「久し振りだね、塚場くん」
いくら僕だって四六時中ずっと無花果と共にいるわけはなく、空いた時間にひとりでふらっと喫茶店に来たりもする。
家から程良く離れたところにある『フェレス』という店はよく利用する方で、僕はいつも一番奥のテーブル席に座る。別にこだわりはない。ひとりなんだからカウンター席を選択すべきなのかも知れないけれど、流行っている店じゃないし問題ないだろう。
適当に珈琲を飲みながら本を読んで過ごす。云うまでもないが、ミステリ小説を読むことはほとんどない。日頃からあんなものを読んでいるのは変態ばかりで、僕は変態じゃないからだ。
していると、僕と向かい合う席に腰掛ける人がいた。混雑してもいないのに相席? 何だろうと思って本から顔を上げ、納得する。
「桜野か」
およそ四年振り。其処にいたのは桜野美海子だった。
「うん。久し振りだね、塚場くん」
柔和な微笑みを口元に刻み、両手を組んだ上に顎を乗せている彼女。
髪が肩の下あたりまで伸びていて、以前かけていた緩いパーマはやめたようだ。顔つきは相変わらず幼さが抜けないものの、雰囲気は幾分か大人っぽくなっている。
「元気そうだな。まだ探偵やってるのか?」
「やってるよぉ。君も懲りずに小説家じゃん。もう、一向に上達しないんだから」
間延びしたような喋り方が懐かしい。
「毎度読んであげてるんだよ、初版でね」
「そりゃどうも」
「まず鼻につくのが冒頭だよ。『作家のくせに嘘をつくのが大の苦手である僕のことだから』なんて毎回毎回、君は本当に嘘ばっかりつくよねぇ」
わざとらしく溜息を吐く桜野。何だか生き生きとしている。
「呼吸するように嘘をつくってより、嘘つくように呼吸してるんじゃない? ――あ、来た来た」
来たと云うのは店員さんで、珈琲とモンブランと苺タルトがテーブルの上に置かれる。席に着く前に注文を済ませていたらしい。目をキラキラさせてそれらを食べ始める桜野を眺めながら、僕は考える。
白生塔で自殺したと認知されている桜野が、こうして生きているのはどういうわけだろうか?
まず大きく分けて、偽者の場合と本物の場合がある。
……桜野は珈琲が苦手だったのに目の前の桜野は平然とそれを飲んでいるけれど、これは何の判断材料にもならない。四年経てば珈琲くらい飲めるようになるだろう。
さておき、それでも偽者と考えるなら、真っ先に頭に浮かぶのは先日脱獄したというバイオレント紅代だ(ジェントル澄神は捕まったまま)。彼女は変装もこなせるみたいだし、僕と無花果に恨みを抱いている。
「ん、云っておくけど変装じゃないよ?」
僕の思考を読んで桜野は一旦顔を上げた。口の端についていたクリームをティッシュで拭き取ってやると、嬉しそうに「ふふ」と笑った。
「甘施さんが披露した推理を思い出すね。枷部さんが怪人二十面相よろしくマスクで変装してたってやつ。私は自分の顔を掻き毟ったりはしないけど、塚場くん、好きなだけ確認していいよ?」
顔をずいっと近づけてくる。
「いや、遠慮しておく」
「そう」
そしてまた顔を伏せ、今度は苺タルトに取り掛かる。桜野は昔から甘いもの好きで、食べても食べても全然太らない。
僕は思考を再開する。
メイクでなくとも、いまは整形で顔なんてどうにでもなる。偽物の可能性を否定はできない。バイオレント紅代以外にも桜野を装う動機を持つ者は沢山いるだろうし、動機がなくてもやる人はいるだろう。
かと云って、本物でないとも限らない。
僕は救助が来るまで白生塔の十一階で獅子谷敬蔵のコレクションを弄って遊んでいたから、桜野が自殺するところ――あるいは無花果に殺されるところ、どちらにせよ見ていないのだ。
つまり、あのとき起こった出来事がそれら以外だったのだとしても、やっぱり見ていない。知らない。
無花果と桜野が二人で何かを取り決めたかして、二人共脱出していたなら?
