◾️八月二十五日月曜日Ⅱ
「オイ、藤島」
酒井先生の地の底を這うような低い声が耳元で轟く。彼はどういうわけか、“ターゲット”にしている私のことだけはちゃんと名前で呼んでくる。「お前」と呼びかけると私が無視する可能性があるからだろうか。
「な、なんでしょう」
スマホを手に今日の時間割の確認をしていた私は背後から忍び寄る気配に身体を硬直させた。
「さっきからずっとスマホを見過ぎじゃないか。真面目に仕事をしろっ!」
不必要なほど大きな声で注意をしてくる。職員室全体に響き渡る怒鳴り声に、他の先生たちは「またか……」と飽き飽きしている様子だ。そんなみんなの態度が私にとってはさらにストレスだった。
みんな、“ターゲット”の苦しみを知らないから他人事のように思えるんだ。
私がどれほど、毎日彼のストレスの捌け口にされて心を砕いているか。
誰も彼も、他人のことなど我関せずというふうに思っている。
それが苦しくて、悔しかった。
「申し訳ありません……」
スマホを見ていただけで見せ物のように叱られるのは勘弁してほしい。とはいえ、スマホを気にしていたのは事実だ。しかも、ずっと気に留まっていたのは例のYouTubeの件である。
私がアップロードした動画に、私には確認できなかった声とノイズが混じっているという。気になりすぎて、確かに気もそぞろになっていたことは否めない。まだ私自身動画を確認することができておらず、焦らされているような感覚だ。
酒井先生はなおも後ろから私をじろじろと探るようにして見ているようだった。背後から感じる視線が痛すぎて、首を後ろに回すことができない。
「藤島、分かってるよなぁ? 俺に逆らったらどうなるか」
「ひっ」
私の耳元で囁くように粘着質な声でそう告げてから、何事もなかったかのように去っていった。
酒井先生に声をかけられるのは、どんなホラー映画より怖い……。
いまだ鳴り止まない心臓の音を感じながら、今日の仕事に戻る。昼休みにでも動画を確認しようかと思っていたが、今日は酒井先生の目がいつもより光っている気がする。「教師とあろうものが、休み時間に動画を見るなんて怠惰だ!」なんて、不条理な叱られ方をする未来が見える。
気になるけど、動画を確認するのは家に帰ってからにしよう……。
「藤島先生、大丈夫ですか?」
酒井先生と動画の件に気を取られていたところで、隣からそっと声をかけられた。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます、山吹先生」
私より四つ年上の山吹聡先生だ。隣のクラスである二年一組の担任で、得意科目は体育。ツンツン頭がトレードマークで明るく、正義感が強い。子どもの前では茶目っ気も見せられる。ゆえに生徒たちからも人気で、彼が担任だと分かったとき、一組の生徒はさぞ喜んだだろう。
山吹先生が赴任してきたのは去年だ。だから、立山小学校では一応三年目の私のほうが先輩ということになるのだが、教師としてはもちろん山吹先生のほうが経験が上である。
「あんまり大丈夫そうには見えないです。酒井先生、新学期早々容赦ないですね」
山吹先生がふーっとため息を吐く。彼の言うとおり、今日は二学期の始まりの日だ。心機一転頑張ろうという出鼻をくじかれた思いは確かにあった。
「はは……まあ、もう慣れましたよ。私が“ターゲット”にならなかったら、もしかしたら山吹先生が“ターゲット”になっていたかもしれないですし、これでいいんです」
二十九歳の彼も、ベテランの酒井先生からしたら“新人”に違いない。他に新卒の教師も数人いるが、みんな学年が違う。二年生の担任で一番若いのが私、その次が山吹先生だった。
「藤島さんって、すごく優しいですよね」
「え!? いや、そんなことは」
「ふふ、そんなことありますよ。普通、自分がピンチの時にそんなふうに他人のこと思いやれないです」
「そういうもんでしょうか……。私は、自分がピンチになるより、誰かがピンチになるほうが、見ていられないです」
何気ない私の一言に、山吹先生は瞳を丸くして眉を上げていた。
そんなに驚かせるようなことを言ったかな。
彼の目は濁りのないビー玉のようで、じっと見つめていると吸い込まれそうになる。
なんだろう、私。
山吹先生とはそういうのじゃない。
まだ、慎二と別れた傷を引きずっていて、ちょっとでも優しい言葉をかけられたら心が揺れてしまっているだけだ。
それに、山吹先生は……。
私は彼の左手の薬指についた指輪にちらりと視線を落とす。
この人は、一年半前に立山小学校に赴任してきた時にはすでに結婚指輪を嵌めていた。今年二十九歳なので、ちょうど結婚適齢期だ。すでにパートナーがいてもなんら不思議じゃない。山吹先生を気に入っている後輩もちらほらいるが、悪いことは言わないからやめときな、とやんわり伝えたこともある。
そういうわけで、山吹先生に対してそういう感情を抱くことは絶対にない。絶対にない……はずなのに。
彼の他に、自分を心配してくれるひとがいないことを思い知って、胸がズクンと疼く。彼はどうして、私に優しい言葉をかけてくれるのだろうか。それが彼の本質だと知っていても、ちょっぴり恨みたくなる。
誰も、私のことなんて見てくれていないと思っていたのに。
私の居場所なんてきっとどこにも——。
自分の中で自分の価値を下げてしまう癖が抜けない。山吹先生が他の先生に呼ばれて「ちょっと行ってきますね」と席を立った時、ふとお腹に違和感を覚えた。
まただ……。
痛み、というほどのものではないかもしれない。
胃でも腸でもなく、下腹部が疼くような、鈍い重みを感じた。心なしか、若干気分が悪いような気もするが、これは酒井先生から難癖をつけられた後はいつもこうだ。
だが考えれば考えるほど、吐き気がどんどん増してくるような気がして、周りを見回した。オエ、とえずきそうになるのを堪えて手元の作業を進める。今日から新学期なので、生徒たちに配らなくちゃいけないプリントが山ほどあった。
まさかね……そんなはずないって。
と、お腹の違和感について頭では冷静に考えられるのに、心はどんどん別の方向へと結論を導き出していた。
もしかして、本当にいるの?
考えられるとすればひとつしかない。
ポコポコ、と下腹部に衝動のようなものを感じて、またはっとさせられた。
やっぱり、“いる”んだね。
私と慎二の——赤ちゃん。




