12、13「Jane Doe」
12
女の子の死体だった。
一階、館の中央に位置する有為城煌路の部屋。
絵画とも紋様とも取れる、奇怪な柄の床の上。
それは有為城煌路の死体があったのと同じ位置に、仰向けで横たわっていた。
一糸まとわぬ姿、つまりは裸で、肉付きが良いとはとても云えない蒼白い肢体がさらされている。俺はすぐに目を背けた――あまりにも無防備に大の字で寝そべっているものだから、かえって見てはいけないという感じがした。
目を背けたくなった理由はそれだけではない。死体にはあちこちに紫色の痣が浮かんでいた。殴られたのか、叩かれたのか、絞められたのか、生々しい暴行の痕が犇めいていた。
そして何より、顔面が原型を留めないまでに潰されていたのだ。何か鈍器のようなもので幾度となく殴られたのだろう、腫れ上がっているなんてレベルじゃない。徹底的に破壊されている。周囲に飛び散った赤い血。
視線を逸らした先には、織角ちゃんがいた。パジャマ姿で隅の柱に背中を預け、虚ろな瞳を真っ直ぐ死体へ向けている。播磨さん曰く、彼がやって来たときには既にこうしていたらしい。
言葉を発さない彼女。言葉を知らない彼女。
彼女は何を感じている?
そもそも何かを感じているのか?
「たしかに殺人だな。まぎれもなく」
矢峰さんが口を開いた。皆、応えるまでもなく解っていることだ。
自分で自分の顔面をこうも破壊はできない。この有様は、被害者が絶命した後も執拗に殴られ続けたということを示している。
「嫌……」
葵は死体に背を向けて、俺に凭れた。俺も平気とは云い難がったが、それによっていくらか気が引き締まった。彼女の手前、ただ混乱してはいられない。いくら意味不明でも、起こっている出来事は事実。とにかく頭をフルに稼働して、少しでも把握に努めなければ……。
「撲殺……でしょうか」
誰にともなく問い掛けてみた。「だろうな」と詰まらなそうに矢峰さん。
「顔のない死体とはいかにも定番だが、現実に相見えれば馬鹿馬鹿しいことこの上ない」
「ジェーン・ドゥですね」
突然そう云って、澄神さんが進み出た。皆の注目が集まる。彼はそのまま、死体の周りをぐるぐると回り始める。その様子はまるで美術品を観賞する好事家みたいだ。
「殺されたのは今朝ですよ。血がまだ乾ききっていません」
彼は笑みを浮かべたまま、なんと死体を足でごろんと転がしてしまった。しかし誰も咎めようとしない。いいのか?
「うん、背面の死斑もこの程度だ。ああ、紅代がいれば解剖医並にあれこれ詳細を引き出してくれるんですがねえ……今回はハンディキャップとでも捉えましょうか」
彼は床に片膝を着け、さらに死体に顔を近づけて観察していく。俺はまた視線を逸らす。
「この子も煌路さんの養子なのかしらね」
府蓋さんの淡々とした声。彼女の目は織角ちゃんに向いていた。
誰も反応を返さないので仕方なく俺が、
「……でも有為城さんは、この島には織角ちゃんと二人暮らしだと云ってましたよね」
「んー? 死体がこうして存在してる以上、煌路さんの言葉は嘘だったと分かるじゃない」
妃継さんと何やらアイコンタクトを交わしながら述べる彼女。
「殺人犯の言を信用する法はないでしょ」
「殺人犯? 有為城さんが?」
と、口に出した後で気付く。そうだ、有為城煌路の部屋に他殺死体があり、当人の姿が見えない――この状況は『彼が殺人犯で、行方をくらませた』と考えるのが自然なのだ。
だが、俺は知っている。有為城煌路は犯人では有り得ない。俺が彼の死体を海に捨てたころ、まだ此処にこの死体は転がっていなかった。澄神さんも、この殺人は今朝方に行われたものだと云っている。
……犯人は、この中にいる?
冷や汗が流れる。その犯人は、俺と葵がやったことを知っているのか? ならば命運を握られているようなものじゃないか。しかも、こちらは相手が誰なのか分からない。
俺と葵は窮地に立たされているのか?
「だが、事情が読めんな」
矢峰さんが再び口を開いた。俺はびくっと跳び上がりそうになってしまった。
「有為城煌路がこいつを殺したとして、死体を放置して雲隠れとは浅はかにもほどがある。誰もこいつの存在を知らなかったなら、死体を隠しておけば事は露見しなかっただろう。なのにごていねいに、こんな分かりやすい場所に置いて自分が姿を消すとは、逃走として成立しておらんよ」
「あ、たしかに」と府蓋さん。
矢峰さんは嘆息し、死体を検めている澄神さんへと目を向けた。
「なら挑戦だな、これは」
挑戦?
