兄の影と偽りの幸福
冷たい塔の窓から見上げる空には、陽の光が増し始めている。しかし、月はまだ空に残り、白くぼんやりと舞っていた。
私は月に向って美桜様の顔を思い浮かべ「月視」を使った。
映し出された美桜様の視界は、眩しい光に満ちた朝だったが、「月視」の映像は陽の光を浴びると月の力が弱まるため、どうしても少し霧がかかったように霞んで見えた。
ちょうど、悠真様と美桜様が車と呼ばれる、奇妙な乗り物に乗り込むところだった。それは、固い金属でできた箱のような外見に、丸い輪が四つついていた。馬も獣も繋がれていないのに、奇妙な音を立てて勝手に動き出す。
車内は静かであり、悠真様と美桜様は、楽しそうに会話をしていた。美桜様が助手席に座る横で、悠真様はハンドルを握る。二人は他愛のない会話を交わしていたが、しばらくして悠真様が車を停めた。
『兄さん、待たせたな』
悠真様がそう声をかけると、運転席側の窓に、一人の男性の姿が映り込んだ。
その男は、悠真様と瓜二つとまではいかないが、どこか面影の残る背の高い姿をしていた。彼は丁寧に仕立てられた異世界の衣類に身を包み、柔和で優しそうな雰囲気を纏っていた。美桜様に向ける笑みも絵に描いたように優しげだった。
だけど、私には悠真様と同じように切れ長の目の奥が、氷のように冷たく、まったく笑っていないように見えた。
(あの方が、悠真様のお兄様…)
美桜様の視界が彼を捉えるたび、私の中に言いようのない不安が広がっていく。
和馬様は後部座席のドアを開け、軽やかに美桜様の真後ろの席に乗り込んだ。お兄様は助手席の美桜様に声をかけた。
『せっかく二人で通勤してるところ、お邪魔してわるいね、美桜ちゃん』
お兄様はそう爽やかに言ってから、続けた。
『すまないが、昨日話した契約書ができあがっていたら見せてくれないか?移動中に確認しておきたいんだ』
美桜様は、
『はい、こちらです』
と小さく答え、助手席から体をひねって、右手に持った薄い契約書を後ろに差し出した。
兄がそれを丁寧に受け取ろうとした、その瞬間――
まるで意図的な悪戯のように、兄の小指が美桜様の小指に一瞬、絡みついた。
美桜様は驚いたように小さく体を震わせたが、すぐに表情を取り繕った。しかし、私はその小さな動きを見逃さなかった。これは、決して偶然ではない。まるで、この親密なやり取りを密かに楽しんでいるかのように行われた、計算された行為に感じられた。
(あの方は、悠真様にとって最も大切なものに、わざと触れたのだわ...)
悠真様は運転に集中していたため、二人の間の出来事に気づいていないようだった。お兄様は契約書に視線を落としながら、すぐに本題に入った。
『明日からの悠真の海外出張の件だが、期間が延びそうだ。例の海外部門の契約が長引いていてね。予定通り、二週間は戻れないと思ってくれ』
悠真様は素直に答えたが、その声には微かな落胆が含まれていた。美桜様と離れることを惜しんでいるのが伝わってきた。美桜様が横から心配そうな視線を送る。
『大丈夫だよ、美桜。連絡は毎日するから』
悠真様は助手席の美桜様へ優しく笑いかける。
兄はそれを見て、楽しそうに、面白がるような声で笑った。
『頼んだよ、悠真。この二週間は、美桜ちゃんが、早く帰れるように根回ししておくから、ちゃんと連絡してあげてくれよ』
お兄様は、悠真様と美桜様を応援している様子だった。しかし、直前の指の接触と、彼が弟に対して見せた一瞬の冷たさが、私の脳裏に焼き付いていた。
(お兄様は、悠真様のことをよく思っていないのかしら。それに美桜様への態度も気になるわ。私が見ている悠真様と美桜様の関係は、真実の愛よね...)
私の心の中で、一瞬よぎった暗い影は消えなかった。この異世界の光景の中に、私が慣れ親しんだ「裏切りの影」が差し込んでいるのではないかと、私は深く疑い始めた。




