14「少女界」
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有為城煌路の部屋へ向かう道中。
「――もしもある瞬間におけるすべての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も過去同様にすべて見えているであろう」
澄神さんは何かの一節を暗唱した。
「〈ラプラスの悪魔〉か」と矢峰さん。澄神さんは「ええ」と微笑む。
「数学者ピエール・シモン・ラプラスが述べたこの〈知性〉を探偵に置き換えてみましょう。彼ないし彼女が事件を構成する諸要素――その位置と運動量を知れば知るほどに、過去も未来も同時にその視野の内に顕れる。類推でなく、可視化。これが広く一般に考えられている探偵モデルのシステムです」
しかし――、と彼は言葉を区切る。
「ゆえに彼らは不完全なんですよ。ラプラスの悪魔は不確定性原理によって否定されているんです。粒子の位置と運動量を同時かつ正確に知ることは不可能ですからね。したがって、かの〈知性〉を目指したところで、それに漸近するほどに綻びが生まれるだけ。私の探偵作法はそれとは別にあります。結論を云えば、核を発見することです。事件を成り立たせている核。それを見定めることでこそ諸現象は解体され、諸要素は結び付くんです。そして今回の事件の核は〈挑戦〉――これをよく頭に入れてください」
謎解きというより講釈だ。
「何だか新鮮です」
隣を歩く塚場さんが俺に話し掛けてくる。
「いつもは後に小説にすることを念頭に置いて推理を聞きますけど、客の立場というのは気楽ですね。賽碼さん、頑張ってください」
「はい……」
空返事になる。それどころではないのだ。大体、俺がこの事件を小説にする時なんて来ないかも知れない。あるいは獄中で?
いざとなったら葵の罪は俺が引き受けよう。澄神さんがそこまで看破したとしても、それだけは頑として譲らないようにしよう。葵だけは絶対に守らなければ……。
一行は現場に再び帰って来た。澄神さんは死体を迂回して奥にあるデスクの前まで進み、俺達の方へ振り返る。
「この海野島。万が一大津波が来た場合、飲み込まれる危険性がありますよね」
えらく無関係な話から始まった。たしかに皆が思っていたことではあるだろうが……。
「その対策が何も講じられていないはずはありません。馬鹿と煙は高いところへ上りますが、賢明なる有為城氏は地下へ潜るのです。地下シェルターですよ」
彼はポケットから小さな四角い木片みたいなものを取り出し、掲げた。
「これがその鍵です。そこに転がっている死体――ジェーン・ドゥが握っていました」
「へぇ、気付かなかった。その柄ってもしかして……」
「お分かりですか、府蓋さん。そうです、この部屋の床に描かれた曼荼羅の一部です」
「ああ、これって曼荼羅なんですか」と塚場さん。
「曼荼羅――仏教の世界観、あるいは仏界、諸仏・菩薩の姿などを象徴的に描いた絵画ですね。このようにシンメトリカルな円構造を持つものが多く、その語源もサンスクリット語で〈丸い〉を意味すると云われています」
俺は早くもついて行けなくなる。マンダラ? 地下シェルター? 鍵? 死体が握っていた? 何の話をしているんだ?
「しかしこの床に描かれたオリジナルの曼荼羅には、仏でなく少女が描かれている。有為城氏にとって仏界とは少女界なのです。少女というものを崇拝していたのです」
つまりロリータ・コンプレックスか? それはその通りかも知れない。葵を襲おうとした彼だ。
「ところで皆さんはこの館について、他にも疑問を抱きませんでしたか? 極度の厭世家であり、客人を招くことなんてなかったはずの有為城氏が、どうして客室を用意していたのかという点です。そもそも有為城氏と織角さん二人きりにしてはこの館は大きすぎ、余分な設備で溢れている。食堂の長テーブルや椅子の数もそれに含まれるでしょう」
澄神さんは反応を待つように俺らを見回す。すると面倒臭そうに矢峰さんが、
「客用なんかじゃなく、養子用だってことか」
「そうです。このジェーン・ドゥによって皆さんも有為城氏の養子が織角さん以外にもいたという可能性に思い至ったようですが、ならばそれをひとりにとどめる理由はありますまい。そして彼女らが今、どこにいるのか?」
澄神さんは踵で床を叩いた。
「地下シェルターです。私達の滞在中、養子達は其処に隠されることになったのです」
彼は片手を背後のデスクに乗せ――いや、何かを操作している?
