□ある女の話
清葉病院のすぐそばの森の中に、「子作安寿の祠」という祠があることは小さい頃から知っていた。祖母が昔、母を産む前に一度流産していたらしい。その際に、「子作安寿の祠」でお祈りをしたことで、荒ぶっていた気持ちが穏やかに変わっていったとか。だから、霜月町で暮らす女性にとって、「子作安寿の祠」はなくてはならない存在なのだそうだ。
まあ、実際のところ自分が流産したり堕胎手術をしたりしないかぎり、祠にお目にかかることはないと思っていたのだけれど——。
夫が多くの女性と不倫していることに気づいたのは、清葉病院を開業してから七年後のことだった。夫が開業医になったのは、妻として誇らしい出来事だった。私自身はずっと専業主婦で、時々パートをすることもあったが、基本的には家の中で過ごすことが多かった。私は子どもができない身体だったので、夫婦二人で長い時間を過ごしてきた。
忙しい夫を支えるために、毎日栄養のある食事を作ったり、身の回りの世話をすべてやってあげたり、身を尽くして彼を支えていた。霜月町で唯一の産婦人科と言える清葉病院にはどんどん患者が集まり、夫はさらに忙しい日々を送っていた。
が、開業をして七年後。
夫の着ている白衣を洗濯していると、ポケットの中から「〇〇ホテル宿泊代」と書かれた領収書が出てきた。
「宿泊代?」
夫が家を空けることは時々ある。医者の研修があると言って、月に一度ほど家を空けるのだ。私には、その「医者の研修」がどんなものなのか、理解できなかったけれど、夫がそう言うなら本当なのだろうと疑うことすらしなかった。
見つけた領収書に書かれたホテルの名前は、明らかにビジネスホテルらしい名前なのに、代金はどう見ても二人分だった。研修で、誰かと同部屋になったのだろうか——と最初は考えたが、一度気になり出したら真実を突き止めなければ気が済まなくなった。
領収書に書かれたホテルに電話をして確かめることに。
「もしもし、○月○日にこのホテルに清葉武彦という者が泊まりに来ませんでしたか。おそらく二人組だったと思うのですが」
『大変申し訳ございません。お客様の個人情報をお電話等で第三者にお伝えすることはできかねます』
ホテルのひとにそう言われて焦る。
でもよく考えれば当たり前か。
ホテルからすれば私が悪人であるという可能性が否めない。そう易々と他者の個人情報を教えるわけにもいかないのだ。
だが、こちらも引き下がるわけにはいかない。
「そこをなんとか、お願いできないでしょうか? 私、清葉武彦の妻の清葉茜と申します。夫が嘘をついてそちらのホテルに泊まりに行った可能性があるんです」
『はあ。少々お待ちいただけますか』
心底困っているという感情が伝わったのか、電話に出てくれたスタッフが一度電話を保留にした。待つこと数分。「お待たせいたしました」と再びスタッフが電話をとったとき、電話の相手が変わっていることが分かった。
『わたくし、総支配人の宮部と申します。旦那様のご宿泊の状況をお知りになりたいとか』
「は、はい。そうです。教えていただけませんか?」
『ご事情はなんとなく察しております。何か……旦那様とご夫婦であると証明できるものはありませんか?』
「証明……」
そう尋ねられてはたと困る。
証明と言われても、電話で証明するのは難しい。だが、早いところ真実を知りたいという気持ちが大きくなり、私は必死になって彼が夫であるということを伝えた。
「証明になるかは分かりませんが。彼の生年月日は1953年4月10日、血液型はAB型、普通体型で身長は178cmです。医者をしていて、霜月町で清葉病院を経営しています。気になるようでしたら戸籍謄本を持っていくこともできます。……これでは証明になりませんか?」
早口で捲し立てるように喋ると、宮部さんは「そうですねえ……」と少し考えたあと、「まあそれだけの情報を澱みなく答えられるのでしたら」と納得してくれた様子だった。
『清葉様は先ほどお客様がおっしゃいましたとおり、○月○日に泊まりに来られました。お二人で一室のご宿泊で、お相手の方は……若い女性でした』
「若い女性……」
勘は当たっていた。やはり、夫は女とホテルに宿泊をしていたのだ。“医者の研修”で一緒だった女性なのかとも一瞬考えたが、今の時代、女医なんてほとんど見かけない。それにいくら研修で一緒だったからと言って、同部屋に泊まるなんてことはありえないだろう。
「その女性の名前は?」
『さすがにそこまでは、お答えできかねます』
「そうですか。分かりました。教えていただきありがとうございます」
このまま口を割ってくれるかと思ったが、さすがにそこまで甘くはなかったようだ。ひとまず、夫が若い女性とホテルに泊まったという事実だけでも分かり、腑が煮えくりかえりそうなほど怒りが湧いた。
「きっと職場の人間だわ……そうよ。そうに違いないわ」
彼の周りにいる女性なんて、看護師や助産師しかありえないのだから。
事情を察した私は、その日から夫の不倫について調べ始めた。