「その通りですよ、矢峰くん」
死体を検め終わったらしく、澄神さんがすっと立ち上がった。
「この死体は部屋の中央に大の字になり、まさに〈これ見よがし〉に寝かされています。犯人が殺害後、死体をこの状態に整えたということです。なぜわざわざ自分の犯罪を露骨に開示したのか。この矛盾めいた行動から見出される意味は〈挑戦〉しか有り得ません。開示ではなく、提示なんです」
すると俺に凭れる葵が、何か呟いた。
「どうした、葵」
「……昨日、有為城さんが云ってたでしょ? 此処に人を招いた理由が『すぐに分かる』って」
「ああ……!」
云っていた。俺の質問への返答だったからはっきり憶えている。
じゃあこの〈挑戦〉が、俺達を招いた理由? いや、違う。この犯人は有為城煌路ではないのだ。皆はこれでそう納得しているのかも知れないが、俺と葵はそれが間違っていると知っている。
なら有為城煌路の目的は何だったのだろう? 葵……若い女を抱くこと? 客人に〈若い〉と指定をつけたのは彼だったらしいが……。
その時、インターホンの鳴る音が聞こえた。
軽快に響く、客人の来訪を知らせる鐘。
「素晴らしいタイミングですね。ここで役者が揃うとは」と澄神さん。
部屋の出入り口付近に控えていた播磨さんは音を聞くや否や歩き出しており――この状況でも自らの職務を忘れていないのだから、そのプロ意識には感服せざるを得ない――、俺らもそれについて行く。別について行く必要はないかも知れないが、何となくそういう流れだった。
廊下を真っ直ぐ進み、玄関。播磨さんが扉を開くと、果たして、
「あ、遅れてしまって申し訳ありません。招待していただいた塚場です」
恐縮そうに片手を後頭部にあて、苦笑いを浮かべている男性。
小説家・塚場壮太。
彼の著作も何冊か読んだことがあるけれど、そのイメージどおり、温厚で無害そうな人だ。どことなく不憫なオーラを感じるのは、彼が相方の甘施無花果から普段受けている扱いを知っているからか?
「おや、おひとりですか?」
澄神さんが訊ねる。肩透かしを食らったような表情だ。他の皆も同じだろう。
「はい、無花果を連れて来ようとしたんですけど『興味ない』って一蹴されまして。気にしないでください、そういう奴なんですよ。えーっと……」
塚場さんは玄関に集合する俺達の様子から何か察したらしく、そこでちょっと困った顔をした。
「どうかしたんですか? もしかして殺人事件が起きたとか? ああ、いえ、すみません。職業柄、そんなことばっかりなんで」
遥か遠くの海上では、見覚えのあるクルーザーが地平線に消えようとしていた……。
13
食堂で、お預けとなっていた朝食を取ることになった。警察には通報したが、到着するにはまだ三時間以上掛かるだろう。食事を済ませて島にやって来たらしい塚場さんは、播磨さんから事情を説明されながら部屋に荷物を置きに行っている。
俺は料理を味わっていられるような気分ではなく、外面だけ落ち着いた振る舞いをしつつも皆の様子を窺う。相変わらず、殺人事件が起きたというのに動揺している様子は全然ない一同。
そんななか、ひときわ異彩を放っているのは織角ちゃんだ(播磨さんがとりあえず連れて来て座らせた)。物云わず、ちびちびとトーストを齧っている。虚ろな瞳……悲しみとは違うみたいだけれど、彼女は有為城煌路の失踪や自分と同じ養子の死を理解しているのだろうか?
「大変なことになっちゃったね」
隣の葵は料理に一口もつけず、俯いている。不安で不安で堪らないのを、これでも必死に隠しているのだろう。
「うん……」
俺達は、どうするのが正解なのか。
正体の分からないもうひとりの殺人犯が俺達の犯行を知っているのだとしたら、俺達はそいつを庇う必要があるだろうか。そいつに俺達の罪まで押し付けることは可能だろうか。
……分からない。何をしようにも具体的なビジョンが浮かばない。仮に浮かんだところで、妙な行動を取れば怪しまれる。しかし、あとは神のみぞ知るなんて態度で投げ出してしまったら、俺達に待つのは破滅なのでは?
