闇夜の裏切り
冷たい塔の空には、あの憎い月が、今夜も鈍く輝いていた。悠真様が海外出張に出た今夜、私は一人残された美桜様が、何をして過ごしているのかが気になっていたのだ。
そして今夜も、私は美桜様を想い浮かべ、再び「月視」を発動した。
映し出されたのは、悠真様と美桜様の部屋とはまるで違う空間だった。
視界に広がるのは、落ち着いたトーンで統一された室内。装飾は少なく、整然として洗練されているが、どこか冷たさを感じさせた。美桜様は窓辺に立ち、窓から下を見下ろしていた。
(この建物は、私が住む塔のように高いわ。けれど、外に広がる光景はキラキラしていて綺麗ね)
窓の外に見えるほかの建物もまた高く、無数の光を放ち輝いていた。同じように高い塔から見ているはずなのに、私の世界が孤独な銀色の静寂であるのに対し、この異世界の夜景は、鮮やかで生命力に満ちていた。
(ここはどこかしら?美桜様は、なぜこの場所に一人でいらっしゃるのでしょう?)
美桜様が一人で夜景を見つめて数分後、ドアが開く音がした。
『ただいま』
低い声が響き、お兄様が部屋に入ってきた。彼はネクタイを緩め、疲れた様子だった。
美桜様は窓から振り返ると、悠真様の前では見せなかった、甘く、切なさを帯びた声を出した。
『和馬…!』
美桜様は、それまでの全てを脱ぎ捨てるように、お兄様を名前で呼び捨てにした。悠真様の前で見せる明るく可愛らしい表情はそこにはなく、全てをさらけ出した別の顔だった。彼女は
『会いたかった』
と細く、熱のこもった声で告げ、帰ってきたばかりのお兄様の胸に、縋りつくような激しさで抱き着いた。
お兄様は、美桜様の顎をくいっと指先で持ち上げ、低い声で囁いた。
『悠真は海外出張でしばらくいない。その間は、たっぷり一緒にいれるだろう』
お兄様の言葉が、私の心臓を氷の刃で貫いた。
(なぜ、なぜあんなにも純粋な悠真様がいながら……!美桜様は、お兄様と抱き合っているの?)
視ている現実はあまりにも残酷で、脳がその真実を激しく拒絶した。私が最も恐れていたあの「裏切りの影」が、私の世界の唯一の希望を突き崩す。
その時、場違いな音が響いた。美桜様のポケットから、スマホと呼ばれる魔道具のようなものが音をたてて鳴り響いたのだ。
美桜様が画面を見ると、そこには悠真様の名前が書かれていた。
お兄様は美桜様から離れるどころか、面白がるように笑い、顎をしゃくった。
『出ろよ』
美桜様は少し躊躇した後、通話ボタンを押した。
『もしもし、悠真』
お兄様は、電話を受けている美桜様を自分の膝の上に座らせた。そして、美桜様が電話をしている間、楽しそうに二人の会話を聞き続けた。
悠真様の声は、遠い異国からかかっているにもかかわらず、優しさに満ちていた。
『もう夕飯は食べたか?美桜が一人でいると思うと、気が気じゃないんだ』
美桜様は表情一つ変えず、
『ええ、ちゃんと食べたわ。悠真も、向こうで無理しないでね』
と返した。
悠真様は少し寂しそうな声で、
『早く美桜の隣に戻りたいよ』
と漏らした。
やがて、悠真様は電話越しに
『愛してるよ、美桜』
と伝えた。
美桜様は、お兄様の瞳をまっすぐに見つめながら、その嘘の言葉を口にした。
『愛してる』
それは、電話の向こうの悠真様へ向けられた言葉ではなく、お兄様の瞳に捧げられた愛の告白だった。
美桜様がそう言い放った瞬間、お兄様は声を出さずに、口だけで美桜様に「よくできました」と伝え、満足そうな笑顔を見せた。
彼女の瞳は、褒められた子供のようにキラキラと輝き、歓喜に満ちていた。それは、悠真様には決して見せない、和馬様への強い執着と、満たされた悦びが滲み出る、別の顔だった。
美桜様は悠真様に対し
「おやすみなさい」
とだけ告げ、通話を切った。
(嘘だわ……!悠真様と美桜様の愛は、本物の愛だと信じていたのに!まさか、美桜様は悠真様を裏切っていただなんて…)
私の心の奥底で、かつて家族の裏切りによって凍り付いたはずの心が、再び砕け散る音を立てた。この異世界で見つけた「真実の愛」もまた、私の世界の愛と同じ、欺瞞に満ちた裏切りだったのだ。




