塔や行
森のフクロウの影が膨らんだ月夜、オレとスグリの二人は薄暗い病棟の廊下を屋上へ向かって必死に逃げ出していた。壁の上部に等間隔に並んだ蛍光灯はきっと数十年のあいだ替えられていない。先はほとんど見えないが記憶を頼りに、オレたちは階段のあった方向に走り続けるしかなかった。
オレの隣を走っていたスグリに少し遅れがみられた。スグリはすでに片目に重症を負っていた。悠長に痛がっている暇もなく、鮮血を頬から首へ風に流して走ってきたので、すでに限界は近かったのかもしれない。オレは自分でも精一杯足を前に動かしながら、「……だいじょぶ……多分あとちょっと……」と声をかけるが、一方でスグリからの返事はない。彼はただ走行のペースを落とすまいとして踏ん張り、その赤いコンバースがオレの右足よりも少し前に出たあたりで薄暗がりの中、目の前にやっと屋上へつづく階段が現れてくれた。二人とも足を止めて階段に備える考えなど起きなかった。
オレたちは呼吸を急速に縮めながら最上階まで階段を上り切ると、そこにある施錠された扉の鍵穴に服のポケットから鍵を差し込んだ。反時計回りに鍵を回しながら押し込むと屋上の扉が開き、外は月のよくみえる夜で病棟の中よりずっと明るかった。森に近い周辺環境から星空を邪魔する街灯や建物などの光が一切なく、オレたちは呼吸を整えながらしばらく魅入っていたが、どこからともなく馬のような荒い鼻息が聞こえると、さすがに空からそちらへ首を向けざるを得なかった。
ブルルゥ……
もう一度鳴いて、馬が確かに足を屋上に着けてそこにいるのだった。毛並みがよく脚力の強そうな、茶と黒で二頭。ていねいに革製の乗馬器具まで取り付けてあった。オレとスグリはお互いに見合いながら、
「……逃げれる、のか?」
「これに乗って……?」
正確な答えなど出るはずもない。オレたちはいつだってそうだった。迷っているうちに時代の歯車がかみ合い、油を差して動きだし、二頭の馬は易々と盗品商の小窓から乱暴そうな男たちの元へ売り飛ばされてしまう。そして代わりにオレたちの前に残されたのは、流線形のガソリン車だ。
「乗るぞ!」
スグリが助手席に、オレが運転席に座って、自動車は屋上の柵を壊して突き進んだ。地面に落下した瞬間の臓器が飛び出しそうな衝撃にも耐えてアクセルを踏みつける。ハイビームに照らされた目の前にみえる丘はすべて超えていくためにあり、自然の花園を踏みつけ、オレたちはどこか遠くの街を目指した。
それでオレとスグリはやっとあの病棟から逃げおおせた。逃げたはいいものの、目的を見失ったオレたちはハッとして同じ顔を浮かべ、膝をみて黙っている。コイツは誰なんだ? なんで目を片方やられている? オレはもはや何から逃げていたのかさえも覚えていない。とりあえず路肩に車を駐車してはみるが、初めからラジオのなかった車内は二人の発する疲労困憊のムードが漂っていた。
オレは一度両手に力を込めてハンドルを握りこみ、ぐっと首をあげてスグリに話しかける。
「アンタはスグリなのか? ていうか誰なんだ? オレたちはここでなんで……」
沈黙を破る決心もむなしく、オレはこんな単純な質問をするのにさえ取り乱してしまう。これを耳にした助手席のスグリはゆっくりと背筋を戻し、その目の怪我が痛々しい顔をこっちに向けた。輪郭のハッキリした面長だった。
「えっと、スグリ? それなに?」
「アンタはスグリっていう名前じゃないのか?」
「違うよ。ボクはタブロウ。」
「タブロウ……それってどこの国の名前なんだ?」
「日本だよ。顔見れば分かるでしょう? 君は、東南アジアっぽい感じだけど……。」
「残念。オレの名前はサニオ。オレも日本人だよ。」
タブロウはそのままそっぽを向いて、興味のないという感じに「へえ。」こうしてオレたちはまたしても沈黙に陥ったが、互いに名前を知っている分さっきよりは居心地が改善されたような気分だった。そのままオレは眠りに落ちてぐっすりと夢もみずに、翌朝、フロントガラスに刺さる眩しい太陽光によって目を覚ました。オレよりも鈍いタブロウが首を痛めそうな態勢でまだ眠りこけていた。わざわざ起こす理由もないので、オレは一旦外の空気を浴びたいと思い、手元のロックを回しドアを開けた。
自分が関節という関節を痛めていることに、地面に足を着けてみて初めて気づいた。おまけにあんだけ走りまくったんだ。ふくらはぎや太もも、アキレス腱は中に針を詰められているみたいに少し動かすだけで痛んだ。だがそれはただ痛いだけじゃなかった。逃げ延びた先の朝の空気に、心地よい現実味を持たせてくれる。オレたちは昨夜、一体何から必死に逃げようとしていたのか? 一晩寝ても分からないが、とにかくオレは向こうのコンビニで味の濃いパンと、安くて容量のあるアイスコーヒーが買いたかった。日常を取り戻すための朝食。リアリティを喪失した頭を内臓から醒ましてやりたかった。すべての話はそれから、それからオレたちには幸せな日々が流れた。