◾️九月七日日曜日Ⅳ
絞り出した声が、自分のものなのかどうかすら判然としなかった。
息が苦しい。誰かに喉も口も塞がれて、息の根を止められるおぞましい想像をしてしまう。でも実際、呼吸はどんどん浅くなって、まともに息を吸うことができなかった。このままでは過呼吸になりかねない。冷静な自分とパニックな自分が混ざり合って、正気を保っていられなかった。
と、そのとき、テーブルの上に無造作に置いていたスマホが勢いよく鳴った。
電話だ。
画面に表示されているのは、「石川久江」の名前。
石川さんと一週間前に会った時に連絡先を交換したことを思い出す。あれから一度も連絡を取っていないが、突然電話とはどうしたんだろうか。
なんとか左手を伸ばしてスマホを取った。自然と金縛りのような症状は解けていて、右手を掴んでいた青白い手も見えなくなっていた。
錯覚だったのだろうか……。
ぼんやりとその手の正体を考えつつ、通話ボタンを押した。
「もしもし、石川さん?」
声も自然に出た。大丈夫。私は普通だ。いつも通りだ。そう自分に言い聞かせながら、呼吸を整える。右手でスマホを耳に押し当てる。石川さんはなかなか返事をしなかった。電波が悪いのだろうか。耳を澄ませて待っていると、ようやく彼女が「もし……もし……」と途切れがちに言った。
「石川さん? ちょっと聞こえづらいみたいです。こちらの声は聞こえますか?」
『……え……る……。あ……し……』
「え? なんですか? やっぱり全然聞こえないです」
自宅からかけているのではないのだろうか。いくら田舎とはいえ、自宅であればこんなに電波が不安定になることはないはずなのに。
電話口から聞こえてくるのは彼女の途切れがちな声と吐息だけ。外にいればもっと雑音が混じっているだろう。やっぱり室内からかけていることは明らかだ。では、どうして。
『わた……し……もう……すぐ……。伝えて……なきゃ……て。院長……………』
「どうしたんですか。石川さん!」
石川さんの身に何かあったのだと悟る。必死に電話口に呼びかけるが、言葉だけで彼女を助けられるわけではない。ならば代わりに救急車を、と思うが、石川さんの所在地など分かるはずもなく、歯がゆい状況が続く。
再びどうしようと慌てていると、次の石川さんのセリフは、どういうわけかくっきりと聞こえてきた。
『陽子さんが、院長を殺したんじゃないかって、疑ってるの』
「はい?」
これまでの話が聞こえなかったぶん、突然彼女が爆弾発言をしたようにしか思えなくてかなり面食らう。
お母さんが清葉病院の院長を殺した?
いったいどうしてそんな見解になるの……?
二の句が継げずに固まっていると、彼女はこう続けた。
『陽子さん……は……してた……』
「え? 石川さん、また聞こえづらいです」
『不倫、してたの』
「不倫……?」
不穏なワードに慄く。
どういうこと?
お母さんが院長と不倫?
そんな馬鹿な——と否定したいところだが、自分が生まれる前の母の恋愛事情など知ったこっちゃない。母が不倫をしていたとしてもなんら不思議ではないのではないか。実際、前回石川さんと会ったときに、院長は複数のスタッフと不倫をしていたと聞いた。そのひとりが母だったとしても、おかしくはないのではないだろうか……。
いろいろと聞きたいことは山ほどあるが、石川さんの話を最後まで聞こうと耳をそばだてる。次に彼女の口から紡がれた言葉は、耳を疑うものだった。
『院長は他にも不倫相手がいたけど……陽子さんにはひときわ気持ちが入っていて……だから、陽子さんに旦那さんとの子どもができたと知って……嫉妬で怒り狂った院長は……陽子さんを……無理やり流産させた……。院長は他にも不倫相手を孕ませては、無理やり流産させていたの……その……秘密の部屋で……』
「……は」
石川さんの声を聞きながら、清葉病院の中にあった地下室のことを思い出す。あの暗く邪気を一番多く孕んだ場所は、院長の隠し部屋だったのだ。
あの場所で女性たちを無理やり流産させていた……?
あまりにも非人道的で、おぞましい事実に、頭がくらくらとした。
数々の女性たちが被害に遭ったところを想像すると、吐き気が込み上げて、思わず口を手で覆った。
『だから、陽子さんは院長を恨んで……積年の恨みを晴らすために……時が経ってから復讐を……ごほッ、ごほごほッ』
突如として石川さんが激しくむせ始めた。びちゃ、びちゃ、と水の塊が床に飛び散るような音が響く。
「い、石川さん!? 大丈夫ですか?」
ご、ごぼぼぼぼぼぼごぼぼごぼごぼ
声にならない獣のような呻き声と、口から液体が溢れ出す音。唾液や胃液ではない。これは……吐血している音!?
「石川さん! 石川さん!」
泣きそうになりながら叫ぶ。反射的に頭を左右に振って何か自分にできることはないかと思考をぐるぐる旋回させるが、距離という圧倒的な壁に打ち勝つ方法はない。
「近くにひとはいないですか!? 救急車は呼べませんか!? 石川さん!!」
彼女が血を吐く音、床でのたうち回るような気配しか分からない。
ああ……石川さんはもう……。
きっと今、彼女はひとりで自宅にいるのだ。助けてくれるひとは誰もいない。
住所は分からないけれど、盛岡市内ということは見当がついている。名前を伝えて、なんとか彼女の家に行ってもらえないかと、一縷の望みをかけて救急車を呼ぼうとした。
「一度電話切りますね!? もうちょっと頑張ってください!」
『う…………』
電話を切る寸前、ふっと彼女の息が途切れたのが分かった。
「石川さん!?」
名前を呼んでも当然のように返事はない。
もしかしてもう……。
勝手に溢れ出てくる涙を拭いながら、通話を切って「119」を押した。
「すみません! 救急です! 住所が分からないんですが、盛岡市内で石川久江さんという女性が自宅らしい場所で血を吐いてて——」
なんとか状況を伝える。救急隊員が、私のあまりの気迫に押された様子で「わ、分かりました」と答えてくれた。
警察と連携して石川さんを探し出してくれることを祈る。
電話を切ると、自分の右手首に子どもサイズの手の跡が青く浮かび上がっているのを見た。
「うっ……」
見たくないものを見てしまい、意識が遠のきかける。手を洗っても手形は取れなくて、もう手首から意識を逸らすことしかできなかった。
石川さんの無事の連絡が入るのをひたすら待つだけの時間が流れ始めた……。




