1、2「賽碼参助の当惑」
1
十月上旬。日々の端々に秋の訪れを感じさせられるなか、担当編集の吉蠣さんからその話をいただいた。
「賽碼さん、有為城煌路の邸宅にお邪魔したくありませんか」
有為城煌路といえばキャリアこそ十年ほどだけれど、デビュー作の時点で完成されていた重厚な世界観は達人の域、既にその地位を不動のものとしている人気作家だ。数年前に死去した稀代の推理小説家・獅子谷敬蔵を継ぐのはこの人しかいないと云われるくらいだから、その高い評価が窺えよう。
同じく推理小説を書いて生計を立ててこそいるものの、俺のような三流作家とは格どころか世界が違う。
よって吉蠣さんの話は与太の類かと思ったのだが……、
「有為城さんが若い推理小説家を招聘してお話してみたいと云うのですよ。それで私が候補選びをしているんですが、どうですか?」
「えっ」
からかっているのか? しかし、仕事に関する事柄ではふざけない彼女だ。
「嫌ですか?」
「いえいえ、とんでもない。光栄ですが……荷が重いにもほどがありますよ。俺みたいなヒヨッコが行ったら、顰蹙を買うでしょう」
「そんなことありませんよ。相変わらず自己評価が低いですねぇ。ちなみに現時点で参加が決まっていますのは……有為城さんは少人数での会合をお望みなので数は少ないですけれど……矢峰方髄、妃継百華のお二方ですね」
どちらも一線で活躍する推理小説家だ。有為城煌路。矢峰方髄。妃継百華。この時点で、目も眩むような錚々たる顔ぶれである。そこに参加するのは、猛獣の犇めく檻に投げ込まれるのと変わらない。
「そ、それにしても意外ですね。有為城さんが人を招くというのは……」
少しでも気持ちを整理する時間が欲しくて、俺はやや話題を逸らした。
「有為城さんは大変な厭世家という話じゃないですか。まったく人と会われない……それどころか、これまで誰にも姿を見せたことがないとか」
有名なエピソードだ。有為城煌路は徹底して素性を明かさない。性別も年齢も公式の情報は皆無だし、写真の一枚も出回っていない。どんな生活をしているのか、どんな経歴のある人なのか、知る者は皆無。編集者ともメールで必要なやり取りをするのみで、一度だって顔を合わせようとしないとのことだ。
「はい、私も驚いています。ですからこれも内々の話でしてね」
吉蠣さんはまだ若いながらも敏腕の女性編集者で、現在、有為城煌路の担当をしている。矢峰方髄も妃継百華も同様に彼女の担当だから、それで俺にも声が掛かったのだろうが……。
「誘っていただいたのは嬉しいですけれど……」
やはり畏れ多いと思い断ろうとすると、しかし吉蠣さんは「賽碼さん、」と遮った。
「遠慮することはないんですよ。賽碼さんも立派な一角の小説家です。そう卑下しないでください。……それから、私が貴方に声を掛けたのは、これが貴方にとってチャンスだと思ったからです」
「チャンス、ですか?」
「作家として刺激になる、というのもありますけど、私が云っているのは他です。賽碼さん、これは貴方が例の想い人と再会するのに打ってつけの機会じゃありませんか?」
「あっ!」
思わず声を上げてしまった俺。それを見た吉蠣さんは一瞬、我が意を得たりと云わんばかりの表情を浮かべた――ように見えた。
「草火葵さん、でしたよね? 賽碼さんが数年前に別れて以来、連絡を取りたくて堪らないのに二の足を踏んでいるという想い人。たしか、有為城先生の大ファンだったんでしょう? 有為城先生は今回、招待を受けた人はひとりだけなら他に同伴者を連れて来ていいと仰ってるんです。賽碼さん、この機を逃したら貴方は二度と彼女に連絡なんてできないと思いますよ」
2
草火葵は小学校、中学校での同級生で、これまでの人生で俺が唯一、交際した女子であった。昔から小説一筋、小説のことばかりを考えて生きてきた俺は人付き合いというものが滅法苦手で、しかし小学校五年のときに席が隣同士になったのを切っ掛けに話し始めた葵だけはずっと俺を気にしてくれていた。