二週間もすると、夫が職場で不倫をしていることはもうほとんど明るみになった。彼は妻である私のことをみくびっているのか、不倫の事実をほとんど隠そうとはしなかった。いや、本人は隠しているつもりなのかもしれないが、とにかく詰めが甘かった。一度疑いだすとどんどん証拠が出てくる。彼の周りのスタッフたちも、彼の不倫に気づいているらしく、話を聞きにいくとすぐに教えてくれた。
「院長、複数のスタッフと不倫されてますよ。しかも一人、身籠っているひとがいます。ちょうど奥様にお伝えしようかどうかと迷っていたところでした」
申し訳なさげにそう言う看護師の言葉に、私の堪忍袋の緒はついに切れてしまった。
「あのひとはどこ!? その相手の女はっ!」
「いま、昼休憩で外に出られてて……。看護師のほうは今日は非番でして」
「分かったわっ。もういいっ!」
話している最中に頭に血が上ってしまって、私よりも十歳は若いそのスタッフは「ひいっ」と短い悲鳴を上げていた。
その日の夜、普段と同じ時間に帰ってきた夫を冷めた目で見下ろす。夫に制裁を加えてもいいが、せっかくならもっと分かりにくいやり方にしようと思い立つ。
深夜二時、夫が深く眠っているのを確認した私は、自宅を出て清葉病院までやってきた。病院は自宅から徒歩五分の距離にあるので深夜だろうがすぐにたどり着く。もともと田舎なこともあいまって、辺り一面鬱蒼とした空気が立ち込めていた。
病院のすぐ後ろ側には、森が広がっている。
昔、この森は小さな山だったそうだ。いつしか山が開かれ、霜月町ができると同時に山ではなく森となったらしい。
スマホのライトを光らせ、真っ暗な森の中を進んでいく。不思議と怖さはなかった。
少ししたところに、『子作安寿』と彫られた祠が現れた。この辺のひとならみんな知っている。この『子作安寿伝承』については、小学校の総合学習の時間に学ぶことになっているのだ。地域に伝わる伝承というやつ。その伝承によると、もともとは江戸時代に迫害を受けた女性の子どもを祀るために祠が建てられたらしい。その後は、流産や死産で我が子を失った女性が水子供養のためにここにお参りに来る。傷ついた女性たちの心を守る、大切な祠というわけだ。
私は、その『子作安寿の祠』を見下ろすと、手にしていた斧を一気に振り下ろした。
ガン、という鈍い音が森林にこだまする。一度では壊れないので、二度、三度、と固い石に斧の刃を叩きつけた。 すると、何発目かで祠の一部が欠けた。
これはいける……。
味をしめた私は、その後もハイペースで祠を叩きまくる。
ガン、ガン、ガン、ガン
夜闇の中に響き渡る耳障りな音に、夫と相手の女性たちへの怨念を込めるように、力を入れていく。自然と、次第に振り下ろす手には大きな力がかかっていき、砕けていく祠を打ちつけた際に腕に伝わる振動により、痺れが発生していた。
それでも私はやめなかった。
「許せない。許せない。許せない……!」
私にバレないとでも思ったのだろうか。
子どもを孕ませるなんてどうかしている。
そのまま離婚なんてされたらたまったもんじゃない。
「死ね、死ね、死ね!!」
自分は誰に対して「死ね」と言っているのだろうか。
夫に? 相手の女に? それともお腹の子に?
自分でも自分の気持ちがよく分からない。とにかく、相手の女によくないことが降りかかりますようにと祈っていることに気づいた。
三十分ほど腕を振り下ろし続けて、祠が完全に壊れたのを確認すると、ようやく手を止めた。
「はあ……はあ……はあ……」
自然と肩で息をしていることに気づく。
この祠を壊したのがバレたら、町から非難を浴びるだろう。それでもどうしてか、祠を壊し終えると恍惚とした気分にさせられた。
「ふふっ……」
口から笑みがこぼれ落ちる。だけど私には、自分が笑っているという自覚がない。
「あはは」
自分のお腹に手を添える。私は子どもができない身体だ。だけど、今この瞬間に、まるでここに赤ん坊が来てくれたかのような錯覚に陥った。
斧を持って、森から出るために歩き出す。すると、自分とは別に、足音がもう一つ聞こえたような気がしてはっと立ち止まる。
振り返っても……誰もいない。
気のせいだろうか、と再び歩き出すと、やっぱり足音が聞こえるのだ。
「そっか」
なんとなく、理解した。
きっと、安寿に違いない。
私が祠を壊したから私を恨んでついてきたんだ。
だけどさ、私思うんだよ。
安寿……あなたは、村びとたちから酷い目に遭ったのに、死んだ後に突然手のひらを返したかのように都合の良く祠なんて建てられてさ、本当は納得いかなかったんじゃない?
だってそうでしょ。自分を死に追いやったひとたちが、災いを止めるために今度は自分の魂を鎮めようなんて、あまりにも都合が良すぎる。ひとの命をなんだと思っているのだろう。お腹の中の我が子まで殺されて、安寿の無念を思うと、いたたまれない気持ちになった。
ザ、と足音が余計に聞こえて立ち止まる。
まるで、私の気持ちに呼応してくれているような彼女の反応に、胸が切なさで締め付けられた。
「大丈夫、私はあんたの味方だから」
誰もいない虚空に向かって話しかける。私はもう、とっくに壊れてしまっているのかもしれない。それでもいいか。だってどうせ、子どもを産めない私のことなんて、夫はきっと捨てたいと思っているのだろうから。
町に引き返すのをやめて、森の奥へと進んでいく。こっちにおいでと呼ばれているような気がした。