見ればデスクの角に、正方形のパズルみたいなものが埋め込まれていた。中には八つのピースが嵌っており、ひとつ分空いているためにそれぞれ縦横にスライドさせられるらしい。その絵柄はこの部屋の床と同じ曼荼羅だった。
「此処で複数人の養子達が暮らしているのは、館の中を探索すれば容易に知れますよ。私達が無闇に歩き回るのを禁じられていた理由はそれです。たとえば有為城氏は昨夜、画家のような衣服を着ていましたよね。養子達をモデルに絵に描くことを趣味のひとつとしているからでしょう。しかしそういった証拠をひとつひとつ見せていくのも退屈だ」
ピースひとつ分の穴を残して、絵柄が完成する。澄神さんはそこに、
「それでは行きましょう」
持っていた〈鍵〉――最後のピースを嵌め込んだ。
ガコン、と大きな音がして。
うぃいいいいいいいいいいいいいん、と何かが稼働した。
「わっ!」
誰とはなしに声が上がる。
俺らのいる部屋が、振動しながらゆっくりと下り始めたのだ。
「Seeing is believing――この館は中央部分が縦にまるまる、エレベーターとなっているのです。此処とこの上の部屋とがひとまとめで箱というかたちですね。屋根の上にひと部屋分とび出していたのは機械室であり、屋根に穴が開かないようにする蓋でもあります。この部屋に調度品が少ないのも、壁に何も掛けられていないのも、扉でなく引き戸であるのも、この構造がためでしょう」
壁は動いていない。床と天井、それを繋ぎ支える四隅の柱だけが下っている。だが床(だった位置)より下、地下には壁はなく、どうやらひと回り大きな空間が広がっているらしい。
「はははは……」
自分が置かれている複雑な立場も忘れて、笑ってしまった。
何なんだ、これは?
「推理小説家ってのは拗らせるとろくなもんにならんな」とは矢峰さんの呟き。こればっかりは同意だった。感心よりも呆れが先に立ってしまう。
地下空間の床から五十センチほど浮いたところで、俺らの立っている床は止まった。すると円形の地下空間、その壁に取り付けられた照明が自動的に点いた(天井の照明も消えないままだ。じゃあ今までいた部屋の壁にあったのはスイッチでなくリモコンのボタンという仕組みか)。
照らされた地下シェルター内。
俺らは十数人の少女達に囲まれていた。
それぞれ壁に凭れたり椅子に掛けたり床に寝転んだりしながら、物云わず、特に反応もなく、ぼんやりと俺らを眺めている。ずっとこのようにして、此処に潜んでいたのだろう。
「少女界――つまりはそういうことです」
澄神さんが云うのと同時、葵が「きゃっ」と小さく叫んだ。慌ててそちらに目を向けると、その足元で播磨さんが倒れていた。あまりに刺激的な出来事の連続で気絶しまったようだ。いくら務めだからとはいえ、ご高齢でいらっしゃるのに無理していたのだろう……。
「ははは、本番はこれからだというのに、もったいないですね」
他人事みたいに笑う澄神さんに「ジェントルさん、」と府蓋さんが呼び掛ける。
「てっきり此処に煌路さんも隠れてるってことだと思ってたんだけど、そうじゃないの?」
「ええ、違いますよ。隠れるも何も、有為城氏は既に殺されていますから。私がいつ、犯人が彼だと云いました?」
……俺も気を失いたかった。