俺は葵の手を握った。それは葵を勇気づけるためというより、自分のためかも知れなかった。
「――うーん、無理にでも無花果を連れて来るべきだったかも知れませんね」
播磨さんと共に、塚場さんが食堂にやって来た。彼は事件のことを聞いてもあまり驚いた様子はなかった。さすが、殺人事件が当たり前の環境に身を置いているだけある。
「私としても残念ですよ。てっきり会えるものと思っていましたから」
澄神さんは自分の隣――俺の隣でもある――に新しく用意された椅子を彼に勧めながら、本当に残念そうに肩を落としている。
「でも彼女、人と仲良くすることとか絶対にないですよ。事件のことを措いておけば、会わないで済んで良かったんじゃないでしょうか」
塚場さんは笑顔を若干引きつらせている。苦労しているんだろう。
「分かりませんよ。甘井無果汁さんにはこの前お会いしたんですが、彼女とはすぐに打ち解けられた私です」と、おどけたふうに澄神さん。
「甘い無果汁?」
あんまり奇妙な響きに思わず俺が訊くと、
「甘施無花果さんをリスペクトし、真似ている探偵ですよ。似ているかはともかく、非常にチャーミングでした」
「ああ、その子、もとは無花果のところに弟子入りを志願して来たんですよ。当たり前に断られて、それから変な名前で活動し始めました。歯牙にも掛けないかと思いきやそれは無花果もちょっと嫌がってて、面白いです」
「なるほど、微笑ましいですね」
澄神さんは笑い、するといきなり立ち上がった。
「さて。甘施無花果さんと対決なんて洒落込めれば良かったんですが、仕方ありません。私も今回は紅代を連れていないことですし、またの機会に譲りましょう」
彼は長テーブルを回り、食堂の皆を見渡せる位置に移動した。それから全員に聞こえる声で、
「事件を解決しましょうか」
あまりにもあっさりとした一言に、俺は理解が遅れた。
「すごいですね。もう分かったんですか?」と塚場さんが云ってようやく、
「え?」
と反応する。
「はい。ですがひとつ問題がありましてね」
真相を看破したこと自体は当然のような口ぶり。
置いてけぼりを食らう感覚。
本当に? 本当に分かったのか? それは俺が犯罪の一翼を担っていることまで含めて? この短時間に、ろくに情報もないのに?
「私は職業探偵ですから、依頼がないと動けません。いえ、依頼というより報酬ですね。タダ働きをしてしまっては、これまでに報酬を払った依頼人に申し訳が立ちませんし、今後の活動に差し障ります。プロフェッショナルであるためには、一度でも安売りを許してはいけないんです」
そこで――、と澄神さんは俺を見た。
「賽碼さん、君にこの事件を小説化して欲しい」
冷水をぶっ掛けられたような気分になった。
「ど、どうしてそうなるんですか?」
「それを〈見返り〉と捉えて動くためですよ。皆さんの中に『どうしてもこの事件を解決してもらなわなければ困る』というかたはいませんから、つまり依頼人を立てることはできません。なので私は自分の活躍を小説にしてもらい、良い宣伝――プロモーションとするために解決したというかたちを取ろうと思うんです」
「……いつもは矢峰さんがしていることですよね?」
「させられていることだ」とすかさず訂正する矢峰さん。
「ええ、しかし矢峰くんにしてもらっては〈依頼人がいないのに探偵活動をする云い訳〉には弱いでしょう。なにせいつものことですから。ゆえに賽碼さんというわけです」
混乱する。混乱する混乱する混乱する。
どういうことだ? 澄神さんはもう真相に至っていると云う。その彼が俺に、この事件の小説化を頼んでいる。駆け引きか? 俺の反応を見ようとしているのか? それとも彼の至った真相に、葵と俺の犯行は含まれていないのか? もうひとりの犯人にすべてを被せられるのか? だがそいつは犯人だと指摘されれば、俺達のこともバラすかも知れない。どうすればいいんだ?
「君にとっても悪い話ではないでしょう。売り上げは一切私に分配しなくて結構ですよ。私にとってはプロモーションという部分が大事なのであって、形式上の云い訳に使いたいだけですからね」
でもどうして俺なんだと云いかけて、たしかに俺しかいないかとも思う。矢峰さんが除かれるなら、塚場さんは甘施無花果とコンビを組んでいるのだし、妃継さんは……変わり者すぎて頼めそうもない。
俺がなかなか答えないのを見て、澄神さんは首を傾げる。
「断る理由はないと思うんですがねえ。断られると少し困りますよ。と云うのも、この事件は絶対に警察には解決できません。私が動けないなら、真相は永久に闇の中です。ビジネスと云うより正義のため、賽碼さんにはご協力願いたいですね」
淡々と述べる澄神さん。だが俺は解っている。混乱しつつも、どうしようもなく解っている。断りようがない。これを断ることはできない。
詰みだ。こちらがなんの手を打つこともなく、詰まれてしまったのだ。
早すぎる。次元が違い過ぎる。
これが、名探偵…………。
「……分かりました」
俺は応えた――せいぜい表面上は落ち着き払って。
「ありがとうございます」と、澄神さんは口元を綻ばす。その真意は読めない。
ジェットコースターに乗っていて、もうそれは動き出していて、最初の傾斜を上がっていく最中なのだと思った。
止めるすべはない。
そして戻って来られるかは、分からない。
「それでは皆さん、解決編です。ついて来てください、有為城煌路の部屋へ行きましょう。まずはこの館の秘密を解かなければならないんです。もっとも〈鍵〉は、既にこの手の中にあります」
颯爽と歩き出す澄神さん。それぞれ呆れていたり楽しそうだったり訝しげだったり不安そうだったり虚ろだったりする一同が、それに続く。
葵の手を握る俺の手は震え、汗でぐしょ濡れだった。




