第八話 観察→尾行
一歩、美術室に入った瞬間。
粘土の匂い。絵の具の乾いた臭い。紙と木の粉っぽさ。
……やっぱり、どの美術室も似たようなもんだ。
でも、いつもと違うのは――今回は、ひとりぼっちじゃない。
「はいはい、席ついて。今日は人物スケッチやるから」
美術の先生が、さらっと言い切った。
「ペアは隣同士でいい。互いに相手の顔を描いて提出。写真はなし。観察して描け」
――観察。
その単語に、俺の中の何かが反射で跳ねた。
観察して、仮説を立てて、検証して、結論。
理科なら、いつも通りの流れだ。
でも美術は違う。観察しても、正解が存在しない。
隣を見ると、桃田はスケッチブックを開いて、もうペンを動かしていた。
しかも時々、こっちを見てくる。
……慣れてるやつは違うな。
俺も、やるしかない。
俺は鉛筆を握って、桃田の顔を観察し始めた。
目尻。鼻筋。口元。前髪の流れ。輪郭。
情報を分解して、線に変換する――はずなのに。
……あ。目が合った。
反射で目を逸らして、また戻して、続きを描く。
何やってんだ、俺。
「上手い下手より、ちゃんと相手を見たかで評価するからな」
先生が追い打ちみたいに言う。
その瞬間、桃田が身を乗り出してきた。
「ねえ、黒木くん。先にちょっとだけ見てもいい? どういう感じで描いてるの――」
「ダメ」
反射で答えて、俺はスケッチブックを胸側に引き寄せた。
桃田の顔が一瞬だけ「えっ」って形になる。
「えー。黒木くんは真面目に僕のこと見て描いてるからさ。気になっちゃって」
「……観察は必要なプロセスだ」
「うわ、理屈」
桃田が近い。
そして、まただ。あの甘い匂い。鼻の奥に、ふわっと残る。
和菓子の砂糖みたいな甘さ。でもそれだけじゃない。紙と布の匂いも混じってる。
「気にするな。これは……途中経過の倫理問題だ」
「なにそれ」
桃田が笑いそうになって、こらえた。
俺は鉛筆を構え直して、目の前の観察対象を見た。
見て、描く。
たったそれだけのはずなのに。
――どうしてだよ。
よく見たら、こいつ……少しだけ、可愛いとか思ってしまった。
……最悪だ。
「はい、そろそろ時間だぞ。終わったやつから提出な」
先生の声で、現実に引き戻される。
「俺、できた」
「僕も……たぶん」
「じゃ、三、二、一で見せ合おう」
久々に手応えがあった。
――さあ、俺の自信作を見ろ。
「三、二、一」
桃田の絵が視界に入った瞬間、俺の思考が停止した。
……は?
なにこれ? 山? 谷? 銀河? 森羅万象?
少なくとも人間じゃない、でも頑張れば人間に見えなくもない。
いや、もはや桃田の絵にふさわしい比喩がないかもしれない。
「俺」という生物を描くだけなのに何故こうなるんだ?
(この芸術、現代人類には早すぎる)
顔を上げると、桃田も同じ顔をしていた。
そして俺のスケッチブックを見て、固まっている。
「……黒木くん。これ、僕?」
「……いや、違うのか?」
「いや違うでしょ! これ、犬じゃん!」
「犬ではない。よく見ろ。目が……お前っぽいだろ」
「そこだけ似せても意味ないよ!」
そこへ、すっと影が差した。
「……見せて」
振り向くと、鈴宮小春が覗き込んできていた。
「うん。犬だね」
「おい」
「黒木くんの写実性は種を超えてるんだよ。怖い意味で」
「怖い意味でって何」
小春は次に桃田の絵を見て、目を細める。
「で、桃田くんは相変わらずだね。人類の言語で説明できないやつ」
「褒めてんの? それ」
俺と桃田は、同時に少しイラッとした。
「……鈴宮さんはさ」
「そうそう」
「そんなに言うなら、そっちのを見せろよ」
「見せてあげる。はい」
小春がさらっと紙を出す。
――うわ。
線が整理されてる。形も取れてる。陰影も綺麗。
普通に上手い。普通にムカつく。
桃田が先に言った。
「これ、手があれば描けるやつじゃん」
「は?」
俺も勢いで追撃する。
「そ、そうだ。ていうか眼鏡って視力弱いんだろ? それでこの精度は納得いかない。再戦」
小春の笑顔が、すっと消えた。
「……へえ」
次の瞬間。
小春が展示台の横にあった“観賞用の木刀”を、何事もない動作で持ち上げた。
え?
――パァン! パァン!
乾いた音が二回。
俺と桃田の頭に、ほぼ同時に衝撃。
「いっ……!」
俺が振り返ったときには、木刀はもう元の場所に戻っていた。
まるで最初から触ってない顔で。
「……痛いんだけど!? 今の、見た!? 見たよな!?」
小春は微笑んだまま、席に戻って画材を片づけ始めた。
「教育的指導です」
「日本語として最悪だろそれ!」
――その横で。
桃田の手が、急に動き始めた。
さっきまで宇宙を描いてたペン先が、今度は信じられない速度で線を置いていく。
迷いがない。そして数十秒後。
「……できた」
桃田が差し出した紙を見て、俺は固まった。
――俺だ。
ちゃんと人間。しかも出来がいい。
目の冷たさまで再現されてる。
「は? え? なにこれ。今の数十秒で? 嘘だろ」
「……僕も分かんない。なんか今、急に降りてきた」
「殴られると覚醒するタイプなのかお前」
「やめて。二回目はたぶん死ぬ」
「そもそも死なないから」
「はいはい、そろそろ提出ね。終わった人は片づけて」
先生の声で、ようやく俺たちは現実に戻った。
俺と桃田は作品を出して、そのまま教室へ戻った。
「よし。帰るか」
「僕も帰る。じゃ、また明日ね」
「……ん? 今日は部活ないの?」
「あ、文芸部? 今日は家の手伝い。小春も神社の掃除があるって言ってたし。
今の部室、たぶん幽霊しかいないよ」
……自分で言うなよ。
「そっか。まあ……今日はいろいろあったな」
ここでちゃんと礼を言いたい。
言わないと、また逃げる。
「……でも、ありがとう。話しかけてくれて。
こういうの、実は初めてでさ。ちょっと……不慣れだった」
桃田は一瞬きょとんとして、すぐに笑った。
頬が、ほんのり赤くなる。
「えへへ。やっぱ黒木くんは、放っておけないな」
「……それ、どういう意味だよ」
桃田は答えず、スケッチブックを抱えたまま教室を出ていった。
「ったく。素直になれって、人には言うくせに」
俺もそろそろ帰るか――
そう思った瞬間。
ぐぅ。
腹が、情けない音を立てた。
……そうだ。今日はずっと、あいつの甘い匂いのせいで妙に腹が減ってる。
砂糖の匂いって、脳の報酬系を刺激するらしい。つまりこれは生理現象。俺は悪くない。
桃田の家、和菓子屋だって言ってた。
もし帰り道が近いなら――寄るだけ。様子を見るだけ。
(観察対象の生活圏を把握することは、環境要因が感情の変動に与える影響を解析する上で有用。……よし。これは尾行じゃない。“データ収集”だ)
桃田は、まだそんなに遠くへ行ってない。
「……行くか」
俺は教室を出て、足音を殺して廊下に紛れた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
自分は文章の投稿などすべてはほぼ初めてで、
まだまだ勉強中です。気になるところがあれば、
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