き取られるのは自分で拒んだこと」
「なるほど、此処にいたんじゃあ人との出逢いもないし……でも、ネット環境は整ってるんだから――」
「ネットは駄目」
かぶりを振る織角ちゃん。
「みんな軽薄だもの。私の境遇を真から理解してくれるような人はいないよ」
その物云いから、彼女が何を欲しているのか察することができた。
「友達が欲しいんだね?」
「……うん。だけどこれは我儘。強欲は罪だって、煌路様が云ってた」
「あの人は特別にストイックだったからね、手本にしちゃあいけない。いまや織角ちゃんは自由なんだ。もっと快楽主義に生きていいと思うな」
「快楽主義……無花果お姉ちゃんみたいに、全部メチャクチャにぶっ壊してしまえばいいってこと? それなら興味がある」
「意外に物騒なことを云うね」
カラン――溶けた氷が音を立て、だしぬけに、その虚ろを埋めるようにインターホンが鳴った。
この孤島において、ほとんど用を成さないはずのインターホン。無花果が鳴らす気遣いもない。首を傾げた織角ちゃんがトタトタ玄関へ向かって行って、僕も後に続いた。
玄関扉を開くと、見慣れぬ、三十代後半だろうスーツ姿の男性が立っていた。スーツはいかにも新調したらしくピカピカだが、背格好や身だしなみ、それから肩に掛けたショルダーバッグはあまり清潔とは云えず、ちぐはぐな印象を受ける。桟橋には、僕らが所有するクルーザーと反対側にもうひと回り小さなクルーザーがつけられていた。
突然の訪問者は、恐縮そうにぺこぺこ頭を下げながら名乗った。
「あのゥ……松尋と申します……いえ、松が姓で、尋が名で……そのゥ……探偵の甘施無花果さんにお話があって来たンですが、よろしいでしょうか……?」
屋敷の中央――少女界を表す曼荼羅が床に描かれた部屋を応接間とし、其処に松尋さんを招じ入れた。それから無花果を引っ張ってきて、アームチェアに座らせるまで至った。
「なんという非常識。マナーとはスーツがつくるものではありません」
誰よりも非常識な人がぷりぷり怒っている。松尋さんは「へい……済みません……」と頭を下げつつも、僕らが海野島にいることを掴んで押し掛ける積極性は伊達でなく、織角ちゃんが飲み物を持ってくるのも待たずに本題に入った。
「あたしは山の奥の奥の奥の……ずーっと奥にある、雅嵩村というところから来ました。村の人間は外とは関わりを持つことなしにひっそり暮らしてるンですけども、あたしは村の中ではついぞ解決できなかった問題について外の偉い探偵サンなんかのお力を借りたいと思いまして、これまで二十年ほど、村からひょこひょこと外に出てはお金を稼いで貯めておりました……それがついに失礼のない額にまでなったンで、いろいろ調べてみた末に甘施さんにご依頼したいと思った次第です……」
「アポイントの字も知らない人間の考える〈失礼のない額〉ですか」
「へい……」
松尋さんは薄汚れたショルダーバッグの中をごそごそと探り、ローテーブルの上に札束を積み始めた。漠然と二百万程度を予想して眺めていたが、
「……二千万円。これを前金としまして……解決していただきましたら、もう三千万円を重ねてお支払する用意がございます……」
「結構」
無花果は現金なもので、口元を少し緩ませた。
総額五千万。田舎者がよくもそこまで貯めたものだ。驚くべきはその執念か。
松尋さんは安堵の表情をちらと浮かべたのも束の間、引き締めた。
「それで甘施さんには、雅嵩村まで来ていただきたく思います……頼みたいことと申しますのは、あたしの兄……竹呉……旧姓、松呉が二十数年ほど前に空へ落ちてしまったことについて、その真相を暴いて欲しいということなンですが……」
「空へ落ちた、と云うのは?」
これは僕が訊ねた。
「へい……雅嵩村では、罪人は空へ落とされるという云い伝えが古くからございます……こんなコトをしかつめらしく云っては笑われてしまうかも分かりませんけども、竹呉が消えましたときの状況というものが、ドウモこの云い伝えを裏付けるとしか思われぬ不思議なものなンで……。
竹呉は、当時、満一歳を迎えたばかりの娘……竹彌を抱いて、裏庭へ出たようです……竹呉の下駄の足跡が雪ン上に残っておりました……けども、それが十間ばかり行ったところでパッタリ途絶え、周りを見回しても不審な痕は一切なかったンです……。
村人みんなで血眼になって探しましたが、ついに竹呉と竹彌が見つかることはありませんでした。こういうわけなンで、空に落ちたとしか……」
「竹呉さんというのはその……罪人だったんですか?」
「いえ、滅相もない!」
松尋さんは勢い良くこちらに振り向き、その剣幕は僕もたじろいでしまうほどだった。彼は「あっ、」と気付いて項垂れた。
「済みません……へい、竹呉が何か罪を犯していたのか、あたしにはどちらとも申すことはできません……へい、つまりあたしが甘施さんにお願いしたいのは、そういった竹呉の行方不明にまつわる謎のすべてを余さず解き明かしていただきたいということで……随分と昔の話にはなってしまいましたけども、閉鎖的なあたしらの村ンことです、あの頃から時間が止まったかのように何も変わっておりません……その点はさして弊害にはなりませんはずです……」
そして伺いを立てるように、ちらと無花果に視線を向けた。
「……どうでしょう?」
いつもの如く、無花果はいっそ鬱陶しげに引き受けると思われた――が、
彼女は難しい表情……僕だからこそ分かる機微……困惑の滲んだ表情を浮かべていた。
「無花果?」
僕が呼び掛けると、しかし彼女は今の妙な間などなかったかのように、
「そのような辺境の地に足を運ぶのはいささか面倒ですが、いいでしょう」
頷いた。もう不自然な空気はない。とはいえ、僕はこの引っ掛かりを片隅に留めておく。
「貴様の村に出向き、貴様の兄の行方不明に関する隠された事情を暴く――それでいいのですね?」
「オオ、ありがとうございます……」
松尋さんは床に額が着くんじゃないかというくらい、深く頭を下げた。
僕の背後で、飲み物の乗った盆を手に這入ってきた織角ちゃんが「またひとりになっちゃう」と無感動に呟いた。
翌日。海野島から本土に帰り、一度家に寄って荷造りをやり直した後、松尋さんの運転する車で僕らは雅嵩村へと向かった。深山幽谷。この国にもまだまだ未開の地があるものだなぁなんて感慨を抱かされながら、山の奥の奥の奥の、ずーっと奥。浮世からの隔絶。現実感というものが遥か後方へ遠ざかっていくような、地に足の付かない心地がした。
昨日まで海に浮かぶ島にいたのが、今日は山に埋もれた村。
まるで〈さかさま〉であった。