高校は別になったが、付き合いは続いていた俺達。高校でも相変わらず俺は人の輪に馴染めず……と云うか馴染もうともしていなかったので、友人は他校の葵だけだった。俺は葵への想いを自覚していた。だから告白し、葵も頷いてくれた。斯くして俺達は恋仲になった。
しかし、その関係は二ヵ月も続かなかった。葵の方からメールで、別れて欲しいと云ってきたのだ。突然だった。このときほどの衝撃は、俺の人生において他にない。葵は自分から何かを決断するということが滅多にないような、非常に奥手な女の子……そんな彼女が、そう頼んできたのである。顔を合わせては云えなかったから、メールを用いたのだろう。俺は受け入れるしかなかった。葵の性格を知っている俺には、それが彼女にとってどれだけ悩んだ末に出した答えなのか分かっていた。
独りになった俺はその後も小説家を目指し、小説を書き続けた。大学二年生の冬にようやくデビューを果たし、大学を辞めて専業作家となった。俺には才能がなかったが、努力でなんとかここまで漕ぎ着けた。
それから三年……細々とだが、やって来られている。充実しているかは分からないけれど、小説一本で食っていけている今はそれなりに良いものだろう。
だが、葵と別れたあの日から、ずっと彼女のことだけが心の片隅でしこりとなって残っている。あれから彼女とは一度も会っていないし、連絡も取っていない。無論、避けてきたのである。俺は振られた側なのだ。なのに本当は未練たらたら。情けない。
作家デビューを果たせたときに報告しようかとも思ったのだけれど、結局できなかった。それほど華々しいデビューではなかったし、それで胸を張って連絡というのはやはり、心理的にどうしても難しかった。連絡するにしても、今じゃなくてもいいだろう。もっと相応しい時機が来るかも知れない……そう自分に云い訳して、俺は逃げた。
そんな俺に巡ってきたのが今回の話だ。正確には巡ってきたのではなく、吉蠣さんからいただいた話。俺は以前、酒の席で葵についての事情と想いを彼女に打ち明けたことがあった。彼女はそれを憶えていて、今回の件が俺にとって葵と再会するチャンスになるのではないかと提案してくれたのだ。
葵は中学生のときから、有為城煌路のファンだった(もっぱら推理小説を愛好していた俺と付き合いが続いたのは、そこが一因としてあった)。だから有為城煌路に会えるなら彼女はさぞ喜ぶだろうし、俺も作家として一人前であると胸を張ることができる――と、そういう計らいだ。なるほど、吉蠣さんの云うとおり、これは賽碼参助という作家にとってだけでなく、賽碼参助という人間にとって、まさしく千載一遇のチャンスだろう。
とはいえ、戸惑いはある。いくら良い話を用意したところで、今更、どのツラさげて俺が葵に会えるのだと思うし、現在の彼女がどんなふうなのかまったく分からないというのも大きな不安だった。有為城煌路の邸宅に招かれるくらいの作家であると示せる、というのも詭弁的と云うか、不実を働いている感は拭えない。
けれど、この機を逃したら、もう葵には会えない。それは分かっていた。時間が経てば経つほどに葵に連絡を取る難易度は現実的にも心理的にも上がっていくのだから、このあたりがきっと限界点だろう。
と、吉蠣さんに考える時間を与えてもらい、それから散々悩んだ挙句。
葵に会いたい――それが本心だった。
ここでまた目を背けて、この先ずっと後悔なんてしたくない。
いくら考えを重ねても、最後に辿り着く結論はそれだった。
俺は、吉蠣さんからの話を受けた。無論、彼女の厚意と後押しを無為にはできないというのも多分にあった。葵の現在の連絡先を調べるにあたっても彼女が手を貸してくれたので、本当、感謝してもしきれないというものだ。
そうして、およそ八年振りに、俺は草火葵に連絡を取ったのだった。
肝心の返事は――




