◾️八月三十日土曜日Ⅱ
清葉病院の前にたどり着いたのは、十三時半頃だった。
相変わらず飄々とただそこに存在している廃病院だが、前回の恐怖体験のせいか、建物全体から黒いオーラのようなものが放たれているような気がした。白い壁にこびりついた茶色い汚れが、顔の形に見えてゾッとした。
そんなはずない。
全部妄想だって。
分かっているはずなのに、清葉病院を前にすると震えが止まらない。お腹がまたきゅうっと痛み出す。
落ち着け、私……。
前回は鞄にお清めの塩を入れていたが、今回はこの場で塩を全身に振りかける。気休めでも、ないよりはマシだ。それから、お腹にそっと手を添えて、「力を貸してくれる?」と小さく問いかけた。
ジャリ……。
十三時三十五分、一週間ぶりに、カメラを回しながら病院の中に足を踏み入れる。冷えた空気やおどろおどろしい予感がするのは前回と同じだ。
「清葉病院、二回目の探索です。前回と変わらず嫌な感じがしますね……。ここまで悪い気を感じるのは初めてです……」
ジャリ。
自分の足音さえ、想像以上に周囲に大きく響いて恐ろしい。早くも、この場所から離れたいという衝動に駆られた。恐怖心をぐっと飲み込んで、中へと進んでいく。
「受付、診察室……特に変わった様子はありません。あ、でもなんかちょっと椅子の位置が前回と違うかも……?」
受付でひっくり返っていた長椅子の位置が、若干違っているような気がした。
一メートルほど移動している……?
前回撮った動画を見返してみないとはっきりとはわからないが、ぱっと見た感じだと記憶の中の位置と少しだけずれている。気になって、長椅子に近寄ってみた。
「ひゃっ」
長椅子をライトで照らしてみると、埃や煤をかぶっていた長椅子に、いくつもの手形がついていた。
驚いて持っていた懐中電灯をカラン、と落とす。腰が抜けそうになるのを必死にふんばって、手形のついた長椅子をカメラに映した。
「み、見てください。前回はなかった手形がついてます……。一体誰の手形でしょうか。まさか、この場所に浮遊する霊のものとでもいうのでしょうか……?」
自分で「霊」という単語を口にしたことで、背筋がすーっと冷えていくような感覚がした。
まさか、本当に心霊現象なの……?
椅子に前回はなかった手形がついているというだけで、一気に恐ろしさが増幅した。
誰かの視線を感じるようになったのも、この時からだ。
「……っ」
前から、後ろから、右から、左から、こちらをじーっと見つめて動かない視線がある。金縛りにあったかのように、首を動かすことができない。
これは、なんなの……。
せめて実況をしようとするのに、喉を誰かにぎゅっと掴まれたみたいに、声を出すことすらままならない。
「うっ……あ……」
そのうち、息をすることも苦しくなって、自分の手で喉を抑える。
ずきん、ずきん、と一際鋭い痛みが下腹部を襲う。
喉とお腹をぐっと抑えながら呻いていると、しばらくして正面の——五メートルほど先の、診察室の前に、ぱっと白い顔が浮かび上がった。
「きゃ……っ」
悲鳴を上げられない。相変わらず金縛りが解けなくて、その白い顔から視線を逸らすことすらできない。
あ、あれは……。
新幹線とバスの中で二度目にした、白い顔だ……。
目と鼻と口にぽっかりと丸い穴が空いた人の顔。その空洞がしっかりと私を見据えている。
——ワタシ……ハ……ドコ……。
掠れた声が聞こえた。
——ワタシ……ハ……ドコ……。
あの顔だ。あの顔が喋っているのだ。
——カエシテ……。
何を返せっていうの……?
——ワタシヲ……カエシテ……。
私を返して。
不可解な文句を囁いたその顔は、次の瞬間にふっと消えてしまった。
「はあ……はあ……はあ」
ようやく息ができるようになって、思い切り空気を吐いて、吸う。埃の混じった空気を盛大に吸ってしまい、ゴホゴホッとむせた。
「い、今のは……なんだったのでしょうか。人の顔がそこに浮かんでいました……」
先ほど白い顔が浮かんでいた前方の方にカメラを向ける。が、今は何も見えない。映像には残っているだろうか。今、撮影した映像を確認する余裕はないので、ひとまずまた前へと進む。
あの顔はきっと、私を追いかけていたのだ……。
先週ここを訪れたときから。職場でも誰かの視線を感じていた。電車やバスに乗ってトンネルを走っている際に目にしたのも、暗い場所で窓に映って見えただけだ。
ずっとそばにいたんだ……。
意識した途端、ゾクリと全身が粟立った。
考えすぎると恐怖で動けなくなる。だがここで今、私は足を止めるわけにはいかない。
——ワタシヲ……カエシテ……。
さっきの顔が私に訴えてきた言葉が何度も頭に浮かぶ。
恨めしそうにも、悲しそうにも聞こえた。
私を返して、とは一体どういうことだろうか……。
あの白い顔の霊は、院長の魂ではないのか?
この場所で亡くなったという院長。私は、院長の霊が悪霊になり、ここで怪異を引き起こしているのだと思っていた。でも、あの囁くような声は、立場の弱い人間が権力を握る者に勇気を出して必死に訴えているように聞こえたのだ。院長という立場にある者が、そんなふうに怯えながら何かを訴えることがあるのだろうか。
……いや、まあ幽霊の立ち居振る舞いが生前のその人の立場と関係しているかどうか、分からないけれど。
「顔が浮かんでいたところまで進んでみます……。診察室の前です。一応前回も見ましたが、行ってみます」
恐怖心をなんとか抑え込んで、意を決して進んでいく。先ほど激しく疼いていた下腹部痛は少しだけ収まっていた。楽に呼吸ができるだけでもありがたい。額にはすでに汗がびっしょりと垂れているけれど、あまり気にしないようにして目の前のことだけに必死になった。
扉の壊れた診察室へと侵入する。回転椅子や内診台があるのは変わらなかった。が、ここでもある異変に気づく。