元はと云えば無花果は自分と枷部・ボナパルト・誠一扮する首切りジャックの二人分を死んだことにするのが建前だったのだから、ダミーの白骨遺体を二人分持って来ていても不思議じゃない。体型の違いこそあれどうせ灰になったのだし、それを自分と桜野の分として使うことはできた。そもそも、ひとりぶん少なくたって気付かれなかったかも知れない。クローズド・サークルで僕だけが生存者――そのあまりに明らかな状況がゆえに、細かい検分はほとんど行われなかった。
それに――これは別の話になるが――、僕は無花果が桜野なんじゃないかとすら疑っていたくらいだ。今、目の前に本物だか偽者だかの桜野がいても、この疑いだって揺るがない。
確かなことは何ひとつない。
真実を限定することは不可能。
たとえば目の前の桜野の髪の毛なり何なりを採ってその手の機関にDNAを調べてもらったとしても――それが一致しても不一致でも――、データが改竄されていないとどう証明する? 調べた人間が何らかの意図を持って嘘をついていないとどう証明する? すり替えは行われなかったか? 手違いは? 勘違いは? 間違いは? 気まぎれ。偶然。奇跡。果てにはクローン。無限の可能性。神でさえ、欺かれていないとは限らない。
「で、君の小説――って云うか、君達の探偵活動についてだけどさ、」
食事を終えた桜野がまた話し始めた。僕は考えるのをやめる。本物だろうが偽者だろうが別にどうだっていいことだ。
「裏でこそこそやってるのは目を瞑るとしても、表のことでも不満だらけだよ。手掛かりを集める気がろくにないのも、最初からすぱーんと真相を云い当てちゃうのも、ロジックを蔑ろにした大味なハッタリっぷりも、何でもそうだけど……特に甘施さんの〈探偵としての嗜み〉、あれはズルだよねぇ」
うるさ型の読者そのものな口調で語る桜野。
「万能すぎ。私は探偵が超能力で事件を解決するようなミステリは断固認めないからね」
「超能力って……。仕方ないよ、新倉さん仕込みの技の数々なんだ。無花果もそのぶん苦労してきたみたいだし、使うなって云うのは酷だろ」
新倉というのは無花果を孤児院から拾って探偵に仕立て上げた人物で、白生塔で(たぶん)無花果に殺された。恩を仇で返したと云うよりは、積年の恨みを晴らしたということらしい。
「そう、それだよそれ。新倉さん」
桜野がさらにウキウキし出す。
「甘施さんって本当にいつまで経っても容姿が変化しないし、成長はちょっとしてるみたいだけど所詮ちょっとでしょ? だから私、甘施さんは新倉さんにそういう薬をずっと投与されてたんじゃないかって思うんだよ」
「有り得なくはないな」
「不老長寿――無花果って名前も新倉さんが付けたんだろうし、新倉さんは完璧な名探偵をつくり出そうとしていたに違いない。このままいくと甘施さんは歳を取らないまま、塚場くんだけが歳を取って新倉さんみたいになるよ。塚場くんが死ぬと、今度は次の〈新倉さん〉が甘施さんのパートナーになる。それが延々と繰り返されていく……。もしかしたら新倉さんも初代じゃないのかも。塚場くんは何代目なんだろうね? 甘施さんが頑なに教えようとしない年齢――もう五百とか千だったりして」
「うーん、さすがにリアリティに欠けるな」
変な小説ばかり読んでいると、こういう想像力ばかりが肥大化するようだ。可哀想な桜野。超能力が嫌いとかいう発言は何だったのか。
「可哀想な塚場くん。ふふ。私のところに戻って来たかったら、いつでも云っていいよ」
「遠慮しておくよ。僕は無花果の語り部だし」
「元は私の語り部だったでしょ?」
「でも死んだじゃん、お前」
「そうだねぇ、死んじゃった」
桜野はにまーっと脱力して笑う。本気の誘いではなかったのだろう。彼女は僕がいなくても生きていける。僕も桜野がいなくても生きていける。だが、
「甘施さんは塚場くんがいないともう生きていけないもんね。それを奪っちゃ悪いよね」
「うん」
無花果が聞いたら激怒しそうだけれど、それは図星だからだ。
「人は人といると弱くなるよ。自分の担当分が減るんだから当然だね。べったり甘えて腐っていく。私はひとりになって、とても強くなったよ。ほら」
カップを掲げて、中身の珈琲を飲む桜野。たしかに感動的な成長だ。親が見たら涙するかも知れない。
桜野の親も僕の親も、とっくに死んでいるけれど。
「でも人と一緒にいることで総計、ひとりでいるより強い力になったりもするとか何とか。ふふ、小学校の道徳の時間。よく塚場くんとサボったっけ。憶えてる? 屋上で」
「憶えてはないけど、そういうことしてたっては前にも聞いたな」
屋上で授業をサボタージュだなんて、小説脳の桜野がいかにも好みそうなベタな真似だ。
「私が本読む隣に、塚場くんがいてくれるの。邪魔だったけど、心地良かったよ。私は塚場くんが好きだったからね」
桜野は「ふふふ」と笑って、席を立った。
「いまも好きぃ。私を殺した塚場くん」
じゃあまたね――と手を振って、彼女は去って行った。
好き勝手喋って、お代も置かずに帰るとは……。
何がしたかったんだろうと思いながら、僕はまた読書に戻る。
それから思い付いて、新しく珈琲を注文する。最初の一杯がまだ残っているが、素直に毒殺されてやる義理はさすがになかった。




